11時55分。昼休みに入り誰もいなくなったグラウンドにただ一人、体操服に着替えたセイウンスカイが立っていた。瞼を閉じ、これから始まるグラスワンダーとの戦いのイメージトレーニングを脳内で繰り返している。
二つの足音が聞こえた。スカイが目を開けたその視線の先にいたのはライバルのグラスワンダーとそのトレーナーだ。
「お待たせしました」
「待ってないよ。私も今来たところだからさ」
スカイの身体から程よく汗が滴っている。今来たなんて見え透いた嘘だ。アップは万全、今すぐにでも走れるといった状態だった。
「グラスワンダーさん、セイウンスカイさん、ルールの確認をします。距離は3000m、右回り、バ場は良。セイウンスカイさんが内、グラスワンダーが外で僕の笛の音でスタートしてもらいます。何か質問は?」
「ありません」「ないよ」
「では10分間のアップの後スタートします。身体を暖めスタート位置に着いてください」
その指示を受けグラスワンダーはターフを走り出した。一歩一歩確実にバ場を確認するように身体を暖めるグラスとは対照的にスカイはトレーナーの前に留まった。
しまった、トレーナーとセイウンスカイを二人きりにするつもりはなかったのに───────そうグラスが気づいた時にはもう遅かった。
「トレーナーさんは……私に勝ちたいんですよね」
「はい。数年前、貴方に負けたあの日からずっとそれだけを目標にしてきました」
トレーナーとセイウンスカイは目を逸らさない。ただじっと見つめ合い、自身の中でも言語化できない互いへの思いを口に出来ず戸惑い、時間だけが過ぎていった。
「レースを始めましょう」
そんな二人の時間はコースを一周し、身体を十分に暖めたグラスワンダーの言葉で終わりを告げた。
「そうだね」とセイウンスカイは名残惜しそうにスタート位置へ歩いていく。
「セイちゃんと何を話していたんですか?」
「何も話していませんよ。さぁセイウンスカイさんが待っています。グラスワンダーさんも位置に着いてください」
「嘘つき……」
トレーナーに背を向けたグラスはそう蚊の鳴くような声で呟きセイウンスカイの元へと足を進めた。
スカイとグラスがスタートの構えをとり、その側方に立ったトレーナーが笛を咥えた。
ピーーーーーーという音がグラウンド全体に響き渡った。瞬間、二人が同時に走り出す。
先陣を切ったのはセイウンスカイ、その直ぐ後をグラスワンダーが追いかける。
不気味な程に静かな立ち上がりだった。駆けているはずの二人の足音がほとんど聞こえない。代わりに彼女達の通った後の芝がまるで台風が通過したかのようにザワザワと激しく揺れている。
(このレース、脚質的にグラスワンダーさんの方が不利かもしれませんね)
レースの展開をトレーナーはそう予想した。セイウンスカイの逃げは他のウマ娘に影響されることなく走る作戦であるのに対し、グラスワンダーの差しは体力を抑えつつバ郡の後方に位置し好機を見て一気にスパートをかけるものだ。しかし、今回のレースは異例の二人でのタイマン勝負。他のウマ娘が居ない分グラスワンダーは自身のペースを狂わされる可能性があった。
そのトレーナーの懸念は的中した。まだレースは中盤にさしかかったばかりだというのにグラスワンダーがセイウンスカイとの距離をグングンと縮めていくのだ。
掛かっている──────
トレーナーはそう判断しようとしたが何かおかしい。掛かっているにしてはグラスワンダーの表情に焦りは見えない。いつも通り、冷静に獲物を追い詰め、弱らせ、最後に丸呑みにする蛇のような目をしていた。
グラスワンダーの追い上げは留まる事をしらず、1500mを超える頃にはセイウンスカイのすぐ後ろ、一バ身差の所にまで迫っていた。
セイウンスカイの真後ろに付いたグラスワンダーはそこで位置を固定した。ぴったりと後ろにつきまるでスカイの影のように後を追う。
(あの技をもうモノにしていたんですね)
スリップストリーム。前方のウマ娘の後に隠れ、空気の壁から自身を守り体力の消費を抑える技だ。その技はトレーナーが昨日教えたばかりのものでまさか習得が完了しているとは思わず彼は目を疑った。
好調にレース運びをするグラスとは逆にセイウンスカイは焦っていた。グラスワンダーの追い上げが早すぎる。自分のペースが遅いのか?そう考えスピードを上げるも引き離せない。体から溢れ出る汗と共に体力までドンドン失っていった。
このままではまずい。そう考えたセイウンスカイは早くも切り札の使用を決意した。
(借りますねクリークさん)
コーナーに差し掛かったセイウンスカイは右足をいつもより外へ着地させた。そして身体を異常なほどコースの内側へ傾けその際に生じた遠心力に身を任せる。
──────円弧のマエストロ
遠心力を利用する事で速度を落とすことなく肺に一呼吸の休息を与える技だ。もちろん何度も使える技ではない。遠心力を利用するということはその軸となる足にそれだけの負荷がかかるということだ。多用すれば直ぐに足がダメになってしまう。
セイウンスカイはあまりトレーニングに熱心ではない問題児である。そういった認識を持つウマ娘は少なくない。けれど事実は違う。彼女は他のウマ娘が身体を鍛える中、ずっと有力なウマ娘の研究をしていたのだ。
自身の強みは
円弧のマエストロもその努力の結果スーパークリークから盗んだ技だ。本人の完成度には及ばないがそれでも確かにスカイの体力を回復させていた。
──────弧線のプロフェッサー
一気に勝負をつけるために身体の負担も顧みず技を重ねた。右足が悲鳴を上げる。余りの痛みに視界が霞んだ。けれど上げた速度を落とすことなくセイウンスカイは600m先のゴールを目指す。
「逃しません!!!」
グラスワンダーが吠えてスカイの外側から一気に速度を上げた。空気と空気の隙間をかき分けるように進むその姿はまるで空を駆ける龍の如く距離を縮める。
──────昇り龍
ついに二人が横並びになった。もう両者ともスタミナ配分なんて考えてはいない。1秒、1歩でも速く相手より先にゴールする、それしか考えてはいなかった。
□□□
セイウンスカイとグラスワンダー、ライバル同士の激戦を見ながらトレーナーは先程、駿川たづなから告げられた言葉を脳内で反芻していた。
『貴方はトレーナーのいないセイウンスカイさんに勝ってそれで満足なのですか?年下の女の子にハンデを貰ってそれで勝ったと胸を張れるのですか?』
安すぎるほどに安い挑発だ。きっと彼とセイウンスカイの契約を焚き付ける為に無理矢理言葉に起こしたのであろう彼女にしては破綻した理論の言葉だ。
けれど、それが分かっていながら駿川の言葉はトレーナーの心に返しの付いた釣針のように引っかかり抜くことが出来ずにいた。
例えば、もしも、仮に。このレースでグラスワンダーがセイウンスカイに圧勝したとする。そうなれば自分はその後何を目標にするのだろう?
今まで考えもしなかった疑問が不意に湧いて出た。
あの日セイウンスカイに負けて悔しくて、その悔しさだけを原動力に彼はトレーナーとしての資格を得た。だがセイウンスカイに勝ってしまえばその原動力を失うことになる。そうなった時、彼はトレーナーでい続けることができるのか?グラスワンダーをスカウトした時と同じ熱量で彼女に誓った未来を目指すことができるのか?
答えは────────否だ。
トレーナーは学園を去り、セイウンスカイも走ることを辞め、グラスワンダーもあの性格では新たなトレーナーを見つけるのに相当な時間を費やしその才能を燻らせてしまう。
誰も幸せにならない、そんな三つの
更に、三つの予測したバッドエンドのうちの一つ『セイウンスカイは走ることを辞める』というモノにとりわけ大きなショックを受けていることに彼は気づいた。
『すまないね。私はもう走ることはできない』
過去、トレーナーが友人にそう伝えられた時酷くショックを受けたことを思い出した。あの時と同等、いやそれ以上の切なさにも似た言い様のない感情が彼を支配していく。
彼はセイウンスカイに勝ちたいと願っただけで、彼女に走るのを辞めて貰いたいとは一度も考えたことはなかったからだ。いや、むしろ───────
□□□
「勝つのは……わたしだァァァァァ!!!!」
視界が霞む中、セイウンスカイは声を張り上げた。そうしなければもう意識を保つのすら困難になっていたのだ。
私の脚はちゃんと動いているのか?
私は今、本当に走っているのか?
あとゴールまでどのくらいの距離なのか?
それすらも判然としないままセイウンスカイは最後の力を振り絞った。
「ガァァァァァ!!!」
すぐ真横からグラスワンダーの叫びが聞こえた。両者とも既に体力は尽きている。歯を食いしばり、酸素をよこせと命令する身体に逆らってラストスパートを掛ける。
「「うああああああああああ!」」
ほとんど同時にゴールした。しかし、第三者が見れば同着と判断される様な結果の中、二人の間には明確な決着がついていた。
「わだじの………かちだ!!!」
芝の上に倒れ必死に呼吸をくり返すグラスワンダーを見下ろしながらセイウンスカイはそう高らかに宣言した。
グラスワンダーは異を唱えない。ただ空を仰いで何度目か分からない敗北の悔しさを噛み締めた。
フラフラと覚束無い足取りでセイウンスカイはトレーナーの下へ向かった。行って何を言うのか、どう説得するのか、どう懇願するのか、それを考えるだけの体力はもう彼女には残されていない。
だから───────ただ真っすぐに三度目になるその言葉を彼女はトレーナーにぶつけた。
「わたしのトレーナーになってください」
トレーナーは直ぐには答えない。ジッとスカイを見つめ静寂のまま時が流れる。
「……。酷い走りでした。前半はまだしも、後半になるにつれフォームは崩れ、ペースもめちゃくちゃです。これがあの日僕の心を折ったウマ娘の走りなのかと思うと悲しくなります」
「これが今の私の限界です。いえ、このまま貴方がトレーナーになってくれないのならきっと私はここで終わりです」
セイウンスカイの眼から涙が零れた。走り続けたい、けれどそれが叶わない未来を想像し自然と溢れたのだ。
「正直言って、貴方のトレーナーになるべきかならざるべきか僕には答えがまだ出ていません。けれど……僕がここで首を横に振れば貴方は学園を去るつもりでいますね?」
「……はい。私は私の望む走りが出来ないのならここにこれ以上いるつもりはありません」
「酷い話です。僕はセイウンスカイさんに勝つためにここまで来たのに貴方は勝ち逃げしようとしている。人の目標を人質に交渉を通そうとするなんて……ずるいですよ」
セイウンスカイに勝ちたいという欲求は未だ薄れていない、けれど三つのバッドエンドを受けいれる事も出来ない、しかしセイウンスカイのトレーナーになってしまえば彼女に勝つという目標の達成は困難になる。
そんなジレンマを解消する妙案は今のトレーナーにはない。
だがそのジレンマを、バッドエンドを先送りにする事はできる───────
「セイウンスカイさん、代替案を提示します。仮契約です。貴方のトレーナーが見つかるまで、という条件付きで良ければ僕のチームに加入する事を認めます。どうされますか?」
トレーナーの言葉にセイウンスカイは涙を拭い、何度も何度も首を縦に振り彼の胸に飛び込んだ。
「はい!それでいい!その条件でも十分だから……だから私と契約してください!」
仮契約で十分、そう答えるセイウンスカイの言葉とは相反するようにトレーナーに抱きつく力はどんどん強くなる。まるで約束なんて知ったことか、もう絶対に離さないと意思表示するかのようだ。
「セイウンスカイさん、貴方を倒すのは僕とグラスワンダーさんです。それまで他のウマ娘に負けることは決して許しません。いいですね?」
「任せてくださいよ。トレーナーさんの付いたセイちゃんは最強無敵です。誰にも、御二人にだって決して負けませんよ!」
そう答えたセイウンスカイの笑顔は十分な日光を浴びたタンポポのように満開に咲き誇っていた。
(結局、駿川さんの描いたシナリオ通りの結果なんでしょうね……ほんと食えない人です)
抱きつくセイウンスカイの頭を撫でながら、トレーナーは心の中でそう呟いた。