セイウンスカイとの仮契約を結んだ日の夜、トレーナーは学園に用意されたトレーナー寮で一人、椅子に座りパソコンを操作していた。パソコンの画面には栗色の髪にトレードマークの緑色の耳カバーを着けたウマ娘が全力でターフを駆け抜ける映像が映し出されている。
「サイレンススズカさん……これは────」
トレーナーは息を飲んだ。強すぎる。バランスの取れた筋肉、スタミナ配分、最高速度、それらを操る頭脳、全てが高水準で備わっている。明らかにデビュー前のウマ娘の仕上がりではない。
彼の担当ウマ娘であるグラスワンダーとセイウンスカイも既にデビュー前のウマ娘の中では群を抜いた域に到達している。だがその二人をもってしてもサイレンススズカには絶対に勝てない。それがトレーナーとしての彼の見解だった。
「今のままではサイレンススズカさんには勝てない。メイクデビューは彼女を避けるのが得策でしょうね」
そう呟いたと同時に彼の部屋をノックする音が響いた。既に時刻は22時を回っている。こんな時間に訪ねてくる人物に心当たりのないトレーナーは嫌な予感を覚え、居留守を使うことにした。
「……」
息を殺し扉の向こうに立つ人物が去るのをじっと待った。しかし一向に去る気配がない。
トン、トン、トンとノックが繰り返された。
「トレーナーさん?私です。グラスワンダーです。まだ就寝されていないのは分かっていますよ?」
何故こんな時間にグラスワンダーが訪ねてくるのか、そもそもここは生徒の出入りは禁じられているのではないか、何故眠っていない事が断言できるのか、色々とツッコミたい点はあったがトレーナーはそれ等を全て飲み込んだ。
「今開けます」
扉を開いた先にいたのは可愛らしい寝巻きに身を包んだ彼の愛バだった。彼女は「こんばんわ」と軽く会釈し部屋の中に視線をやりトレーナーに問いかけた。
「少しお邪魔してもよろしいですか〜?」
「年頃の女性が夜更けに男性の部屋を訪ねるものではありません。お引取りを」
「セイちゃんの件なんですけどお邪魔してもよろしいですか〜」
「はいぃ……」
一度は突っぱねたトレーナーだったがグラスワンダーからの圧に敗れ情けない声を上げながら愛バを部屋に通した。いつもは気丈な振る舞いをしている彼だがどうやらグラスや駿川といったちょっと圧の強めな女性は苦手らしい。怖いなら仕方ない。
部屋に上がったグラスワンダーはパソコンの画面に映し出されているサイレンススズカに目を止めた。
「また逃げウマ娘……」
「何かおっしゃいましたか?」
そう零れた彼女の呟きは幸か不幸かトレーナーの耳には届かなかった。
「いえ何でもありませんよ」
そう言ってグラスワンダーはトレーナーが座布団を用意しているのに気づかない振りをしながらベッドの上に腰を下ろした。愛バの為に用意した座布団が無駄になったトレーナーは仕方なくその上に正座した。
「それで、その……お話というのは何でしょうか?」
「セイちゃんと契約したんですよね?」
そう言ってグラスワンダーはニコリと笑った。年下とは思えない程に大人び、美しいとも思えるような笑顔にトレーナーは何故か部屋の重力が重くなったかのような錯覚を覚えた。
「はい。報告が遅くなり申し訳ありません。僕としても直ぐに報告する必要があると思っていたのですが、その……セイウンスカイさんに敗れた直後の貴女に話すのは酷かと思い自重しました」
「謝らないでください。確かに私以外のウマ娘と契約したと知った時はショックでした。けれど、それはあの勝負に敗北した私の不徳の致すところです」
「それは違います。セイウンスカイさんとの契約とあのレースの勝敗に因果関係はありません。仮に貴方が勝っていても僕はセイウンスカイさんと契約していたと思います」
「そうだとしても……!!私は悔しかったんです。セイちゃんに負けた事もそうですが貴方の期待に答えられなかった事が何よりも悔しかった。貴方の愛バを名乗りながらトレーナーからの指導をまともに受けてこなかった相手に負けると言う事がどういうことか─────その意味に気づかないほど私は能天気ではありません」
グラスワンダーの言わんとする事をトレーナーは直ぐに理解した。セイウンスカイは彼と契約する以前から複数のトレーナーと契約をしていた。しかしそれのどれもが長続きせず、セイウンスカイのウマ娘としての性質を把握したタイミングで毎度契約解消に至っていたと駿川たづなからトレーナーは話を聞いていた。
それはセイウンスカイは本格的な指導をトレーナーから受けていない、ここまで独力で到達したという事だ。そんな相手に何度も負けたとなればトレーナーの存在意義を問われる事になる。つまり、グラスワンダーはトレーナーの周囲からの評価を貶めてしまっているのではないかと気に病んでいるのだ。
「だから……今日はトレーナーさんに謝りに来たんです。無様を晒し申し訳ありません。次こそは名誉を挽回出来るよう精進します」
「そんな事を気にしていたんですか……。グラスワンダーさん、強かに見えて実は精神的にはまだ弱いんですね」
そう言ってトレーナーはグラスワンダーの頭に手を伸ばした。優しく、繊細で壊れ易い物を扱うように頭を撫でた。
「子供扱い……しないでください」
言葉ではトレーナーの行動を否定するがグラスワンダーは彼の手を払い退けようとはしない。どころか瞳を閉じ、心地よさそうに受け入れている。
「グラスワンダーさん、敗北は貴女を強くします。貴女が奥歯を噛み締め、負けを咀嚼するほどそれは貴女を強くする。だから、何度も負けてもいいんです」
セイウンスカイには一度も負けるなと指示し、グラスワンダーには何度負けても良いと告げた。酷い差別をしている、自分はトレーナー失格だと自嘲した。
「2年後の有マ記念です」
「え……?」
「その日が貴女とセイウンスカイさんの再戦にして決着の日です。その日に向けて明日からまた精進しましょう」
□□□
グラスワンダーがトレーナー寮を後にし帰路に付いているとグラウンドのナイターに明かりが灯っている事に気がついた。
誰かが消し忘れたのだろうか?と首を傾げナイターを消すためにグラウンドへ向かうとグラスワンダーはそこで信じられないものを見た。
セイウンスカイだった。
誰もいなくなったグラウンドで月夜とナイターに照らされながら走り続けている。グラスワンダーは愕然とした。数時間前勝負で全力を出し切り、自分は全く動けない程に疲労しこれまで体を休めていた。
だというのにライバルであるセイウンスカイはこんな夜中に体力の尽きた身体に鞭打ち走り続けている。負けて当然だ、勝負に対する執念が違った。それでもアレだけ善戦できたのはトレーナーというアドバンテージがあったから、トレーナーがいなければ勝負にもならなかった。
それを理解したグラスワンダーの足はいつの間にか走り出していた。寝巻きのままセイウンスカイの隣に並び足を回す。
「グラスちゃん……?はは、恥ずかしい所見られちゃったな。いや、違うんですよ?何時もこんな時間にトレーニングしてる訳じゃなくて、今日はたまたま、そうたまたまなんだよ」
隣に並んだグラスに誰に聞かれた訳でもない言い訳をセイウンスカイは捲し立てた。しかしグラスワンダーはそんなこと意にも返さず走り続ける。
「明日からはチームメイトですね」
「うん。ごめんね、無理やり割り込むようなことして」
「気にしないでください。トレーナーさんが決めたことですから」
「グラスちゃん……」
「けど、トレーナーとしてのあの人は共有しましたが男性としてのあの人まで共有するつもりはありませんからね?」
そう言い残し、グラスワンダーは速度を上げセイウンスカイを置き去りにしターフを駆けていった。