本屋のオンディーヌ
眠れない夜にはタイトルをつけるんだよ、と僕に教えてくれたのは、たしか大学の先生だったと思う。眠れない夜というのは特別な時間だから、タイトルをつけて大事にしまっておきなさい。いつかそれが心を温めてくれるから。その先生は僕が研究室に遊びに行くたびにお菓子をごちそうしてくれた。
先生に教わった通り、僕は頭の中にいくつもの眠れない夜をしまっていて、アルバムをめくるように時々それを眺めている。つぎはぎのバス。かぼちゃのポテンシャル。松雲母の回想。大寒のバラード…。全部僕がつけたタイトルだ。どれも結構気に入っているタイトルで、先生も「いいんじゃない?」とほめてくれた。僕はたぶん、芸術の言葉で語ることに向いている。
大学二年生の夏に、眠れぬ夜につけたタイトルに、本屋のオンディーヌというものがある。暑くて寝苦しい夜には決まって思い出す、眠れぬ夜史上暫定一位の素晴らしい夜だ。僕はゆっくりと頭の中のアルバムを開いて、ほかよりも多く折り目のついたそのページをめくってみる。漂ってくる懐かしい音楽と匂い。小さな嘘の味…。
僕は駅に向かって線路沿いの道を歩いていた。その道は僕が通っていた高校の通学路でもあって、久しぶりに歩いて雑草の匂いを嗅ぎ電車の警笛を聞いていると、なんだかあの頃に感じたわけもない恥ずかしさみたいなものを思い出した。あの頃って、どうしてあんなにもいろんなものから目を背けていたんだろう。誰かの目を見て話すことなんかできなかったし、鏡に写った自分の姿さえ見ることができなかった。そして頑張るという行為からも目を背け、大学受験に失敗して…。なんだか嫌なことを思い出して、僕は首を振る。
貨物列車が僕の影に覆いかぶさるように北へ駆けていった。
駅に向かっていたのは、その当時好きだった女の子がいる街へ行くためだった。その日は彼女の町で夏祭りがあって、僕の方から一緒に行かないかと誘ったのだ。彼女は特に乗り気でもない様子で、途中で友達と合流するかもだけど、まあそれまでなら、と言った。
承諾と拒否の中間地点的返答だった。社交辞令として一応受け入れはしたものの、友達を口実にしてすぐに別行動になるだろうということは目に見えていた。
正直なところ、僕はわざわざ電車に乗ってまで負け戦に出向くなんて馬鹿らしいと思っていた。それでも、だからと言って「やっぱり予定が入ったから行けない」と断るのもなんだか気が引けた。それは彼女に申し訳ないと感じたからじゃなくて、本当は彼女のことを好きな自分に背きたくなかったからかもしれない。
切符を買おうと券売機に並んでいると、おい、久しぶりだなと後ろから話しかけられた。振り向くと、僕を呼んだのは医学科の六年生の先輩だった。彼とは個人的に交流があって、時々飲みに連れて行ってもらったりしていたのだ。臨床実習明けの彼は透明な湖に横たわっている白樺みたいにひどく痩せていて、もともと長かった髪はさらに伸びて小さな両耳を覆い隠していた。
「どこに行く予定なの?」と彼は言った。
「ここから三十分くらいの北の町です。祭りに行く予定だったんですけど、ちょっと迷ってて」
「迷ってる?行くかどうかってことを?」
「そうです」
「なんで?」
僕は事情を話した。その間彼はジーンズのポケットに手を突っ込んで指を動かしていた。おそらく煙草が入っているのだろう。
「ふーん。行かなくていいよ、それ」
僕が一通り話終わった後で、彼はあっさりと言った。出席点のない講義がどれか聞かれたときみたいだった。社会福祉学は出なくていい。生理学はグループワークじゃなければギリ大丈夫…。
「今からさ、本屋に行こう」
「本屋ですか?たしかに駅ビルの中にありましたね。買いたい本があるんですか?」
「いや」と彼は言った。そしてポケットの中からアメリカンスピリットを取り出して、銀色のシックなライターで火を点けた。煙草の煙が苦手な僕はそれとなくせき込むふりをしてみたけれど、彼に通じた例がなかった。
「そこは一般的な意味においての本屋じゃないんだ。だから本を買うために今からそこに行くわけじゃないよ」
「…よくわかりませんね。特異的な意味においての本屋というものが」
「行けばわかる」
どこかで新幹線のドアが閉まる音がした。
「特異的な本屋」は、細い路地に佇む小さなビルの二階にあった。一階は花屋になっていて、ダリアやフヨウ、コスモスなんかの九月の花々を求めて人々が集まっていた。もうすぐやってくる本格的な秋の気配に追いつくためだろうか。彼らはとても熱心に花を眺めては、もうすぐ秋だね、秋の花はいいねと口を揃えて言った。きっと誰も、過ぎ行く季節に取り残されたくはないのだろう。
本屋の中には誰もいなかった。十二畳ほどの小さな店内にはテーブルや椅子が置かれていて、その上に商品の本が並べられていた。
部屋の奥には小さな暖簾で仕切られた台所があり、アンティーク調の壁と無造作に並べられた食器類も相まって、本屋にはそぐわない生活感が春先の埃みたいに漂っていた。
本屋というよりは誰かの住居みたいだった。
「店員はいないんですか?」と僕が聞くと、彼は僕を椅子に誘導しながら答えた。
「店長が一人で経営してるよ。今は出かけてるみたいだけど」
「それって大丈夫なんですか?いろいろと。鍵もかかっていませんでしたし。勝手に入ってよかったんですかね?」
僕がそう言うと、彼は「さあ」と言いながら台所の方へ向かい、コーヒーミルと豆を取り出したかと思うと、慣れた手つきでこりこりと粉砕を始めた。どうして本屋にコーヒーミルがあって、彼は勝手にコーヒーを入れようとしているのだろう。これが特異的であるということなのだろうか。
「君の言おうとしてることはわかるよ。店員がいないのに店は開いていて、客が自由に出入りできる。しかも俺は勝手にコーヒーを入れようとしてる。それは一般的な小売店ではありえないことだ。誰かが売り上げを盗むかもしれないからね。僕と君だって、やろうと思えば可能だよ。僕は金庫の番号を知っているし」
彼はふたつのマグカップを両手に持って、おそらくはブナの木でできたテーブルに置いた。真っ白な蒸気が間接照明の淡い光を吸い込んで、まるで六月の午後に降る霧雨みたいに薄く引き伸ばされては消えていった。
「でも僕らはこの本屋の売り上げを奪ったりはしない。ここがいかに特異的な本屋であっても。どうしてだと思う?」
「そりゃ警察に掴まるからでしょう。今の時代、何をどれだけうまくやったって結局バレるご時世ですからね」
僕はそう答えた。彼は二本目のアメリカンスピリットに火を点けながら感心したように言った。
「君はとてつもなくまともな人間だな。俺には想像もできないほどまともだ」
「そりゃどうも」
「実を言うとそこまで褒めてはいない」
彼は今まで座っていた高級そうな椅子から立ち上がると、壁に立てかけてあったギターを手に取ってひとつだけコードを弾いた。なんのコードかはわからなかった。
「そういうやつってたまにいるんだ。別に既存のルールに従って生きることを否定したいわけじゃない。ルールが俺らを守ってる。それは確かだ。でもさ、それは君自身の倫理じゃない。誰かが決めた倫理をトレースしてるだけさ」
「そうだとして、何が問題なんでしょう?他人の倫理であれ、倫理的に生きていられれば何ら問題ないように思うのですが」
僕は濃青色の釉薬が入った楢岡焼のマグカップを手に取って、コーヒーに口をつけた。ドングリを踏みしめながら歩く秋の日曜日みたいな味がした。
「問題はあるさ。他人の倫理にばかり従っているとね、いつか自分に背けなくなる日が来る。そして自分に背けなくなるということはつまり、自分らしさに溺れて何が自分らしいかわからなくなるということなんだよ」
彼は話している間、ずっと同じフレーズをギターで繰り返し弾いていた。日本民謡のようでありながら、西洋の静かな湖で鳴り響いているようでもある、不思議なフレーズだった。
「なんだかよくわからないですね。どうして他人の倫理に従い続けることで、自分に背けなくなるんでしょうか?」
僕はそう聞いてみた。
「自分の倫理を作るという行為が、自分に背くことでしか成し得ないから」と彼は言った。
「他人の倫理をトレースしている限り、君は自分に背くことはできない。だって背くことが倫理によって禁じられているから。でも、自分の倫理を自分で作るためには、自分らしくない自分という基盤を作り上げて、それに背くという行為を介さなければならない。そして、自分らしくない自分を探すという行為は、まさに自分らしさを探すという行為にもつながっているんだ。だから自分の倫理を持つということが重要で、他人の倫理をトレースすることが問題なんだよ。わかった?」
彼はそこまで言うとギターを壁に戻して、もうすっかり冷めてしまったコーヒーをすすった。
「お祭りに行かなくていいと言ったのも、それが理由ですか?」
「そう。迷ったら背いてみる。君にはそれが必要だと俺は思う。だから君をこの本屋に連れて来た。本屋に背く本屋にね」
彼は立ち会がって最後に残ったコーヒーの数滴を飲み込むと、アメリカンスピリットを一本僕に向けて差し出した。
「吸う?」
彼が演奏していたあの不思議な曲は、ラヴェルの夜のガスパールという組曲の一つで、「オンディーヌ」という曲だった。本屋を出た後、僕はスマホにダウンロードしたその曲をループしながら、アメリカンスピリットをくわえて九月の夜を歩き続けた。
晩夏の空気はベールがかけられたみたいにどこか儚くて、そっと手で裏返すと眩しい八月がそっと横たわっているような気がした。それでも僕は目を閉じて煙を肺に送り込み、夜に背中を向けてひたすらに東を目指した。
その夜以来僕は煙草を吸っていない。