短編集「鱗雨」   作:矢留

2 / 5
2.ジャスミン列車

 ジャスミン列車

 

 僕がジャスミン列車に初めて乗ったのは、確か十年前の秋のことだったと思う。当時僕は高校一年生で、そのくらいの歳の男子にしては珍しく、部活動に所属もせずにピアノばかり弾いていた。休日に誰とも遊ばずに家に引きこもることはしょっちゅうあったし、コンクール前には学校を休んで練習に明け暮れることだってあった。とにかく孤独な学生生活だった。

 ピアノを弾くということは僕にとって、誰にも侵すことのできない神聖な金色の雲の上を歩く行為に等しかった。鍵盤の上に指が触れた瞬間、僕の周囲には金色の霧があふれ出し、僕だけの世界が無限に広がってゆく。そうやって大気の変遷を眺めていると、なんだか僕は誰よりも崇高な存在になれたような気がして、より一層一人でピアノを弾く時間を好むようになっていった。僕は君たちとは違う。誰にも僕の世界にたどり着くことはできない。

 

 孤独な夏休みが終わると、僕はいよいよコンクールの全国大会に向けて最終調整に入った。東京で行われる本選は文字通り全国から強者たちが集まってくる。音楽大学付属高校に通っている奴。すでに海外のコンクールで入賞経験がある奴。両親が音楽家で毎日無料レッスンをつけてもらっている奴。親の財力に任せて一流音楽家に師事している奴…。音楽の世界で名をあげる奴は大抵彼らのように圧倒的に恵まれた環境に置かれている奴らばかりだ。でも僕は違う。僕はごく一般的な家庭に生まれ、地方の田舎で育ち、自分の力だけで全国行きを手にした。だから、自分で努力もせず、環境に甘んじて自由落下的に全国大会に出ているような奴らに負けたくなかった。僕にはもう、ピアノしか残っていないのだ。

 

 キオスクで買った昼食を持って駅のホームに立つと、僕の後ろに若い母親と幼い男の子が並んだ。二人で東京に遊びに行くのだろうか。楽しそうに話す親子の声がイヤホン越しに聞こえて来る。

 男の子は銀紙に包まれたチョコレートをビニール袋から出し、丁寧に包装を剥いて食べていたのだが、包装の銀紙を大事そうに握りしめて離さなかった。

 

「ゴミはちゃんとゴミ袋に入れようね。それはもう使わないでしょ?」と母親は言った。

「いや。ポイしない」

 

 男の子はそう言うと、秋の午後の太陽を反射してきらめく銀紙を自分のポケットにしまい込んだ。ちゃりちゃり、という独特な音が聞こえた。

 

「何に使うの?そうやっていつもお部屋の中がゴミだらけになるじゃない」

 

 母親はそう言って銀紙を捨てさせようとしたが、男の子は首を振って絶対に渡さなかった。

 その一連のやり取りを聞いて、僕はとても懐かしい気持ちになった。あの頃の僕たちにとっては、自分が美しいと思ったものはなんだって宝物だったのだ。チョコレートの銀紙。缶のプルタブ。モデルガンの玉。丸いつるつるとした石。伸びきったクリップ。何に使うわけでもない、ただ自分が良いと思ったものを所有しているだけで、満たされていた時代が誰にだってあったのだ。僕は彼の部屋に大事に保管されているであろう宝箱を想像し、かつて自分の部屋にあった宝箱を想像した。そして、あの宝箱を一体いつ処分したのか考え、全く思い出せないことを確認して意識をイヤホンに戻した。

 

 

 東京行の列車はそれから十分後にやって来た。白い車体が瑞獣のように声をあげてホームを滑ると、線路の脇に咲いたコスモスの花をまき散らしながらしばらく僕らの前を駆け抜け、ドアと壁が交互に現れる。このまま通り過ぎてしまうんじゃないかと思えるスピードだったが、やはりドアと壁の交換は頻度が少なくなっていって、正確に僕の目の前にドアが現れるのだった。

 

 列車がするりとホームを抜けてしばらく経った頃、僕は昼食のことを思い出した。時刻は既に正午を回っていたし、列車は次の駅に到着するまでもう三十分は止まらない。食事をするには丁度良いタイミングだった。

 ビニール袋からサンドイッチと飲み物を取り出すと、僕は一つ自分の犯したミスに気が付いた。紅茶のミルクティーと間違えて、ジャスミンのミルクティーを買ってしまったのだ。ジャスミンティーなんて飲んだことがなかった僕は、数年前に賞味期限の切れたドレッシングを冷蔵庫から取り出すみたいに容器を持ち上げ、一旦列車の窓枠に置いてみた。

 

 定期的な列車の振動に合わせて揺れるその液体は、海に反射する陽光に透かしてみれば紅茶のミルクティーと何ら違いはなく、唯一わかる違いと言えば容器に小さく書かれた「ミルクジャスミンティー アイス」の文字と、密閉されているはずの蓋から漂ってくる芳香だけだった。

 けれど、だからと言って飲まないという選択をするほどジャスミンティーに対して悪印象を抱いているわけではなかった。経験がなかったというだけで、今までだって飲めと言われれば飲んだだろう。今日がその日だったというだけだ。僕は容器の横にくっついているストローをアルミの蓋に差し込み、一口飲んでみた。

 悪くない、と思った。紅茶よりも数倍華やかな風味が鼻孔から抜け、まるで花びらを口いっぱいに噛みしめているような、味と匂いが混在したような感覚だった。この感覚を正確に表現できる言葉を、僕は知らなかった。それがなんだか悔しくて、僕は何度もジャスミンティーを口に含んでは馥郁とした香りを吐き出し、頭の中にある形容詞や形容動詞を片っ端から引き出してみる。美味しい。清々しい。華々しい。涼やかだ。香り高い。芳しい…。どれも間違ってはいなかった。それでも、ジャスミンティー特有のこの香りと風味を正確には捉えきれていなかった。僕はもう限界というところまで言葉を出し尽くすと、あきらめてサンドイッチを食べ終えて昼寝をした。

 

 

 

 ふと、花の香りに目を覚ました。もしかしたら飲みかけのジャスミンティーを服の上にこぼしてしまったのかもしれないと思ったが、プラスチックの容器は座席のドリンクホルダーに収納されていて、こぼれたような跡はなかった。さっきまで海沿いを走っていたはずの列車は森の中へ入ったらしく、窓の外を眺めると木漏れ日を浴びて神秘的に光る花々がまばらに見えた。それらはまるで物語の中から抜け出してきたようにくっきりと映えて僕を見据えていた。彼らははっきりとした意図をもって僕を見ていたのだ。

 列車はしばらく森の中を進んでいたが、やがてゆっくりと減速し、木々の間に腰を下ろすように停止した。初めは他の列車との待ち合わせだろうかと思っていた。しかし、さっきまであんなに鮮明に咲いていた花々が風もなく散ってゆくのを見て、そうではないことを悟った。きっと僕らは、どこかに迷い込んでしまったのだ。おそらくは現実ではないどこかに。僕は立ち上がって、車掌を探そうとした。けれど、座席に手を付いた瞬間にくしゃっと何かを潰した感触がして、思わず掌と座席を交互に見た。

 それは白い花だった。潰れた花弁の断面からはさっきまで僕が飲んでいたものと同じ香りがして、それが何の花なのかを知る。ジャスミンだ。周りを見渡せば、列車の中にはいたるところにジャスミンの花が落ちていた。いや、落ちていたんじゃない。座席や壁、窓枠、床、移動販売のワゴンにまで茎が張り付き、花を結んでいたのだ。

 まるで誰かの想像のなかにいるみたいだった。日曜日の午後に夢見る少女が世界のどこかにいて、何かの拍子に僕がその心象風景の中に含まれてしまったんじゃないかと。もしそうならどんなに素敵なことだろうと僕は思った。けれど、これは誰かの世界なんかじゃなく、間違いなく僕がみている僕の世界だった。

 やがて僕は、多幸感のようなものを感じた。ジャスミンの花々に包まれて、その華やぐ香りを嗅いでいると、ここがもしかしたら自分の一部なんじゃないかと思えてきた。この列車は僕がみている外界の風景ではなくて、僕の内側に存在する特別な場所なんじゃないかと。だから僕は目を閉じて、身体がこの場所にどろどろに溶けてなくなるのを待った。そうすることで、僕はこの思春期に抱いている漠然とした不安や孤独感を蒸発させて、幸せの結晶がゆっくりと現れてくるような気がしたからだ。

 

 

 けれど、ふと気が付いた時には列車の中はあの不思議なジャスミンの花々は消え去って、代わりに穏やかな行楽の空気がそこら中に染みこんでいた。窓の外には秋晴れにさざめく穏やかな海と段々になったミカン畑がどこまでも広がり、あの神秘的な森の情景は木枯らしのようにどこかへ消え去っては古い夢と化していた。六分の一ほどあったミルクジャスミンティーの残りはもう底を尽きて、透明になったプラスチックの容器を通して遠くの島々が霞んで見えるばかりだった。

 

 

 コンクールの結果はひどいものだった。僕の最終順位は三十五人中三十五番目。最下位だった。

 ベストは尽くしたつもりだった。この大会に向けて僕は必死に練習をしてきたし、本番の演奏はこれ以上ないくらいの仕上がりだったと思う。それでも、上には上がいた。僕がどれだけピアノ演奏という行為に対して効力感を持ち、崇高だと信じている自分の世界を外側に押し広げようと、彼らはその何倍も上のレベルで会場の空気を塗り替えて見せた。

 ピアノはもはや僕にとって不可侵の領域ではなくなっていた。彼らは僕がたどり着いていた領域など容易に飛び越え、どこまでも遠くへ、金色の雲など存在しない群青の彼方へ飛び立っていった。空を見上げればキリがなかった。

 

 そうして僕は不可侵の領域を失い、孤独になった。

 

 

 

 

 それからちょうど五年後、大学の食堂でジャスミンティーを飲んでいるときに、僕はその出来事をふと思い出した。あの時飲んでいた二百円近くするミルクジャスミンティーではなく、ペットボトルに入った百円の安いジャスミンティーだ。それでも、まるでひまわり畑みたいに金色に輝く液体を口に含んで瞼を閉じると、あの時感じた不思議な多幸感や失望感や孤独感をありありと思い出すことができた。

 

「どうしたの?」と恋人が聞いた。

「いや、懐かしいなと思ってさ。ジャスミンティー。ピアノをやっていた頃のことを思い出して。」

「そういえばピアノ弾けるんだったっけ。」

「もう弾けないかも。だいぶ弾いてない。」

 

 彼女はそうなの、と言いながら僕の飲みかけのジャスミンティーを見つめていた。そう言えば彼女がジャスミンティーを飲んでいるとところを見たことがない。

 

「でもさ」と彼女は言った。

「楽器ができる人って、それだけで無条件に尊敬しちゃうな」

「そんなに良いもんじゃないさ。上を見ればキリがない」と僕は言った。そして孤独な思春期と、その果てに待っていたあのコンクールのことを話した。彼女はその間ずっとジャスミンティーの色合いを確かめるようにペットボトルを眺めていた。

 

「そういえば、あの日列車の中で不思議な体験をしたな。今となっては本当に起こったことなのか夢だったのか思い出せないけれど」

 僕がそう言うと、彼女はようやく僕の目を見て言った。

「なにそれ、詳しく聞かせて」

 

 そうして僕らは今、こうして再びあの日と同じ駅で、同じ列車を待っている。列車がホームにやって来た時刻も、透き通るような秋の空気も、揺れるコスモスの色彩も、あの日と同じだった。違っていたのはミルクジャスミンティーが二人分あることと、僕がもう子供ではいられなくなってしまったということだけだった。

 彼女はあの日僕に起きたことを聞くと、もう一度あの列車に乗るべきだと言った。あなたはもう一度あの出来事に含まれることによって、何を意味していたのかを理解する必要があると。それは僕も同意見だった。

 それでも、僕たちがあの日と同じ列車に乗ったところで、あの森の奥へ辿りつけるかはわからなかった。この列車がジャスミン列車である保証なんてどこにもないのだ。

 

「心配しなくていいよ」と彼女は言った。

「あの日と変わったことなんて、何ひとつないから」

 

 彼女はプラスチック容器のアルミ蓋にストローを差しこむと、僕の方へグイと差し出した。窓側に座った彼女を柔らかな陽光が照らして、栗色の髪が一層透き通って見えた。

 

「乾杯しよ」

 

 僕は彼女と同じように容器にストローを差すと、差し出されたもう一つのミルクジャスミンティーにこつんとぶつけた。

 

「でも、あの日と変わったことは確かにあるんじゃないかな。僕はもう大学生になってしまったし、ピアノをやめてしまったし、それに今回は君がいる」

 

 僕はそう言ってみた。彼女はミルクジャスミンティーを飲んでいる間ずっと海を眺めていたが、ふっと僕に顔を近づけて言った。

 

「ほんとうにそう思ってる?」

 僕はうんとうなずいた。

「あなたがそう思うのは、外側に価値があるからだよ。でも外側の価値というのは、列車の外窓に付いた花びらみたいにあっという間に流されて、どこか知らない町まで吹き飛ばされてしまう」

 

 彼女はそう言うと、半分ほど残っていたジャスミンティーを少しだけ飲むと、再びドリンクホルダーに容器を戻した。

「これくらいでいいかな」

「何が?」

「ジャスミンティーの量。このくらいあれば十分」

 

 それが何を意味しているのか、僕は聞こうとした。けれど、彼女は口を開きかけた僕を人差し指を立てて制止した。ごう、と一鳴きした列車がトンネルに入って、窓の外は幕が下ろされたように暗くなる。

 

「もう寝た方がいい」と彼女は言った。

「あなたの内側に価値が咲くまで。それまでぐっすりおやすみなさい」

 

 僕は目を閉じた。瞼の裏側にはインドの山々、その奥地に暮らす孔雀、金色の寺院なんかがイメージとして現れては消え、やがてそれらは眠りの花となって僕の体内に咲き始めているような感覚がした。

 

 そうしてジャスミン列車は僕らを乗せて、季節の内側へと静かに潜り込んでいった。

 

 




 価値は内側に咲く

 
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。