逆さまから読んでも…
東に向いた窓を開くと、夜の群れが地表へ還ってゆく音が聞こえた。真夜中を闊歩していた冷気は砂の奥に染みわたり、巨大な暗闇は影と変じて子を産む。そういう音だ。僕はこうした朝の浸潤を感じることが好きで、昔からよく早起きをしていた。午前四時のことだった。
ポットのスイッチがパチンと音を立てて切れると、僕はマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れてお湯を注いだ。注ぎ口から吹き出した湯気がまどろみの続きみたいにもくもくと立ち昇り、開けたままの窓を飛び出して大気に溶けてゆく。そして世界はまた一歩朝に近づくのだ。
僕は一日にカップ十杯ほどのコーヒーを飲む。そうしなければ頭が回らないし、身体も動かないのだ。前に一度だけ、うっかり朝にコーヒーを飲み忘れたことがあったのだけれど、あれはダメだった。仕事ではミスを連発し、車に轢かれかけ、携帯電話をトイレに落として水没させ、カードキーを忘れて締め出しを食らった。コーヒーというのは僕にとってのコンピュータであり、秩序の象徴なのだ。
コンピュータとしてのコーヒーに、僕は質を求めない。それはとにかく機能すればいいのであって、味や香りなんかどうでもいいのだ。だから僕はたっぷりと粉末を入れてとにかく濃いコーヒーを淹れる。そしてどんどんコーヒーに依存的になってゆく。
ふと、玄関で物音がした。こんなに朝早くに一体誰が他人の家を訪ねるのだろうと思ってリビングを出ると、郵便受けに何やら青いバインダーのようなものが入れてあるのが見えた。恐る恐る中身を開いてみると、それは回覧板だった。この町に引っ越して来てから初めて回って来たため、バインダーの内側に貼られた名簿の苗字はどれ一つとして見覚えがなかった。僕の苗字が印字された真新しい紙切れが、かつて誰かの苗字が書いてあったであろう欄の上に張り付けてあった。
『初心者でも楽しめるカヤックツアーのお知らせ~秋の湖を満喫~』と書かれたプリントには赤と黄色のカヤックに乗った笑顔の老人がフリー素材特有ののっぺりとした作風で描かれていて、底のない黒インクの両眼で僕を見ていた。先の尖った二隻のカヤックはインクが霞み、まるで魔女の靴のように見えた。
今朝こうして回覧板を読むまで、僕はこの町に湖があったことなんて知らなかった。春に就職してから幾度となく町を冒険してみようと試みていたのだけれど、いざ仕事が始まるとどうにもその気になれず、気付けば五か月がいたずらに過ぎ去っていた。
行くとしたら今だな、と僕は思った。夜が退廃し、コーヒーが秩序の鍵を開けるこの時間ならば、きっと素敵なものに出会えるとのではないかと、そんな確信があった。僕は残りのコーヒーを魔法瓶に入れて、机の上に置いてあった車のキーを鷲掴み、少しへたったスニーカーを履いて外に出た。午前四時半のことだった。
早朝の県道を行く車は僕のフィアット以外にはほとんど無く、ときどき県外ナンバーの大きなトラックがカタカタと荷台を揺らして町の中心部へ向かうばかりであった。ブナの林を抜けて湖へと至るその道はくねくねと蛇行していて幅が狭く、しかもところどころに先の尖った枝が車道までせり出していたり、タヌキの死骸が落ちていたり、カモシカの親子に出くわしたりしたために、おかげで僕は何度もハンドルを切り返しながら注意深く運転しなければならなかった。それは朝四時台にこなすべきタスクにしてはずいぶんと難易度が高く体力の消耗が大きいものであった。
僕は運転している間、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を聞いていた。中古で買ったフィアットに付いてきた古いカーステレオの音質はひどいもので、アルゼンチン人のピアニストが鍵盤をたたくたびに高音がボソボソ、ブツブツと割れて聞こえた。けれど、そんながらくた同然のデバイスで音楽を聞くというのも悪くはなかった。それはなんだか世界の隅々にまで音楽を行き渡らせるための最も簡単な方法であるように感じられた。指先の毛細血管にまで血液を送り届けるように、ステレオの末梢の末梢にまで音楽を浸透させること。それが音楽に対する誠実な向き合い方の一つなのかもしれなかった。
第二楽章が終わるころ、フロントガラスの右側に湖が見えた。
湖畔の空気は未だ夜が沈殿しているように冷ややかで、遊歩道の傍に停めた車を降りる前から両腕に鳥肌が立つのがわかった。こんなに寒いならカーディガンを羽織って来ればよかったと僕は思った。どんな季節、どんな時間帯であれ、水辺は何かと冷えるのだ。
車を降りて真っ赤に咲く百日紅の下をくぐると、小波一つ立たない湖が現れた。それは僕が想像していたよりも遥かに大きな湖で、大きく張り出した桟橋には白鳥を模した遊覧船が眠るように停泊していた。立ち昇る銀色の朝霧は形を変えぬまま湖面に浮かび、まるで近代的な美術館のモニュメントを眺めているような、そんな気持ちがした。何を示しているのかはわからないが、どこか人を不安にさせる形と色の彫刻。そういうアートに限って「希望」とか「愛」とかいう題名がつけられているのだから、美術というものはよくわからない。
しばらく、つるつるとした石が敷き詰められた湖岸を左回りに歩いた。彼らは僕が歩を進めるたびにガチャガチャと大げさな音を立ててこすれ合い、あるものは割れ、あるものは他の石の下へ潜り込んでいった。どれも優しいほどに丸くて滑らかな石だった。時々大きな流木が行く手を阻むように倒れていて、僕はわざとシカみたいに跳び超えていった。春に比べてまた少し身体が軽くなったようだった。
二百メートルほど外周を歩いていると、やがて湖の内側に向かって張り出した東屋へと至った。木製の柱には薄緑のコケがびっしりと張りつき、誰かの名前が二つ、傘を模した図形の下に彫られてあった。天井は藤棚になっているらしく、格子状に組まれた梁の隙間から藤の実が緑の雫となって垂れていた。僕は少し湿った木のベンチに腰かけて湖面を眺め、藤の花が滝のように咲く五月に来ることができたらどんなに素敵だろうと思った。きっとその時には湖面に花弁が散り、水が淡い紫色に滲むのだろう。季節は簡単にあらゆるものに滲んでゆく。
湖面は生命の揺らぎすら感じられないほどに透明で、オーケストラの弦楽器の群れのように整然と並んだ杉林が反射して逆さまに地を指していた。それは不在感ともいうべき静けさと透明さであった。ずっと昔に理科か何かの授業で習ったことがある。生き物の住まない水ほど澄みきったものはないと。もしかしたらこの湖は強い毒性の水で満たされているのだろうか。あるいは、何者かの侵略によって水中文明が滅びた後なのだろうか。東屋を離れ、身を乗り出して水を手に掬ってみると、鋭利なほどの冷たさが指の隙間から流れ落ちて湖面に初めて波紋を作った。
彼女は気付けば東屋のベンチの端に腰かけて、スケッチブックを広げていた。
「気付かなかったな。君も湖岸を歩いてきたんだよね?」と僕は聞いた。彼女はスケッチブックに鉛筆を走らせながら顔を上げずに、そう。ずっと歩いてきた、と言った。その声はなぜだか僕をはっとさせた。電車の中から過ぎゆく風景を眺めているときにふと知らない誰かの住むアパートが目に留まるような、そんな小さな気付きだ。僕はしばらく立ちすくんだまま彼女の滑らかな手の動きを眺めていたけれど、やがて珍しい蝶に導かれるように東屋の中へ入った。黒鉛が白紙を流れてゆくときのさらさらと心地よい音だけが辺りに響いていた。
「何を描いているの?」
カラスアゲハとダリアと、それからチョコレート。素敵でしょう?
「確かに素敵だ」と僕は言った。けれど、辺りを見渡してもカラスアゲハの姿はなかったし、薄紅色のダリアも咲いていなかった。チョコレートなんかあるはずもなかった。
「どうしてここの風景を描かないの?」と僕は聞いてみた。
私が描かなくても、きっと誰かが湖を描くから。それは私の役目じゃないの。
「役目?」
そう、役目。いろいろあるね。先生の役目とか、警察の役目とか。ニンゲンの役目とかウマの役目とか。それと一緒ね。私の役目。あなたの役目。
「君は何かの役目にしたがって絵を描いているの?」
みんなそうでしょ。あなただってそう。
「よくわからないな」と僕は言った。遠くの空で鳥が高く鳴いた。
「僕は絵なんて描いてないよ。美術の成績は2だったんだ。自慢じゃないけど」
彼女は何も言わずにスケッチブックを閉じて初めてこちらを見た。カーテンの隙間からあふれ出してくる琥珀の光のような、不思議な揺らめきを宿した眼だった。それは僕の心の揺らめきに呼応して滑らかに形を変えているようにも見えた。
そうかな、と彼女は言った。誰もが淡くて消えそうな絵を描いているんじゃないかな。淡すぎて気づいていないだけで。
「例えば僕はどんな絵を描いている?」
そうだな、例えば腕時計。ダム。それからコーヒー。
「君の描いているものとは対照的みたいだ」
僕がそう言うと、彼女は月の裏側みたいに謎めいた笑みを浮かべながら、まるで胡桃の実が落ちるようにぽとりと言った。
当たり前でしょう?
女性というものは僕にとって謎の象徴である。湖で出会った彼女が朝の幻に包まれて謎めいていたように、僕には全ての女性が淡く朧げに見えるのだ。遺伝子がどうとか身体のつくりがどうとか、あるいはホルモンや成熟がどうとか、そういったものだけが僕と彼女らを隔てているとはどうしても考えられなかった。そこにはもっと風の吹き方や空気の光り方や時の流れ方なんかの違いがあるような気がして、女性と会って話をするたびに僕はそうした違いに目を凝らしては不思議だなあとぼんやりと思っていた。
「女の子に夢を見過ぎなんだよ」と会社の同期は言った。
「私たち女の子もさ、別にそんなにキラキラした時間を生きているわけじゃないよ。むしろいろいろめんどくさい世界に生きてるし。それは男の子だってそうでしょ?」
「キラキラしてるというのとはまた違うんだよ」と僕は言った。
「ただなんというか、見え方が不思議なんだよ。光が特殊な屈折の仕方をするというか、女の子特有の素材感があるというか。それが男子とは全然違っていて、ああこれは僕には無いものなんだなって思うんだよ。ほら、博物館の隕石みたいにさ」
彼女はパソコンのキーボードから少し離れて顎に手をやり、しばらくの間僕の言ったことに対して考えを巡らせていた。
「それって、感性の問題なのかな」
「感性?」
「そう。感性。物事を心に深く感じる働き。感受性。女性と男性の微妙な差異に対する感性が、何かの拍子にバーンと高くなっちゃったのかもね。シナモンの瓶みたいにさ」
彼女はそう言って黒のボールペンを指に挟み、くるくると回し始めた。とても見事な回り方だった。
「ね、今日さ、仕事終わってから久しぶりに飲みに行かない?いい店見つけたんだ。そこでもうちょっと話そうよ」
「僕はいいけど、そっちはいいの?僕と二人でっていうのはあんまり良くないんじゃないかな。その、彼に申し訳ないというか」
「あれ、言ってなかったっけ?あいつとはもう終わったよ。だから問題ナシ」
彼女はそう言うと、特に顔を曇らせることもなくピースをしてみせた。僕はそれに対して一体どんな声をかければよいのかわからなかった。それは残念だったね、というのも、おそらくきっぱりとした別れであっただろうということを考えれば場違いな気がしたし、まあよかったんじゃない、とうのも、彼女の境遇を軽く見ている気がした。結局僕は、ああそうなんだ、と曖昧な返事をして自分の仕事へと戻っていった。そうやって適当にごまかすのが一番違うよな、と思いながら。
彼女が言っていた店は駅から少し離れた路地のビルに入っていた。木製の古びたドアを開けるとカラカラと小気味よくベルが鳴り、奥からネイビーブルーの制服を着た女の子が出てきて二名様ですとカウンター席になりますがよろしいですかと聞いた。僕らは構わないと言って、案内された席に着いた。
店は最近できたばかりらしく、「オープン記念」と書かれたポスターがトイレの入り口やテーブル席の奥に貼られていた。メニューを見ると、二人以上で来店した場合ドリンクの一杯目が無料になると書いてあり、僕はハイボールを、彼女はファジーネーブルを頼んだ。
「いいところでしょ?」と彼女が言った。
「そうだね。内装はおしゃれだし、音楽もいいね。ラヴェルのソナチネを流してくれる店は多くない」
「そうでしょ。好きそうだなって思った」
店内は金曜日の夜、しかもオープンしたてということもあって混みあってはいたが、それでも落ち着いた空気と柔らかな光に包まれていた。氷がぱきりと割れる音とラヴェルの時計じみた繊細な音楽だけが響いていた。
「腕時計…」と僕は思わず口に出していた。
「腕時計がどうしたの?」
「いや、ちょっと思い出したんだ。先週の日曜日かな。湖畔に行ったんだけど、その時に不思議な女の子に会って、不思議なことを言われたんだよ」
「すべての女の子が不思議に見えるんじゃなかった?」
「そうなんだけど、普通の女の子とは不思議さの性質が違うんだよ。なんというのかな、揺らめきが連動している感じで」
「連動ねえ…」
彼女はカウンターに置かれたファジーネーブルに口をつけながら、よくわからないというように首を傾げた。
「とにかく、その女の子がね、誰もが役目に従って絵を描いてるんだって言ったんだ。それで、僕はどんな絵を描いているんだろうって聞いたら、腕時計とダムを描いてるって言ったんだよ。もう一個あった気がするけど、ちょっと忘れちゃったな」
「実際何か描いてるの?」
「僕?何も描いちゃいないよ。中学の美術の先生にまともにやれって怒られてから、二度と書くものかって思ったね。まともにやってたんだけどなあ」
僕はそう言ってハイボールを一口飲んだ。
ラヴェルのソナチネはちょうど二楽章に入ろうとしていた。
「その絵っていうのは、何かのメタファーなのかな」と彼女は言った。
「わからないな。謎が多すぎたんだ」
「そっか。でも良いメタファーだと思うな。絵画っていいよね。永遠の命が宿るから」
「永遠の命?」
そう。と彼女は言って、あ、何か食べる?とメニューを見せてくれた。僕らはアンチョビのピザと海老のフリッターを頼んだ。
「それで、永遠の命って?」と僕は言った。
「誰かの受け売りだよ。大学受験の時に現代文の問題で読んだの。でもなんだか妙に頭に残っててね…。問題を解きながら、素敵な言葉だなって思ったな。絵には永遠の命が宿る。何かのキャッチコピーみたいじゃない?」
「確かに」と僕は言った。
「美術館に行こう。絵には永遠の命が宿る」
「採用」と彼女は笑って言った。
「ねえ、もし君が役目に従って絵を描くならさ、何を描くと思う?」
店を出て彼女をアパートに送り届けている間、僕はそう聞いてみた。空を見上げると夏の終わりを告げる巨大な雲が一切の灯りを拒み、三日月の切っ先をわずかに忍ばせているばかりだった。
「私が描くなら?」
「そう。君が描くなら」
彼女は一度立ち止まって、顎に手を当てて考え込み始めた。それが彼女の癖らしかった。
「そうだな、カラスアゲハとダリアと、チョコレートかな」
「驚いたな」と僕は言った。
「あの子が描いていたものと全く一緒だ」
それからというもの僕は週に一度あの湖に出かけ、彼女の姿を探した。どうにかして彼女の謎を解き明かしたかったのだ。そうすることで、僕が世の女の子に対して抱いているような不思議な揺らめきの正体を掴めるような気がしていた。
彼女に会える時もあれば、会えない時もあった。そこにはある法則があった。
午前五時、街の市場に朝が灯る頃、彼女は銀色の空気で満たされた湖畔に姿を見せる。彼女が現れるのは決まってよく晴れた風のない朝であり、陽光が反射して湖面が蜂蜜色に輝く午後や大雨が降った翌日になると、彼女は決して姿を見せなかった。その姿は、あるときは微かなきらめきを宿す岩陰の鮎のようであり、またあるときには雨の港に滲んでゆく朧な灯台のようであったりした。会うたびに違った映像を見せる女性。それが彼女に対する僕の印象だった。
時々、もし僕が女の子に生まれていたとしたら、彼女のような見た目だったんだろうなと思うことがあった。根拠はない。それは予感のようなものだった。きっとここではない世界線では、僕は彼女として生まれ、彼女は僕として生まれていたのだろうと、漠然とそう思ったのだ。けれど、僕はそんなことを口にすることはなかった。湖にいるときは決まってあの東屋のベンチに腰かけて、彼女が絵を描くところをずっと眺めていた。
そのような日々が三か月続いたが、絵は一向に完成しなかった。
季節は海辺の泡沫のように重みをもたずに風の中を流れ、カレンダーは無機質に十二月を知らせた。街はどこもかしこもきらきらとした人工の光に溢れて、真夜中の漁船を一面に砕いたようだった。人々は寒空の下で手をこすり合わせながら、まるで時を削り取るシールドマシンから逃げるように足早に過ぎ去って行った。涙が出るほど寒い冬だった。
「ねえ、麻婆豆腐食べたくない?」と同期の女の子が言った。
「食べたいね。今日みたいに寒い日に食べたら最高だろうな。山椒が効いたやつじゃなくて、辣油がしっかり効いたギトギトのやつ」
「わかってるじゃん」と彼女は言った。
二人で飲みに行ったあの日から僕らは示し合わせたように今まで以上に仲良くなり、お互いのアパートに招いて食事をすることが多くなった。大抵は彼女の方が僕の部屋に上がり込み、僕が料理を作った。彼女は本当においしそうに僕の料理を食べたし、本当においしそうにビールを飲んだ。
「ちょうど木綿豆腐があったな。でも挽肉がないかも」
「そのくらいは私が買うよ。いつもお世話になってるし。合い挽き肉でいい?」
「いいよ。でも割引のがあればそっちでいいからね」
彼女は、わかった。スーパー寄ってから六時半ころに行くねと言って自分のデスクに戻っていった。その背中にもやはり女の子特有の揺らめきが宿っていた。
六時半ちょうどに彼女は僕の部屋に入って来た。「お邪魔します」も「こんばんは」もなかった。それはいつものことであり、僕もある時点から特に気に留めなくなっていった。
「割引にはなってなかったけど、合い挽き肉がタイムセールで安くなってたよ。おばちゃん達としのぎを削ってようやく手に入れたやつだから、ありがたく調理してね」
「それはありがとう。まさに戦利品というわけだね」
「そう。帝国主義列強によるタイムセール支配権争奪戦の結果、見事私は合い挽き肉二百グラムの植民地化に成功したわけ。ミンチだけにね」
「そりゃ非常におもしろい」と僕は言って、刻んでおいたネギとショウガとニンニクを炒め始めた。なんだか夫婦の会話みたいだなとほんの一瞬だけ思ったけれど、それは自分だけが舞い上がっているようでなんだか気持ちが悪くて、すぐに頭を空っぽにしてフライパンに挽肉を投下した。
彼女にとって僕は何なのか。どういう関係を目指しているのか。それは僕がこの三か月間で幾度となく抱いた疑問であった。彼女はこれまでに数えきれないほど僕の部屋で僕の作った料理を食べ、そのうちの十回ほどは僕の部屋に泊まっていった。それは一体僕に何を求めたうえでの行為であったのか、僕には一向にわからなかった。そして僕は一体、彼女に対して何を望んでいたのだろう。女の子にまつわる謎は深まるばかりだった。
涙が出るほど辛い麻婆豆腐を囲みながら、僕はとうとう彼女に切り出してみることにした。
「今まで結構な頻度でこうして一緒にご飯を食べてるけどさ」
「うん」
「正直、君にとって僕って何?」
「何、とは?」
「君は僕とどういう関係になりたいのか、僕に何を求めているのか、ということだよ」
彼女は卓上の豆板醤を自分の皿に加えながら言った。
「それって、私たちは何となく付き合ってる風な関係になってるけどちゃんと付き合う気はないのか、それともこのままの関係でいるつもりなのかを婉曲的に聞いてる?」
「そう、だね。そういうことかもしれない」
僕は辛さのせいか恥ずかしさのせいか、少し顔を赤らめて言った。
「うーん、そうだな」と彼女は言った。
「まあ今の関係が付き合ってるということになるなら、たしかにちゃんと付き合ってますって関係を確定させた方がいいかもね。でもそれは言い方の問題というか、カテゴリーの問題なんだよね。この基準を満たせば恋人ですよっていうもんじゃなくてさ、男女が付き合うってのは、いろんな関係があるけどその上位カテゴリーとして恋人っていう関係を作りましょう、みたいな節があるじゃない?」
「僕らみたいに家でご飯を食べる関係とか」
「そう。もちろん肉体関係もね。どこまでを恋人にカテゴライズするかは当人たちによるし、一般化されるもんじゃないのよ。だから私たちが恋人だとあなたが思うなら、恋人なんじゃない?」
「そういうもんなのかな?なんだかあっさりしすぎというか、もうちょっと特別な心の流れがあってもいいんじゃないかと思うんだけど」と僕は言った。彼女は辣油の蓋をパチンと閉めながら呆れたように言った。
「言ったでしょ、夢見過ぎだって」
確かにそうかもしれなかった。
「そう言えば」と、洗い物をしているときに彼女は言った。
「私があなたに何を求めてるのかってさっき聞いたじゃない?」
「そうだね。そう言えばそれについてまだ回答が得られてなかったね」
「それについてだけど…怒らないで聞いてほしいんだけどね」
彼女は珍しく言いはばかるように前髪をくるくるといじっていた。
「私があなたに求めてるのは、あなたの中の女性なの」
「僕の中の女性?」
僕は思わず洗い物の手を止めて聞き返した。
それはどういうことなんだろうか。僕は男として見られていないということなのか?
「それは…料理とかその他諸々の家事をしてくれる人を求めているということ?」
「それも否めないけど…」
彼女は家事が全くできない。どんな料理にも適量の二倍の塩を入れるし、洗濯物は畳む前よりしわくちゃだし、掃除をすれば埃が増えた。
「でもそうじゃなくてね。私の中にもやっぱり男の子がいて、どこかで女の子を探してるの。それがたまたまあなたの中の女の子だったというわけで。なんだろうな、うまく言えないんだけど」
「わかるよ」と僕は言った。
「きっと世界のどこかの湖畔にさ、君の揺らめきに連動する男の子がいるんだよ。そして役目に従って絵を描いてるんだ」
「そうなの?」
「そうさ」と言って、僕は初めて彼女を抱き寄せた。
彼はきっと絵を描いているだろう。腕時計とダムと…ああ思い出した。コーヒーを。