チームスピカの敵情視察からジムに戻ると、ウォームアップを済ませたらしいタイシンが腕組みをして待っていた。
「遅い」
「や、悪い悪い。ちょっと宣戦布告してきたもんだから」
「宣戦布告? 誰に?」
「トウカイテイオーとそのトレーナー」
「…………はぁ!?」
数瞬のフリーズの後、タイシンが吼えた。
「バッ……アンタ、バカじゃないの!? よりによって、今期最有望なウマ娘に宣戦布告なんか、普通する!?」
「バカはお前だ、ナリタタイシン。我が担当ながら、まさかここまで愚かだったとは……哀しくて泣けてくるよ」
「バカはアンタでしょ。だって相手は皇帝の再来なんて――」
「そういう奴らを下すために、お前は走るんだろうが」
「それは――そう、だけど」
「確かにトウカイテイオーは強い。少し走りを見ただけでも、ルドルフに並ぶほどの素質があるのは理解出来た。ルドルフのように無敗の3冠を達成すると言われても、確かに納得出来るかも知れない」
けれど。
「オレは預言者じゃないし、未来予知も出来ない。だけどなぁ、ナリタタイシンよう。オレはお前のトレーナーで、お前が自分の力を十全に発揮出来るようにしてやるのが仕事だ。トウカイテイオーは強い? うちのタイシンの方が強いさ。だってお前は、オレが見初めたウマ娘だ。弱いわけがない」
「アンタ……」
「勝ちたいだろ。悔しかっただろ。本当ならその1着は自分のものだったのに、って何度考えた?」
「……………」
「その近くて遠い1着を確実なものにするために、オレ達は特訓を重ねるのさ。というわけで、とりあえず今日は坂路な」
「坂路? どれくらい?」
「オレが『終わり』って言うまで」
そう言った時のナリタタイシンの目を、オレは絶対に忘れる事はないだろう。
『この人でなしが』と言わんばかりの、この目を。
「アンタ……意外に人でなしだったんだね」
言われちゃったわ。
◆
坂路トレーニング。
それは、ウマ娘が行うトレーニングの中でも最もキツいと評判のトレーニングである。
やる事といえば簡単なもので、坂道を全力で走る……と、これだけ。
つまり、全力坂ダッシュ。
それを往復でやる。
ただ、それだけ。
ウマ娘のトレーニングと言えば、他のウマ娘と併走したり、ランニングマシンを使ったり、巨大なタイヤを引っ張ったり、あるいは単純な筋トレだったりするのだが、その数あるトレーニングの中でもこの坂路トレーニングは非常に評判が悪い。
曰く。
キツい。その割に成果がわかりづらい。キツい。他のトレーニングでも同じ効果が得られる。キツい。こんな事をさせるトレーナーの気が知れない。キツい。こんなトレーニングを考えた奴ぶっ殺す。
という具合に、大絶賛(誤謬)の嵐なのだ。
では、何故トレーナーはウマ娘に坂路トレーニングを課すのか。
その答えは実に簡単。
スタミナとパワーをいっぺんに鍛える事が出来るからだ。
それに、大抵のレース場には坂があるので、坂での戦い方の基礎を作る事も出来る。
だから、つまり。
別にトレーナーたちは自分が担当するウマ娘をイジメようとか、酷い事をしてやろうとか、殺してやろうとか、疲弊して動けなくなったところをうまぴょいしてやるぜぐへへとか考えているわけでは、断じて無いのである。
断じて! 無いのである。
そもそも、疲弊したところで人間1人跳ね除けるくらいの力は残るはずなので、動けなくなったからと言って無理矢理うまぴょい出来るはずもなく。
ま、誇り高きトレセン学園所属のトレーナーに、まさかそんな下心アリアリの度し難いクソマヌケ野郎がいるとは思えないが。
それはさておき。
「ペース落ちてるぞ、タイシン」
「――ったりまえでしょ! どんだけキツいと……ッ!」
「喋ってないでペース上げろー」
「あああああああッッ!!」
坂路トレーニング。
それは、ウマ娘の間で最も評判の悪いトレーニングである。
とはいえ、これをする事で得られるものの方が大きいので、どれだけキツかろうが、タイシンが可哀想になろうが、まだまだやめるわけにはいかない。
ナリタタイシンというウマ娘は、悲しいかな、他のウマ娘と比べるとどうしても体格で劣る。
どのスポーツでも、それこそウマ娘のいるレースの世界においても、身体のデカい奴、体格の良い奴というのはそれだけで有利であり、レースにも勝ちやすい。
体格の良いウマ娘と言って真っ先に思い浮かぶのは、やはりゴールドシップだろうか。
身長が高いし脚も長く、肉付きも良い。その身体から繰り出される力強いストライドで第3コーナーからまくっていくその姿たるや、カタルシスを覚えるのも無理はなかろう。
それを踏まえて、ではナリタタイシンはどうすれば勝てるのか、と訊かれれば――その小さな身体に、デカい奴さえ弾き飛ばせるほどのパワーを備えさせるべきだろうと考える。
小さい事と非力である事は必ずしもイコールで結ばれないのだから、まずは足りない部分を補い、それより先は新たな武器を身に付けていくしかないだろう。
当然、生半可なトレーニングではそんなもの身に付くはずがない。
――必要だ。
どんな事をしても強くなるという覚悟が。
その身をどれだけイジメ抜いても、絶対に折れない心の強さが。
何が何でも勝利してやるんだという決意が。
だからこその、坂路トレーニングでもある。
ただでさえ人一倍負けん気が強いだろうタイシンは、まず折れる事は無いだろう。
勝利への渇望というのか、いわゆるハングリー精神というものに関しては、特別心配してはいない。
だが、それでもイジメる。
煽りに煽って、『ふざけんな』と思う気持ちを力に変えてもらう。
オレは憎まれても恨まれてもいいのだ。それが、ナリタタイシンというウマ娘がトゥインクル・シリーズを制覇する原動力となるのなら、オレは喜んで憎まれ役を買おう。
……まあ、それさえも彼女にはバレてしまうとは思うが。
「んー? 顎が上がってるなぁ……もう限界かなぁ?」
「――ッ! まだまだぁ!!」
いつか、知り合いのトレーナーが言っていた事が思い出される。
曰く、精神は肉体を超越する、とか。
それを聞いた当時は、何を言っとるんだこのアホは、などと思ったりもしたものだが……しかし。
いざ担当のウマ娘の世話をするようになってから、ようやくそれを理解した。
確かに、精神は肉体を超越する。――――だが。
「――精神と肉体が合一しなければ、超越はあり得ない」
というのが、これまでトレーナーをしてきた経験から得た、確かな結論だ。
確かに、勝ちたいとか負けたくないとか、そういう気持ちからなる気力を振り絞る事で限界を超えた走りが可能になるという事はあるだろう。
しかし、そもそも、
精神がついて来なければ、自分の走りは出来ない。
肉体がついて来なくても、自分の走りは出来ない。
だから結局、精神と肉体を本当の意味で融合させた時にこそ、初めて『限界を超えた走り』が出来るのだと思う。
……まあ、残念ながら今までオレが担当したウマ娘はどいつもこいつも才気溢れる優駿ばかりで、やれ精神がどうだ、肉体がなんだ、と理屈をこねくり回さずとも良かったんだが。
いやほんと、才能の塊ってのも、それはそれで大変なんですよ。
それに比べて、タイシンのなんとわかりやすい事か。
何が足りないのか、補うにはどうすればいいのか。それが、わかりやすい。
ルドルフやブライアン、タキオンにはなかった……どちらかと言えばエアグルーヴに近い。
――まあ、彼女は彼女で、当初はオレにあまり期待をしてくれてなかったのだが。
ともあれ。
これまでの、俗に『天才』などと呼称されるウマ娘たちではおよそ得られなかった経験を、今オレはしているのだ。
「ほらほら、ペースが落ちてるぞぉ〜?|
「うっさい!」
こうして、ウマ娘を煽ってそれに噛み付かれるというのも、まったく新鮮な体験である。
今まで担当してきたウマ娘は……まあ、その、なんというか、こうした感情表現に関しては乏しい面があったというか。
少なくとも、煽って噛み付かれるって事はなかったように思う。
煽った結果、地獄を見そうになった事はあったが。
エアグルーヴ、ナリタブライアン、お前らの事やぞ。
それはともかく、とりあえずこちらの思惑通りにタイシンは坂路トレーニングを熟してくれている。
とはいえ、彼女の今の能力ではもうすぐ限界を迎えるが。
オレの見立てでは、あと3本も往復したら限界が来るだろう。
限界が来たら、そこからさらに1本。
それで本当に終わりだ。
トレーニングはまた明日、となる。
明日以降は、また別のトレーニングだ。
今のタイシンでは足りないものが多すぎて全体の底上げにしかならないが、上がりきった時にはどのウマ娘をも凌駕する存在になってるはずだ。
……ま、流石にアメリカで担当したアイツのようにはいかないだろうが。
――と、そろそろか。
「タイシン、ラスト1本! それ終わったらマッサージとアイシングだ!」
「……っ!」
ラスト1本のコールに、タイシンの目に焔が宿った。
確かな意志を感じさせる蒼く揺れる誇り高き焔が。
「……なるほど。それがお前か、ナリタタイシン」
それまでは持ち前の負けん気、諦めの悪さから来る意地。
だが、今のこれは違う。
明らかな闘志。目の前を走る敵を纏めてぶち抜いてやるんだという意志。それが『ラスト』のコールで爆発した。
恐らくは、ナリタタイシンが普段から抱えている感情。それを燃料として貯蔵しておいてここ一番で点火し、一気に燃え上がらせる。
こう言うと陳腐に聞こえるが、まるで打ち上げ花火だな。
ジリジリと導火線を伝って火が運ばれ、ラストスパートのタイミングで花火玉が発射され、爆発。
急速な加速によって一気にトップスピードに乗り、あとはゴボウ抜き。
……あぁ、いいね。いいよ、ナリタタイシン。
お前のトレーナーをするのが、これまで以上に楽しくなってきた。
ノロマな連中をぶち抜くカタルシスを、今からでもお前に味わわせてやりたい。
だが、今はまだその時じゃない。
今はまだ雌伏の時。マヌケな獲物が無警戒に歩いて来たところで、その喉笛を咬み千切ってやるんだ。
それまでは徹底的にステルスする。トレーニング内容も秘匿し、タイシンにも内容は喋らせない。
……まあ、タイシンはあまり社交的な性格ではないようだから、その辺の心配は要らないだろうが。
「……はぁ……はぁ……」
「はい、お疲れさん。よっ、と」
ラストの坂路往復を済ませたタイシンがふらりと倒れそうになるのを支え、お姫様抱っこで近くのベンチに運ぶ。
ベンチにタイシンを寝かせたら靴と靴下を脱がせて、マッサージとアイシング。
特にアイシングは重点的にやらないと、大変な事になるからな。
それに、本当なら氷も使って20分くらいアイシングしてやるのがベストだし、なんならウォームアップの前後にもアイシングをしてやるべきだったんだが、残念ながら今あるのはアイシング用のスプレー缶だけだ。
だが、これだけでも十分な仕事はしてくれる。科学技術の発展に諸手を上げて感謝しなくちゃな。
……とはいえ、タイシンの今日の運動量から考えれば、1本まるまる使ってようやく、といったところだ。
恐らくだがもう体力も残ってはいないだろうから、栗東寮まで運んでやる必要もあるだろう。
「……キツかったか、タイシン?」
「…………当たり前」
「そうか。しばらく続くが、いいか?」
「……嫌だって言ってもやるんでしょ」
「まあな。……ま、そうだな。坂路が楽に熟せるようになったら、お前に新しい武器を授けてやるよ」
「……上から目線」
「気に入らないか? まあ、トレーナーなんてみんなそんなもんだ。どのトレーナーも、自分が担当してるウマ娘こそがナンバーワンなんだって思ってる。自分の担当ウマ娘を光らせられるのは、自分だけなんだって思ってる。だから、上から目線だし自惚れ屋だ」
「……新しい、武器、って何?」
「それはまだ秘密だ。……だが、あの皇帝も女帝も、シャドーロールの怪物も超光速の粒子さえも、教えたところで習得は出来なかっただろうな」
「だろう?」
「……ま、今はまだその時じゃない。気長に励め、タイシン」
アメリカで担当したアイツの走りを初めて見た時は、なんてバカげた走りをする奴なんだと思ったが……はてさて。
タイシンにヤツと同じ走りが出来るだろうか……?
「……ところでさ」
「なんだ?」
「昨日、ミスターシービー先輩と走った後で『明日は簡単なのにしようか』みたいなこと言ってたよね?」
「簡単だったろ? 何も考えずに往復だけしてりゃいいんだから」
「そういう事じゃ――はぁ。いいよ、もう。怒る気力もないし」
「そうか」
大きく息を吐いて、昨日と同じように左腕で両目を覆うタイシン。
まあ、確かに簡単なものにしようと言っておきながら坂路を走らせたのは、ちょっと詐欺っぽかったかも知れない。
赦してくれ、タイシン。