第一話 お悩み相談室
日本トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。優秀なウマ娘達が通う学校である。
学校ということで、例に漏れず保健室が存在する。
軽度な怪我の治療、カウンセリング、健康診断の準備など仕事内容は一般的な養護教諭と変わらない。しかし、彼女達は学生でありアスリートなので、当然より慎重な判断が求められる。
全校生徒2000人弱の面倒を見なければならない養護教諭は、なかなかにブラックな仕事である。それとは別に彼女たちの面倒を見る存在であるトレーナーと言う職種も存在しているが、在籍しているウマ娘よりも圧倒的に少ないので、焼け石に水と言ったところだろう。
かくいう現養護教諭の清水は、疲れからか顔を顰めて目頭を押さえていた。髪は黒く、ややくせっ毛で全体的に陰気な感じのする風態をしている。
午前7時前に学園に行き、そのままぶっ通しで仕事をし、現在夜の7時を少し過ぎたところである。窓の外にはのっぺりとした暗闇が幅を利かせていた。些か現実味を欠いたような暗闇だ。
「こんなもんか」
清水は、そうため息と共に独りごちる。彼は胸ポケットを弄るが、やがて何かに気付いたようにして席を立つ。少し前にタバコは辞めたのだった。ややおぼつかない足取りで保健室にある冷蔵庫に向かい、缶コーヒーを取り出す。
この保健室には冷蔵庫が二つある。生徒に出す用の経口補水液などが入った冷蔵庫と、清水専用の冷蔵庫。彼はこの仕事に就いてから、物事をきっちり分割しようとする癖がついてしまったのだった。
彼は缶コーヒーを開けて一口飲んで顔を顰めた。ブラックだった。だるま落としに失敗したような顔をした清水は、缶を机に置いて勢いよく椅子に沈み込んだ。
疲れていて何もかもうまくいかない時がある。そう言う時はじっと目を瞑って、嵐が過ぎ去るまで待つしかない。実際の嵐が大地を巻き上げそのまま地中の死体を打ち上げてしまうように、比喩上の嵐によって嫌な思い出がふうっとよみがえる事がある。彼の友人のことだ。死んでしまった彼の友人。
嵐は無事に収まった。そのままほっと一息、とはならなかった。完全にリラックスムードの空気の中、緊張感を持ったノックが二つ。
清水は少しうんざりした顔をした。ここのところ彼はいつも眉を顰めているように感じられた。彼は眉間のマッサージをしつつ、訪問者を招き入れた。
「仕事は終わったみたいね、清水」
「…ハナさん、用がないなら来なくてよかったんですけど」
「年上に対する口の利き方がなってないんじゃない? 」
「やれやれ」
訪問者は、彼の友人の一人である東条ハナだった。
*
「なにか飲みます? 」
「お構いなく」
「そうですか、では何も要らないということで」
「……」
「冗談です」
そんな風な清水の言葉に若干の呆れを見せた東条だったが、それはある種の親しさを示す物だ。飼い犬が粗相をした時のような呆れ。その域を出る物ではないようだ。少なくとも彼女にとって。
清水は東条の前に紙コップを置き、その中に冷えたお茶を注いだ。緑茶だ。彼女はコップを覗き込み、自身の顔を見つめた。田舎にある底なし沼のような色をした水面に映る自身の顔は、いつもより冴えないものに見えた。東条はお茶を一気に飲み干し、そして、息を一つ吐き出した。
「要件からお願いします」
「そうねえ、最近犬を飼い始めたの」
「そうですか、残念です。せっかく祝義を包んでおいたんですが使い所がなくなりそうで」
「悪かったわよ、話すわ」
「そうですか? 僕としてはこの話を続けてもいいんですが」
清水は知っている。彼女は基本的には無駄な事をしない。仮にしたとしても、普段の清水ならなんと言うこともなく対応できる。しかし今、彼は仕事の疲れで余裕がない。
言葉とは裏腹に、無駄話を続ける気はなかった。
彼女は椅子に座り直し、仕事用の雰囲気に切り替えた。彼女はいたって真面目で有能な人物である。しかしある程度の人々がそうであるように、それは勤務中に限った話だ。誰しも気の抜ける瞬間がある。それはわるいことではない。ただ現在の清水の精神状態に合っていなかった、それだけの事だった。
「私が持つチームのメンバーに関することなの」
「チームのメンバー。それはある特定の個人の事についてですか? それとも全体に関わる事? 」
「そうね、ある特定の個人についての問題よ」
彼女はトレセン学園最強のチーム『リギル』を率いるトレーナーである。その手腕は折り紙付きで、彼女のチームにはシンボリルドルフ、エアグルーヴ、ナリタブライアンなどトレセン学園生徒会をはじめ、極めて優れたウマ娘達が多く所属している。
古代ギリシャのスパルタのごとき徹底管理のもとにある彼女らについての、ある特定の個人の問題。厄介ごとの匂いを感じ取った清水ではあったが、それは心の中に留めておいた。これが自分の仕事だと言い聞かせているようだった。
「サイレンススズカを知ってる?」
「はい、知ってます。彼女が何か」
「彼女のタイムが伸び悩んでいるのよ」
「それのどこに問題があるんですか」
タイムが伸び悩む、点数が上がらない、いつまで経っても上達しない。そう言った純然たる事実は、どこの分野にもふてぶてしく横たわっている。それらに人々は心を折られる。そうして遺灰のように降り積もった夢の残骸は至る所で散見される。要するに、それが普通なのだ。
「メンタル面に問題があるの」
「メンタル面の。しかしそれは僕の出る幕はないのでは? そう言ったものをどうにかするのもトレーナーの役目でしょう」
「私にどうにか出来るような問題ではないのよ、だったらあなたの手を借りる必要もない。わかるでしょう? 」彼女は懇願するようにそう言った。
彼は押し黙って、そうして「具体的にどう言う問題があるんですか」と言った。
「彼女のやりたい走りと、私のやらせたい走りに相違が見られる。そう言う話よ」
彼女はそう言ってお茶のおかわりを催促してきた。清水は何か言おうとしたようだが結局何も言わずに彼女の紙コップに注いだ。
「彼女は大逃げをして、最初から最後まで先頭を走っていたい。そう言う子なのよ。でも私はそれをさせない」
「でもそれには理由があるんでしょう。あなたが個人的な意地悪でそう言ったことをするとは思えません」
「そう、理由はあるのよ。あるのだけど、それが絶対的に正しいと言うわけじゃないでしょう。それに、メンタルと言うものは一度崩れてしまうと立て直すことが困難になるわ。少なくともフィジカル的なものと比べたらね」
彼は得心がいったという風だった。「要するに、僕に面倒ごとを押し付けに来たわけですね?」
「嫌な言い方ね…。でも撤回できないわね、実際のところそうなんだから。いつも迷ってばかりよ、自分の選択に自信が持てたことなんてないもの。実際のところ、スズカがどうすれば速く走れるかなんてわからない」彼女は顔に少しの憂いを浮かべてそう言った。
「冗談ですからそんなに湿っぽくならないでください。わかりました、やります。完璧に解決しなくてもいいわけですね? 彼女の口から一つの決断を聞きたいということでしょう? 」
「そうね…そう。彼女の決断が聞きたいの。彼女、私相手だと結構遠慮しちゃうから」
だろうな、と清水は思ったがそれは言わなかった。沈んでいる彼女に追い討ちをかけるべきではないと思ったからだ。
どっちつかずの不安定な気持ちのまま続けると言うことは、非常に良くない事だ。曖昧な行動は曖昧な結果しかもたらさない。
彼女は、ぐったりと椅子にもたれ掛かった。ウマ娘の前では毅然とした態度を貫くが、そうでない時は割とだらしない姿を見せる。そう言った姿の彼女に対して清水は少なからず親しみを覚えており、出来るだけ力になってあげたいと言う思いがあった。
「明日そちらにいきますよ」清水は彼女に目を向けてそう言った。
「悪いわね。でもいいわよ別にこなくても」
「いいんですよ。狭い保健室で話すよりも、外の方が話しやすいでしょう」
そういうと清水は、机の上に置いてあったブラックコーヒーを飲んだ。相変わらずの苦さだった。一体誰がこんな物を好んで飲むのだろうかと、いいしれぬ怒りが込み上がってきたようだった。
「そういえば、沖野はどうなんですか」
沖野というのは彼ら共通の友人である男のことだ。東条と同じくトレーナーをしている。此方は東条とは違い、あまり大きくないチーム『スピカ』を率いている。一時期やる気を失っていたらしいが。
「なんか最近元気になったわよ。よく私のチームを見に来てるし」
「そうですか、なら安心ですね」
「そうね」
そう言って東条は薄く笑った。清水は何か言いたそうだったが何も言わなかった。
「後、簡単にでいいんでサイレンススズカさんのことを聞かせてくれませんか。大まかな性格とか」
「いいわよ」
そういて東条の話を聞き、メモにまとめた清水だった。その後少しの世間話と、飲みの約束を交わしたのち彼女は去って行った。
清水は一人残った保健室で、しばらくの間虚空を見つめていた。
主人公の名前は『しみず』です。
沖野トレーナーと同い年で、東条トレーナーの一個下です。おハナさんと沖野Tってどういう関係なんでしょうね。アニメでは同年代なんでしょうか。
あと彼はコーヒーは微糖とブラック両方買います。仕事終わりに飲むのは微糖の方なので、間違えてブラックを飲んで不機嫌になりました。