「私は、小さい頃から走る事が好きだったんです」
「そうなんだ。どうしてか、聞いてもいいかな」
少し緊張の糸が緩んだのか、スズカは自身のことを話し始めた。
それに対して清水は、出来るだけ優しく、寄り添うように相槌を打つ。
「走っている時の目の前に広がる景色が、キラキラしていて綺麗だったんです。目の前には誰もいない、私だけのもの。そんな景色が好きだったんです」
「キラキラとした景色」彼は繰り返す。
繰り返したことを理解できなかったと受け取ったスズカは、少し慌てて口を開いた。
「えっとその、キラキラしてたって言うのは…、その…」
そう言って適切な言葉を探そうとするスズカだったが、なかなか上手く見つけられない様子だった。それを見た清水は少し笑いながら訂正した。
「ごめんね、スズカさんの言っている事が分からなかったわけではないんだ。むしろ、よくわかったっていうか」
「どういうことですか?」
「僕にも経験があるってことさ。自分の好きなことをしている時は、周りが輝いて見える。僕も同じだよ」
そう言って、彼女に笑いかける。
そして彼の脳裏には、在りし日の青春が去来した。酸いも甘いも分かち合う友がいた時。何もかもが輝いて見えた学生時代の事。
彼女に共感した事は、間違いなく彼の本心だった。仕事としての、形而上の共感では決してなかった。
自身の思いを本心から理解してくれたことを感じたいのだろうか、彼女も笑みを浮かべた。少しずつ柔らかくなってくる彼女の笑み。清水も、不思議と心が安らいできた。彼女と心が一つになってきているのを感じた。
そのおかげで、彼女の気持ちが手にとるように理解できた。
彼女の幼き日に感じた思いそのものを。
頬を切る爽やかな風、彼女を包む緑の象形が徐々にカタチを失っていく。
誰も彼女のスピードにはついて来られない。音でさえも、光でさえも、彼女には触れられない。
否、触れることすらできない。そう言った方が適切か。
一番速いのは自分自身であると錯覚する。そんな極限のスピードの中にいる。
そして飛び込んでくる、『彼女が追い求めた』景色。
そこに、邪魔者は誰一人として存在しない。存在を許されない。
許されるのは、彼女ただ一人だけ。
透き通る世界の中に、自身の鼓動のみが木霊する。
楽しい。楽しい。楽しい。
そんな魂からの叫びが聞こえてくるようだった。
思わず清水は息を呑んだ。
*
暫しの沈黙が続いた。清水は彼女の心に触れ、強く心を揺さぶられた。それにより落ち着く時間が必要だった。
急に静かになった清水を不思議そうな目で見るスズカ。沈黙に耐えきれず、彼女から声をかける。
「あの…」
「ん、ああ。ごめんね、少しぼーっとしてた」
「そ、そうですか」
彼女は一瞬怪訝そうに眉をひそませたが、すぐに安心したような表情になった。
清水は深呼吸をして彼女に話しかける。
「今、まだ走ることは好き?」
「それは……」
彼女は言葉を詰まらせる。彼はゆっくりと答えを待つ。
「…わからないんです。好き、だとは思うんです。でなければ、ここには多分いませんから。でも…」
「断言はできない?」
彼女はゆっくりと頷く。
「トレーナーさんにはとても感謝しています。いろいろ教えてくださって。それが、正しいことなんだと思います。勝つためには」
「…成る程」清水は腕を組んだ。
東条ハナは、『レースに勝てるようにすること』が他の何より大事だと考えている。故に彼女の指導はとても厳しく、スパルタである。確実に力をつけるための練習を行う。加えて、危ない橋は渡らない。常に『絶対』をとる。
それが彼女であり、チームリギルの強さそのものである。
しかし、その『強さ』はスズカとの相性が悪いのだろうと清水は考える。
自由に心の赴くままに、走りを楽しみたいスズカ。勝利を第一に考え、徹底的に自己を管理して己を高めようとするリギル。
無論スズカも勝利を望んでいるが、大きな目標がそれであるわけでは無い。
この違いは大きい。スズカはおそらくそのギャップに苦しんでいる。
彼女には、恐ろしく頑固な一面があることも彼は知っている。しかし同時に彼女は、普通の思春期の少女だ。
そう簡単に理想を諦めきれないし、トレーナーである東条に対する恩も感じているので好き勝手はできない。
だから、彼女は吹っ切れる必要がある。中途半端のままでは、彼女は走り出せない。
「…スズカさんはどうしたい?」
「…私は」
逡巡の色を浮かべ、口をつぐむスズカ。
清水は、言う。そんな彼女に向かって。
「僕がなんと言おうと、最後に大事なことは君が納得できるかどうかなんだ。自身の出した答えに」
「私の答え…」噛み締めるように呟くスズカ。
「そう、君の答え。少し酷かもしれないけれど、君が後悔しないためにもそれが大切なんだ。僕はあくまで君が答えを引き出すための協力者でしかない」
「…」
「君の走りへの情熱は完全に消えてしまった訳でないんだろう?どうしたい、スズカさんは」
「私が、どうしたいか」
そう言ってスズカはトラックの方へ目を向けた。清水もつられてそちらをみる。
青々と輝く芝の上を、幾人ものウマ娘が駆ける。
彼女達は何を思い、走るのだろうか。個人の気持ちはそれぞれで、他人に理解することはできない。それは、清水でも完璧には理解できないだろう。
それでもひとつだけわかる事がある。
迷いがない。彼女達は、自身の走りに確固たる自信を持っている。
スズカはじっと、トラックを見つめる。
沈黙を一陣の風が破る。
「私は、私はっ…」
清水はスズカの方を見ない。
「私の思うように走りたいっ」
絞り出すように、自身の答えを出した。
清水は、薄く笑った。
沈黙。それでも、その沈黙は、きっと彼女のスタートの合図だ。
「よく、頑張ったね」
次回もう少し書いてからおわりにします。