Log Horizon 〈星詠みの黒猫〉   作:酒谷

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chapter 1

 老舗MMORPG〈エルダー・テイル〉。それは20年の歴史を誇るオンラインゲームの古参タイトルだ。

 その日は12番目の追加タイトル〈ノウアスフィアの開墾〉の解禁日だった。しかし、その日を境に私たちの「現実」は変わってしまった。

 

 肌をなぞる風。湿った空気。何もかもが自分の五感で感じ取れた。画面の向こうで見慣れた風景が、今、目の前に存在している。

 

 ここは、どこだ?

 

 そんな疑問の答えは既に分かっていた。私が持っている異常ともいえる程よく当たる勘が必死に答えを叫んでいた。

 

「ここは〈エルダー・テイル〉の舞台〈セルデシア〉。そして〈弧状列島ヤマト〉の日本サーバー最大の街〈アキバ〉かぁ……」

 

 その日、私は異世界の土を踏みしめていたのだ。

 

 *

 

 ありのままに今起こったことを話そう。

 気がついたら見知らぬ大自然の中にいた。

 

 なぜ自分はこんな大自然の中にいるのだろう。さっきまで自分はデスクトップPCの前でいつも通りオンラインゲーム〈エルダー・テイル〉をしていたはずだ。それがどうしてこんなことになっているのか。

 

「……まいったなぁ」

 

 自分の格好を確認してみれば陰陽師の着ていそうな和装、つまり、先程まで自分が操作していたキャラクターにそっくりな格好をしていた。おまけに右目にかかっている髪は白い。私は髪を染めてもいなければ地毛が白いわけでもない。その白は完全に自分のアバターの髪色だった。

 

「何がどうなっているんだか」

 

 一瞬だけ思考を巡らせたが原因は全く想像もつかない。

 ここでじっとしていても何も得られないだろうと思った私は、とりあえずアキバの街を歩き回って自分の置かれてる状況を確認してみることにした。

 

 元いたところから少し離れると、自分と同じような状況に陥っている人が多数いた。その人たちの表情はどれも暗い。中には悲鳴を上げる人もいた。私はあまりの声量に思わず眉をひそめる。

 

「……元気だなぁ」

 

 その光景を目の当たりにした私の口をついて出たのはそんな皮肉だった。

 

 沈み込んでいる人々を傍目に周囲を歩き回る。その散策で確認することが出来たのは画面の向こう側で見慣れたアキバによく似た風景だった。崩れかけた廃墟。建て増しを重ねたバラックの酒屋。この世界での現代に残された〈神代〉の遺産。聳え立つ古代樹。機能してないないが見慣れたトランスポート・ゲート。明らかにここが自分が今まで生きてきた世界ではないことは確かである。

 

 ここは〈エルダー・テイル〉もしくはそれに酷似した〈異世界〉。

 

 それが不思議な光景を目の当たりにして出た結論だった。

 この結論が出てもなお、それなりの冷静さを保っている自分の適応能力に地味に感動した。それどころかちょっとだけわくわくしている自分がいる。我ながら呑気というか好奇心旺盛というか。いや、これは危機感がないだけだろうか。

 

 それはともかくとして、ここがゲームの世界ならば。

 

「どうにかすれば、メニュー画面が開けるはず」

 

 そう結論づけて、トランスポート・ゲート付近の静かなところを探して腰を下ろす。

 メニュー、メニュー……と考えていると視界に二重写しのようにメニューが開かれた。それにびっくりすると集中力が散漫したせいかそれはフッと消えてしまう。再度額のあたりに集中すると、それはもう一度視界の中に二重写しのように出現した。操作しようと意識することで操作ができそうなので一通り内容を確認していくことにした。アイテム、装備品、キャラレベル、特技、エトセトラ。どうやら、データ的にはこの状況になる前と変わっているところはなさそうだ。ただ、ログアウトはできないらしい。それと報告機能の障害報告も使えない。というか、その箇所が空白だった。

 

「ですよねー。そんな予感はしてたよ」

 

 メニューからこの現象が解決できるとは全く思っていなかったので問題はないが、これでこの現象がイベントである線は完全に消えた。元からイベント関連ではないような気はしていたので、確証が取れただけでも今後の方向性を決めることができるだろうと前向きに考えることにする。

 そうして一通り確認し終えた後に私はそれに気付いた。

 

「これ、フレンド・リストから念話できるんじゃない?」

 

 思い立ったが吉日とでもいうように、私はフレンド・リストからログイン中のフレンドを確認していく。その中で目に付いたのは〈エルダー・テイル〉で10年以上の付き合いを持つプレイヤーだった。名前が白く光っているのでログインしているらしい。

 少し戸惑いながら念話機能を立ち上げて彼を呼び出す。しばらくコール音が頭の中で響いたあと、彼と念話が繋がった。

 

「……あの、ご隠居ですか?」

『その声は、リンセちですかにゃ?』

「はい」

 

 脳内に直接響くような不思議な感覚で届いたのは落ち着いたトーンの声色だった。

 安心感すら感じる声に取って付けたかのような猫語尾。〈エルダー・テイル〉をはじめてから最初に念話機能で会話した相手、猫のご隠居ことにゃん太である。

 

『久しぶりですにゃ』

「ええ。ご無沙汰してます。あの、突然で悪いんですが……」

『今、この状況についての情報ですかにゃ?』

 

 自分の言いたいことを分かっている彼に少しだけ口角が上がる。そう、今の状況では情報収集が最重要事項なのだから。

 

「はい。何もわからないんじゃ今後の身の振り方も決まらないので。情報交換がしたいです」

『我が輩もそう思っていましたにゃ』

「やっぱりですか」

 

 以前と変わらない会話。以前と変わらない声色。それは少なからず互いを落ち着かせるものだった。胸の中にあったもやが少し晴れたような、そんな気がしたのだ。

 

「それで、今ご隠居はどちらに?」

『ススキノですにゃ。リンセちは?』

「私はアキバです。おそらく合流は難しいかと」

『まさか……』

「はい。確認したところ、現在時点で都市間トランスポート・ゲートが機能してないみたいなんです」

『そうですか。〈妖精の輪(フェアリー・リング)〉を使うことも今は危険ですにゃ』

「ですよね。もうWebは見れませんし」

 

 思考する。

 おそらく足を使って行けたとしても、アキバから一歩外に出ればそこはモンスター出現区域となる。今の状態では今までどおりの戦闘はほぼ不可能だろう。ショートカットキーも無ければメニューから特技を使うのも戦闘の中では厳しいものがあるだろう。完全に、特技を「使う」ことと「使い慣れる」ことは別物となってしまっていると考えていい。

 

「うーん。まいったなぁ」

『まだまだ情報が足りないですにゃ』

「そうですねー。とりあえず、お互いにこの世界についての情報を集めて、定期的に連絡でも取りますか?」

『それが今できる最善でしょう』

「それじゃ、そうしましょう」

『ええ。では、また情報が集まり次第連絡しますにゃ』

「はい。こちらでもやっておきます」

 

 別れの挨拶をして彼との念話を切る。比較的向こうも冷静なようで少し安堵した。これなら情報収集はうまくいきそうだ。

 

 さて、ひとまず今ある情報だけで少し考えをまとめてみようか。

 日本サーバーには約120万のキャラが存在しており、そのうちの10万程のキャラがアクティブである。自分のフレンド・リストのログイン率からみると、大体3割が〈ノウアスフィアの開墾〉が導入された瞬間にログインしていたと考えられるだろう。つまり、単純計算で約3万人の日本人が今この異世界にいる計算になる。そして、おそらくこの状況の早期解決は見込めない。仮に帰る術が存在していたとしても私はその術を知らないし、現時点で知っている人間はいないだろう。となると元の世界に復帰できるまでここで生きていくしかない。イコール、モンスターとの戦闘は少なからず行わなければならない。

 実に難儀なことだ。

 

「多分、少ししたらみんな戦闘要員の確保とかに動き出すんだろうなぁ……」

 

 みんな一緒なら怖くないとでもいうように集団を作り始めるだろう。おそらくこれからギルド勧誘も増えるし新しく設立されるギルドもあるだろう。

 元々「運営」という機関がルールを定めていた世界だ。現在、その運営にこちらから報告という形で干渉することはできないと考えるべきだ。つまり、今この世界は自分たちにとって無法地帯と化したわけだ。

 幸いアキバの街は戦闘行為禁止区域となっている。しかし、その「戦闘」がどの程度のことまでを指すのかは分からない。相手に悪意を持って害を与えることなのか。いや、そもそも「害」とは肉体的なもののみなのか、それとも精神的なものも含まれるのか。恐喝、強姦などは含まれるのか。

 

「考えるんじゃなかった……」

 

 自分の思考に吐き気を感じて思わず顔を歪める。心底気持ち悪い。鳥肌が立ってくる。

 そのとき、念話機能の呼び出し音が鳴った。その音に肩を思いっきり揺らしながらもメニューを開く。表示されていた名前は「シロエ」。リアルでも〈エルダー・テイル〉でもとても仲良くしてもらっている1つ年上の先輩だった。

 念話を繋いで声をかける。

 

「もしもし」

『クロ?』

「君が間違いなく私にかけたのなら、私が出るんじゃないかな? シロくん」

 

 つい一昨日も聞いた声に彼が間違いなくシロエだと判断する。

 

『クロ、今どこにいる?』

「トランスポート・ゲートのところから少し離れたところだよ。シロくんは?」

『ギルド会館前にいるよ』

「そう。じゃあこれからそっちに向かうよ。情報交換がしたい」

『うん、僕もそう思って掛けたんだ。じゃあ、お願いできるかな?』

「うん。じゃあ、また後で」

『また後で』

 

 用件のみを話して念話を切り、私はシロエと合流するべく歩き出した。

 

  *

 

 歩き出してしばらく。のんびりしていたせいか、途中で〈冒険者〉同士の乱闘に遭遇したからか、少々時間はかかってしまったがようやく待ち合わせ場所に辿り着いた。

 さて自分の先輩はどこにいるのかなと辺りを見回すと、ゲーム内で見慣れた白いローブマントとその横に佇む全身鎧を見つけた。向こうもこちらに気付いたのか、駆け足で寄ってくる。

 

「クロっ!」

「走んなくても私は逃げないよ、シロくん」

 

 目付きの悪い三白眼に丸眼鏡。駆け寄ってきた先輩――シロエはリアルのまんまの顔だった。その後ろから駆け寄ってくるのは、もしや。

 

「もしかして、リンセか?」

「そういう君は、直継? 復帰したんだ?」

「ああ。新しい拡張が来るって聞いてな」

「そう。まあ、巻き込まれて災難だったね」

 

 リアルの事情でしばらく休止していた直継だった。その顔も以前リアルで会った彼によく似ていた。

 

「ていうか、2人共そのまんまだね」

「そういうクロこそ、やる気のなさそうな若干死んだ目とかそのまんまだよ」

「黙れ、腹ぐろ」

 

 感じたことをそのまま告げれば、シロエからオブラートにも包まない言葉が帰ってきた。一昨日となんら変わらないやり取りに、やっぱり本物かぁ、と独りごちているとシロエが目の前で手を振ってきた。

 

「……なに?」

「いや、なんかぼそぼそ言い出したから、大丈夫かなって」

「大丈夫ですー」

 

 言いながら、目の前で振られていた手を軽く叩き落とす。

 そして、とりあえず時間がもったいないので歩きながら情報交換をすることになった。

 

「……で、2人はどこまで情報得られた?」

「正直、全然集まってないよ」

「さっき〈三日月同盟〉ってところのギルドで少し情報交換したとこだけどなぁ」

「〈三日月同盟〉っていうと、マリーのところか」

 

 〈三日月同盟〉とは〈施療神官(クレリック)〉のマリエールがギルドマスターを務める中小ギルドだ。マリエールは典型的な関西人のお姉さんといった感じの人である。

 

「彼女の様子はどうだった?」

「やっぱりちょっと参ってそうだった……?」

「なんで、疑問形なの」

 

 尋ねればシロエは何とも言えない微妙な表情になった。私が首を傾げると彼はその表情の意味を教えてくれる。

 

「言動はいつも通りだったからね……」

「ああ、なるほど」

 

 苦笑するシロエに私は理解したと頷いた。

 何となく想像できた。あの人のことだからまた女子高癖を出してきたんだろうな。

 

「大丈夫だった? 直継。あの人、初対面じゃ少々扱いにくかったでしょ」

「あー、なんつーかなぁー……」

 

 直継の反応を見るとやはり洗礼を受けてきたらしい。ご苦労様なことで。

 それはそうと、本題に戻ろう。

 

「収穫は?」

「マリ姐のところもあまり掴んでないみたいで。今のところはトランスポート・ゲートが使えないことぐらい。あとはマーケットのこと、自衛とかについて話してきたよ」

「ふーん。まあ、ゲートのことは実際見てきたからわかるよ」

「そうだよね。それでクロの方はどう?」

「こっちも似た感じだね。どこの都市も同じ感じってことと、アキバの街の戦闘行為禁止区域っていうのはおそらく継続中。さっき通りすがりに〈冒険者〉同士の乱闘にあってね。衛兵が来てたからシステムとしては機能してると思っていい。ま、どの程度までが引っかかるかは……」

 

 話していて、さっき考えていたことが頭をよぎった。

 ――恐喝、強姦などは含まれるのか。

 今、気付いた。これは禁止に含まれない、ノーだ。

 

 不意に言葉が止まった私を不思議に思ったのか、シロエと直継が不思議そうな顔でこちらを見る。

 

「どうした? リンセ?」

「クロ?」

「……恐喝、強姦、その他の“武器を使用せず一定以上の苦痛またはダメージを与えない”行為は、おそらく戦闘行為禁止区域の条件に引っかからないと思う」

 

 私の言葉に2人が息を呑んだ気配がした。難しい顔をしたシロエが私の目を凝視する。

 

「……どうしてそう思ったの?」

「“武器を使用せず”っていうのは、まあ戦闘といえば武器が出てくるからそこから逆算。“一定以上の苦痛またはダメージを与えない”っていうのは、ちょっとした喧嘩じゃ引っかからないことと、あとは勘」

 

 勘、と言い切った私に2人は神妙な面持ちになる。

 昔からそうだ。私が勘を頼りにものをいうとみんなこの顔をする。一体、何だっていうんだ。

 

「ただの勘だから、外れるかもしれないよ?」

「いーや、お前の勘が今まで外れたことはなかった!」

「ただの、偶然でしょ」

「ただの偶然だったら、今頃“預言者”なんて言われてないでしょ」

「シロくんまでそれを言うか」

 

 “預言者”または“予言者”。

 これは何故か定着してしまった私の二つ名だ。由来は私の勘がよく当たる、むしろ当たりすぎて怖いからだそうだ。

 

 まるで未来を“予言”しているかのように。

 まるで巫女が神から“預言”を授かったかのように。

 

 それくらい私の勘はよく当たる。それに加えてメイン職が〈神祇官(カンナギ)〉でサブ職が〈星詠み〉なもんだから、周りがますますそのことを騒ぎ立ててしまったのだ。非常に迷惑な話だ。

 一つため息をついてその話題を切り上げる。

 

「で、話を戻すけど。今、この世界に閉じ込められてる日本人はおそらく約3万。これはシロくんも計算できたと思うけど」

「うん。そして、早期解決は見込めない」

 

 シロくんの意見にはっきり頷く。

 それにしても。

 

「シロくん、少しイラついてる?」

「え?」

 

 ちょっとだけいつもの彼と違う感じがする。なんというか“空腹時のイラつき”みたいな。

 

「なんかそんな気がする。どうかした?」

「うーん、特に思い当たらないけど……」

「そう。ならいいけど」

 

 空腹時のイラつきのような気はしたが、そもそもこの世界に空腹という概念は存在するのか。少し考えてみたが私自身がまだ空腹感を覚えていないので何とも言えない。

 ということで、この疑問は後回しにすることにした。

 

「何はともあれ、まず情報を集めないことには何もできないなぁ」

「ほんとだぜ」

「早速、情報収集をしようか」

 

 シロエの提案に私と直継は素直に頷いた。

 

  *

 

 ――あれから4日。

 

 シロエたちと合流してから、私たちはアキバの街を巡って馴染みのプレイヤーなどと情報交換をした。

 

 聞き込みをしてから気付いたのはこの世界にも空腹という概念が存在することだった。

 シロエがいつもと違うと感じたあとで自分自身も多少の空腹感を感じた。だが、そこまで支障が出るようなものではなかったのでしばらく放置しておいた。しかし、シロエと直継は緊張感や恐怖が勝っていたらしくその違和感に気付いていなかったらしい。おそらく私が「お腹がすいた」と発言するまで気付かなかったかもしれない。

 私は元々少食なのでそのへんの果物1つくらい食べることができれば全然問題ないのだが、成人男性2人はそうでもないだろう。足が棒になるまで聞き込みを続けて、とうとうシロエと直継が先に空腹に負けた。そして、明け方になって食事をとるためにシロエと直継が合流したという廃ビルまで戻ってきたのだ。

 

 結論としては。

 そこでとんでもなくやりきれない体験をすることになった。シロエと直継は、だが。

 

 私はあまり量を食べる方ではない、というか周りに言わせれば食に関して感心が薄いらしいので、林檎やオレンジなどの素材アイテムを買って食せばいいという考えに至った。一方、シロエと直継はやはりしっかりとした食事がしたかったらしく食料アイテムを買ってきた。

 

「え? クロ、もしかして、それが食事?」

「うん」

 

 私がりんごを丸かじりしようとしたらシロエが驚きを全面に出した表情で聞いてきた。その横で直継も信じられないような顔をしている。

 

「……ダメかな?」

「いや、リンセがいいならいいと思うぜ」

「うん」

「ふーん」

 

 2人の、主に直継の「コイツのリアルの食生活どうなってんだ」とでもいうような視線を無視して、私は手にしていた林檎に齧り付く。うん、美味しい。ちゃんと林檎の味がする。どうやらこの世界の食べ物はしっかりと味が付いているらしい。せっかく食べるなら美味しいものがいい。これなら食には困らないなーと私は自然と笑顔になった。しかし、そんな私とは裏腹に食料アイテムを口にした2人の顔がどんどん微妙な表情になっていく。

 

「どうしたの?」

「…………」

「…………」

 

 私が声をかけても2人は微妙な顔をしたまま食料を噛み締めている。訳が分からず首を傾げると、ようやく直継が言葉を発した。

 

「なんだ、これ……」

「?」

 

 発言の意味が全く意味がわからない。もしかして美味しくないのだろうか。そう思っていると今度はシロエが口を開く。

 

「味が、しない」

「?」

 

 味がしないとはどういうことだ。今私が食べている林檎はきちんと林檎本来の味がするのに。

 

「じゃあ、それはなんなの?」

「なんつーか、まったく塩味がしない煎餅を水分でふやけさせたモノ、みたいな」

 

 想像できない、というか想像したくないな。

 直継の言葉に自分の表情が歪むのが分かる。その表情を取り繕うことを諦めて本当なのかと確認するようにシロエに視線を向ければ、直継の言葉に同意するかのように彼は頷いた。

 

「うーん、私の味覚がおかしいのかな? 林檎はちゃんと林檎の味がするよ?」

 

 次の瞬間、2人の目が光ったような気がする。あれだ、野生動物が獲物を狙うような目だ。

 しばらく私たちの間に沈黙が流れる。その沈黙に耐えかねて私は苦笑した。

 

「…………食べてみる?」

「いいのか!?」

 

 私が食べかけの林檎を差し出すと、2人の顔がほんの少し明るくなった。

 

「ど、どうぞ……」

 

 まず直継が先に林檎を受け取り一口食べる。すると分かりやすく彼の目が輝いた。次にシロエが一口。こちらも同様の反応である。

 

「あ、味がするぜ!!」

「ちゃんと林檎の味がするよっ!」

 

 どうやら私の味覚がおかしかったわけではないらしい。

 2人が感動している間にこっそりシロエが食べていたものの端っこを頂戴する。見た目は普通だがそんなに微妙なのか。恐る恐る口に含んで咀嚼する。そして途端に何とも言えない顔になった。ああ、これは確かに。

 

「味のしないふやけた煎餅だ……」

 

 食べ物の形をした無味の物体に何ともいえない気持ちになる。強烈に不味いわけでもないから余計にタチが悪い。食べれば食べるほど絶望というか空虚な気持ちになってくる。しかし、空腹は満たされるのだから一応食事として機能していることになるのだろうか。

 

 その後、成人男性2人が私の食べかけの林檎で満足するはずがなく、結局彼らは微妙な食料を強引に胃に流し込んで食事を終了させていた。そのときの2人の表情に少食でよかったと本気で思った瞬間だった。

 

「さて。これからの食事事情だけど……」

 

 悪夢のような食事を終わらせたばかりの2人に少々酷な話だろうが、これからのことを考えると真面目に話し合いをしなければならない。

 

「私は果物とかだけでも平気だけど、2人はそうもいかないでしょ?」

「それだけだと空腹は満たせないだろうからね……」

「多分このことに気付く人はこれからどんどん増えていくだろうから、在庫もどんどんなくなっていくだろうね。さっき買いに行ったときもほとんどなかったし。ざっと見積もっても明日明後日くらいには買い占められてると思う。やっぱり味のないしけた煎餅を食べるしかないね」

 

 私が軽く計算してその結論を叩き出すと、2人から反論はなかったがやはり絶望したような顔をしていた。

 

「仕方ないでしょ。それとも餓死する?」

 

 この世界に餓死という概念があるのかわからないが、そう言うと2人は無言で首を横に振った。

 

 その後、主にシロエと直継が希望を捨てられずに色々試した結果、判明したことがある。

 まず1つ。素材アイテム、つまり、オレンジや林檎、釣ったばかりの魚やノンプレイヤーキャラクターから購入した塩や砂糖はそれ本来の味や性質があるということ。

 2つ目、本来の味や性質がするそれらを使ってメニューから食品を作成しても、全部湿気た煎餅になるということ。もしかしたらメニューから作成というインスタントな調理がよくないんじゃないのかと考えた私たちは、調理法を改善する、つまり、実際に自分たちで調理してみることにした。

 しかし3つ目、実際に調理すると出来あがるのは食品とも呼べぬダークマターであること。つまり、どうあがいても味のある食事に辿り着くことは出来なかったのだ。

 結果、今後の食事は食材アイテムと私が買い占めていた素材アイテムを5対1ぐらいの割合でいくという方針になった。

 

 その後、芋蔓式に排泄があることが分かった。

 これは男性2人より私の方が絶望することになった。しかし、これも仕方がないことなので死ぬ気で屋外ですることに慣れた。トイレットペーパーの代わりにあまり固くない葉っぱなどを利用した。これには羞恥と絶望でいっぱいだった。

 唯一救いがあったとすれば自分が少食で排泄が多少少ないということだった。

 

 食事、排泄とくれば睡眠が必要なことも何となく想像できた。それに加えて眠って起きたら元の世界、なんていううまい話もなかった。さらには、今現在この〈エルダー・テイル〉の世界においても死からの復活は適用されていた。

 死なないのに空腹と排泄と睡眠を要する、というひどく矛盾した世界。その法則を解明するのも面白いかもしれないなんて思ったのは私だけの秘密である。

 

 それと戦闘について分かったこともあった。

 私は中学生時代、よく言えばお転婆、悪く言えば荒くれ者だったので非常に喧嘩慣れしていた。そのおかげか戦闘での恐怖感は他の人たちと比べたら圧倒的に少なかっただろう。しかし、他の2人、特にシロエはやはりというか相当の恐怖を感じたと言っていた。

 確かに荒事に慣れていない人間からしたら、狼や斧を振り回す緑の小鬼が襲いかかってくる光景は相当な恐怖だろう。何故自分がここまで冷静なのか自分でも不思議だが、冷静であるに越したことはないのでそれでいいかと思った。

 そして、自分より格下の敵の攻撃は自分たちにあまりダメージを与えられないことも判明した。相手がどんなに恐ろしい攻撃をしてきてもそれは小学生にパンチを受けたのとあまり変わらないくらいの衝撃しかないのだ。しかし、ダメージを受けないことと戦闘ができることは当然のことだがイコールでは結ばれない。そして思ったとおり、今の状態では特技を「使う」ことと「使い慣れる」ことは今や別物となってしまっていた。

 そもそも、今の戦闘は自分の視界を頼りにするしかない。よって安易にステータス画面が開けず、連携も作戦もくそもない状態になっているのである。私のような回復職は前線には出ないし〈付与術師(エンチャンター)〉のシロエも前に出ないから戦場を見渡せる。しかし前線に出る〈守護戦士(ガーディアン)〉である直継はステータス画面を開いて確認している暇などないのだ。

 

「こればっかりは、慣れるしかないよねぇ……」

 

 湿気た煎餅味の中華まんを食しながら独りごちる。同じく中華まんを食していた直継が深い溜息をついた。

 この状態だと絶対に同格相手じゃ通用しないだろう。わたわたしている間にあっという間に神殿送りだ。

 結局は訓練代わりに経験値も得られないような雑魚と夕方まで戦闘を繰り返すしかない。しかし喜んでいいのか、どうやら冒険者の肉体というのは強靭にできているらしく、私たちの身体は疲労とはほぼ無縁だった。

 

 そうしたことから、私たちは日中は外で過ごして夜は情報収集というスタンスで過ごしてきた。

 その間に少しではあるがご隠居とも連絡を取り合いアキバ以外の状況も把握していった。

 

 また、想像通りというかなんというか。

 マーケットからは品物はどんどん無くなり、ギルド勧誘合戦、未所属の人間によるギルド探しも始まった。集まったところで無条件の救いがあるとは思えないのだが、やっぱり多くの人はそうでもないらしい。それに加えてアキバの街の居心地も関係しているのだろう。ここ何日かで随分とプレイヤー間やギルド間で摩擦が多くなったと思う。それに戦闘行為でなければ衛兵は出てこないので地味な嫌がらせなどは全然出来るのだ。そして、その被害は小規模ギルドに多い。全くアホな連中だと大規模ギルドに対して思ってしまった。

 

 そんな日々を過ごしながらアキバの街の人気のない街路で何度目かの情報交換をしているとき、私はあることに気付いた。

 それはシロエとマリエールが話しているときのことだった。何気なくメニューを開きゾーン情報を確認していると、見慣れた情報とともに見慣れない情報があった。

 

「え……」

「ん? どうかしたんか、リンセやん?」

「いや、ちょっと面白い情報を見たというか、いや面白くないんだけど、笑うしかない情報が……」

「どういうこと?」

 

 見間違いじゃないかもう一度確認するが、結果は同じだった。

 

「クロ?」

「シロくん、直継、マリー。アキバが販売対象になってるよ。購入額金貨7億枚、月間維持費金貨120万枚で」

 

 私の指摘にシロエはすぐ自分でも確認したみたいで目を見開いている。直継とマリエールも最初こそ笑っていたが自分のメニューを確認したあと絶句していた。ケタ的には個人購入できる額ではないが、金額が設定されている以上、絶対に購入できないわけではない。誰かが購入してしまえば侵入制限は当然かけられるだろう。つまり、合法的にギルドや個人をプレイタータウンから追放することができる。

 その後にマリエールに確認してもらったところ、ほとんどのゾーンが販売対象になっているらしい。ダンジョンであれ、フィールドであれ、市街地であれ。例外は既に所有者がいるところだ。しかし、そこもゾーンの所有権を証書のアイテムに還元する選択肢が追加されているらしい。

 

 これは、大手ギルドの拡大が見過ごせなくなってきたな。

 

 これには私も面倒くさいなと思わず舌打ちをしてしまった。

 ゾーンが購入可能であるということ。それは、一つのギルド、一つの人間による独裁政治が可能な基盤が出来上がっているということを示しているからだ。


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