グ虐。
◇
私が王妃の理想になる。
滾る情熱が迸る。私は理想を体現する。
湖の騎士は高潔さと高慢さと愚かさで、
円卓を壊しましたとさ。
篝火の明かりで照らされる、ハンスから押し付けられた童話の欠片。
判読がつかない文言の中に、誰かが落書きのように書き込んだ言葉を藤丸は見つけていた。
主の妃と許されざる仲になり、白亜の城を瓦解させた彼の末路。その要約。
偽りがないとしても、孕まされた悪意は透けて見える。こんなものを書かれたものが触媒になっていたのなら、あの高潔な騎士が狂化を望む召喚になるのは仕方がないだろう。
肉体的な疲労より精神に負荷が掛かるのは特異点攻略でもよくある事だが、この特異点では殊更にひどい。
醜悪、不気味、そういう即物的なものが心を圧し潰して、眩暈を起こすような様式、様相が頭の均衡を溶かしていく。
気持ちが悪い。気味が悪い。どこを切り出しても怖気立つ。
まるで巨大な生き物の臓腑を、内側から眺めるような──
「マスター、それは
両儀式に囁かれた言葉に、幻覚が取り払われる。
次いで、耳に血液が集まっていくのが分かる。予兆なく吐息で撫でられたら誰だってそうなる。
「あら、驚かせてしまったかしら。そんなに余裕が無いと、あの子に恰好がつかないと思うけど」
そういうアプローチをしてくる時はマシュもいっぱいいっぱいだから大丈夫です。あと
異聞帯の王と相対した時のように気力を振り絞り、なんとか声が裏返らないよう用心しながら言い返した。あからさまに誘惑してくる女海賊コンビの方がまだ気構えが出来る。不意打ちで来るものだから人が悪い。
「少しは調子が戻ったようね。安心したわ。マスターは普通の人なのだから、あまり気構え過ぎていると毒になるもの」
たしかに、休めようとしていた筈が深くなっていた眉間の皺が、ようやくほぐす事が出来ていた。知らない内に力が籠っていたらしい。
「どこまで行っても瞳だらけの視界は、相手の意図を想像させる。そこに植え付けられる悪意や敵意が澱となって頭をゆっくり蝕んでいく。ここはそういう、効率的におかしくさせる場所なのよ。今回ばかりは、正面で向き合って挑む立ち位置じゃあ休まらないでしょう」
だから。
柔らかい指が藤丸の瞼に触れて、ゆっくりと降ろしていく。
「時には見ないふりをして頂戴。全てを背負う気持ちがあなたにあっても、心と体がついていかないもの」
返答に詰まる。体を大切に、なんてことは分かっているつもりだ。自分が死んでしまったら、何もかもが終わってしまう自覚はある。
百も承知の事実。それをしみじみ語るのは、いったいどういう意図なのか。
違和感を考えるより先に、両儀式はその指を退けていた。篝火の灯りが目を刺す痛みは、まるで夜明けに消えた雪を惜しむようだった。
気は安らいだ。未だ周囲はネジが外れた世界だが、少しは目を逸らせるようになった、気がする。
見て見ぬふりをするのは苦手だ。これだって本当に良い事かわからないが、努力する。
見えるべきものに目を瞑れば、現実はたちまち都合の良いハリボテになってしまう。自分はそんな泡沫に身を委ねられる贅沢を許されていない。
だから、この有り様はひどく贅沢な振る舞いだ。理外の存在を分からないままにしてしまうなんて、不安よりも困惑が強い。
ハンスはどう思うのかふと気になり、声を掛けようとしたが、思わず喉がつまる。
ハンスが声も上げずに走り出していたから。
あまりに唐突な行動に、藤丸は敵襲を想定して身構える。しかしハンスが角を曲がって姿を消し、扉が開く音が聞こえたところで嫌な予感を覚えた。
彼の行動原理。即ち、アリスの捜索。アリスとは一体何なのか、藤丸には分からない。だが、彼にとっては至上の命題である事は、短いやり取りの中でも嫌と言うほど分からされた。
その危うさ、破綻する天秤すら無い人格の
取って付けたような正気の薄皮と、垣間見せる執着そのものの精神性。
人々の噂によって貶められ、
戦士としての矜持を穢した、韋駄天たる英雄を撃滅せんと怒り狂う者。
理屈を超えているが故にどこまでもシステマチックに動いてしまう者達。
そういった思考回路を持つハンスが、もし仮にアリスの痕跡を目の端に入れでもしたら──
答えを出すより先に、両儀式がハンスの跡を追う。
「露は払っておくわ。急いで、マスター」
浮かぶ
あんな扉、さっきまであっただろうか。考えている暇はない。扉が閉まってからまた開いてくれるかどうかさえも、この世界では疑わしい。
ほとんどぶつかるように扉を押し開き、中に転がり込んだ。
ハンスの名を呼ぶが、応答はない。
体勢を立て直して周囲を見回すと、先程までいて中庭とはまるで違う場所に出ていた。
書類棚と蛍光灯。リノリウムの床は薄汚れ、所々血の跡が見受けられる。
だが、鼻を突くのは消毒液の臭い。血も汚濁も全て覆い隠すかのように、強烈で容赦のない清潔さ。ベッドを担ぐ天使ならお気に召すだろうか。いいや、彼女なら汚れがある時点で唾棄するべき場所と評価するだろう。
つまりは病院。いくらか近代的な施設に思えるが、その考察は後回しだ。
「悪霊に取り込まれないよう、気を付けてね」
いつの間にか後ろに立っていた両儀式が、どこかおかしそうにしながら言う。確かに幽霊の1つや2ダース湧いてでても不思議じゃない雰囲気だ。
ハンスも取り憑かれてなければいいが──ああ、いや。彼は妄執そのものだった。取り越し苦労だ。だとしてもこの世界の帰朝な手掛かりには変わらない。
同じ道を通ってきたなら、先に進めば会えるはず。見回して行く先を確認するが、どうにも扉はひとつしかない。すなわち、自分たちが通ってきたもの一つきり。部屋の中にハンスはいない。
「つまり、そういう事でしょうね」
事も無げに言う両儀式。来た道のはずの扉を開くと、当たり前のようにリノリウムの道は続いていた。
これくらいの異常は、慣れてはいないが理解出来る。だが、とにかく前へ、前へと押し流される感覚に寒気が走る。ハンスという呼び水に誘われ、急かされるまま追い掛けるしかない現状。
良くない。そう分かっているが、藤丸は進まざるを得なかった。
扉を抜けると、病院の廊下のようだった。
どこからか気の抜けたレコードが流れている。ついでに人か獣かも分からない絶叫も。廊下の奥から響くガラガラという音は、ストレッチャーを押す音だろうか。
どこに向かうか迷う必要はなかった。それよりも大事な事がある。
虚ろを顔にたたえたヒトガタが、針のような指を向けて近付いてきていたから。
「────」
刀が舞う。斬られたものは見えない。だが中空をなぞられた切っ先は、確かに何かを捉えていたように感じられた。
「マスター、あれの指を見ては駄目よ。きっと呑まれてしまうから」
そう言い残し、セイバーは戦場に躍り出た。
直死の魔眼にはいったい何が見えていたのか。彼女が切らなければ何を見せられていたのか。
だが、既に答えは言われている通りだ。時には見ないふりをしないと、心も体も保てない。
では、彼女はどうなのか。
万物の綻びを視る眼を持つということは、万物を見透かす眼でもある。
頭の片隅に、種のように埋め込まれた不安。
影法師を召喚しながら、藤丸はその重みを計りかねていた。