◇
扉が再び開くまでの十数秒。その短い時間でも、人を駆り立てるには十分だった。
狭い部屋を歩く長身の存在。色が欠落した姿だが、人としての要件を満たそうとする風体が不気味を誘う。
身に纏う極薄の布地が、それの女性という性質を色濃く浮き彫りにしているのが殊更に悍ましさを生む。
何より。狭い部屋に響く唄が、おそろしい。
その唄を、藤丸は識っていた。
クリプターの首魁が坐し、遠き星の海から来た主神が則を敷く世界。
神々の山嶺、星間都市山脈オリュンポスで響いた歌声。
ゼウスの娘、美と愛の女神アフロディーテ、その美を司る
星すら
かつて機神が唄い、魂に響かせ捩り尊き存在を犯させる女神の祝福。
相対する者の悔恨を抉り出す貴婦人は、精神に残る古傷を容易く切開し、その内容物をぶちまけた。
――削れた音がした。
似姿だけの人型が、ただ鼻唄と共にただ歩くだけ。
それだけで、藤丸の中で支柱となっている何かが、見逃せないほど削れた。
たとえ一度破った術法だとしても、汚染とは劇的に効果を失うものではない。
何より、これは藤丸が自ら経験したものを糧に反復させる歪みに歪んだ鏡面存在。
その効力は、侮るという事を知らない藤丸によって、オリジナルと相違無い力を得てしまう。
『美とは価値である』
『愛もまた、時に価値である』
かつて聞いた。あるいは響いた、機神の語り。傷の想起と共に、脳へ反駁を繰り返していく。
――美しさとは。
いわく魔術の上で定義されるものを示すなら、黄金律を指すという。1対1.1618が表す、完全なりし長方形。
あるいは集合的無意識から盲目の亀が如く浮き沈みを繰り返す流行。魔術基盤たる宗教すらも抗えぬ輪廻。
あるいはそう在れば良し、と言う権威を付与するための箔。
あるいはほんの瞬きの間、閃光に存在した価値への言祝ぎ。
あるいは共感をいざない、魂へ浄化を齎し震えさせる存在。
そして、対象が真実至高、何物にも代え難いと定めた価値。
美の神はそれを乱す。否、再定義を行う。
価値とは知性の寄る辺、充足、欲望を司るものと定め、愛の名の下に奥底から脳髄までを支配した。
『――眠いならまだ寝とけ。だが、起きてる理由が――』
獣面の青年が叱責する。
回帰が始まる。かつて見た人たちが待つ、ウタの響く回顧録。
『――キミ。問診をやり過ごす方法とか、本能的に――』
万能の天才が嗜める。
踏み躙られた彼女。喰い漁られた弱者。消えたあの人が待つ、虚無の
『――私たちにその歌は届かない。女神の歌は、アナタだけに――』
魔眼の乙女が諫める。
潰えていった世界。失われた遺産。消した彼らが手招く、誘引の
『決めるのはいつだってキミだよ』
その言葉は、彼と共に戦った者ならば、あるいは誰もが話すことかもしれない。
甘く、しかし終わりを秘め、しかし決して毒とはならない諦めの言葉。
折れて良いと、背を押すでも引くでもなく掌を当てるだけの労い。
だとしても、藤丸は知っている。
まだ止まれない事を。
だからこそ、藤丸は知っている。
まだ止まらずにいられる理由を。
自身の旅路の中で、まだ『答え』を得ていない。だから、止まれない。
止まることは許されない。
貴婦人のその手が藤丸へと届く直前。彼は殆ど倒れ伏すようにベッドの下へと潜り込み、シーツの裾を噛み千切りながら耳栓を拵えていた。
結果論のみでいうと、
色を喪った貴婦人は藤丸を追わない。ベッドの下などという狭苦しい空間に入ることを拒否したか、そもそも誰かを追う様に出来ていないのか。あるいは、藤丸を追って次の標的がすぐ来ることが分かっていたのかもしれない。
逃げることしか頭に無かった藤丸には、どういう理屈でも関係ない。少しでも離れるために、ベッドの下を這い這いで進んでいた。隠れるのではなく、逃げる為に。
くぐっていったベッドの数がどれだけ多くとも──それが、狭かったはずの部屋の目算より大きく逸脱した多さでも──疑うことは出来ない。むしろ続いていく事を幸運に思っていたのかもしれない。
逃げている今、捕まっていない。長ければ長いほど逃げ続ける事が出来る。
安全を確保する、合流するという考えはそこになく、ただ逃げ続ける事こそが安全という考えにばかり固執していた。
だからこそ、折角の終端に到着したその瞬間には達成感などなく、虚脱と喪失だけが満ちてしまう。熱に浮かされた時が急速に過ぎ去り、ただ現実とそれに取り残された意識だけが目の前にある。
立ち上がった視界には、ベッド。ベッド。ベッド。ベッドが無数に置かれた、いや、敷き詰められた病室。ベッドの上には当然のように、虚ろを顔に開けた。『患者』たちが横たわる。
身の丈の数倍はある高い天井に、奥行きのある部屋はどこか体育館を思わせた。頭上からは無数のチューブがぶら下がり、『患者』へと無造作に突き刺さっていた。おそらくは点滴のつもりなのだろうが、人体にあるだろう管を無視した繋ぎ方は操り人形を想起させた。
どこだ、ここ。疑問が頭を殴る。
ここに来てからずっとそうだろう。経験が慰める。
そして、冷静でいられなかった自分に、どうしようもなく腹が立つ。
機能不全の礼装。協力者との途絶。敵地のど真ん中。戦いを経て肝が据わらざるを得なかった理性は現状を纏め、忌々しくも思考に突き付けた。
臓腑が捻じ曲げていくような吐き気が込み上げる。垂直落下していた時とは違う。己が選んだ結果という事実が、ひどく胸に圧し掛かっていた。
真っ先に選ぼうとした選択は、令呪の行使。絶対命令権である令呪の後押しがあれば、サーヴァントは空間跳躍という魔法めいた奇跡をも可能とする。強制力が低いカルデアの令呪であっても、純粋なサーヴァントであるセイバーならおそらく出来る。
──だが。自分は既に一画を使っている。特異点脱出から何の方針も見出せていない今、二画目の使用は正しいのか?
躊躇はほんの2秒ほど。その思考で生まれた空白が命取りになるには十分な隙だった事を、腰に走る澱みが思い知らせてきた。
鋭く、小さく、そして生暖かい。肉に響いた痛みの後に感じたのはその三つ。
そして、それ以外は何もない。ボルトを失ったかのように崩れた足も、その動きで強か打ったはずの膝の痛みも、感じる事は出来なかった。
僅かに振り返るに見上げる。空と思っていた背後のベッド。その布団の隙間から、萎えた手足で注射器を弄ぶ『患者』の姿があった。
痛みはない。痛みがない。先ほど腰の皮膚を貫いただろう駐車針の痛みすら消えてしまった。背中から下がぬるま湯になってしまったかのような不透明で安らぎ。
毒ではない。そうだ、『看護師』が持っていたものはなんだった? 薬品、自分もポーチに入れている活性アンプルと同じような薬剤。鎮静剤だ。人体を生かす事にも使える薬。自分だってお世話になったことがある。
腰に打たれたものも、おそらくそういう薬物には違いない。鎮静作用のある麻酔薬の類。『患者』がどういう意図で打ち込んできたのか。殺すつもりだったのかもしれないが、これで死ぬ事もないのだろう。あるいは死ぬほど注入されれば、対毒の力が無害化してくれるはずだ。
自身にある未だに由来の知れない対毒能力。まだそれは生きている。しかし、もしこれがあらゆる害を跳ね除けてしまうものなら、体に害を与えかねない活性アンプルも無害化してしまう。
だが、ごく普通のもの。単なる麻酔であれば。死ぬまではならない。だからその効果は得られる。得てしまう。
倒れている。起き上がれない。体のどこにもに力が入らない。
倒れている。寒気も感じない。肉と骨が床を鳴らした。どうやら『患者』が床に落ちたらしい。周囲から次々と同じような音が聞こえる。目の前にも吊るされた管を引きちぎりながら落ちてきた。得体の知れない液が床を濡らしていく。
まるで受け身もとらないものだから、強か頭を打ち付けているのが分かる。その様は投身自殺や粗大ゴミのようだが、どんなに派手な音が響いて来てもたっぷり5秒も掛ければ動き出すのだから始末が悪い。いっそゴミのように朽ちてくれればいいものを。
虚ろの顔を震わせながら、『患者』の手が藤丸へ伸びる。緩慢な動きが逆に恐怖を煽る。蓋をしていたはずの感情が、ここぞとばかりに顔をチラつかせる。
喉の奥が自然と蠢くが、声も胃液も出てこない。躊躇した令呪の行使も幾度となく繰り返すが、魔力回路どころか親指すら動く気配がない。欠落した四肢を動かそうとするとしたらこうなるんだろうなという感想が自然と浮かんだ。
もしかすると、今この時に痛みが無いまま指先から飲まれているのではないか。患者の顔に開いた穴へと飲み込まれていく自分の手を想像してしまうと、目を背けることも瞑ることも出来ない。
しかし、そんな心配は杞憂に終わった。『患者』の穴が藤丸の鼻先に近付く頃には、その大穴の下に三日月よりも細い口がある事に気付くことが出来た。噛み砕かれていくことが救いになるわけではないが、それでも得体の知れない穴よりは理屈が通っているようで藤丸は安心していた。
死を前にして安堵している事のおかしさに気付く事無く、薄れる感覚に身を任せるようにまぶたが落とされる。
ああでも、自分が咀嚼される音は聞きたくないなぁ。
そんな思いから咄嗟に耳を塞ぎ──自分が耳を触れられていること、体が動くことに気付いた瞬間、押さえつけられていたバネのように体を跳ねさせていた。
体が効く。群がってきていた患者もいない。何故? 疑問の答えは、目を開いたすぐ先にあった。
まず見えたのは、人の腕ほどの太さがある木の棒。細めの丸太とも形容できそうだ。つい今しがた、活きのいいものを殴りつけたのだろう。赤黒い血に紛れて骨片が突き刺さっている。
次に、その棒に劣らず太く精強な脚で『患者』を踏み潰す青毛の馬。床に尻もちをついている状態で見上げていくと、つぶらな瞳と自然と目が合った。口元を何かもぐもぐと動かしている馬の顔はどこか落ち着く。
そして、その馬に跨る騎士。盾を持たず粗野な長棒を手にしていても、騎馬する兵に違いはない。
純白の具足。黒い馬。それだけ言うと、西洋の騎士として何らおかしくはない。
だが、その体格は
騎士は巨体だった。あまりにも大きく立派すぎる体躯のせいで、手足と兜以外は甲冑に納まらなかったようだった。籠手と脚甲以外は、そこらの街を歩く一般人に変わらないような姿になっている。
一般人はワイシャツのボタンを半分まで開けたような着こなしはしないだろうし、そこからわがままな大胸筋を露出させることもないだろうが。
珍妙な、しかし堂々たる男の姿を見た藤丸は、豪放磊落の征服王を思い出していた。2メートルに届きかねない体躯を誇るブケファラスに跨がる巨漢の姿と目の前の騎士は、もし隣で比べても遜色ないだろう。
「戦場ゆえ馬上から失礼する。カルデアのマスター殿で相違ないか?」
騎士の声が響く。白銀の兜の奥から聞こえた声は黒曜石のように鈍く鋭い。
カルデアのマスター。そう呼ぶ者は味方のこともあれば敵であることもある。
しかしどちらであっても、多くの者がサーヴァントであることがほとんどだ。
「我はこの先にて貴殿を待つ者より依頼を受けて参上した、『白のライダー』である」
この先。待つ者。依頼。心臓が跳ね上がる言葉が立て続く。
やみくもに進んでいた自分には願ってもないものだ。少なくともここには話の通じるものがいる。それだけでも十分な希望だ。
感覚の戻った手足に力を籠め、立ち上がる。少しふらついたが、薬による影響はほとんどない。白のライダーの力だろうか?
「大事ないようだな。ではこちらに」
来い、と。礼を言おうとする間もなく、大きな手が首筋へと伸びていた。
尋常でない膂力は人一人をつまみ上げるなどたやすく、されるがままに馬上へ乗せられる。あまりにもぞんざいな扱いのせいで、馬の鬣に埋もれるように突っ伏してしまう。
「良し。では征くぞ」
何も良くない。が、今度は身構える事が出来た。この雑さならどうせ急発進する事は目に見えていたので。
すぐに鬣を掴む──のは馬に良くない気がしたので、なんとか苦しくしないようにしがみつく。
次の瞬間、また摘み上げられたのかと勘違いするほどの浮遊感が藤丸を襲った。
続いて衝撃と破壊音。ああ、非常にライダーらしい。視界の端に瓦礫と化したベッドと『患者』が飛び散る。
さてはこのライダー、この勢いで破壊して回るつもりか? ここにはベッドの下から来たのに、手がかりをみすみす壊してしまうかもしれない。
チラリと後ろを見たのが非難がましく感じられたのか、丸太を振り回して群がる『患者』を吹き飛ばしつつ、ライダーが声を張り上げる。
「ベッドやクローゼットが通り道になるのは寝物語だけと心得よ! さすれば、こんな仕置部屋に通されることも無かろうさ!」
豪快な言葉とともに、ライダーは壁へと突進する。そのスピードは曲がることを考慮していないのが分かるほど加速していく。
「この世はツギハギ、まともではない! 信じられるものは扉のみ! 扉こそが世を隔てるものと知れぇぇええい!!」
迫る壁に堪らず目を瞑る。扉のみと言っておきながらこのままぶち破るつもりなのかこの脳味噌筋肉めライダーじゃなくてバーサーカーだろ圧政よりひでぇや──
口からは叫びを、頭では必死に罵る言葉を探しながら衝突の時に耐えた藤丸だが、いくら待ってもその時は来なかった。
「──騒々しいな」
激しく骨に響く四足の駆けにまぎれ、扉の開閉音が聞こえた気がした。
だがそれより聞き馴染みのある声の方が、藤丸の目を開かせるのに効果的だった。
森の中の家。眼の前に広がる光景は、一言で表すとそういうものだった。
香る草木、陽の光の暖かさ、風、鳥のさえずり。どこを取っても先程までいた病院紛いとはまるで違う。
もしや外に出たのか。それにしては何か、空気が、あるいは世界観が違う。
「白のライダーよ、貴方は配送業者に向かないらしい。来るたびにその巨体で馬を掛けられては、地響きだけで家が傾きかねん」
「応よ。我は騎士だもの、荷車引きにはなれんよ。多少は見逃せ」
「見逃すも何も、ここは借り物の家だ。魔女と貴方を取り成すつもりもない。割れたカップの許しは直接乞うといい」
神経質な男の声。そう、この声には覚えがある。馬から身を乗り出して声の主を探すと、すぐそばに歩いてきていた。
「マスター、五体満足でなにより。状況把握は出来ているか?」
長身長髪、苦労を顔に彫刻し、葉巻で燻したようなスーツの男。
時計塔の若き
Fate二次名物オリ鯖