思っても実行してはいけないことはある。しかしそれを事も無げにどうだろうかと、そう口にしたのは、私――アグネスタキオンの担当トレーナーだった。
「何がどうだろう、だ」
薬物実験の結果をデータとして纏めていた手を止め、睥睨しつつ椅子を回して体を向ける。
至極当然のように、
「トレーナーくん、いいかい? よくお聞きよ。目的のために手段を選ばないという言葉にもね、限度というものがあるんだ」
言うまでもない程に当たり前の言葉。このアグネスタキオンが、自他ともに認める学園の問題児たるこの私が、これほどまでに陳腐な文言を吐く日が来ようとは。眉根を
社会通念、一般常識、道徳倫理。社会というコミュニティに生きる我々が最低限理解し、修めておかねばならない必然の精神性。手段を選ばないという言葉は現実空想の内外で
「それをなんだい? 君はなんと言ったんだ? もう一度言ってごらんよ」
「だからさ、薬のデータがほしければ人を買うのが一番じゃないかって話。レースの賞金も出ただろう? 国内じゃ厳しいかもしれないけど、後進国でならいくらでもやりようはあるし、貴重な成長期前の薬物投与のデータも――」
「君は倫理観を母親のお腹に置いてきたのかい!?」
トレーナー君は、間違いなく優秀な人間だった。その
それらに不満はない。私にはもったいないとさえ思えるほどの理想的なトレーナーで、決して口にすることはないが、皐月賞を超えて私をここまで導いてくれたトレーナー君には深い深い感謝と
――だからこそ、気づくのが遅れてしまった。トレーナー君の狂気が、私の想定を遥かに超えていたことに。
それは誓って私の投薬のせいではない。精神に大きな影響を与える薬など飲ませたことはない。むしろそうであったなら治療のしようもあったのだから、そうであってくれたほうが良かった。だが、残念ながらトレーナー君はそうではなかった。
「何度も繰り返し言っているが、トレーナー君はもう少し道徳を学びたまえよ。ほら、初等学校の時代に授業があったろう? 全時間を睡眠に費やしていたのかい? それともその年頃は紛争地域で引き金を引いてでもいたのかな?」
「タキオンが道徳倫理を語るとはね」
「君よりはあるからねえ!」
からからと笑うトレーナー君に怒声で返す。
「君がこの間起こした騒動のきっかけを言ってごらんよ!」
「君が試薬を服用した際のデータが欲しいと言ったから?」
「そうだけど! そうだけどそうじゃなく! それを聞いて君は何をしたかを聞いているんだよ!」
「トレセン学園の浄水施設に忍び込んで――」
「狂ってるのか君は!?」
皆まで言わせないと食い気味にぶつけられた私の罵声にも、以前に狂っていると言ったのは君だぞ、と小気味の良いジョークのように笑うトレーナー君。
はははじゃないんだよ。ニュアンスが違うんだよかつてのその言葉とは。
「あれは完全にテロ行為だよ! バレてたら我々は塀の中だぞ!?」
思い出すだけでも冷たい汗が背筋にへばりつく。幸いにもバレることもなく、なんらかのお
そんな焦燥に息を荒げる私にトレーナー君は柔らかい声音で、大丈夫だと言ってのけた。
「あの一件については問題ないよ。今も学園は存在しないダミー団体を追い続けてるからね」
優秀だというのにも限度というものがある。前職は絶対非合法な組織で、それも幹部級だったのではないだろうか。現実逃避とも取れる冗談のような思考だが、決して口には出さない。もし肯定されても困る。
「それにね、タキオン。仮にバレても君に咎が行くことは絶対にない」
だから安心して。声色を変え、語気をかすかに強めたトレーナー君の言葉を耳にして、私は心が不意に落ち着いたのを感じる。決して安堵ではない。性質としては真反対に近いモノ。
「実行犯も立案も君だが、きっかけは私だろう。責任がないはずはない」
「いいやそれでもだよ。君が最大限に実験のデータが得られるよう、果てに到れるように、道を塞ぎうる一切の障害はこの身が払いのける」
その目は、正しく私が最初に感じた狂気の光。私の走りに、可能性に狂った光。
私はトレーナー君のその目が好きで、そして今はどうしようもなく嫌いだった。
私は私をどん詰まりの闇の中から引き上げてくれたトレーナー君が大好きで、私のあり方さえ崩すほどに振り回してくるはた迷惑なトレーナーくんが大嫌いだ。
でも、それは。
「君のためなら、なんだって利用し使い捨てるよ、タキオン」
自分さえも、と言外に含ませた言葉。
私だ。
私なんだ。この光を持たせてしまったのは。
ただ優秀なだけだった一人のトレーナーをこうまで歪めてしまったのは、他でもないアグネスタキオンなのだ。
君に私の分岐点を知らせてしまった、
「君を野放しにしたら何をしでかすかわかったものじゃない。悪いが君は生涯私のモルモットだよ、トレーナー君」
せいぜい私のために狂いたまえ。私は君のために狂気を抑えつけよう。君が私を見捨てなかったように、私はもう君を見捨てない。
望むところ、と喜色を滲ませたトレーナー君の耳馴染んだ声は心地よくて。
「ふぅン、変わらないものもあったねえ」
「ん? 何の話?」
「いいや」
だから案外、このままの君に振り回されるこの関係でも、なんだかんだで上手くやっていけるんじゃないかと――
「そういえばタキオン、来週はトレセン学園の食堂にヘルプで入っているんだ。試したい薬はあるかい?」
「やめてくれたまえよ! 本当にやめてくれたまえよ! スカーレット君も利用しているんだよあそこは!」
――思わない。絶対に抑え込んで、真人間に戻してやらねばならないといけない。
「新薬はこれ?」
「触るな! 本当に怒るぞ! カフェはともかくスカーレット君に被害を出したら本当に怒るからな!」
ウマ娘の