アグネスタキオンと狂気が強すぎるトレーナー   作:巳月ゆーり

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タキオン、新しいモルモット欲しくない?

 思っても実行してはいけないことはある。しかしそれを事も無げにどうだろうかと、そう口にしたのは、私――アグネスタキオンの担当トレーナーだった。

 

「何がどうだろう、だ」

 

 薬物実験の結果をデータとして纏めていた手を止め、睥睨しつつ椅子を回して体を向ける。

 至極当然のように、凡常(ぼんじょう)極まると言わんばかりの声色で発されたトレーナーの言葉に、私は首を振って答える。

 

「トレーナーくん、いいかい? よくお聞きよ。目的のために手段を選ばないという言葉にもね、限度というものがあるんだ」

 

 言うまでもない程に当たり前の言葉。このアグネスタキオンが、自他ともに認める学園の問題児たるこの私が、これほどまでに陳腐な文言を吐く日が来ようとは。眉根を(ひそ)める私の、私らしからぬことといったらない。

 社会通念、一般常識、道徳倫理。社会というコミュニティに生きる我々が最低限理解し、修めておかねばならない必然の精神性。手段を選ばないという言葉は現実空想の内外で普遍的(ふへんてき)に使われる語句ではあるが、現実として本当にあらゆる手段を肯定するために使われることは、まず無いと言っていい。

 

「それをなんだい? 君はなんと言ったんだ? もう一度言ってごらんよ」

 

「だからさ、薬のデータがほしければ人を買うのが一番じゃないかって話。レースの賞金も出ただろう? 国内じゃ厳しいかもしれないけど、後進国でならいくらでもやりようはあるし、貴重な成長期前の薬物投与のデータも――」

 

「君は倫理観を母親のお腹に置いてきたのかい!?」

 

 トレーナー君は、間違いなく優秀な人間だった。その(ほが)らかで隙の多い雰囲気と裏腹に、だ。トレーナーとして必要なカリキュラム作成能力、機能解剖学、栄養学、果てにはスポーツ医学まで一定以上の造詣(ぞうし)があった。その上で、私の夢に、脚に、全霊を以って尽くしてくれると誓ってくれた。効能もわからぬ試験薬を躊躇(ためら)わずあおってくれる程の狂気を、私に捧げてくれた。

 それらに不満はない。私にはもったいないとさえ思えるほどの理想的なトレーナーで、決して口にすることはないが、皐月賞を超えて私をここまで導いてくれたトレーナー君には深い深い感謝と思慕(しぼ)の念を抱いている。

 ――だからこそ、気づくのが遅れてしまった。トレーナー君の狂気が、私の想定を遥かに超えていたことに。

 それは誓って私の投薬のせいではない。精神に大きな影響を与える薬など飲ませたことはない。むしろそうであったなら治療のしようもあったのだから、そうであってくれたほうが良かった。だが、残念ながらトレーナー君はそうではなかった。

 

「何度も繰り返し言っているが、トレーナー君はもう少し道徳を学びたまえよ。ほら、初等学校の時代に授業があったろう? 全時間を睡眠に費やしていたのかい? それともその年頃は紛争地域で引き金を引いてでもいたのかな?」

 

「タキオンが道徳倫理を語るとはね」

 

「君よりはあるからねえ!」

 

 からからと笑うトレーナー君に怒声で返す。

 

「君がこの間起こした騒動のきっかけを言ってごらんよ!」

 

「君が試薬を服用した際のデータが欲しいと言ったから?」

 

「そうだけど! そうだけどそうじゃなく! それを聞いて君は何をしたかを聞いているんだよ!」

 

「トレセン学園の浄水施設に忍び込んで――」

 

「狂ってるのか君は!?」

 

 皆まで言わせないと食い気味にぶつけられた私の罵声にも、以前に狂っていると言ったのは君だぞ、と小気味の良いジョークのように笑うトレーナー君。

 はははじゃないんだよ。ニュアンスが違うんだよかつてのその言葉とは。

 

「あれは完全にテロ行為だよ! バレてたら我々は塀の中だぞ!?」

 

 思い出すだけでも冷たい汗が背筋にへばりつく。幸いにもバレることもなく、なんらかのお(とが)めが我々に飛ぶことはなかったが、一歩間違えれば大変な事になっていただろう。

 そんな焦燥に息を荒げる私にトレーナー君は柔らかい声音で、大丈夫だと言ってのけた。

 

「あの一件については問題ないよ。今も学園は存在しないダミー団体を追い続けてるからね」

 

 優秀だというのにも限度というものがある。前職は絶対非合法な組織で、それも幹部級だったのではないだろうか。現実逃避とも取れる冗談のような思考だが、決して口には出さない。もし肯定されても困る。

 

「それにね、タキオン。仮にバレても君に咎が行くことは絶対にない」

 

 だから安心して。声色を変え、語気をかすかに強めたトレーナー君の言葉を耳にして、私は心が不意に落ち着いたのを感じる。決して安堵ではない。性質としては真反対に近いモノ。

 

「実行犯も立案も君だが、きっかけは私だろう。責任がないはずはない」

 

「いいやそれでもだよ。君が最大限に実験のデータが得られるよう、果てに到れるように、道を塞ぎうる一切の障害はこの身が払いのける」

 

 その目は、正しく私が最初に感じた狂気の光。私の走りに、可能性に狂った光。

 私はトレーナー君のその目が好きで、そして今はどうしようもなく嫌いだった。

 私は私をどん詰まりの闇の中から引き上げてくれたトレーナー君が大好きで、私のあり方さえ崩すほどに振り回してくるはた迷惑なトレーナーくんが大嫌いだ。

 でも、それは。

 

「君のためなら、なんだって利用し使い捨てるよ、タキオン」

 

 自分さえも、と言外に含ませた言葉。

 私だ。

 私なんだ。この光を持たせてしまったのは。

 ただ優秀なだけだった一人のトレーナーをこうまで歪めてしまったのは、他でもないアグネスタキオンなのだ。

 君に私の分岐点を知らせてしまった、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから。

 

「君を野放しにしたら何をしでかすかわかったものじゃない。悪いが君は生涯私のモルモットだよ、トレーナー君」

 

 せいぜい私のために狂いたまえ。私は君のために狂気を抑えつけよう。君が私を見捨てなかったように、私はもう君を見捨てない。

 憮然(ぶぜん)とした顔を作り、トレーナー君の手を取る。

 望むところ、と喜色を滲ませたトレーナー君の耳馴染んだ声は心地よくて。

 

「ふぅン、変わらないものもあったねえ」

 

「ん? 何の話?」

 

「いいや」

 

 だから案外、このままの君に振り回されるこの関係でも、なんだかんだで上手くやっていけるんじゃないかと――

 

「そういえばタキオン、来週はトレセン学園の食堂にヘルプで入っているんだ。試したい薬はあるかい?」

 

「やめてくれたまえよ! 本当にやめてくれたまえよ! スカーレット君も利用しているんだよあそこは!」

 

 ――思わない。絶対に抑え込んで、真人間に戻してやらねばならないといけない。

 

「新薬はこれ?」

 

「触るな! 本当に怒るぞ! カフェはともかくスカーレット君に被害を出したら本当に怒るからな!」

 

 ウマ娘の膂力(りょりょく)で抑え込まれても全く意に介さず薬品棚を漁るトレーナー君にしがみつきながら、私は幾度目かもわからない怒声を張り上げるのだった。

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