トレーナーが亡くなり遺されるウマ娘の短編集   作:ツレの人

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サイレンススズカ

「トレーナーさんは……トレーナーさんだけで、静かできれいな場所へ行ってしまったんですね」

 

 

 葬式の場になって、ようやく「本当に自分のトレーナーはもういないのだ」という実感が心中に湧いてきて、思わず口にした言葉だった。

 

 

 車道に飛び出し、車に轢かれそうになったウマ娘の子供を助けての死だった。毎日王冠の後の件などから薄々思っていたが、彼はウマ娘のこととなると向こう見ずなところがあると思う。

 

 あった、のだ。もう彼はこの世にいないのだから。

 

 

「2人でならこの先の限界も越えていけるんじゃないか、って話をしたのに……。私がもう限界、ってなった時、誰が支えてくれるんですか?」

 

 

 静かで風の音と心臓の鼓動だけが聞こえる、自分1人だけの世界が何より大切な景色だった。しかし、それが少し変わった。変えたのはトレーナーだった。レースでも、開けた視界の先にトレーナーがいる。その姿が最後の力を出させてくれていたというのに、彼はサイレンススズカの世界を変えた責任を最後まで果たさずに逝ってしまった。

 

 

「一体誰が、私の理想を否定せず、私に先頭の景色を見せてくれるんですか」

 

 

 涙が出ないのはもう泣き尽くしたからだろう、とサイレンススズカは思っている。大切な人が亡くなったら自分はどうするのだろう、なんて考えたこともなかった。しかし、ひとしきり泣いたあとは落ち着き、自分の一部が無くなったかのような喪失感を覚える、そんな1人の人間、いやウマ娘として普通の反応をするのに実は少し驚いた。走ること以外への感情が希薄だと思っていたためだ。

 

 周りからはトレーナーさんが死んだことに対しての感情が希薄だと思われているかもしれないかもしれない、とサイレンススズカは考えている。サイレンススズカはトレーナーが亡くなった直後、走っては泣いて、泣いては走ってを繰り返していた。泣いている様子を同室のスペシャルウィーク以外に見せることはなかったから、周りからは変化が見受けられなかったのではないだろうかと。

 

 もっとも実際、サイレンススズカを慕うウマ娘は、誰もがサイレンススズカの受けたショックに気がついていたが。

 

 

「覚えてますか。秋の天皇賞のあと」

 

 

 サイレンススズカは、秋の天皇賞の第三コーナーにおいて一瞬脚が動かなくなった。身体的な理由もあるが、それよりも精神的な要因が大きかった。次の一歩を踏み出したら自分は終わってしまうかもしれない、走れなくなってしまうかもしれない。見たい景色はすぐそこにあるのに。

 

 そんな中私の名前を呼ぶトレーナーの声が聞こえた。その声で急に出走前にした約束を思い出した。トレーナーがゴールで待っている。その約束を思い出したら、トレーナーのもとに帰るため、次の一歩が踏み出せていた。

 

 

「もう終わったことだから、とあのときは言いませんでしたが、第三コーナーで脚が動かなくなった時、実は私あの時そんなの関係ない。死んでもいいから走ってしまおう、って一瞬思ったんです。でもスペちゃんともトレーナーさんとも約束していたから、私は帰るための一歩を踏み出すことが出来ました」

 

 

 しかし死んでもいいから走ってしまおうと一瞬思ったサイレンススズカの頭に、一瞬「死の先の景色は自分が求めた静かできれいな景色なのではないか」という考えがよぎったのは事実だった。

 

 

「トレーナーさんが亡くなって、その時の感覚を思い出して、思ったんです。その時帰ってくるための一歩じゃなくて、走ってしまおうって一歩踏み出していたら、約束は守れなかったけど、こんな気持ちになることはなかったのにな、って」

 

 

 とどのつまり、自分が先に死んでいればトレーナーを看取る必要はなかったのに、ということである。健全とは言い難いが、身近な人間を亡くし苦しむ者なら、考えたくなることではあった。

 

 

「でも今はやっぱり帰ってこれて良かった、って思います。スペちゃんも、エアグルーヴも、タイキも、フクキタルも、エルさんも、グラスさんも、ファル子さんも、ブルボンさんもいますから」

 

 

 しかしサイレンススズカはそれを乗り越えた。乗り越えられたのはライバルたるウマ娘たちがいたからであった。レースでは散々後方に置き去りにしてきた彼ら――トレーナーを喪ったサイレンススズカを気遣ってくれた友達思いな仲間、を『置いていかなくて良かった』とはじめて思った。

 

 

「だから1人で先にいってしまったいじわるなトレーナーさんは見ていてください。トレーナーさんだって知ってますよね。私、最後には先頭の景色は譲らないんですから。トレーナーさんが今じゃないって言うでしょうから今だけです。今だけは譲りますけど最後には追い抜きます」

 

 

 静かできれいな場所に、先にトレーナーが1人でいってしまったと考えると実に業腹だが、自分だって差す走りに経験がないわけではない。トレーナーならきっと今は仕掛け時じゃないというだろうから脚を使わないだけなのだ。自分はトレーナーさんが抑えろと言うだろうから追いつかないだけで、私が大逃げをしたらトレーナーさんなんて置き去りですよ、そこのところを覚えておいてくださいねという思いでサイレンススズカは空を見た。

 

 ……いや、違う。自分はトレーナーにそんなことが言いたいのではないのだ。抑える走りで伸びなかった自分に大逃げを提案し、いつだって自分の望む景色を見せてくれたトレーナーに言いたいこと。

 

 考えてみればひとつ。簡単なことであった。サイレンススズカは改めて空を見た。

 

 

「私は。トレーナーさんが見せてくれた景色……きっと、これからも忘れることはありません。今まで本当にありがとうございました。これからも私のこと、ゴールで待っていてくださいね」

 

 

 トレーナーはゴールで待っている。ならばサイレンススズカは、これからも、いつだって、大けやきの向こうから、帰ってくるための一歩を踏み出すことが出来るのだ。

 

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