「お・ま・た、トレーナーちゃん。今日の調子はどう?」
マルゼンスキーは自分のトレーナーが入院している病室の扉を若干無遠慮に開けた。
「おかえりマルゼンスキー。今日は結構調子いいよ。久々にトレーニングメニューも作れたんだ」
そんな無遠慮な開閉を気にすることもなく、トレーナーはマルゼンスキーを病室に迎え入れた。
「あら、ありがとう! ――トレーナーちゃん、調子がいいならちょっと歩かない?病院内の
「うん、お茶くらいなら飲めるし、行こうかな?」
マルゼンスキーのトレーナーは不治の病に罹っている。正しくは罹っていた病が増悪し、急激に体調を崩した。余命は半年、と宣告されてから4ヶ月経ったため、宣告どおりならあと2ヶ月ほどの余命になるだろうか。
「マルゼンスキーはいつも通りレモンスカッシュ?」
「モチのロン! やっぱサテンっていったらレスカでしょ?」
「好きだねぇ」
マルゼンスキーが念のためトレーナーに手を貸しながら、二人はエレベーターに向かって廊下を歩いていく。足元が覚束ないわけではないものの、転んで大事に至ることは避けなければならないためだ。
「トレーナーちゃん、日用品とかは平気?」
「うん、そこらへんはこの前買ってきてもらったのでまだ足りそう。必要そうなら連絡するし」
そんな会話をしつつ、エレベーターに乗って1階へ向かう。途中で人が乗ってきたため、トレーナーがエレベーター側面についている開ボタンと閉ボタンを操作する。それをマルゼンスキーは少し心配そうな目で眺めるが、別になにか問題が起きたりすることはなかった。
エレベーターが1階に到着し、トレーナーとマルゼンスキーは喫茶店に入った。
「あ、マルゼンスキーさんとトレーナーさん、こんにちは」
すっかり顔馴染みになったバイトの女の子がマルゼンスキーとトレーナーに挨拶をしてきた。トレーナーはこんにちは、と微笑む。
「コニャニャチハ、バイトちゃん!」
「こにゃ……」
一方マルゼンスキーはだいぶ独特の挨拶で返した。顔馴染みとはなったものの、マルゼンスキーの挨拶にはまだ違和感を抱くようだ。
「最近シフト多いらしいじゃない、無理はしてない?」
マルゼンスキーはカウンターに上半身を預けながら雑談を始めようとする。店員さんにそれをするのはダル絡みの類だとトレーナーは思ったが。
「全然大丈夫ですよ、このくらい普通です。マルゼンスキーさんはいつも通りですか?」
バイトの彼女のスルースキルが高いことを知っているためトレーナーもスルーだ。
「えぇ、レスカお願いね! トレーナーちゃんは?」
「私はアイスティーを貰おうかな」
「かしこまりました~!」
今はもうレスカが何のことかも理解できるバイトの女の子から、レモンスカッシュとストレートのアイスティーを受け取ると、二人は席につく。
「で。これが今日作ったトレーニングメニュー」
「なるへそ~。……うーん、個人的にはもう少し走っても良いと思うんだけど」
「前回が結構坂路とか走るのが多かったからね。私が見て上げられないのもあるからあんまり足は使いすぎたくないの。だから今回はプールとか多め」
「まぁトレーナーちゃんがそういうなら……」
「いや、でもマルゼンスキーが走りたいならそういう方向でもトレーニング考えてみようかな?」
「いいのトレーナーちゃん? ありがと~!」
全部が全部、穏やかで大切な日常だった。
マルゼンスキーは心の中で、どうしても未だに思ってしまう。なぜ、この日常がいつまでも続くことが許されないのだろうか。
いつまでも続けばいいと思う日常もいつかは終わるというのは、言葉にしてみればそれは当然のことだと誰にでも分かる。しかしそれが言語化されるというのは、裏を返せばいつまでも続いてほしいという願いが存在するからだ。トレーナーの余命が宣告されてから、マルゼンスキーはそのことを強く意識するようになった。
4か月前と違ってある程度の理解はしている。人は誰であろうと死ぬ。それがいつであろうと、理由がなんであろうと。死ぬのが自分のトレーナーで、死ぬのが2か月後程度で、不治の病が原因で死ぬのだとしても。
4か月前はまったくもって納得出来なかった。どうして自分のトレーナーが。何も悪いことをしたわけでもない、自分のトレーナーがなぜ。
トレーナーがそれを聞いて「あっちゃー、そっか」というような顔をしているのも納得出来なかった。ずっと共にあった病気だからいつかこうなることが分かっていたせいだ、と説明されても。
しかし、2か月程度でマルゼンスキーはトレーナーの日々のサポートに注力出来る程度に余裕を取り戻した。そのおかげで今こうしてトレーナーが転ばないように手をとって歩くことが出来て、一緒に喫茶店でお茶を出来るわけで。マルゼンスキーは自分のトレーナーに出来る限りみっともないところを見せたくないという先輩肌とでも言うべきものに感謝した。
「じゃあ今日はもう帰るわね。困ったことがあったらなんでも言うのよ~?」
「分かってるよ。じゃあね、マルゼンスキー」
そうしてマルゼンスキーが帰ると、一気に病室が静かになった。病室は個室で、同居人もいないためだ。
トレーナーは静寂から生まれる孤独感に呑まれないように、よし、と声を上げ、自ら頬を叩くとマルゼンスキーとの約束通りトレーニングメニューを組み始めた。
マルゼンスキーは愛車のタッちゃんに乗りながら考えていた。残り少ないトレーナーとの時間をどう過ごすべきなのだろうか、と。
自分はトレーナーの調子が良い時に喫茶店まで一緒に歩き、その日のことを共に話したり、トレーナーの前でレスカをすするだけでも十分だが、トレーナーはどう思っているのだろう。病院内だけでは退屈ではないだろうが。
考えはまとまらなかった。夜景は流れていく。
◇◇◇
そんな一幕があってから数日ののち、トレーナーの様態が悪化した。
「近く、峠かと……」
医者が無情な言葉を告げた。
「そんな……」
余命とはあくまで医者の宣告であり、数か月後に必ず亡くなるというものでもなければ、数か月は生存が保障されるというものでもない。余命を上回り生きる人もいれば、余命を待たずして亡くなる人も当然にいる。
「面会は可能です。……こう申し上げるのは心苦しいですし、私たちも最善は尽くしますが、お心残りのないようお過ごしください」
そんなことを言って医者が去るやいなや、マルゼンスキーは病室に駆け込んだ。
「トレーナーちゃん!」
「あ、マルゼンスキーどうも」
「どうもって様態は……大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。お医者さんも大げさなんだよね」
そういってトレーナーは腕をブンブンと回してみせた。腕をブンブンと回せることが無事の証左なのかはマルゼンスキーには分からなかったが。だが、自分の想像する垂死の姿ではないトレーナーを見て安心する。
「よかったわぁ……その……お医者さんから聞いてるかしら?」
「うん、近いうちが峠だなんだって。いつか来るとは思ってたけど早かったね」
「……トレーナーちゃん」
「お? どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
トレーナーは自分がいつかこうなることに納得していた。ならばマルゼンスキーに何かを言う権利はない。そう考え、言葉をつまらせた。
「心残りがないように、っていうのは前々から考えてたから特に困らないけどね」
「それって?」
「マルゼンスキー、あなたの走りが見たいな」
「…………」
「マルゼンスキー? 調子が悪いなら当然今日じゃなくても良いんだけど」
「……いえ、トレーナーちゃん。外出許可、貰ってくるわね」
外に出ようと病室の扉に手をかけたマルゼンスキーがそうだ、と振り返った。
「どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
心残りの無いように。医者からそう言われたのにも関わらず、喉に鉛が詰まったような感覚が無くならなくて、マルゼンスキーは聞いておきたかったことも聞けなかった。
マルゼンスキーの走りが見たい。きっとトレーナーの言うマルゼンスキーの走りとは、走っている自分が楽しみ、見る人も楽しむいつもの自分の走りだろう。今の自分に、トレーナーの見たい走りが出来るだろうか。
そんな悩みは走ってみれば解決した。
風を切る。悩みも嫌な考えも何もかもを置き去りに、思い切り走る。
「もっと……もっと! もっと速く!」
「あぁ、そう。そう。これだけが惜しいなぁ」
マルゼンスキーの走りを見るトレーナーの目に一筋の涙が流れる。余命を宣告されてからはじめての涙だった。
「出来ることなら、もっとこの走りを見てたかったな」
ああ、しかもトレーニングメニュー、渡せなかったし。心残り、出来ちゃったなぁ。
そして数日後、マルゼンスキーのトレーナーは亡くなった。
◇◇◇
「たづなさん、今夜、空いてる? ちょっと話したくて」
「マルゼンスキーさん……はい、空けておきます」
トレーナーの葬式などもひと段落したある日、マルゼンスキーは駿川たづなに電話をかけた。
「たづなさん、ありがとうね」
その夜、たづなとマルゼンスキーは行きつけのバーで会った。
葬式以来の顔合わせだが、思っていたよりやつれておらず、たづなは内心ホッとする。
「いえ、トレーナーさんの件はその……ご愁傷さまでした」
駿川たづなは、担当ウマ娘の死亡や引退により遺されたトレーナーをそれなりの数見てきた。しかしトレーナーに先立たれ遺されたウマ娘という稀有な例に、気の利いたかける言葉は見つからなかった。
「うん、ありがとう」
カランカラン、とニンジンジュースに入った氷を鳴らしながらマルゼンスキーが礼を言う。少なくとも今のマルゼンスキーに特別気の利いた言葉などは要らなかった。
「それで今日はどのような?」
「……やーね、たづなさん、管巻きに来たのよ〜、わかってちょ」
「……えぇ」
思ったよりやつれていないとはいえ、マルゼンスキーの笑みと言葉にはいつものような明るさはない。
「ねぇ、たづなさん」
寂しげな笑み。
「はい」
「トレーナーちゃん、死んじゃったのよね。なんだか一段落したらそれが現実だってわかっちゃって辛いの」
「……はい」
「もう、会えないのよね。私ね、トレーナーちゃんといたらどこへでも行けそうで、なんでも出来そうで、どこまでも走れそうで、そんな気持ちになれたの。でももう会えないのよね」
「……」
「夢とか目標とか無くてもいい、楽しく走ればそれが誰もが追いたくなる背中だからって、そんなあなたの走りを私はただ見たかった、って、そう言ってくれる人はもういないのよね」
「……そう、ですね」
「はぁ、そうよね〜」
「……マルゼンスキーさん」
「そう、そう……なのよね……ううっ……うあああああん!」
堰がきれたように泣き出したマルゼンスキーの背を、駿川たづなが優しく擦る。涙。トレーナーが亡くなると分かってからずっと、トレーナーには決して見せなかったものだった。