それはよくある真夏の悲劇であると共に、よくあると評するにはあまりに悲劇的なものだった。
「だれか……たすけ……っ!」
「オグリー!」
遠泳のトレーニングをしていたことは覚えている。しかし、気が付いたら沖合にいて、使っていたビート板も波にさらわれ。意識が朦朧とする中、泳ぎが得意でないはずのトレーナーが自分の名前を呼んで。
「……ここは」
「おぉ、オグリ、目ぇ覚ましおったか! クリーク! たづなはんに!」
「はい!」
スーパークリークがあわただしく部屋から出ていく。気が付けばオグリキャップは知らない部屋にいて、ベルノライトとイナリワン、そしてタマモクロスが心配そうにオグリキャップの顔を覗き込んでいた。
「みんな……私は」
「ここは病院。あんた、海で溺れたのをトレーナーに助けられたんでぇ」
イナリワンが簡潔に現状を説明する。そうだった、とオグリキャップは気を失う前のことを思い出した。
「……そうだ! トレーナーは!?」
少し遅れてトレーナーの安否に考えが及ぶ。あの時自分を助けてくれたのはトレーナーだった。しかし、トレーナーは泳ぎが得意ではなかったはず。
「……あの、落ち着いて聞いてください。トレーナーさんは――」
「いいえ、ベルノライトさん。そこから先は私が」
ベルノライトの言葉を遮るように、スーパークリークに呼ばれた駿川たづなが部屋に入ってくる。
「オグリキャップさん。あなたのトレーナーさんは、あなたを助けて……お亡くなりになりました」
◇◇◇
ほどなくしてトレーナーの葬式があった。
ベルノライトは号泣していた。中央にスカウトされたオグリキャップに、付いてくるようにトレーナー研修生として中央に編入したベルノライト、2人をまとめて面倒を見てくれたのが亡くなったトレーナーだ。尊敬もしていたし、慕ってもいた。
オグリキャップは涙も流さず呆然としていた。自分のせいでトレーナーが死んだ。その事実に打ちのめされ、何も分からず、何も考えられなかった。
そして夏が終わり、秋。9月。残暑こそあれど少しずつ涼しさがその顔を覗かせる。世間は秋のトゥインクルシリーズへの期待も然ることながら、稀代のスーパースターウマ娘オグリキャップのトレーナーが夏合宿で亡くなったというニュース、またオグリキャップ秋の天皇賞出走はどうなるのだろうか、というニュースで持ちきりだった。
トレーナーの死亡が伝えられてすぐ、しかしあなたが無事で良かったです、と駿川たづなから言われたことが、いやにオグリキャップの印象に残っている。
それはつまりトレーナーは死んでも良かったのか、と激する言葉が喉元まで上がってきたが、他意がないということは伝わってきたため、怒声を飲み込まざるを得なかった。
本当は喚き散らし、泣き叫んでしまえれば良かったのかもしれない。そうすれば全身に鉛が付いたような感覚も振り払えたのかもしれないと思うが、後の祭りだ。時間が経って、オグリキャップは少しだけ冷静になってしまったからだ。
亡くなった人は誰に当たり散らそうが、戻ってこない。人はいつか死ぬものだから、遺された者はそれを乗り越えて生きていかなくてはいけないのだ、と。言い古された話だが、同時に正しいからこそよく言われることなのだ、と。
オグリキャップはこの後、生前トレーナーと懇意にしていたトレーナーの元に移籍し、これまで通りのローテーションで走るということで、現トレーナーとの間でも合意が取れていたが、それも実はよく分かっていなかった。
(全身が重い……食欲も沸かない)
秋の天皇賞、ジャパンカップ。大きなG1のレースだ。期待されている。レース。レース? 期待? 走るってなんだ? 歩くよりも速く動くこと? 右足を踏み出して、左足を踏み出す。腕を振る。なるべく速く。これが走ることか。そうだった。
「仕掛けたオグリキャップは6番手、ヤエノムテキ1着! メジロアルダンわずかに届かず!」
秋の天皇賞。1番人気に推され6着。オグリキャップ初めての掲示板外。
「3人並んだ、わずかに真ん中か!いまゴールイン!」
ジャパンカップ。4番人気に推され11着。オグリキャップ初めての2桁番台。実況に名前を呼ばれることもなかった。
走ることと、走れること。そして走って勝つこと。この3つには当然、大きな隔たりがある。勝利に届かない、という言葉すらおこがましい惨敗だった。
◇◇◇
「私はもう……走れないのか……?」
世間の「もうこれ以上オグリキャップは走るべきではない」という声が反響する。
批判するわけではなく、トレーナーを失って精神的負担を受けている自分にこれ以上無理をさせるべきではない、という意味の言葉であることはオグリキャップにも分かる。しかしそれと同時に「オグリはもう終わった」という声が一定数あることも知っている。
自分は、もう走れないのか。走ることが出来ないのか。
自分は、世間から走ることを許されないのか。
自分は、自分のせいで命を落としたトレーナーに、走ることを赦されるのか。
「もういっそ、逃げてしまおうか」
大声を出すわけでもないのに、大樹のウロまで来ていた。
「ううん、それは違うと思う」
「……」
ベルノライトがいた。オグリキャップは葬式の日以来、ずっとベルノライトを避けていた。
ベルノライトにとっても、トレーナーが大切な人だったことは知っている。だから、トレーナーを死なせた自分とベルノライト、合わせる顔がなかったためだ。
だから今日も踵を返そうとしたのだが。
「逃げないで、オグリちゃん。私と話そう?」
「……やめてくれ、ベルノ。私はトレーナーを死なせたウマ娘だ。ベルノにとってもトレーナーが大事な人だったことは知っている。トレーナーを死なせたこと、責める権利がある。でも今ベルノにまで責められたら私は、私は本当にダメになってしまいそうなんだ。だから――」
「責める気なんてないよ、オグリちゃん!」
「――え?」
「トレーナーさんが亡くなってから、ずっとオグリちゃん、ずっと、ずっと落ち込んでて。それが心配で私……」
ぽろぽろと小粒の涙をベルノライトが流す。それを見てオグリキャップの目にも涙が浮かぶ。
「……そう、だったのか。ごめん、ベルノ、私はてっきり……そうか。ベルノは、私のことを、責めてないんだな。赦して、くれるんだな」
トレーナーが亡くなってから数か月、オグリキャップが涙を流したのはこれがはじめてだった。
「なぁ、ベルノ」
「なに、オグリちゃん」
「私は、もう走れないんだろうか」
しばらく2人でひとしきり涙を流したあと、ベルノライトは缶コーヒーを、オグリキャップはおにぎりとお茶を口に運びながら、ベンチに座っていた。
「……私は、まだオグリちゃんに走ってほしいと思ってる」
ベルノライトはオグリキャップにもたれかかりながら話す。
「私、オグリちゃんの立って走れるだけで奇跡、走れるから走るって理由、聞いたとき本当に感動したの。そんなに純粋な理由で走るんだ、って。それで勝っちゃうオグリちゃんに夢見てる。だから走ってほしい」
でもね、とベルノライトは言葉を続ける。
「それでも、オグリちゃんが走りたくないなら、それも良いんだと思う。見ている私たちが勝手に夢を見ているだけだから。その夢を背負う必要なんて、本当は無かったんだと思う。だから、もう走りたくないなら走らなくていい。逃げてもいい。でも、走れないんだろうか、っていうことは心の中では走りたいと思ってる。そうでしょ?」
その通りだった。まさしく、今のオグリキャップにとって再び走れるようになることはすなわち、トレーナーの死を乗り越えることだからだ。
「だから、オグリちゃんには後悔しない選択肢を選んでほしい。……でも、これだけは覚えておいて。どんなに上手く逃げ隠れても、自分の心からは逃げられない」
「そう……だな」
そうだ。
「『私は、遠く離れた故郷の人と、私を優しく見守ってくれるキミのために走る』。そうトレーナーと約束した。私はその約束から逃げたくないし、トレーナーも約束を守ってくれる人だ。だからきっと、トレーナーは今も見守ってくれている」
そう思うと少し身体が軽くなった。だから。
「ベルノ。私、有馬記念、勝つよ。見てて」
その言葉を聞いてベルノライトは微笑む。
「そうだよね。あなたは走る。だってあなたは、オグリキャップなんだもの」
◇◇◇
「オグリキャップさん、有馬記念、ご出走されるということで、勝算のほどはございますか?」
「負けてよいレースなんてものはないと思う。だからいつも勝とうと思って走る。有馬記念も同じだ。今度こそ私が勝つ」
「ご体調のほどは?」
「大丈夫だ。だが……秋の天皇賞とジャパンカップでの結果を踏まえ、正直、引退を考えなかったと言ったら嘘になる。それでも私は――私に夢を見てくれる人がいる限り、走りたい。だから有馬記念の出走を辞退しない」
「なるほど。期待させていただきます。ありがとうございました!」
「あぁ、期待しておいてくれ」
普段のオグリキャップの語りと比べるとだいぶ饒舌だったが、それだけ、次の有馬記念へ想いが強いということを伝えたかった。
その思いが伝わったのか、オグリキャップは、前走、前々走の結果を経てなお、4番人気に推された。
そして。
「ゲートイン完了。各ウマ娘出走の準備整いました! さぁいよいよ始まります、年末の大一番――」
有馬記念が。
「さぁゲートが開いてスタートがきられました!16人が揃ってキレイなスタート、それほど思い切っていくウマ娘はいないようです」
始まった。
皆、いいスタートだった。その中でもオグリキャップは特にいいスタートだった。スローペースの集団の中で思いのほか前に出る。
重かった身体が軽い証左だった。
「さぁゆっくり、ゆっくりと、オグリキャップはやくも3番手から4番手」
実況の声が聞こえ、少し平静を取り戻す。勝てるかなんて分からない。分からないが、勝つためにも、今日は一番強かった自分の走りをしよう。その時は、そう。自分はもう少し後ろに位置取っていた。
「さぁ3コーナーから4コーナー、一周目の4コーナーにかかりますが」
位置は相変わらず。しかしオグリキャップはふと、秋の天皇賞やジャパンカップでは忘れていた感覚を思い出した。トレーナーが一緒に走ってくれているような、心強い感覚。最近、忘れていたあの感覚。そう、自分にはベルノライトだっている。自分は1人ではない。
「さぁ4コーナーを回って一周目の直線。URAファイナルズへ向けて、すっかり装いを新たにした中山レース場のスタンド前に、16人が差し掛かります。さぁオグリキャップは中団、5番手から6番手。夢、期待、願い、様々な思いが幾重にも重なり、大きな声援となって、中山レース場に響き渡ります。17万人の大観衆の前を、今、第1コーナーに向かう16人!」
この中のどれくらいが自分に対して夢を見ている人の声なのだろうか。どれだけの人が自分の勝利を期待してくれている人なのだろうか。
「さぁ、16人、後続は少し離れましたが、向こう正面向こう側、ここにオグリキャップがいます。現在6番手!」
「じゃあ……」
「3コーナーカーブの手前ですが、先頭は変わらず、さぁ若干後続が前に出た!前に出た! そしてオグリキャップ! オグリキャップも行きました!さぁ、澄み切った、師走の空気を切り裂いて、最後の力比べが始まります!」
そろそろ行こうか、トレーナー。
実況のボルテージが上がるにつれ、ウマ娘たちの速度も少しずつ上がっていく。みなスパートをかけ始めている。そしてそれはオグリキャップも同様だった。オグリキャップの一番強い走り、大外からの怪物の末脚を、今またここに。
「さぁオグリキャップ行った! オグリキャップ行った! さぁ第4コーナー! メジロアルダン! アルダン先頭か!」
すでに疲労が見えるアルダンを少し前に見て、地を踏みしめる。
「オグリキャップ先頭に立つか! 第4コーナー回って直線、大歓声です!」
大歓声に迎えられ、邁進する。
「さぁオグリキャップ先頭に立つか! 先頭に立つか! オグリキャップ先頭に立つか!」
脚はどうだ。心肺はどうだ。心臓はどうだ。まだ私は走れるだろうか。
「オグリキャップ! オグリキャップ先頭か! 200を切った!」
ドクン、ドクン、と鼓動が聞こえる。大丈夫。いつも通りの拍動。これなら駆けていける。
「オグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭!」
『私は、遠く離れた故郷の人と、私を優しく見守ってくれるキミのために走る』
あなたとの約束も。私のあの時の決心も。それを裏切ることはしたくない。
「オグリキャップ先頭! しかしメジロライアン来た! ライアン来た! しかしオグリキャップ先頭! オグリキャップ先頭!」
この胸に息づく"走りたい"という熱い花は枯れてない。
だから、まだ、諦められない。その一心でゴール板を駆け抜けた。
「オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着! オグリ1着! 見事に復活、復活の花道を飾りました! なんというウマ娘! オグリキャップです!」
『思い浮かぶものは、いつか形になるよ。可能性が1でもあるのならね。そして、それを結実出来るウマ娘が、オグリキャップだと、私は思う』
いつか、トレーナーがそんなことを言っていた。トレーナーの言葉は事実だったと言える。
「トレーナー、見てる? 私、走ったよ。これからも……走るよ」
オグリキャップは、トレーナーと拳を突き合わせるように天に拳を掲げ、宙を仰ぎ見た。オグリの名前を呼ぶコールは、いつまでも止まなかった。
シンデレラグレイというかもうオグリキャップの物語が面白すぎる。