4月4日 地球 有馬市 有馬駅
痛ましい事故から一日が経っていた。
今日も刑事として熊田は佐々木を連れて事故現場へと来ていた。
遺体はすでに回収されており、そのまま家族の元へと返されるだろう。
「それにしても奇妙な
熊田の隣に立つ佐々木が事故ではなく、事件だと言う。
しかし熊田はその言い間違いに対して、訂正を要求することはしなかった。
そう、今回の件は自己ではなく、事件の可能性が高いと指摘されているのだ。
とはいえ、それがどのようにされたのかまでは分からないために、それを調べるのが熊田たちの仕事になりそうだった。
「消えた心臓……か」
また奇妙な事件が起きたものだと、熊田は吸い込んでいたタバコの煙を一気に吐き出した。
鑑識の結果、死亡した桜田加奈子の死亡推定時刻が、電車と衝突し即死した時刻とまったくかみ合わないとのことだった。さらに奇妙なことに臓器の1つである心臓だけが忽然と消えていたのだ。衝突での身体の損傷が激しいために見落としかねなかったが、左胸の辺りに心臓くらいの大きさの穴が開いていたとのことだ。まるで心臓を抉り取ったのではないかと思わせるものだったらしい。
それらのことを総合すると、今回の事件。何者が殺された桜田加奈子を事故死に見せかけるために電車に突き落としたと考えるべきだ。それにそのときすでに桜田加奈子は死亡しており、そのために死亡推定時刻がかみ合わないということになる。
「心臓を抜き取るだなんて、一体何のためなんでしょうかね?」
佐々木が顔を青ざめながら言う。
誰だって今回の事件を口にするときは多少なりともそんな表情をする。
仏頂面をしている熊田もまた例外ではなく、今回の事件に対して恐怖すら感じていた。
「相当恨みを持っていないと出来ませんよ、そんなこと」
確かにな、だが……。
「でも恨みがあるならもっと惨殺するなども出来ましたよね」
そうだ……。
佐々木の言う通り、今回の事件が恨みがらみのことであるならもっと非道なことをすることだって出来たはずだ。確かに電車と衝突したために桜田加奈子の身体というのは彼女の正確な姿を確認するために受け取った写真とは変わり果てたものになっていた。
だがその時の彼女はすでに死んでいたことになっている。
周りにいた人たちが彼女が電車に飛び込む、突き落とされるまで1人の女性としか見ていなかったということだ。心臓を抜き取る際にできた穴と、電車による傷以外はまったくないということになる。死んだ人間をいくら傷付けてももはやその人間が苦痛を感じることもない。ただ人形を傷付けるのと 同じ行為だった。
だから熊田には理解できなかった。疑問がいくつも残る。
何故心臓がないのか。
何故殺すほどの恨みがあるのならほとんど痛みつけなかったのか。
どうやって回りに気付かれないようにして彼女を電車に向けて突き落としたのか。
そう思考に浸っていたために熊田は近づいてくる足音に気付かなかった。
「熊田さん、またあの少年です」
佐々木の声にようやく後ろに呼んでいた人物が現れたのに気付く。
相変わらずだな……。
制服はだらしなくあり、ワイシャツが堂々とズボンの中から出ている。寝起きなのではないかと思うくらいに無造作な髪型である少年――綾瀬晶が面倒くさそうにあくびをしながら、頭をがりがりとかき回している。
「悪いな来てもらって」
「本当ですよ。ぼくは忙しいんです」
――嘘付け、このやろう。
またいつになく態度が悪い。
とはいえ、忙しいと言っておきながら、こうして時間通りに来るのは彼が素直じゃないことをアリアリと証明していた。
「それで、何か分かったんですか?」
「なんだよ、興味津々じゃねえか」
「いいですから、さっさとしてください」
「そう急かすなよ。たく、将来損するぜ?」
「分かりますよ、熊田さんを見ているとね」
このクソガキが……!?
とはいえ口からそれを言うことは出来なかった。
何せ晶の言う通り、熊田はそれが原因で未だに刑事という役職に留まっている。同期の者たちはこぞって高い役職に就くようになっていた。彼には妻や子どももいたのだが、なかなか昇進しない熊田に対して愛想を尽かせてしまい、数年前に離婚してしまっていた。
悪いのは全て自分なのだと熊田自身も自覚していた。
だからといってすでに性分であるそれを変えることはもう難しくなっていた。
それに机にふんぞり返っているよりも現場を走り回る方が自分には性に合っていると思っていた。
「確かにそうですね」
熊田の考えていたことを読んだのか、晶がそう言って来た。
すでに事故現場の奥へと向かいながらであった。
なんでい、たまには嬉しいこといってくれるじゃねえか。
思わず破顔する熊田。
そんな柔らかな表情をする熊田のことを見るのはめったにないために、佐々木は「おぉ……」と物珍しそうにそれを見ていた。
「人をパンダのように見るんじゃねえ!」
隣に立ち、じろじろと見てきていた佐々木の脳天に拳骨を落としておいた。
「あいたぁ~」手加減無しの一撃を貰い、佐々木は頭を押さえて涙目になり、座り込んでしまう。
「佐々木さん、熊田さんはパンダじゃありません」
肩越しにこちらを見てきながら晶が淡々と言う。
「熊です」
「うぉい! 晶!」
結局さっきの褒め言葉も、これを正当化したかったからなのだと分かる。
思わず佐々木は痛みを忘れて噴出してしまう。
カッとなった熊田は再度同じ箇所に拳骨を落とす。
悲鳴を上げて佐々木はその場に倒れこみ、痛みでのた打ち回る。
周りにいた他の刑事たちはもう見慣れた光景なのか、苦笑いを浮かべるだけで特に何も言わない。
「傷害罪です、刑事さん」
「俺も刑事だ!」
現場の近くを歩いていた刑事に熊田に指を指しながらわざとらしく言う。
いつものからかいだと分かっていながら、反射的に叫んでしまう。
それでは晶の思う壺だというのは理解しているのだが、ついつい口が開いてしまう。一度言葉が出てしまえば、後はマシンガンのように言葉が続く。
「いえ、熊田さんは加害者です。犯人です」
晶は熊田のことを呆れたように見てくる。
――全ての元凶は自分だと分かってねえのか、こいつは!
苛立ちを蓄積させながら、熊田は晶に歩み寄り尻を思いっきり蹴り飛ばそうとした。
だがそれをひらりとかわされてしまい、出した足は空を切った。
「うっせえ! さっさと調べやがれ!」
「それは警察の仕事でしょう?」
フッと鼻で笑われる。
さらに苛立ちが募る。
「進まねえから、お前の力に頼んでるんだろうが!」
とはいえ晶ばかりに頼るわけにもいかない。なかなか現場に踏み込まないのならばと、熊田は先陣を切って足を踏み入れる。
それを黙ってみているかと思ったが、すぐに背中を追うようにして晶も足を踏み入れた。
最初からそうしろっつうの!
そう胸中では思ったが、やる気を出してくれたのには素直に嬉しかった。
晶の後ろからは先ほどまで地面を転がっていた佐々木が慌てて追いかけてくる。
「それで、熊田さん。今のところ分かっているのは?」
「ああ、死亡したのは桜田加奈子、18歳だが高校には通っていない」
熊田は懐からタバコを取り出し、ライターで火を点け、一気に煙を吸い込む。
「年齢を偽ってスナックで働いていたようだ。男癖が悪いようで、よくとっかえひっかえしていたそうだ」
灰一杯に吸い込んだ煙を吐き出すと白煙が道を作るように漂い、すぐに虚空に解けていった。
「だが最近になって結婚が決まったらしく、そのスナック業もやめたとのことだ」
「その結婚相手は?」
「どこぞの会社員らしい。まあ、そこそこ儲けているところの奴なようで、おそらく金目当てだろうな」
熊田は結婚相手について聞かれたのに対して、胸糞悪いと、吐き捨てるように一気にしゃべってやった。
離婚はしてしまったが、確かに2人は愛し合っていたと自信を持って言える。ただ熊田自身の性格のせいで昇進のチャンスを何度も潰してしまったというのは運がなかったというしかないだろう。
他人の結婚について熊田があれこれ文句を言っても意味はないのは分かっているが、そういわずにはいられなかった。
苛立ちを晶にぶつける形になってしまったが、晶はそれを聞いてもまったく気にしている様子は見せず、相変わらず眠そうな表情で何かを考えている仕草を見せているだけだ。
佐々木はただ何をすれば良いのか分からないと言う様子で、二人を交互に見ているだけだ。
「前は人が多かったですが……」
「やれそうか?」
期待を込めて言う。
それに対し、晶はただ首肯するだけで応える。熊田にとってはそれだけで十分だった。
突っ立っているだけの佐々木に対し、今からこの現場内に誰も入ってこさせないように指示する。 突然指示を飛ばされた佐々木はどうしてなのかという表情を浮かべ、理由を尋ねてきた。
それに対しては熊田ではなく、何かをしようとしている晶自身が言った。
「周りに騒がれたくないからです」
きっぱりを理由を言う晶であるが、見られたくない何かが分からないために、納得しきっていない表情を浮かべる佐々木。
だがこれ以上待つのも時間が惜しい、熊田が釘をさすように、「いいか、何を見ても絶対に驚くなよ?」そう言いながら拳の骨を鳴らす。脅迫されたかのように佐々木はただ首を縦に何度も振るしか出来なかった。取り敢えずブルーシートを動かし、向こうにいる刑事たちに見えないようにする。
そして熊田と少し離れたところにいる晶に視線を向けた。
少しだけ距離を取っているところに立つ晶は眠そうな瞳を閉じ、いつもの不真面目そうな雰囲気を一切取り去ったようにしていた。
包み込むような、柔らかな風が吹いた。
そして――。
「……ペルソナ」
そう小さく呟いた。
佐々木啓二は刑事としてはまだまだヒヨッコである。
場慣れしていないために上司である熊田の足を引っ張ってしまうこともあるが、彼なりに精一杯やっているつもりだった。
今までもいくつかの事件の調査に関わっていたために、少しは経験を積んでいると思っていた。そう思うことがまだまだヒヨッコなのだと以前熊田にどやされたこともあった。確かにそうだと今はっきりと自覚した。
何故なら今目の前で起きている光景をそう易々と受け入れられるはずなかったからだ。
いくら経験を積んでいるベテラン刑事でもおそらくはこの光景を見て悲鳴を上げないわけはないだろう。事実佐々木も口を開き、目の前に現れた怪物に対する恐怖からの叫びを上げてしまいそうになった。
あれは一体何なのか……?
突然虚空から現れた存在。
あれは幽霊か妖怪などの類なのではないかと思ってしまった。
口を開きかけた。だが鬼のような形相で熊田が睨みつけてきたために、二重の恐怖で金縛りにあったように動けなくなっていた。
そこに現れたのは白色の外套を羽織った女性体の存在だった。白銀の髪は腰まであり、長い。鳥のような形をしたバイザーをしているために、それの素顔を垣間見ることは出来ない。耳辺りからは背中に生えている翼と同じ白色をした小さな翼が生えている。左手には黄金色の天秤を持っている。
それが一体何のためにあるのかは佐々木には理解できない。
そんな呆然とした佐々木の視線の先では熊田はただ二人の様子を見ているだけで、晶もその謎の存在の隣に立って、瞳を閉じたまま何もしていない。
静寂がこの場を支配する。
どれだけ時間が経つだろうか。一分か、十分か、一時間か――。
再び風が吹いた。
どこかに誘おうとする、そんな風だった。
思わず目を瞑ってしまう。
そして次に目を開けたとき――そこはすでに有馬駅のプラットホームではなかった。
「……っ」
世界そのものが変わってしまったようだ。
そこは真っ白な世界だった。
その真っ白な世界には巨大な本棚がいくつも並べられており、そこには無限ともいえる図書が置かれていた。
どこからともなく一冊の書物がまるで魔法によって運ばれてきたかのように、晶の手に収まった。そしてそれを開いた。
何が書かれているのだろうか。
佐々木は晶の手にある書物に対して少しだけ興味を持つ。
未だに今の状況に対して戸惑いを抱いているが、自分を鼓舞し、立ち上がる。
熊田も平然とした様子で、晶の近くによって、その書物に書かれているのを覗き込んでいる。
自分も急がねば!
そう思い佐々木は走り出した。
足を縺れさせ、転んだ――。
どうなのかと熊田は晶の手にある書物に視線を注ぐ。
そこには普通に日本語で文字が並べられている。
しかしほとんどが捜査に関係のないようなものであり、とても役に立つものとはいえそうになかった。
「どうやらここでは、ほとんど情報は得られそうにありませんね」
興味を失せたように書物を閉じる。
「あの、それには一体何が書かれていたのですか?」
周りに視線を投げかけるなど、興味津々に近づいてきた佐々木が尋ねる。
「ああ、そういえばお前には言ってなかったな」
困ったような表情を浮かべ、熊田はクシャクシャと頭をかく。
「説明してやれ」
熊田は晶に対し、顎で指示する。
「何でぼくが……」
反抗するようにあくびをしながら言う。
「このままだとこいつが何を言いふらすか分からねえぞ?」
「え、あ、いや私は決して――」
若干脅迫を含めたからかいの言葉を向ける。
それを聞いてそんなことをするつもりはないと、慌てて佐々木は否定するように言う。
分かっているというように、熊田は手をひらつかせる。
「部下なんだから、熊田さんがすればいいのに……」
睨むように視線を向け、仕方ないと嘆息する。
「ええっと……そこにいる熊の飼育係の佐々木さんでしたね」
「誰が熊だ!」
熊田のことを指差しながら平然とそう口にしてみせる。
晶の言葉に対し、熊田は噛み付くように言う。
「あなたですよ、熊田さん」
「コノヤロウ!」
熊田はそう叫びながら晶に飛びかかろうとする。
まさに熊の形相で飛び掛ってきた熊田の攻撃に対して身を翻し、ひらりとかわす。目標を失った熊田はそのまま床に倒れる。
顔面から倒れたために、床と間接キスする羽目になる。恥ずかしさのためか、小さく痙攣している熊田。
だがすぐに顔だけを動かし、晶を睨みつけながら叫ぶ。
「避けるな!」
「痛いのが嫌なだけです」
当然でしょうというようにサラリと晶は言う。
確かにと佐々木はここまで自分の上司が手玉に取られている姿を初めて見るので、内心笑いを必死に堪えていた。
「話が逸れてましたね」
口元を抑えながら笑いを堪えていた佐々木であるが、晶の言葉に笑うのを止め、彼の言葉に耳を傾ける。
「単刀直入に言います、あれは“ペルソナ”と呼ばれる存在です」
「ペル……ソナ……」
佐々木も一応の知識としてペルソナという言葉は知っていた。
カール・グスタフ・ユングの提唱した概念で、ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだとされている。
そしてペルソナとは、自己の外的側面。例えて言うならば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナというものである。
逆に内界に対する側面は男性的側面をアニマ、女性的側面をアニムスと名付けた。
男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。
しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。
逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。
しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。
ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多いとされている。
「佐々木、お前以外と物知りだな」
「これくらい、前半については常識ですよ熊田さん」
熊田が珍しく佐々木を褒めるように言う。
それに対して晶はただ熊田が常識知らずなだけだとボソリと呟いた。
「なんだとコラァ!」
おちょくりやがって……!
表情を一変させて熊田は怒鳴る。
だがその怒鳴り声もどこ吹く風と、晶は「佐々木さんの説明は正しいですが」と前置きしてからさらに言葉を続けた。
「ぼくの言うペルソナと簡単に言うと心の奥に眠る“もう一人の自分”を具現化させて呼び出した存在なのです」
佐々木はなるほどと納得する。
先ほどの自分の説明は晶の言うペルソナの前半に当てはまるが、後半は当てはまらなかった。具現化させるなどと言う得意な力がこの世にあっただなんて、佐々木は思わずゴクリと生唾を飲み込む。
言葉だけならば信じられなかっただろうが、現に見せられてしまったら信じないなどとは言えない。
佐々木は何故熊だがただの高校生である晶のことを現場に入れるのを許可したのかが今まで分からなかった。
しかしペルソナの力を見せ付けられ、納得せざるを得なかった。すなわち今まで警察が解決したと思われていたいくつかの事件などの真の貢献者はそこにいる晶なのだと理解した。
だがそれと同時に疑問も抱いた。
それは熊田と晶はいつ出会ったのだろうか、そして何を理由にお互いにそのような協力関係を続けているのだろうかというものだった。
「あの――」
その疑問を口にしようとした。
「取り敢えず場所を移しましょう」
晶が先回りするようにして言葉を遮った。まるで佐々木にそのことを聞かれたくないというような感じもした。
一人スタスタと先に歩いていってしまう晶を睨み付けるようにして見ている熊田に近づく。
「あ、あの熊田刑事……? あの少年、綾瀬晶は一体何者で……」
「その話は後だ!」
尋ねてみたはいいものの、熊田から帰って来たのは素っ気無い言葉だった。
だが熊田のその言葉にも触れられたくないという、そんな感情が込められているような気がした。
だから佐々木はそれ以上聞くことが憚られた。
「はい……」尻すぼみしながら一歩下がる。
「何してやがる!」
すでにマスコミや野次馬を避けるために現場近くに展開されているブルーシートを持ち上げながら外に出ようとしている熊田がいつまで経っても動こうとしない部下に対して痺れを切らし、叫んだのだ。
佐々木はようやく弾かれたように下がっていた視線を上げる。そこには早くしろと急かしているような表情をしていたる熊田がいた。
「桜田加奈子が以前勤めていやがったスナックに行くぞ! 車出せ!」
「ひゃ、はい!」
熊田の怒声がスタート音となり、上ずった声で返事をしながら佐々木は走り出した。
足を縺れさせ、転んだ――。
4月4日 地球 有馬市 スナック
突然車を出すように言われ、佐々木は上司である熊田とともに、謎の力――ペルソナを持つ不思議な少年、彼にとっては不気味な存在でしかない綾瀬晶もまた彼の運転している車の後部座席に両腕を組んで、傍から見れば眠っているようにしか見えず、瞳を閉じて、口を一文字にして黙って座っていた。
聞き込み調査であるなら何故熊田さんは連れて行くんだ……?
佐々木には部外者でしかない晶のことを連れまわす熊田の考えがいまいち理解できないでいた。しかし彼に対して何を言っても拳骨一つで黙らされるのが目に見えているし、分かっていながらわざわざしようとするような馬鹿な真似はするつもりはなかった。
事後、彼からすれば事件の起きた現場から車を発進させてから数分が経とうとしていた。
死亡者である桜田加奈子が勤めていたというスナックの位置は労せず見つけることは出来ていたのでそろそろ着くだろうと思っていた。
「おい! 晶、寝てないでそろそろ起きやがれ!」
「え……?」
てっきり何か考え事でもしていたのだろうかとばかり思っていたために、熊田の言葉に思わず声を漏らしてしまう佐々木。
フロントミラーに目をやると、そこには大きなあくびを隠すこともせずにしている晶の姿が映っていた。
熊田は苛立ちを発散させるためか、サイドの窓を開けてから、懐からタバコを取り出し、荒っぽくライターで火を点けた。
白い煙が佐々木には熊田がストレスを吐き出しているようにしか見えなかった。
そうでもしなければ後ろに座っている晶とは付き合ってはいけないのだろうか。
今度熊田さんの分も胃薬買っておいたほうが良いのかな……?
隣の熊田から放たれている不機嫌なオーラが佐々木の胃をチクチクと刺激する。彼もまた別の意味でストレスを感じ始めていた。
「あ、そろそろ到着しますよ」
「だとよ」
「いちいち言わなくても聞こえていますよ」
頬杖を着いて外に視線を向けていた晶が興味なさげに呟く。
隣の熊田から小さくしたうちが零れるのが聞こえた。おそらくせっかく教えたのにもかかわらず素っ気無い態度を取られたからだろう。佐々木の知らないところで付き合いの長い二人であるならばそれくらいは分かっているだろうが、熊田の不器用な性格を考えると難しいのだろうと思った。
ようやく着いた彼女が以前勤めていたとされているスナック。夜であれば色鮮やかな明かりが灯されているだろうがまだ空は明るいということもあり、明かりは灯されていなかった。
「よし、行くぞ!」
熊田が先頭を切って歩き出す。
佐々木も慌てて車から出て、熊田のことを追いかける。その後ろからゆっくりと晶も続く。
本来未成年を連れてゆくべき場所ではないだろうが、熊田は待っていろとは言わなかった。
まったく物怖じせずに晶はまるで何度も来ている常連客のように平然として歩いて行く。これでは緊張している自分が子どもではないかと恥ずかしさと悔しさを覚える。
一度深呼吸をして、気合を入れて歩き出す。
準備中というカードが掛けられている。だが熊田はそんことは関係ないと言う様にドアノブを掴み、ドアを開けて中へと入る。
続いて佐々木が入り、中の様子が見えた。
そこには派手な服装をした何人もの女性たちが自分たちに対して不審そうな視線を向けて来ていた。
いくら警察だからといって営業時間外のときに、それもアポ無しで突然来訪したのだから当然の出迎えであろう。
彼女たちからの視線に思わずたじろぎそうになる。
そんな佐々木の後ろから中へと入る晶の姿があった。
「まったく、熊がスナックに入ったらこうなるのは当然でしょう?」
「誰が熊だ!?」
毎回のようにコントのようなやり取りをする二人。
そんな二人のやり取りを見ていて、彼女たちから警戒心が僅かに緩んだのを佐々木は感じ取った。
奥の方から一段と派手な服装をしている女性が現れる。
磨き上げられた女というものが、ここにいる者たちの中でも一段と際立っていた。おそらく彼女がこのスナックの経営者なのだろうと考える。
「お客様、申し訳ないですがまだ営業時間外ですので来店は困るのですが」
「あのなあ、俺たちは――」
「突然すいません、この熊があなた方を嗅ぎつけて勝手に走り出したもので」
晶が熊田の言葉を遮るように言うと店内には笑い声が響き渡った。
「何言ってやがる、晶! それじゃあ俺が発情した獣じゃねえか!」
「違うんですか? 奥さんに逃げられたのだからなおさらかと」
「あいつは実家に戻ってるだけだ!」
「家出の間違いでしょう?」
さらに笑いが大きくなる。
顔を苛立ちと羞恥で真っ赤にさせている熊田と平然としてやったりという表情の晶は対照的であった。
腹を抱えて笑っていたその女性はまだ呼吸が整っていないが、口を開く。
「おもしろいお客様ね。で、一体何の用なのかしら?」
「とてもお客ではなさそうだけど……」と続ける。
熊田が懐から警察手帳を取り出し、中身を見せる。彼女をはじめとする女性たちの表情から笑いが消え、緊張の面持ちへと変わる。
「警察の方が……何か?」
「ここに前務めていた……桜田加奈子について話が聞きたい」
「加奈子さんについて……?」
彼女の目がスッと細められる。声も僅かであるが強張り、震えているようだった。
すでに世間にも名前とともに事件が公表されている。彼女も新聞などで知ったのかもしれない。以前努めていた者であるならなおさら気にしないはずはないだろう。
再度熊田が話を聞きたいと尋ねる。女性はそれに対して奥の方にある個室を用意すると呟く。
警察が着たからといって、営業を休みにするわけにもいかないのだろう。
熊田は渋る様子も見せず、ただ一言――「分かった」と呟いた。
佐々木はふと視線を周囲に巡らせる。
あれ……? 彼はどこに……?
さきほどまで一緒にいたはずの晶の姿が忽然と消えてしまっていたのだ。
一体どこに行ったのか。それを知るよりも先に熊田とともにその個室へと案内されることになった。
先を歩いていく女性の後に熊田とともについて行く佐々木。
慣れない環境に緊張してしまってか、足を縺れさせ、転んだ――。
熊田たちから離れていた晶は一人スナックの建物の周りを歩いていた。
彼がペルソナ能力を使うには周囲に注意を向けなければならない。
何せペルソナ――傍から見れば幽霊、化け物のような人知を超えた存在のようなもの――を扱うからだ。
駅の事件現場での能力行使ではそれほど範囲を広げる必要はなかった。だが外に出て人目につかないところに移動したことでいくらか範囲を広げる必要性があった。不可能ではないが、その分精神力を使う。
一応熊田には伝えてあるので拾ってはくれるだろうとは思っている。
晶はゆっくりと瞳を閉じ、精神を集中させる。
「“マアト”……」
ボソリと自らのペルソナの名前を呟く。
一陣の風が吹いた同時に、晶の後ろに現れた“マアト”。彼女はまるで辺りに吹いている風を読んでいるかのように静かに佇んでいる。
晶も集中しているように、瞳を閉じたまま身動ぎ一つしない。
そして数秒後、ゆっくりと目を開ける。
晶の手の中には一冊の本がいつの間にか現れていた。
その表紙に手を添えて、ゆっくりと開く。
そこには以前とは違い、僅かであるが今回の事件に関わる情報が文章として刻み込まれていた。
『早見くんは私のものになるはずだったのに……! ルックスも、スタイルも私のほうが上なのに! どうして、ねえ、どうしてよ!』
『まったく、あいつったら昔からちやほやされてるからって調子に乗りすぎてるのよ! ……そうだ、良いこと思いついた! マヨナカネット、あれを使えば少しは懲らしめられるかも! どうせ私がやっても高校に通っていないから怪しまれるわけないもんね。早見君を奪った恨みよ……』
『ハァ……ハァ……わ、分かった! 分かったから! もう逃げない、逃げないから! 教える、全部教えるわ! だ、だから……殺さないで』
『LUST……これが私のマヨナカネットでの名前よ……。最初に優菜のことをそこに書きこんだのも……私よ』
『で、でもどうして、どうして分かったのよ!? だってネットの中なのよ!? それに私だけじゃない、私だけが悪いんじゃない!』
『そうよ! 私はただ書き込んだだけ! 後は周りの連中が勝手にそう思い込んだだけで、勝手に嘘に騙されただけで! 私だけじゃない! みんなだって悪いのよ!』
『ほら……ちゃんと言ったでしょ!? これが真実で、全てよ! 私だけが悪いんじゃない、他のヤツラだって悪い……な、何よそれ……い、いや……ば、化け物!? こ、来ないで、来ないでよ! い、いやあああぁ――!?』
この場所から知ることの出来ることはここまでだった。
だが確実にこの辺りで彼女は犯人に殺され――ではなく何かをされたのは分かった。
この場所から有馬駅まではそれほど離れていない。彼女の住んでいる場所は知らされていないが、おそらく近くなのだろうとは分かる。おそらく犯人に買い物か何かの途中で見つかり、追いかけられて追い詰められ、さきほどのような会話をしたのだろうと思う。
会話の中に出てきた言葉には気になるものがあった。「マヨナカネット」「優菜」「化け物」である。
「マヨナカネット」に関しては晶も多少の知識はあった。クラスメイトたちがよく話しのネタにしているのを聞いたことがあったからだ。
しかし「優菜」と「化け物」については分からない。
しかしおそらくこの「優菜」という人物、女性に関係のある人物が犯人なのではないかと考えるのがまずは妥当だろう。
次に「化け物」という言葉が気になった。
人がその言葉を使うのは、人知を超えた存在に対してが主だ。そうなるとその犯人は普通の人間ではないという可能性も出て来る。それこそ自分のようにペルソナ能力のような力を持っているかもしれない。
死亡した桜田加奈子は自ら自殺するかのように列車に飛び込んだという。
会話のあった場所からは駅までは数分は掛かり、死亡推定時刻からして彼女は駅にやって来たときにはまだ生きていた。
犯人が同伴していたのならどうしようもないだろうが、そうでなかったのならば何故逃げなかったのか。それが出来ないように何かをされたのか。
今は手に入った情報と熊田たちが聞いているだろう彼女の情報とを照らし合わせる必要があると考えた。
それと、嫌な予感が晶の頭を離れなかった――。
それぞれが行動を始めてから三十分ほどが経過していた。
晶はスナックの出入り口で二人のことを待っていた。
建物からは機嫌が悪そうな様子の熊田と疲れたような表情をした佐々木が出て来た。
「お疲れのようですね佐々木さん」
気を使うように言ってくる晶に「大丈夫ですよ…」と苦笑いを浮かべて言う。
「熊のお守はやはり大変でしょう。ぼくなら投げ出しますよ」
「んだと、このやろう! 勝手にどこかに行きやがって!」
当然のように噛み付いてくる熊田。この光景も佐々木にとってはもう当たり前のようなものになりつつあった。
「ぼくだって何も無駄な時間を費やしていたわけじゃありませんよ」
聞き込みなどはやはり警察ではないと口を割らない人物もいる。今回の場合はどうであるのかは分からないが、いくら探偵紛いのことをしている晶とはいえ、そう簡単に口を割らせることも出来ない。
それに晶には熊田たちには出来ないことが出来る。
それはペルソナ能力による残留思念を読み取り、それから何があったのかを解き明かしてゆくことだ。
「で、何か分かったのかよ」
タバコを取り出し、開け口から一本出すとそのまま口に含み、ライターで火をつける。
「どうしてそうもすぐに結論を急がせるんですか? だから言われるんですよ、獣だって」
うっせんだよ、このやろう!
さも当然のように言う晶の言葉に白い煙を吐き出すとともに怒鳴りつけるように熊田が言う。
夕方だということもあり、帰宅途中の者たちが声に反応し、こちらに視線を向けて来た。
それに気づいて小さく舌打ちを零した熊田は苛立ちを抑えるために再度タバコの煙を胸一杯に吸い込んだ。
「取り敢えずどんな話があったのか。桜田加奈子についてどうだったのか教えてくれますか、佐々木さん?」
「えっ、私がですか!?」
突然言葉をかけられたことに佐々木はまさか自分にまわされるとは思っても見なく、戸惑いの声を上げる。
慌てて熊田のほうに視線を向け、どうすれば良いのかと助力を頼むが顎で晶を指すことで――お前が説明しろ――と言われるだけに終わった。
「え、ええっとですね……」緊張を感じながらも手帳を取り出し、メモの書かれたページを開く。
「難しく考えなくてもいいですよ。時系列に合わせて話してください」
「佐々木には偉く丁寧に話すんだな」
「熊に畏まる必要がありますか?」
こいつはいちいち俺を馬鹿にしやがって!
これ以上腹を立てても仕方ないと、タバコを吹かせるのに没頭することにする。とはいえ警察官として職務放棄をするわけにもいかないために、耳だけはそちらに傾けておく。
「それでは……桜田加奈子、彼女はこの近くの高校である有馬第一高等学校に在籍していた記録があります」
「あの女は桜田桐子と言って、桜田加奈子の母親だったんだよ」
「やはり娘が殺されたということで協力的に話してくれました。二年と少しだけ在籍して、去年の秋ごろに自主退学しています。その後アルバイトということでこのスナックで働き始めたそうです」
「その学校って言ったら晶、お前の通っている学校じゃねえか」
タバコの灰を捨てながら熊田が聞いてくる。
「そうなんですか!?」佐々木が過剰に反応してくる。
あまり他人に対して興味を示さない晶にその年に誰が退学したなどということが分かるはずもなかった。
何故退学したのか、その理由までは分からないと言われたらしい。
彼女が学校ではどんな生徒だったのか、それも調べる必要があった。
「そして最近付き合っていた方と近々結婚するとのことだったようですが……」
「残念ながら、それは叶わなかったって訳だ」
幸せを掴みかけていた矢先の不幸だった。
その彼女の結婚相手からはまだ話は聞いていないが、近々する必要性はありそうだった。
幸せから絶望へと叩き落され、傷口に塩を塗りつけるようなことになるかもしれないが、それでもしなければいけないと思うと何故こんなことになってしまったのかと思ってしまう。
誰にだって幸せになる権利はある。
それを奪う権利など、誰にもないのだ。
そう思うからこそ、熊田は無意識に拳に力を込めてしまう。
「熊田さん……」
からかいなく話しかけてきた晶に視線を向ける。
「あなたの考えることも分かります。でもこの世界はいつだってこんなはずではなかったの連続なんです」
「言われなくても分かってる!」
そう、言われなくても耳にタコができるほど警察官になってから上司、先輩から何度も言われてきた言葉だ。それでも被害者に対して感情移入してしまう熊田は歯がゆさを感じざるを得ないのだ。この思いを犯人逮捕に全て注ぐつもりでいた。
「で、お前の方はどうだったんだよ」
ようやく落ち着きを取り戻した熊田は晶に対して視線を向ける。
ペルソナを使い一体何が分かったのかを尋ねる。
「まあ、それなりに収穫はありましたよ」
もったいぶるようにそう言った。
4月4日 地球 有馬市 桜華荘
潜入を開始して僅か二日で倒れることになるとは思いもしなかった。
学校から帰宅したはやては鞄を台所にあるテーブルに置くと、よろよろと居間にあるソファーに倒れこむ。
体力的にはそこまで疲労しているわけではないが、精神的なものが大きかった。
どうしても身体を動かしたくない、そんな気分だった。
保険医である小原の言う通り、今日は早めに就寝した方が良いかもしれないと思った。
「大丈夫ですか、はやてちゃん?」
心配そうに声をかけてくれるリインの心遣いが嬉しかった。
はやては自分の身体よりも今日のどうしても思い出せない出来事が気になっていた。
何を見たのかは分からないが、あの保健室に何かがあるのはまず間違いないと思った。
朝登校した後に放ったサーチャーが何者かによって破壊された。
それに気づいた二人はその破壊された場所である保健室で何者かと遭遇し、気を失った。
敗北したと断定しても良いだろうと思う。
はやては管理局内でも高ランク魔導師であるために比較的順調に、同年代の魔導師と比べると破竹の勢いで出世をしている。
魔導師ランクからすれば実力は高いと思われがちである。その理由として彼女のデバイスに夜天の書があるからというのも一つであった。しかし彼女個人の実力というのは非常に低いものであった。もちろんそこらの魔導師よりは優秀であるが、それだけだ。夜天の主としての実力を発揮するには彼女の元に集う守護騎士たちの存在が不可欠だった。
いくら強力な大砲があったとしても、敵から切り込まれてしまえば意味はない。そのために敵陣に切り込むための存在が必要だ。さらに大砲を守る盾も必要だ。そしてその大砲をいつどのように使用するのか、参謀的な存在もまた必要不可欠だった。
大砲だけがそこにあっても意味はない。
はやては今回の敗北は悔しいが当然の結果であるとも捉えていた。
もちろんそうすんなり受け入れるのは言い訳になってしまう。
あくまでそう思うだけに留めていた。
「リイン、少しだけ今日のこと……おさらいしよか」
休みたいのは山々であるが、管理局員としてまとめなければいけない報告書があった。
ノートパソコンを引っ張り出し、電源を入れる。
「今日観測されたのは僅かな魔力反応でした。おそらく残留魔力に反応したのかもしれないです」
そうなると数日前に何かが行われ、徐々に魔力が薄まってしまったのか、それとも最初から微弱な魔力しか発生させないものだったのか。
だがレリックが関わっているかもしれないという前情報があるために気は抜けなかった。
「反応があったのは保健室ですね。目が覚めた時にはもう反応はなくなってたですけど……」
そう、保健室に入り、リインが倒れた――のは覚えている。覚えているのだがその間にある過程がどうしても思い出せないのだ。何者かと対峙し、敗北したのはあの時気を失ったことからは明白だ。
あの保健室にいたのは一体何者だったのか。そもそもそこにいたのは人間だったのか。
人間だとしたら普通の存在ではないのは明らかである。
はやてはその得体の知れない存在に恐怖を覚えた。
その存在にははやてとリインを殺すことも他愛の無いことだったはずだ。
それなのに記憶が曖昧な状態で今もこうして生きている。
生かされていると捉えることも出来る。
無意識の内に胸に手を当てていた。ちゃんと心臓は動いている。テーブルに置かれている手鏡に映る自分はいつも見ている自分でしかない。何も変わったところはない、はずだと思いたい。
「はやてちゃん、リインははやてちゃんのことを守れなかったです……」
「リイン……?」
落ち込んだようにリインが呟く。
祝福の風リインフォースの名前を継ぐ者として主であり、大切な家族であるはやてのことを守らなければいなかった。それが守護騎士としての使命だから。この場にいない家族である他の守護騎士たちと任務に出る前に約束したのだ――必ずはやてのことを守ると。
しかしそれをなすことが出来ず、敵の前に敗北してしまった。
祝福の風の名を傷つけてしまったこととともに、はやてを守れなかったということを気に病んでいた。
そんなリインに手を伸ばし、抱き寄せる。
まるで母親が泣き喚く赤ん坊を優しくあやすように、胸の辺りで抱きしめる。
涙する彼女の頭を優しく撫でてあげる。
「大丈夫や、リイン」
自分はこうしてまだ生きている。
確かに家族である前に、彼女は人ならざる存在で、人の形をした機械、道具である。
さらに守護騎士という、その小さな体躯では支えきれないほどの重責を担っている。
だがこういう時はただ一人の家族として付き合いたかった。
「やられてもうたけど、次は勝とうな。負けっぱなしは、うちも悔しいねん」
「はやてちゃん……」
胸に顔を埋めていたリインがゆっくりと顔を上げる。
そして袖で流れていた涙を拭き取り、決意した表情へと変わる。
「分かりましたです。祝福の風リインフォースの名を継ぐ者として、次こそはあなたに祝福を運ぶ風となります!」
「その意気やで、リイン」
「っ! はいです!」
そう宣言したリインに笑みを向けるはやて。
嬉しそうに、リインもまた、笑みを浮かべるのであった。
その日の夜であった。
深夜に近い時間帯、街中は未だに帰宅途中のサラリーマンたちや次の飲み屋を目指してフラフラと肩を組み合って歩いている酔っ払いたちの姿、塾帰りの少年少女たちの姿が見られる。
そんな彼彼女らを見下ろすように両脇には大きな建物が羅列している。
眩しいほどの照明があるために、朝とまではいかないが、それくらい明るいためにまさか今が真っ暗な夜であるだなんて空を見上げなければ分からないくらいだ。
角を曲がれば妖しげな明かりを灯しているホテル街が続いている。
そこに向かおうとしている若い男女の姿や、携帯電話を弄くりながら新しい相手を探しているようである女性たちの姿もある。中には高校生や中学生と思われる少女たちの姿も決して珍しくないようにそこにあった。
さらに何か妖しげなものを販売している日本人離れした外国人の姿もある。
それを購入していく若者の姿もある。
それを見て見ぬフリをする大人たち。
明るさの裏ではこのように影のように暗いことが繰り返し行われていた。
そんな僅かに明かりのある場所よりもさらに闇の深い建物の裏通りを意気を荒げて走っている少年の姿があった。
悪ぶっている様子はなく、むしろ模範的な服装や頭髪である少年だった。
制服姿に鞄を片手ということで学校帰りではなく、塾帰りの生徒であると思われる。
その男子生徒はしきりに自分の後方に肩越しから視線を向けては気にしている素振りを見せている。
足元に転がっていた空き缶に気付かず、そのまま蹴り上げる。
カラカラと地面に落ちた空き缶が虚しく音を響かせる。
無音な空間であるために、恐怖は増すばかりであった。
恐怖が予想以上に体力を消耗させる。
走りっぱなしの足は鉛のように重くなり、今にも倒れてしまいそうなくらい体力的には限界に近かった。
角を曲がり、壁に背中を預けて座り込む。
恐怖が表情から顔を出しており、大粒の汗が滴る。
これだけ奔っているにもかかわらず、背筋の寒気がなくなることがない。
どうしてこうなったのか、それは少年にも分からない。
いつものように、塾を終えそのまま帰宅しようと有馬駅へと向かおうとした。
何故かその時だけやけに人通りが少なかったように思う。
そして突然現れたのだ――化け物が。
目の前に現れたそれ。
とても人間には見えないなりをしているそれが街中に堂々と姿を現していた。それにもかかわらずその横を通り過ぎて行く者たちにはまったく姿が見えていないようで悲鳴はおろか、一瞥もくれることは無かった。
ありえない――少年の思いはそれだけに尽きた。
気付いた時にはそれに対して背中を向け、その場から走り出していた。
逃げなければ――そうしなければ殺されてしまうと思った。
当の化け物は幽鬼のようにゆっくりと追いかけて来た。
どこを目指すわけでもなく、とにかく逃げているうちに人気のない裏通りへと出てしまった。
そして今こうして角で身を隠しているが、あれが普通の存在ではないと分かっているので、こうしている内にも追いついてきて――。
【「暴食」の罪を犯せし者に判決を……】
「ヒッ!?」
まさに死の宣告であった。
隣から地を這うような声が聞こえてきた。
少年は恐怖に震えながらその横に顔を向ける。そこには自分を追いかけていた化け物の姿があった。
竜を模した仮面を被り、まるでエジプト神話に登場するミイラのように体中を包帯で巻かれており、その上から黒いローブを纏っている存在だった。
【汝への判決は――「死」なり……】
「――っ!」
その瞬間誰の目にも止まらぬ孤独な地にて少年の魂削る絶叫が響き渡った。
恐怖よるその叫び声、だがただ一瞬にして少年の体は地に伏した。
身体には傷がほとんど見られず、まるで呪いなどの類で殺されたかのように目を見開き、信じられないという表情のまま地面に転がっていた。しかし徐々に少年のことを包み込むようにして広がる赤いものがあった――そう少年の心の臓の部分から流れ出ているそれ。
そして謎の存在の手には未だに脈動を止めぬ赤々と月光を浴びて妖しく姿を晒している心臓がそこにあった。