遠い夏の日の稲妻   作:妄想投棄場

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遠い夏の日の稲妻

 8月31日。茹だるような暑さも薄まり、夜に聞こえる虫の音色は秋模様になっている。

 今日でトレセン学園の夏合宿が終了する。

 合宿前に比べて皆の顔つきがとても頼もしく感じる。

 そんなウマ娘達の中で、周りと異なる面持ちをしているものを見つけてボクは声をかけた。

 

「どうかしたのだろうか、タマモ。浮かない顔をして」

 

 ボクが声をかけたのは、腰まで伸ばした芦毛の髪に、赤と青の髪飾りを付けた小柄なウマ娘のタマモクロスだった。

 ボクの担当ウマ娘でもある彼女は合宿が終わりだというのに、満足そうな顔もなく、ムスッとした表情を浮かべている。

 

「どうもあらへんよ。ただしょうーもないな思ただけや」

 

「しょうもない、とは」

 

「こんな合宿、ただのおままごとや。普段からやっとる奴はいつもと変わらんことしかせえへんかったやん」

 

 彼女は勝負ごとにおいてはとことんシビアだった。努力とは、結果を残す苦労のことを言うのだとボクに言い放ったことも記憶に新しい。

 

「この経験を糧に、とても伸びる子も多いと思うけれど。そして、キミも」

 

 彼女は合宿をおままごとと形容するが、タマモクロスは同期のスーパークリークや、オグリキャップと共にしのぎを削りあい、目覚ましい成長を遂げていた。それはボクの目にもハッキリとわかった。

 

「甘い、甘いわ。トレーナー! よう、ばあちゃんがくれとった、べっこう飴くらい甘いわ」

 

 先ほどまでのむすっとした表情から一変して彼女はニヤリと獰猛な笑みを浮かべる。

 

「ウチは、これが無くても伸びとった。せやけど、合宿っちゅう機会があるんやったら利用せんはずはないやろ!」

 

 それはつまり……

 

「合宿が楽しかった、と?」

 

「ぜ、全然ちゃうわ!! なにいうとんのや、このアホンダラァ!」

 

 顔を真っ赤にしながら否定する彼女を見ながら、ボクは安堵していた。

 いつも、勝利や勝負ごとにしか興味がないタマモクロスも、このイベントを楽しんでくれていたのだな、と。

 

「合宿疲れたぁ~」

「でも、頑張ったよね、私たち。秋からの私は一味違うよ~」

「お盆は実家に帰省してウマスタ上げまくってたくせに言うねえ~」

「ちょ! それはそれよ。メリハリはハッキリつけとかないと練習も身に入んないじゃん」

「一理、いや千理あるわ」

「でっしょ~」

 

 ボクたちの近くを通り過ぎるウマ娘達の会話が耳に入ってくる。

 彼女たちも充実した夏を送っていたのだろう。遠目からでもやる気に満ち溢れた表情をしていた。

 改めてタマモクロスを労おうと彼女の顔を窺うと、先ほどのようなムスッとした表情に戻っていた。

 

「ほんま、アホらし」

 

 不機嫌で、イライラしているのが一目でわかるほどの険しい表情だった。

 だというのに、ボクにはとても切なそうで、泣きそうな顔にも見えた

 

 

 

 

 

 

「タマモは合宿の合間も帰省はしなかったけれど、良かったのだろうか」

 

 合宿のために解放されていた理事長のプライベートビーチを離れ、トレセン学園に向かうバスの中で、ボクはタマモクロスに質問を投げかけていた。

 合宿はお盆の前後に分けて行われる。希望すれば残留して練習できるが、大抵は一度実家に帰省して家族と過ごすのが一般的だ。

 

「別に気にしてへんわ」

 

 窓際に頬杖をついて、遠ざかる浜辺をぼんやり眺めながら、答えるタマモクロスの表情はやはりムスッとしていた。

 クーラーが良く効いたバスの中で、彼女は一人だけ合宿の熱が冷めやらぬようで、その眼はギラつきが色あせていない。

 

「でも、家族というのは大切だと、ボクは思う」

 

 彼女のレースに対する熱量は理解している。向上心の塊のような性格だということも痛いほど分かる。

 けれど、それとこれは別だ。それこそ、メリハリというものが必要だろう。

 

「お母さんや、お父さんは、君の顔を見たがっているのではないだろうか」

 

 ボクがそういった瞬間、タマモは一瞬あっけに取られていた。

 

「ごめん、トレーナー。言うてへんかったな」

 

 タマモの顔面から表情が抜けていく。次第にギリリと奥歯を噛みしめるような音が聞こえる。

 段々と俯いていき、彼女の表情が窺えなくなっていく。

 

「ウチには母親も父親もおらんのや」

 

 その眼には殺意が宿っていた。

 これまでもレース直前などには彼女の言動から負の感情がちらつくこともあった。しかし、今のタマモの表情は格別だった。負の感情を煮込んで煮込んで、煮詰めた中から掬った澱のように、ドロドロとへばりつくような憎悪があった。

 タマモの気迫にボクは思わず身を竦ませてしまう。でも、それでも目は逸らせなかった。

 タマモはその小さな体躯には余りあるほどの憎悪を抱えている。その表情がどうしようもなく美しいと思ったんだ。

 

「それは、どういう」

 

 見惚れているだけでは話が進まない。ボクはタマモの言葉の真意を尋ねた。

 

「どうもこうもあらへん。ウチは捨てられたんや。ウチを産み捨てたド畜生は、育ててもろた恩も忘れてじいちゃんばあちゃんにウチを預けて、またよう知らんと、わけわからん場所をほっつき歩いとる」

 

「その、君のお父さんは?」

 

「それも知らんわ。ド畜生は本当にいきずりの男に孕まされた言うとったらしい。『こんなん育てきられへんから預かって』って言うたって」

 

「それ、は……」

 

 正直、言葉が出なかった。

 選抜レースで彼女をスカウトしてから、シニア級のここまで二人三脚で歩んできた。

 少なくとも、そこら辺のトレーナーよりもタマモクロスのことを知っている自信があった。

 しかし、ボクは彼女のほんの上澄み程度しか知っていなかったようだった。

 

「なあ、トレーナー」

 

「なんだろうか」

 

「いま、同情したな」

 

 彼女の顔は窓から動かない。こちらを一切に見てない。

 しかし、その平坦な言葉は確かにボクの心臓を掴んでいた。

 クーラーで涼しくなってはいるが、今の心地は極寒だ。それなのに、汗は生理的に出てしまい、背筋を伝うたびに震えが止まらない。

 

「こいつは可哀想なやつやとか、親の顔も知らんと不幸な道歩んできたんやなとか、一片でもおもたやろ」

 

「……」

 

「どアホウ! ウチは可哀そうやない。ウチは不幸やない。ウチは孤独やない」

 

 タマモは窓から移りゆく景色を見ながらボクにそう宣言をする。

 

「ウチは幸せや。世界で一番幸せや。顔もいい。性格もいい。レースの才能もある。競いあう仲間もおる。ずっとレースに付き添おうてくれるトレーナーもおる」

 

 そして、タマモは初めてボクの方を振り向いた。

 

「ウチほど幸せもんはおらんやろ」

 

 くしゃりと歪ませて八重歯をむき出しにして笑う彼女は泣きたくなるほど美しかった。

 

「そうか……君は、強いんだな」

 

「当たり前や。ウチは逃げへん。ウチは投げ出さへん。そんなんしたら、ウチを捨てたド畜生と同じになってまう。せやから、ウチは真っ向から戦わなあかんねん」

 

 その言葉には熱い決意がみなぎっていた。

 

「そして、勝って、勝って、勝ちまくるんや。全国のテレビにも映るようになったら、ド畜生の目にも嫌でも入るやろ」

 

 ギラギラとした貪欲なほどの勝利への渇望。ボクがタマモをスカウトした時に見出したものが彼女の眼に確かに宿っていた。

 

「これは復讐や。育てきられへん言うて捨てた子が誰からも愛される。誰よりも輝く。お前が放り捨てたんはゴミやなくて、金の卵なんやって証明したるんや」

 

 そう宣言するタマモは明るくて眩しかった。

 でも、彼女の発言は見方を変えれば、それは

 

「君は、お母さんに見て欲しいんだね。自分の成長した姿を」

 

「は?」

 

 タマモは再びあっけに取られて固まる。

 

「だから、一生懸命走って勝った姿を、お母さんに見つけて欲しいのかな、と」

 

「ちゃ、ちゃ、ちゃうわ、ドアホウ! なあんで、ウチがウチを捨てたド畜生に会いたい思わなあかんねん」

 

 タマモは再び、顔を真っ赤にしながら否定してくる。

 違ったのだろうか。ボクには彼女がお母さんを探しているように感じたのだが。

 

「でも、まあ、見つけて欲しい言うんわ、そうかもしれへん」

 

 先ほどの掛かった様子はなくなり冷静を取り戻しながら、タマモはつぶやく。

 

「ウチをずっと育ててくれたじいちゃんばあちゃんはな、血が繋がってへんねん」

 

 なんでもないことのようにタマモは語る。

 

「じいちゃんとばあちゃんは、ド畜生と血が繋がってへんのに、本当の娘のように愛情込めて育てとってん。でも、ド畜生はその恩を仇で返した。礼も言わんと勝手に出ていって、ふらっと戻ってきたとおもうたら、父親もわからん子をポンと捨て逃げしたんや」

 

 再び、窓から景色を眺めながらタマモは語りだす。

 

「でもな、じいちゃんばあちゃんはウチに何度も語るんよ。あの子にまた会いたいなあ。一目でいいから元気な姿が見たいなあって」

 

 その言葉には疑問があった。憐憫があった。二人を見下している感情が見えた。

 

「じいちゃんも、ばあちゃんも、バカや、ほんまにバカや。お人よし過ぎてすぐに騙されるんやないか言うくらいの、目も当てられんほどのドアホウや。血が繋がってへん子が投げ捨てた赤ん坊を、実の孫みたいに何不自由なく育ててくれた、底抜けのバカや。そんな二人が会いたい会いたいってうわ言のように言うんやで? そんなド畜生の尻拭いするのはウチの責任や。ウチが謝らせたる。恩知らずやって罵らなあかん」

 

 それ以上に、彼女の言葉には育ててくれた二人に対するとてつもなく深い愛情があった。

 彼女のレースへの熱量、勝負ごとに対するシビアな価値観、合宿を終えた他のウマ娘に対する感情。彼女を突き動かしている原動力の一端を垣間見た気がした。

 

「だから、ウチは勝たなあかん。自分のため、育ててくれたじいちゃんとばあちゃんのため、そして」

 

 彼女は一つ、呼吸を置いた。

 

「チビやから勝てへん、芦毛が勝てるとおもうとるん言うてバカにされとったウチを見出して、ここまで信じて来てくれたアンタのためや」

 

 彼女は真っ直ぐにボクを見つめてそう言った後、くしゃりと笑った。

 泣きたくなるほど、どうしようもないほど美しい笑顔だった。

 

「ボクは、君が好きだ」

 

「なっ」

 

「タマモクロスの走っている姿が好きだ。笑っている姿が好きだ。まっすぐなところが好きだ」

 

「急にやめてや、ほんまに」

 

 冷気が満ちるこの空間に反比例するようにタマモの体温は上昇しているようだった。透き通るような白い肌が朱に染まる。

 ボクとしてはただ、思ったことを伝えているだけだった。

 伝えなければ、思いはすぐに風化していくものだと思うから。

 

「次も勝とう。絶対に勝とう」

 

「当たり前やろ。ウチは絶対に勝つで」

 

 ボクたちは勝たなければいけない。誰かのために、自分のために、お互いのために。

 でも、今は合宿の終わりだ。

 少しだけ、眼を瞑って、休息を取るのも悪くはないんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 セミの音がうるさい。車内だというのに、蒸したような暑さが体を覆う。汗で背中がひどくべたつく。

 扇風機のパチパチという音につられて、チリン、チリンと風鈴が何度も音色を奏でる。

 呼吸をすれば、鼻に抜けるのはリクライニングシートではなく、い草の香り。

 

「ボク、ボク」

 

 誰かがボクを呼ぶ声がする。

 ゆっくりと目を開けると、白髪の男性が目に入った。ボクの祖父だった。もう亡くなっているはずの。

 

「今日の昼寝は、よう寝とったなあ。今日来たばっかやから疲れとったんか?」

 

 カラカラと聞き馴染みのある笑い声。

 思い出した。

 ここは、祖父の家だ。

 小学生の時、夏休み中過ごしていた祖父の家。今はもう存在しないはずの、ボクの思い出の家。

 

「どうしたん。夢で家にでも帰って、恋しくなったんか?」 

 

 ごつごつとした大きな手でボクの頭を撫でながら祖父は笑って、尋ねる。

 その声が、祖父の匂いが、祖父の手の大きさが、その笑顔が、遠い昔にしまい込んだはずの、夏の日の思い出が、ボクの中であふれ出していた。

 止めようと思っても、記憶の奔流が止められない。とめどなくあふれてくる感情は、出口を求めて、ボクの頬を伝っていった。

 

「じいちゃんが傍についといたる。飽くまで泣いたらええわ」

 

 この暖かさはボクの涙腺をひどく緩める。

 どれだけ締めようと思っても、この気持ちは抑えきれなかったんだ。

 

 

 

 

「今日が何日かて? そこん貼っとる日読み見たらええ。8月3日やで」

 

 暑さはずっと続いている。セミはけたたましく求愛をしている。

 朝8時の今頃は日が昇り切っておらず、過ごしやすい時間帯だった。

 この夢みたいな不思議な空間に陥ってから三日が経った。

 自分なりにこの状況がほんのわずかに整理が出来たので、改めて確認する。

 

「ありがとう、おじいちゃん」

 

「ええで、まだ時間はいっぱいある。思いっきり楽しんだらええ」

 

 そう言って、祖父はボクを見下ろしながら頭を撫でる。

 そうだ。今のボクは、逆に祖父が見上げなければいけないはずなのに、そうではない。つまり、背が縮んでいる。

 声もまだ、ギリギリ声変わり前の少し甲高い少年のものだった。

 ボクは普段通りに喋っているはずなのに、当時の喋り方になる。

 知れば知るほどおかしな空間だった。

 そして、祖父から聞いた日読み、つまりカレンダーを見てみるとボクの目にははっきりと見える。

 

 8月32日

 

 祖父に昨日の日付を聞けば、2日と返ってくる。でも、ボクの認識では32日だ。

 非現実的極まりない。夢だと断じたいけれど、ボクの五感が受け取る情報はとてもリアルだった。

 笑ってしまいたくなるが、ボクは8月32日に囚われているのだと言うしかない。

 心当たり、というわけではないけれど、ボクは夏の日の思い出に残したものがある。

 

「来年からは、中学生に上がるんやさかい、最後の小学生を楽しんだってな」

 

 そう。今のボクは恐らく小学生六年生のボクだ。

 そして、ボクには小学生六年生の時の夏の日の思い出が欠落している。どこかに落っことしたというのが適切だろう。

 些細な出来事だ。この夢を見るまではすっかり忘れているほどの重要ではない記憶。

 でも、ボクが夏に囚われるとしたら、これしか心当たりがない。

 

「川の方は一人で行ったらあかんよ。龍神様に魂持ってかれるで」

 

 少しだけ、脅かすような口調で言うのが祖父の癖だった。

 今になったら理由がわかる。川は流れが強い。下手すればそのまま、足を取られて溺死なんてのもざらだ。

 だから、子どもを危険にさせないように、そういう言い方をしていたんだろうと思った。

 

「日が暮れたら帰ってきてな」

 

 そう言って、祖父はボクに大きな麦わら帽子をかぶせてくれる。少しだけ祖父の匂いがする。

 

「行ってきます」

 

 ボクはこの夏の抜け道を探しに冒険に出掛けた。

 

 

 

ーーーーーーー

 

 

 祖父の家は、村と村の狭間にあった。それは祖父なりの思惑あってのことだった。

 祖父は幼いころを地元で過ごし、高校卒業と同時に上京してたたき上げで役員にまで上り詰めたらしい。そして、ボクの父が独り立ちして定年を迎えてからは、地元に帰って隠居生活を始めた。しかし、東京と地元との価値観の違いが大きすぎた。だからあまり近所づきあいをせず、我関せずで過ごしたいために半端な場所に住んだらしい。

 

 そして、ボクはことあるごとに祖父から口酸っぱくあることを言われていた。

 

「北はよそもんが遊びに行くぐらいやったら全然かまわへん。でも、南はあんまり近寄ったらあかんよ。あれはまだ部落意識がはびこっとる。過去に縛られた、世界の広さを知らん奴が我が物顔で歩いとる」

 

 当時は意味が分からなかったが、恐ろしい場所だというのはよくわかった。だから、あまり行かないようにしようとしていたのは覚えている。

 でも、よく思い出せないが、ボクは時々南の方に向かっていたのだ。何かに惹かれてそっちに歩いていた。その記憶がある。

 普通は行くべきではない。

 でも、この夏の抜け道は、どこかに落とした記憶にあるような気がしてならなかった。

 

 南の方につながるあぜ道を歩く。

 

 カエルや、虫が、わが物顔で闊歩している。彼らに道を譲るようにその脇を歩いて、歩みを進めていく。

 影はボクの隣で背を伸ばしながら歩いている。

 均等に植えられた苗の青さが懐かしい。

 苗が浸かるようになみなみと張られた水はボクをはっきりと映していた、田んぼが呼びかけてきたような気がして、吸い込まれるぐらい透き通った水面に顔をやる。

 あどけない少年の顔、もう戻ることはできない、遠い日の思い出。

 この世界の一つ一つがボクの感情をさしてくる。でも、何かが足りないのだ。

 田には、アメンボが浮いている。タニシが見える。何かが掴めそうな気がして、届かないけれどその手をそっと伸ばした。

 

 大気が揺れた。

 びゅうびゅうと、風を切る音が聞こえる。

 

 それに続くのはたったったったと、小気味よいテンポの足音。

 その音はドンドンと近づいていく。よくわからないけれど、高揚感みたいなのを覚えたボクは動くことが出きず、その場に立ち止まっていた。

 

 びゅんと、ボクの後ろで稲妻が通り過ぎた。

 

 水面にはその姿がはっきりと映っていた。

 鹿毛の髪に、ピンと伸びた耳、艶のある尻尾。ボクは水面に映る彼女を知っている。

 

「なんや、ボク。来とったんか。もう、そんな季節なんやな」

 

 鹿毛の彼女は、ボクに話しかけながらくしゃりと笑いかけた。

 ボクの背を通り過ぎた稲妻は周りもビリビリとひりつかせた。

 ボクの掴めそうで足りなかったピースを電磁力で引き寄せた。たちまちのうちにボクは落とした記憶のピースが自然に符合しだす。

 

「お姉……ちゃん」

 

 思い出した。ボクが祖父の言いつけを守らずに南の方に行った理由がそこにはあった。

 しびれるような健脚を見せる彼女と一緒に遊びたくて、時折、行っていた。

 

「なんや、ボク。泣いとるやん、そんなすぐ泣いとったら、いじめられんで」

 

 怖がらせるようにオーバーな表現をする。よく知る彼女の仕草だった。

 夏の日にしまいこんだ記憶だった。もう二度とは戻ることのないものだ。

 思い出は美化されるという。実際にあってみたり、やってみたりするとそうでもないということは多い。

 

 でも、稲妻のような彼女の輝きはいつまで経っても色褪せることなかった。

 やっぱり、泣いてしまうほど見惚れる姿だった。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

 ボクが遠い夏に落としていた記憶にある、稲妻みたいに輝く鹿毛のウマ娘は自分自身を「ミドリコ」と名乗っていた。

 本当は違う名前があると、彼女は言う。

 

『こっちのがかわええやろ。ウチはかわええ。美人や。世界にも通用するほどの別嬪や。なら、名前かて、かわええ方がええやろ?』

 

 初めて会った時に、ニヤリと笑いながら彼女はそう言っていた。

 当時からもう少し謙虚さを持ってはどうかと思っていた。でも、その笑顔にボクは唇がしびれてしまい、口に出すことはなかった。

 

「ボクと遊ぶ夏はこれで三回目やな」

 

 ザー、ザーと水がぶつかり、はじかれ、流れていく音が聞こえる。水のしぶきが光を乱反射させて、キラキラとせせらぎを輝かせている。

 彼女は地面をごそごそと漁りながらそう言う。

 

「もう、来年からは中学生か。時間が過ぎるんは早いなあ」

 

 そう言いながら、川に向かって石を投げる。

 彼女は腕と一緒に胴体も振りぬき、石に十分な回転を掛けていた。

 

「1、2、3、4、5、6、7……まあまあやな」

 

 石は川の上をぴちゃぴちゃと跳ねていく。そして、彼女の勢いが強すぎたせいか、向こう岸にある岩にぶつかってしまい、石はそのまま勢いを無くしていた。

 

「さ、次はボクの番やで。三回目や、五回は跳ねなあかんよ」

 

 ニカっと笑いながら彼女は、ボクの方を向いてそう言った。

 ボクが彼女と初めてあったのも、川辺でのことだった。 

 

 

 小学三年生の時、祖父の言いつけも守らずに、ボクは一人で川辺で遊んでいた。

 その時から、水面を見ると、何かが掴めそうな気がして手をかざすのが癖だった。

 そしてボクは、吸い込まれ過ぎた。龍神に魂を引っこ抜かれそうになった。

 その時に、稲妻がぴかっと光って龍神を祓った。

 

『なにしとんねん! このアホンダラァ!』

 

 彼女は本気で怒っていた。

 

『一人で川に行ったら龍神様に魂持ってかれるって言われんかったんかボケェ!』

 

 稲妻はぴかっと光って龍神を祓った。でも、ボクにもその雷を落としていた。

 助かった安堵感と、死への恐怖と、美しいけれど怒り狂う彼女への恐れでボクの感情はぐちゃぐちゃになっていて泣きわめくことしか出来なかった。

 ボクがひとしきり泣き終えた後は、彼女はニカっと笑った。

 

『なら、ウチと遊ぼか!』

 

 その笑顔はボクの心をしびれさせた。

 それからのボクの夏は彼女を追いかけるようになった。

 でも、この夏に囚われるまでボクはどうしてかしびれるような彼女の記憶を落っことしていたみたいだ。

 

 

「跳ぶ石はな、平べったいのを選ばなあかんよ。なるたけ、ツルッツルの平べったい石や。石に川を滑らせるんや。角が立ったらあかんやろ」

 

 彼女は一緒に石を探してくれる。

 体は小学生であるが、中身はもう大人だ。ボクもそこそこには成長している。どれが水切りに向いている石かという判別も格段に早くなっている。

 

「お、この石ええで。ボク、これ使うてええよ」

 

 彼女はそれ以上に早かった。それが少し悔しくて、どうしようもなく嬉しかった。

 

「えいっ」

 

 何とか、五回は跳ねることができた。ボクの頭の中だと、もう少し綺麗に跳ぶはずだった。

 想定している体と実際が違うからかもしれない。

 

「ええね、うまなっとる。でも、もう少しこう体をふらなあかんよ」

 

 そういって、彼女はボクにぴったりとくっついて教えてくれる。

 ボクの体はしびれてしまい、電流は熱を帯び、ボクの体温を上げていく。

 全身が茹でられ、鼓動も驚くほど脈打っている。

 彼女は、教えるのに夢中になっていた。

 このまま気づかずに離れて欲しいと切にねがっていた。

 

「なんや、ボク。真っ赤やん……ははーん、ウチの体で興奮しよったな。マセガキ」

 

「ち、違うし」

 

 その祈りは届きはしなかった。

 彼女は離れるどころか、むしろからかうように体を寄せてくる。

 理性的に返そうと努めたが、今のボクの体は言うことを聞いてくれず、逆に彼女をつけあがらせてしまった。

 

「もう! ちゃんと石を投げるからお姉ちゃんは見ていて」

 

「ええよ。見といたる。ボクが綺麗に跳ばせるようになるまで、ウチがずっとついとったるわ」

 

 ボクは、なんとか彼女を離そうと説得するとたちまちのうちに拘束を解いてくれた。

 ただ、穏やかにボクを眺める彼女を見ると、なんだか気恥ずかしくて、次の一投は一度しか跳ねなかった。

 

「なんや、へたっぴなってるで。女の体考える前に、投げること考えなあかんよ」

 

「うるっさい!!」

 

 ボクは、顔を赤くして反論することしか出来なかった。

 

 

ーーーーーーー⌚ーーーーーーー

 

 気づけば、周りは赤く色づいていた。夜の虫の演奏も聞こえだした。

 

「去年に比べたらバツグンにようなったね」

 

 彼女は、ボクの頭を撫でながらそう褒めてくれる。

 ボクとしては大人の頭脳をしているはずなのに、目を見張るほどの成長が出来ていないことに落ち込んでしまう。

 

「でも、そうやね。来年からは中学生や。ウチと同じになるもんな」

 

 なら、もうちょっと頑張らなあかんかもしれんわ、と言って彼女ははにかむ。

 

「まあ、ウチは来年、高校生やけどな」

 

「高校はどこに行くの」

 

「うーん、あんま決めてへんね」

 

 夏だ。

 もう、進路を決めて動き始める子だってボクの周りには普通にいた。

 

「でも、一個だけ気になってる場所があるんよ」

 

 そう言って、彼女はニヤリと笑った。

 

「トレセン学園や」

 

 その言葉にボクは言葉が出なかった。

 彼女の稲妻のような走りは確かに凄い。けれど、やはりトレセン学園の生徒と比べれば、あと一つという印象を受けてしまう。

 

「でも、スカウトに来た人から、中央はハードルが高いから、まずは地方のトレセン学園で力磨け言われたんよね。一番近いのは兵庫やでって」

 

 その言葉には納得しかなかった。

 たぶん、彼女は世界を知らない。トレセン学園の魔境を把握していない。駆け引きも、配分も彼女には全くないのだろう。

 ボクの担当ウマ娘である、タマモクロスもレースを知らずにトレセン学園に飛び込んできた叩き上げのウマ娘だった。

 天性の追い込みと稲妻のような末脚を持っていたが、如何せん、経験が不足しすぎていた。幾度かの敗北を経て、レースというものを理解してから勝ちを拾い始めたのだ。

 だから、ミドリコにアドバイスをしたスカウトの発言は全くその通りだと思った。

 

「レースの世界は、広いよ。とっても広い。いつ、どこで化け物が生まれるかわからない。だから、地方から行くのも悪くないと思う」

 

「なんや、ボク。知ったような口を聞くやん」

 

 少しだけ、冷やかすようにニヤニヤしながら彼女はボクに言った。

 

「ボク、来年中学生やもんな」

 

 確かめるように、彼女はそういいながら、ボクに近づいてきた。

 

「なら、大人になる方法をウチが教えたるわ」

 

 そう言って、彼女は舌をチロリと出して、唇を潤す。

 獲物を見つけたような、妖艶さを感じる動作にボクは驚いてしまう。

 

「知っとる? 大人になるって気持ちええんやで」

 

 彼女は少しずつ距離を詰めてくる。

 夕日で分かりづらいが、距離が近くほどに彼女の頬は紅潮していることがわかった。少しだけ甘い吐息が漏れている。

 

「ぐちゃぐちゃになろ、ボク」

 

 ボクは蛇に睨まれた蛙のように立ち往生していた。

 でも、なんとか固まった足に檄を飛ばして、動こうとする。

 

「逃げたら……あかんよ」

 

 逆光で、彼女の表情が全然わからない。

 怖かった。

 でも、それ以上にボクは、この関係が崩してしまいたくなかった。今の関係が崩れる恐怖の方が勝り、少し後ずさると足が滑った。色んな形の石で足を踏みはずした。重心が後ろに寄る。

 走馬燈というのは、こういうのを言うんだろうか。

 ゆっくりと時間が流れている。

 後ろに倒れるボクを見た彼女の表情からは妖艶さがすっかり抜けていた。

 

「あ、ちょ」

 

 それが最後に聞こえた言葉だった。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

「ボク、ボク」

 

 聞き覚えのある声で、ボクの意識は引き戻された。

 目を開けるとボクを覗き込むように見ている祖父とミドリコの姿があった。

 頭はひんやりとしている。水滴が額を伝った。氷が当たっているようだ。

 

「目、覚めたか?」

 

「ボクは、いったい」

 

 ぐちゃぐちゃになっていた頭を整理しなおす。

 頭は冷たいし。外を見ても日が沈んでおり、さっぱりと涼しさが心地よい。

 そう言えば、意識を失う直前も川辺の涼しいところだった。

 思い出した。

 彼女に詰め寄られているところで、石に足を取られて頭を打ったんだった。

 

「錦野さんとこの嬢ちゃんと川辺で遊んどったら、足滑らして頭を打ったんやで」

 

 そうだったろうか。

 そう語る祖父の言葉に少しだけ疑問を持ち、彼女の方を向く。

 彼女はボクを見ながら片目を閉じて、人差し指を口元に当てていた。

 その仕草にボクの口元はしびれてしまい、首を縦にするしかなかった。

 

「ボクも色気づく年になったんやな」

 

 そう言いながら祖父はボクの額を少しだけ弾いて、水滴を拭ってくれる。

 

「嬢ちゃん、ありがとな。ウチのをおぶって来てくれて」

 

「ええですよ。一緒にあそんどったんにケガさせてしもた、ウチの責任やし」

 

「そう言ってくれると助かるわ」

 

 横になっているボクの上で会話は進んでいく。

 

「せや、錦野さんとこの野菜はウチもよう世話になっとる。今回の礼も兼ねて、コレを持って帰ってもらお」

 

「そんな、ええですよ」

 

「ええから、ええから。ウチの気持ちやから受け取ってもらわな困るわ! かあちゃん、アレどこにおいといたかな」

 

 そんなことを言いながら祖父は奥の部屋に行き、何か手土産を用意するようだった。

 祖父は、こうやって誰かにお礼をするのが習慣になっており、それ用の品をストックしているほどだった。曰く『受けた恩は返しとかな、後で何言われるかわからんからなあ』とのことだった。世間の荒波に揉まれた経験からか、そういう手を使いながらどこに対してもそこそこにやっていた。

 

「ほんまにええんやけど」

 

 そう言って、少しだけ困っている彼女にボクは聞きたかったことを尋ねる。

 

「どうして、ボクの家を知ってたの?」

 

「ウチは農家やってん。農協に品卸する傍らに定期的に購入してくれるお得意様も探しとるんやけど、ボクんとこのじいちゃんはえろう気に入ってくれはる、ほんまもんのお得意様や」

 

 知らなかった。昼間は遊びに行っていて、気づけば買い出しが終わっているので知りようがなかったとも言えるが。

 しかし、あまり交流を好まない祖父がお得意様になるほどというのも、少し意外ではあった。

 

「ボクに下手に手え出さんで正解やったな。トラの尾を踏むとこやったかもしれんわ」

 

 得意げに頷いている彼女に少しだけ呆れてしまう。

 今になって見れば、ミドリコというウマ娘は中々に異質な存在だったのかもしれない。

 昔は、その姿にただただ憧れていた。しかし、今にしてみれば違和感は多い。

 

「待たせてわるいな、嬢ちゃん。これ持って帰ってや」

 

「わあ、ありがとうございます。ほんまおおきに」

 

「ええで、ええで。ほんまに気持ちだけやから」

 

 そして、今だからボクにもわかる。このやり取りの悪辣さに。

 

「錦野さんの嬢ちゃんも遠目で見るだけやったけど、話して見ればええ子や。ボクにもようしてくれとるし、よかったら今度ウチに来てや。たくさんごちそうするから」

 

「そんなそんな、ウチこそほんまに助かっとります。今後もよろしゅうお願いします」

 

 祖父は言外に言っているのだ。貸し借りは無しだと。ボクに何かあれば、容赦なく問い詰めるから覚悟をしろと。そこまで過激かはボクにも測りかねる。でも、とんでもなくけん制をしていることだけは間違いなかった。

 

「ボクが仲良うしとる子は錦野さんとこの嬢ちゃんやったんやなあ」

 

 手土産を持ちながら帰る彼女を見送りながら祖父はボクに話しかける。

 

「あんまりいい評判は聞いとらんかった。まあ、南の輩の評判なんかカスみたいなもんやけど」

 

 笑顔で手を振っているはずなのに祖父はそんなことを平気で言ってくる。

 

「でも、ボクのことはえろう気に入っとるみたいやから、安心したわ」

 

 彼女の姿が見えなくなると、祖父は笑いながらボクの頭を撫でる。

 

「あれは腹に一物抱えとるわ。心ン中にバケモン飼っとる目や。魅入られたらあかんよ。こっちがぐいぐい主導権握る気でおらな、あっというまにぱっくり呑まれるで」

 

 ボクに忠告する目は、とてつもなく真剣なまなざしだった。

 

「おじいちゃんはあんまり、他の人と仲良くするなって言ってるのに、お得意様になってるなんて意外だった」

 

 なんとなくこの雰囲気を変えたくて、ボクは祖父に違う話題を振る。

 

「ああ、南んとこの人間は差別意識バリバリの人間が多いけど、錦野さんとこは特別や」

 

 そう言って、祖父は少しだけ困ったような表情を浮かべる。

 

「バカがつくほどの正直もんで、底抜けのお人よしや。少しでも困っとったら、自分たちが困ってんのそっちのけで助けようとするドアホウや。腹の探り合いするこっちがアホらしくなるくらいのな」

 

 笑っているような、困ったようなそんな口調で祖父はそう続けた。

 

「あんなんが商売したらあかんのよ。すぐに食い物にされてしまう。でも、そんなことも気にせんと呑気に過ごしとるんよ、錦野さんとこは」

 

 今までの経験から、祖父はそう語る。

 

「アホやなあ、ほんま。アホやいいながらそのアホが寄越す商品をよう見んと全部買うとるウチもドアホウや」

 

 そう言って祖父は苦笑いを浮かべていた。

 気づけばそんな祖父の服の裾をボクはぎゅっと握り締めていた。

 大人になったからわかる祖父の老獪さと恐ろしさ。でもそれ以上に、どうしようもなく善人だというのが分かってなんだかホッとしていた。

 

「ボクはおじいちゃんがドアホウでよかったと思うよ」

 

「ボクが言うんなら、そうやろなあ」

 

 穏やかに笑いながらボクの頭を撫でる祖父。その声の暖かさにボクは少しだけ涙腺が緩んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 あれから結構な日にちが経った。

 

『今日は8月15日、終戦記念の宣言が行われており…………』

 

 朝食を食べながら見るテレビではそんな話題をやっている。しかし、ボクが見える日付は変わらずに8月32日を指している。

 やはり、ボクはまだ32日からは抜け出せてはいない。

 朝ご飯を食べて、祖父と祖母に見送られながら、今日も抜け道を探す冒険に出掛ける。

 といっても、もっぱら向かうのは彼女の所だ。

 

 

 影と併走しながら、あぜ道を駆けていく。

 

 

 大体、川辺か、この田んぼ付近で彼女とあうのだが、今日は居ないみたいだった。

 少し気になって、普段よりも南の方により近づいていく。

 祖父からの忠告をボクはことごとく守らない。そして、そんなときは決まってしっぺ返しを食らう。

 それを学習しているはずなのに、ボクは繰り返してしまう。

 

「アンタがおると空気が悪くなるんや。もう、来んな! このばいた!」

 

 そんな声が聞こえた。経験則からこれ以上進むなということはわかった。

 でも、それ以上にその先を知らなければいけないという義務感のようなものも覚えた。

 ボクは、全ての警笛を無視してその声の方に近づく。

 

「は? 知らんわ。普段はギャーギャーギャーギャー騒ぎよって、たまに練習来たかと思ったらその態度はなんや」

 

 身に覚えのあるウマ娘、ミドリコの姿が見えた。

 彼女一人に対して、五、六人のウマ娘が彼女に詰めかけている。先ほどの罵声を浴びせたのはその集団の中で少しだけ前に出ている黒鹿毛のウマ娘だった。

 

「ウチらが勉強しよる間にアンタは男とっかえひっかえしとるやつに言われたないな」

 

「チッ……あほらし」

 

 その呆れた態度はタマモとだぶったような気がした。

 謂れのない誹謗中傷を浴びせられている。それをどうにかしないといけないと思った。

 しかし、事態はボクが思っていたものとはだいぶ違っていた。

 

「せやで、アンタが勉強しよる間にウチはアンタの彼氏と寝とったわ」

 

「なっ」

 

「アイツいうとったわ。やっぱり全然ちゃうなあ、お前の方が何倍もええなあ言うて」

 

 パンと乾いた音が聞こえた。

 

「ほんまに気色悪いわアンタ。そんなんやから捨てられるんやこのバケモンが! 覚悟しとけよ」

 

 黒鹿毛のウマ娘が涙を溜めながらミドリコに平手打ちをしていた。

 黒鹿毛のウマ娘の一声で、ミドリコの前から全員、立ち去る。

 

「ほんま、アホらし」 

 

 無表情のまま、ミドリコはぶたれた頬を撫でていた。

 

 声をかけようかと迷っていたら、彼女はこちらの姿を捉えた。

 先ほどの能面のような顔に表情が宿り、嬉しそうにこちらに近づいてきた。

 

「なんや、ボク見とったん。恥ずかしいわあ」

 

 その切り替えがボクにはすごく恐ろしく感じていた。

 

 

 

 ボクたちは、祖父の家に続くあぜ道に移動していた。

 

「ええか、よう見とってや」

 

 そういって彼女は体を前傾させる。

 

「こうやっ!」

 

 抉れるほどに地面を蹴りながら彼女は疾走する。

 跳んでいるようにリズミカルに足を動かしていく。

 普通、短距離型の選手であれば接地面を小さくして、その反発を利用する。

 追い込み型の選手であれば、接地面を大きくして、反発を少なく、後半にスパートを持っていく。

 

 彼女の走りはというと、接地面を大きくしながらも、地面に触れている時間が圧倒的に少ない。反発を大きく利用しながら前傾で進むことで途轍もない推進力を得ていた。

 それが彼女の稲妻の正体とも言える。

 ということは、言い換えると

 

「あかん、スタミナ切れや~」

 

 600m、およそ三ハロンほどで彼女の勢いは減速する。

 

「これは末脚で残しておかないと、いけないのでは」 

 

「あかん、あかん。ウチは最初から最後まで爆速で駆け抜けるんや」

 

「でも、スタミナが続くのかな」

 

「それは……それは……走ってみらんとわからんやろ!」

 

 いや、だから、さっきのスタミナ切れを起こしたのではと、言いたくなった。

 このまま言っても水掛け論になるのは目に見えているのでボクは特に何も言いはしなかった。

 

「お姉ちゃんの走るはすごく、速い。それこそ、稲妻みたいだ」

 

「どうしたん、急に。えろう褒めるやん」

 

「でも、だからボクは、思うんだ。稲妻は、最後にピカッと光って全部を魅了する方が、カッコよくないかなって」

 

「ほう」

 

「だから、お姉ちゃんは、最初は力を溜める。バチバチって、雲が電気を溜めるみたいに、そして最後に、ピカッと光って、他のウマ娘も、音も、全部を置き去りにして、眩しいぐらいにゴールするんだ」

 

 ボクの言葉を聞いた彼女は神妙な面持ちで考え込んでいる。

 

 どうだっただろうか。

 スカウトしたばかりのタマモクロスとも同じようなやり取りをした記憶がある。

 当時のタマモは、野心に溢れていて、少しでも他のウマ娘が見えると神経質なほど圧倒しようとしていた。

 それでは、やはり、スタミナが尽きてしまう。だから、ボクは今と同じように言った。

 

『本当の、強者とは、どっしりと構えているものだ。他のウマ娘の挑発なんか気にしない』

『ああん? アンタにウチの何が分かんねん!』

『何も、分からない』

『やったら!』

『でも、君のその足が恐ろしく速く走れるのは、わかる』

『……』

『君が最初にどっしりと構えて、仕掛ける瞬間になったら、全部を置き去りにして、あっという間にゴールする。その実力があることはわかる。そして、ボクは、それをレースで、一番近い場所で、見たいと思っている』

『なんや、なんやそれ……』

 

 

 

 

『乗せるのうまいやん、自分』

「乗せるのうまいやん、自分」

 

 

 二つの稲妻が走ったような気がした。

 ボクの心を止めるぐらいに痺れるような、まばゆい笑顔だった。

 タマモとそっくりな笑顔。

 ひどく綺麗で、見惚れるほど美しくて、泣きたくなるほど胸が痛くなった。

 

「しゃーないわ、そんだけ熱烈な告白されたら、ウチも我慢するしかないわ」

 

「別に、告白じゃ……」

 

「ほんまかぁ~? でも、ボク、ウチの走りに惚れとるやろ」

 

 その自信にあふれた獰猛な笑みはボクの口をずっとしびれさせたままで、やっぱり、首を縦に振るしか出来なかった。

 

ーーーーーーーー⌚ーーーーーーー

 

 

「こんなんで、どうやろうか」

 

「とっても、素晴らしいと思う」

 

「せやろ? うちもめっさ走りやすかったで。今日のボク、なんや“トレーナーさん”みたいやなあ」

 

「それは……」

 

「ボク、“トレーナーさん”って知っとる? レースを走るウマ娘にはな、“トレーナーさん”いう人がついてお世話してくれるんやで。今日のボクは、ほんまウチの“トレーナーさん”みたいやったわあ」

 

 みたい、というか、その通りというか。

 鋭い彼女の発言に、ボクは続きの言葉を落としてしまった。

 

「ウチは速い。ウチは可愛い。そしてちっこい“トレーナーさん”もついた。これなら推薦も間違いないな!」

 

「推薦?」

 

「せや。推薦、兵庫のトレセン学園のな。ウチ、走ることばっかで、頭の方はからっきしやさかい、推薦もらわなあかんねん」

 

「そっか……」

 

 彼女の実力ならば、間違いなく合格できると、思う。

 でも、ボクは何か嫌な胸騒ぎがしていた。

 脳内で警笛が鳴っているのに、その胸騒ぎの原因がなんなのか、もやがかかってわからない。

 

「ほんま、ありがとなボク!」

 

 くしゃりと笑う彼女の眩しさに、ボクの頭の中の全部が、眩んでしまった。

 

 

 

 もう日も沈みかけている。

 でも、まだ時間はあるので家には帰らずにいつもの川辺の方に向かっていた。 

 

「さっきの人たちも一緒にレースしてる人たちなの?」

 

「ああ……あれな、どうやろ。ウチにもようわからん」

 

「どういう、こと」

 

「普段は遊び惚けとるくせに、合宿とか、レースの前になったらちょろっと練習して頑張ったとか抜かす、クズどもや。ウチは、あんな奴らと一緒にされたない」

 

 彼女はむすっとした顔で教えてくれる。

 

「だから、あんまり仲が良くないんだ」

 

「せやで、あんなゴミだめと仲良うするくらいなら、舌切って死んだ方がマシや」

 

 冗談めかした様子もなく、真剣な表情で彼女は答えていた。

 

「さっきの人たち、お姉ちゃんにひどいこと言ってた。あることないこと」

 

 そう言うと、彼女は一人、足を止めた。

 

「いや、ほんまやで」

 

「え?」

 

「ウチは、走り終わって、日が暮れてからは、勉強もせんと若い男か、欲持て余しとるおっさんと寝とるよ」

 

「なん、で……」

 

 背筋が震えた。どっと噴き出した汗がべっとりと張り付いて気持ち悪い。

 開いた口が塞がらない。荒い呼吸のせいで、口が渇いてしまい、続きの言葉が出てこない。

 たぶん、警笛の一つがこれなのだろう、という確信が持てた。

 思わず、耳を塞いでしまいたくなる。

 

「なんでって、ウチがぶっ壊れとるからや。バケモンやから」

 

 逆光で、また、彼女の表情が見えなくなった。

 じりじりと詰め寄ってくる。近づくほどに彼女の口から甘い吐息が漏れ出ているのが分かる。

 

「村の独り身と若い衆はぜーんぶウチは喰ったよ。結婚しとる奴も言い寄って来たヤツは拒まんと全部食い散らかしたわ」

 

 体が動かない。足が固まったようにびくともしない。

 

「あと、食ってへんのは、ボクだけや。……あかんなあ、我慢しよ。我慢しよおもてんのに、手出したらあかんのに、抑えきれへんわ」

 

 以前のように檄を入れて、足を動かすと、また重心が後ろになった。

 体が宙に浮く。

 意識が消えてしまうだろうというのがはっきりわかる。

 どこかボクは安心していた。

 

 

「させへんよ」 

 

 

 

 しかし、彼女の蛇のような眼光からは逃れられなかった。

 

「ウチ、負けずぎらいやから、狙った獲物逃がしたないねん」

 

 そう言って、彼女はボクが頭を打つ前に、横にさせる。そして、ボクの上に跨った。

 

「なあ、ボク、ウチが大人にしたる」

 

 彼女はボクの顔を覗き込みながら、滑らせるようにボクの体を撫でる。

 

「大人って、気持ちええよ」

 

 ブンブンと振る彼女の尻尾はボクの足に時折かすってくすぐったい。

 

「ぐちゃぐちゃになろ、ボク」

 

 男と女がいればそうなるのだと、彼女の眼は語っている。

 本能的にボクも胸のドキドキが抑えられない。これから起ころうとすることに期待している自分がわずかにでもいるのが、わかる。

 でも、やはり、ボクは、こんなのは嫌だった。

 

「お姉ちゃん」

 

「どしたん」

 

「お姉ちゃんは、どうして、こんなことをするの」

 

「……大人になるんわ気持ちええ。ボクにも教えてあげたいねん」

 

「お姉ちゃんは、ボクのことが好き?」

 

「…………好きやで」

 

「ボクも」

 

「…………あっそ」

 

「お姉ちゃんは、ボクが好きだから、こういうことを、するの」

 

「どうやろ……わからんわ」

 

「ボクは、好きな人とがいい」

 

「そっか……なら、ウチが教えてあげなな」

 

「でも、お姉ちゃんとは、こんなことするより、お姉ちゃんが走っているのをボクはずっと見たい」

 

「なっ……」

 

「ボクはお姉ちゃんが好きだ」

 

「…………」

 

「お姉ちゃんが走っている姿が好きだ。笑っている姿が好きだ。嬉しそうに夢を話してるところが好きだ」

 

「……やめてや、ほんま」

 

「ボクはお姉ちゃんが好きだ。だから、ボクは、走っているお姉ちゃんが、見たいけれど、君がそうしたいのなら、ボクは、それでいいと思ってる」

 

「あかんあかんあかんあかんあかんあかん」

 

 思いは伝えなければ、風化してしまう。

 ボクは、本当に伝えたかったことを彼女に伝えた。その言葉は、少年のボクではなく、今のボクのものとして、出力できていたみたいだった。

 彼女は、うわごとのようにずっと呟いている。

 

「ウチは、ぶっ壊れとんねん。ウチはボクのこと喰いたくてたまらん。やのに、なんやこの気持ちは……ほんまに、なんや」

 

 彼女は顔を上げて自分に言い聞かせるように、ぶつぶつと呟いている。

 夕日に照らされてか、彼女の顔から首元にかけて真っ赤だった。

 目は液体を反射してキラキラと輝いている。

 

「ほんま、あほらし」

 

 彼女は、またボクの顔を覗き込んだ。

 その瞬間にボクの額に、水滴が数滴こぼれた。

 

「ボク、見た目の割に、ずいぶん悪~いボンや」

 

 

 そう言って彼女は、ボクを貪った。

 力の限り、ボクを抱きしめた。彼女の腰に腕を回して、抱きしめ返すと、さらにぎゅっと力が増した。

 彼女はそれ以上、ボクを呑みこむことはなかった。

 

 

 

 

ーーーーーーーー⌚ーーーーーーー

 

 

「ウチが初めて女になったんは、ボクと初めて会った年の秋や」

 

 日が暮れて少し経った。祖父が心配しているかもしれない。

 でも、それ以上に、彼女と身を寄せ合いながら、川辺を見るこの時間が惜しいと思った。

 

「村の中でも一、二を争う脂ぎったオッサンでなあ、『お玉に男を教えたる』っていうてこっちの話も聞かんとウチは呑まれてしもた」

 

 彼女はそう語りながらぎゅっと膝を強く抱える。

 

「お玉……」

 

「せや、ウチは村一番の別嬪で、玉藻御前みたいや大人から言われててん。……村のオッサンどもは、昔話が大好きやさかい、えろう別嬪やった昔の人の名前で呼ぶんよ。そんで玉藻御前みたいなウチやから、お玉やねん」

 

「そう、なんだ」

 

「ウチに惚れたら呪われんで~」

 

 彼女は、大げさに身振り手振りをしてボクを怖がらせようとする。

 

「うん、もう惚れてる」

 

 ボクは、彼女の健脚に惚れている。惚れていた。どうしようもなく心が震えた。

 

「なんやそれ……ほんま調子狂うわ」

 

 その気持ちを伝えると、彼女の言葉に勢いがなくなった。

 少しだけ、ザー、ザーという川の音と、虫の夜奏だけになる。

 

「そんで、オッサンに男の味を教えられた次の日にな、ウチの商品の売れ行きがよくなった。オッサンもよう物を買うようになった」

 

「そう、なんだ」

 

「その後な、オッサンから話聞いたんか知らんけど、時々女日照りのオッサンどもがな蛾みたいにウチに群がってん。ウチはウマ娘で人間に比べたら力はあるけど、中坊になりたてんガキじゃあ、大の大人には敵わんかった」 

 

 呆れたように彼女は話す。

 

「オッサンどもに好き勝手されて悔しかったし、恨みつらみもあった。でもな、物が売れんねん。今まで、うんともすんとも言わんかったウチとこの野菜が飛ぶように売れる。飯は豪華になったし、布団もふかふかになった。綺麗なベベも買うてもろた」

 

 ガサガサとその辺の石たちを物色して、彼女は一つの石を川に投げ出した。

 

「そっからや、ウチがぶっ壊れたんわ」

 

 その眼には少しだけ狂気が宿っていた。

 

「生活がな、全然違うんや。見える世界が全く変わった。そしたら、ウチン中にあった、欲しい、欲しい、いう気持ちが全然抑えれんくなった。アレも欲しい、これも欲しい」

 

 どっと、負の感情が彼女の口からあふれ出してくる。

 

「愛が欲しい、男が欲しい、気持ちようなりたい。みんなみーんな欲しい。ウチんもんや」

 

 彼女の口から少しだけ甘い吐息が漏れ出る。

 

「そっからは、夜な夜な遊び惚けるようになって、朝に帰るんが普通になった」

 

「お父さんや、お母さんは心配しなかったの」

 

 ボクの言葉に、彼女は少しだけ、泣きそうな、困ったような笑顔を浮かべる。

 でもそれはすぐに掻き消えた。

 

「別に、どうでもええわ。あんなドアホ、二人」

 

 吐き捨てるように彼女はそう言った。

 

「あんな、バカや大バカじゃ言い表せんくらい、くっそ能天気なドアホウ共なんか、いくらでも心配かけたったらええ」

 

 少しだけ怒気が混じった口調で彼女は続ける。

 

「ウチはな、捨て子や。三歳でド畜生どもに孤児院に捨てられた、よう要らんごく潰しや。せやのに、あのドアホウはそんなウチを引き取って、自分の娘みたいに甲斐甲斐しく世話してん」

 

「優しいお父さんとお母さんだね」

 

「んなわけあらへん。アホや、まれにみるドアホウや。野菜が売れへん言うんに、今年もあんまり売れへんねえ言うて、なーんも気にせんとヘラヘラ笑いよる」

 

 ボクの言葉は彼女の怒りをさらに悪化させたみたいだった。

 

「野菜が売れ出したら、やっぱ神様が見とってくれはるんやなあいうて、前と変わらずになーんも変わらんとヘラヘラ笑って過ごしとる」

 

 でも、話しているうちにそれは呆れに変わっていた。

 

「そんで、年頃の娘が朝帰りしたら、泣きながら『どこいっとってん』言うくせに、別に関係ないやろ、言うたら、またなーんも気にせんと『そか。腹、減ったやろ。アンタん好きなもん作ったから食べて寝や』いうてヘラヘラ笑いよるんや」

 

 その眼は以前見た祖父のようでもあった。

 

「もう、泣きたくなるほどのドアホウや、人の言葉を鵜吞みにする。騙されてもそれに気づかへん。アホアホアホ。どうして昔より贅沢できるんかなんもわかってへん、アホタレどもや」

 

「お姉ちゃんは、お父さんとお母さんのことが大好きなんだね」

 

「は? ボク、今の話聞いとったか? なんで、あんなバカタレども好かなあかんねん。正直、顔も見たないわ!」

 

「じゃあ、どうして、お家の手伝いしてるの」

 

「それは……ウチの寝床やし」

 

「でも、もっといい暮らしもお姉ちゃんは知ってるんでしょ。……方法はアレだけど、もっといい生活が出来る場所に転がり込むくらい、お姉ちゃんなら訳もないんじゃないの」

 

「それは……」

 

「お父さんとお母さんにいい暮らしをしてもらいたいんだよね」

 

「は?」

 

「ウチのおじいちゃんを怒らせたら、お父さんとお母さんが困っちゃうから、ボクに話を合わせるように言ったんだよね」

 

「な、なんやそれ。わからん、意味が分からん」

 

「キミは、お父さんとお母さんが大切なんだ」

 

 ただ、彼女は正直じゃないだけだ。

 

「嫌なことや辛いこともあったけど、それで、両親が幸せになってくれるならって、一心でキミは耐えた。そして、壊れたんだ」

 

「何、知ったような口聞いてん」

 

「だって、キミがアホだと罵るお父さんとお母さんのことを話している時の顔は、すごく、楽しそうで、綺麗だった、から」

 

「ほんまにアンタ!……ボクはほんまに悪いボンや」

 

 彼女はそう言って、少しだけ口を閉ざして川を見つめていた。

 

 彼女は、両親の深い愛情を理解していて、そして、それに何か報いたいと思って、彼女は道を踏み外した。いや、突き落とされた。そして、自分から深くまで潜っていった。

 そしたら、彼女は心が壊れた。今も全部が欲しいという耐えがたい欲求に襲われている。

 でも、やはり、壊れた彼女が帰る場所は両親の所。もっといい生活があっても、彼女にとって一番欲しいものがそこにあるから。

 困ったような泣いてるような彼女の笑顔をじっと眺める。

 何も知らなかったボクでは、絶対に届かなかった彼女の心の内側に、少しだけ触れられた気がした。

 

「な、なんでボクが泣いとるんや」

 

「わからない。わからないけど、でも溢れてくるんだ」

 

 彼女の心の内に触れた瞬間、ボクが落とした記憶が引き寄せられていく。

 思い出した。

 ボクはずっと前から夏に囚われていた。

 でも、それは昔のボクでは到底受け入れられなくて、そのことさえ忘れるように遠くて深い場所に落としていたんだ。

 だから、この記憶をずっと忘れていた。

 

 

 彼女は、この夏の終わり、31日に自分の住んでいる村を燃やし尽くすんだ。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

「ボク、手を離したらあかんよ。ウチの手から離れたら人の波にさらわれるで」

 

 ミドリコは、ボクの手を引きながらそう言った。

 

 祭囃子が聞こえる。

 どこまでも響く笛の音。チン、チンと鳴り響く鐘の音。

 ポンポンと軽い調子で叩かれる小太鼓と、ドンドンと腹に響くような大太鼓。

 がやがやと波のように揺蕩う人ごみ。どっと笑い声に満ちた空間。

 

 ボクは、彼女に連れられて夏祭りに来ていた。

 

 

 今から三日前。

 いつものようにあぜ道で稲妻のように走る彼女の姿を見て、日暮れになれば川辺で語る。

 いつものように決まったやりとりの中で、彼女は語った。

 

『うちん村はな、8月の最終週の日曜に夏祭りするんよ』

 

 彼女の語る言葉にボクは聞き覚えがあった。

 この日を境に、当時のボクは少しだけミドリコのことが恐ろしくなったのだ。

 彼女の内にあるものを垣間見たのかもしれない。

 

『今年はえーっと……28日やな。せやから、ボク。ウチと一緒にデートせえへん?』

 

 そう言って、顔をくしゃりと歪ませて八重歯をむき出しにして彼女は笑った。

 遠い日の記憶だ。美化しているのが普通だが、やっぱり彼女の笑顔は泣きたくなるほど美しかった。

 

 

 

 大きな鈴に、とても立派なしめ縄。ひどく頑丈なお賽銭箱は、村という小さな規模にしてはとても立派だった。

 

「ここは、神社やから、二礼二拍手一礼や。ちゃんとしとかな、近所の子から笑われるで」

 

 そう言いながら、彼女はボクの手をぎゅっと握って、五円玉を渡してくれる。

 

「ご縁がありますように、ってな。ウチとこは縁起担ぐの好きやねん」

 

 そんな何気ない仕草にもボクはたやすく感電してしまい、少しだけ呆けてしまった。

 

「お参りすんだら、おみくじ引こか。えっと今日は8月……28日やな」

 

「たぶん、そうだと思う」

 

 彼女が見ているおみくじは、日替わりみくじと言って、日ごとにくじが用意されている珍しいものだった。

 彼女の返答にボクははっきりとは答えられない。なぜなら、ボクには置かれている全てのくじの日付が32日に見えているのだから。

 

「よっしゃ、小吉や」

 

「ボクは、末吉」

 

「よっしょ、ウチの勝ちやな。ボク、知っとるか。大、中、小、末、凶の順で運がええんやで」

 

 やからウチの勝ち、と言って笑う彼女。

 どんぐりの背比べ、という言葉はいささか無粋だと思ったので口を閉ざした。

 

「イカ焼き、りんご飴、綿菓子、ちゃきちゃき楽しむで! うち等の夏はもう時間がないんや」

 

「そんなに急ぐと、危ない、のでは」

 

 ニコニコと笑いながら彼女はボクの手を引く。

 

 びゅんと、風を切りながら人混みを掻き分けて、屋台を回っていく。

 一つ、また一つ。上に張られた電気線に沿うように立ち並んでいる屋台を渡り歩いていった。

 彼女は稲光のように、あっという間に、目的のものを揃えていく。

 

「はあ、買った、買った。ウチ史上最速やで、ワールドレコードやな」

 

「そんなに、焦らなくても」

 

「いやいや、ウチとボクの夏祭りは8時までや。せやから、楽しむもんははよかき集めな」

 

 8時まで。それが、ボクが祖父とした約束だった。

 

 今回の夏祭りも祖父はあまりいい顔をしていなかった。

 黙って抜け出すのは、違うと思って、ボクは真っ向から祖父に懇願した。

 知らなければいけないことがある。聞かなければいけないことがある。見なければいけないことがある。

 遠い夏の日に落っことした記憶を紐解かないといけない。

 いや、たぶん、ボクは置いてきたんだ。

 遠い日の記憶だとしまいこんでしまった、遠い夏の日に置いた、当時のボクの真意を知るためにも、彼女との夏祭りは絶対に逃がせなかった。

 その必死の説得もあり、8時には絶対帰ってくることを条件に祖父は許してくれた。

 

「やっぱり、イカ焼きはええな。味もようわからんなったじいさんが作っとるんか思うくらい、舌ぶっ壊すような濃い味や」

 

 ボクたちは、目的のものをかき集めた後は、いつものように川辺で戦利品を物色していた。

 

「それは、褒めているのだろうか」

 

「ええんよ。ええ。これが夏や。夏祭りなんよ」

 

「そうだろうか……そうかもしれないな」

 

「ボク、最近になってなんや大人びた喋り方になってんなあ」

 

「逃げないと、決めたから、かもしれない」

 

 しまい込んだ記憶を思い出してからは、ボクの体はボクの思考を直接に伝達できるようになった。

 でも、周りは、そこまで気にしていない。話題も小学生では答えられないようなことを言っても祖父も祖母もそうかというだけで違和感を抱いてはいなかった。

 だから、これは当時に戻ったのではなく、ボクだけが囚われている。ボクが見ている幻覚だ。

 答えの在り処はわからない。でも、ヒントはそこらに転がっている。

 拾い集めて、夏の日の抜け道を探さないといけない。目を逸らさずに。

 

「ほーん、ずっと遊んどるはずやのに、気づいたら大人になっとんのやな」

 

「大人ではないと思う。ただ、子どものままじゃ、ダメだって思っただけで」

 

 たぶん、ボクはまだ子どもだ。体は大人でも、昔にケリをつけられていない。過去を諦めきれていない。

 だから、前に進むために、落としたものも全部拾って清算する。

 

「よう、わからんけど。今の自分、カッコええわ」

 

 くしゃりと彼女が笑う。

 

 この笑顔もきっと、思い出だ。

 

 これだけ離れているのに、祭囃子が聞こえる。全てを忘れて楽しむような笑い声が聞こえる。

 一夜限りの無礼講を、老若男女問わず、全身で浴びて、楽しんでいる。たぶん、終わりがあることを知っているから、彼らは盛り上がるのだ。

 

 明けない夜は、ない。

 

 夢はいつか、醒める。

 

 でも、どうか、彼女の笑顔を見て、泣きたくなるほど美しいと思う、この感情だけは、風化しないでくれ。

 

 

 

「みんな、アホみたいに騒いどる。やかましさがここまで届いとる」

 

「こんな、離れた場所でよかったのだろうか、友達とかは」

 

「おらへんよ。友達なんかいう、薄っぺらいもんはなんもあらへん」

 

 彼女の顔からは表情は抜け落ちていた。

 

「それにな、本当はこの祭りもそんな楽しいもんやないで」

 

「どういう、ことだろうか……」

 

「神社で参拝したやろ。なんか思わんかったか」

 

「ちょっと、立派だったかなと」

 

「せや、ほんまはな、ウチとこの祭りはバカ騒ぎするためのもんやない」

 

「そう、なのか」

 

「龍神様を鎮めるためのものなんや」

 

「龍神様」

 

 川を眺める。

 初めて彼女と出会ったのはここだった。龍神に魂を抜かれそうになったのを稲妻が祓ってくれた。

 

「龍神様は水や川の神様や。なんでかいうとな。川は、氾濫したらみーんな呑みこんでしまう。それこそ龍が暴れ狂ったように、抉って、壊して、全部なぎ倒して全部ぶち壊す。せやから、川の氾濫があるたびにウチとこは龍神を鎮める祭りをしたんや」

 

「それが、今回の」

 

「せや。村にとっては明日生きられるかどうかの一大事やから、ちゃんとした立派なもん作って、機嫌損ねんようにしとったんや」

 

「なるほど」

 

 だから、あそこまで、立派だったのかと納得する。

 

「でもな、おかしいんわ、この話には裏があるっちゅうことや」

 

「裏、とは」

 

「この村の最後に起こった川の氾濫はな、雨や嵐のせいやない。昔な上流で田んぼの水独占しとったヤツがおってん。下流の奴らは、満足な水もらえんで、明日の食い扶持にも喘ぐほどやった。せやから、どうしようものうなった下流の奴らはせめてもの抵抗として徒党組んで、もーっと上の方の上流に行って、ちょっとずつせき止めた。気づかれんぐらいにちょっとずつよ」

 

 それを語る彼女の口は恐ろしく饒舌だった。恐ろしいほどに。

 

「んで、どうにか水をくれんかいうても上流の奴らは水をくれんかった。飢えで一人、また一人と死んでった下流の奴らは、どうもこうもいかんなって、その堰を切った。自分らもめちゃくちゃになったけど、最後の最後で一泡吹かせた」

 

 背筋が凍るような、話だ。

 

「だから、それを反省して鎮めるために」

 

「ちゃうよ」

 

「え」

 

「上流の奴らはな、もう下流の奴らが、逆らえんように、本当に一軒残して全部、根切にした。そして、バカなことした奴らを全部、あの神社の賽銭が置かれとる下の地面に埋めたんや」

 

 手が震える。歯がカチカチと鳴りかみ合わない。

 

「残された一軒をゴミのように扱うようにした。悪いことぜーんぶそいつんとこのせいや」

 

 彼女の表情を窺う勇気が出なかった。

 

「それがウチを拾ってくれたドアホウの家系や」

 

 なにも、言えなかった。

 

「何言われても黙って受け入れなあかん。でも、殺したらはけ口のうなるから、ギリギリで生かされる。もう、人の形した家畜や。そんな生活しすぎたせいか、ドアホウみたいな人間が生まれた。なにも気にせんとヘラヘラ笑っとる底抜けのバカなお人よしや」

 

「ほんま、狂っとるよなあ、この村は」

 

 彼女の瞳にはとてつもない憎悪が宿っていた。

 

「引き取られてからの生活は家畜並みやったんや。それが普通やと思っとったから、なんも思わんやった。でも女にさせられたことで、その話を教えられた。他の男がそのオッサン責め立てんと、ウチに群がったんも、家畜にかける情けなんかないってことやからなんやなって」

 

 この話を、小学生六年生が受け入れろ、というのも無理な話だ。

 

「まあ、でも、ちょびっとだけ残っとった人情のおかげで、ウチはいい暮らしさせてもろた。でも、もうそれも終わりなんよ」

 

「それは、どういう」

 

「ずっと前、ウチのこと叩いたウマ娘おったやろ。黒鹿毛のウマ娘」

 

「覚えている」

 

 束になって、彼女を追い詰めていたリーダー格のような存在だ。

 

「そこの家はな、下流の奴らを根切にしよう提案した主犯の家や。そして、今は村長して、この村で幅利かせとる」

 

「それは」

 

「覚悟しとけよ、言うとったやろ。ウチ、全部めちゃくちゃにされたわ」

 

「どういう……」

 

「ウチは、素行不良で推薦は出せんらしい。ウチの野菜は、規定以上の農薬が出たから、農協に御せん言われたらしい」

 

 祖父があまり関わるなと、言っていた意味がはっきりと分かった。

 これは、悪辣などの話ではない。

 

「憎いなあ、憎いなあ」

 

 彼女は、泣いているような、全てがやるせないような、そんな表情で川を眺めている。

 

「恨んでも、恨み切れん。どうしようもなく、殺したくて、めちゃくちゃにしてやりたくて、たまらんわ」

 

 ただただ、昏く重たい感情が口からあふれ出している。

 

「黒鹿毛のウマ娘んとこの彼氏は、向こうから言って来てん。どうせ、抵抗するだけ面倒になるから、好きにさせとった。サルみたいに貪って来た。そんなんも知らんとクソアマは、彼氏に尻尾振っとんねん」

 

 彼女はどうしようもなくなって、愉快そうに笑っている。

 

「ウチ、おかしくて、おかしくて、堪らんで言うてしもうたんや。ほんまにそれだけやったんやけどなあ」

 

 彼女の感情はドンドンと勢いを増して溢れていっている。

 

「サルみたいな彼氏のせいや、あのクソアマが見抜けんかったせいや。ウチは、わるうない。でも、ウチが悪い。誰よりもウチが悪い。だって、ウチはぶっ壊れたバケモンやから」

 

 それは、自分に言い聞かせるように、納得させるように吐き捨てた言葉だった。

 全てが手詰まりだった。袋小路だ。

 どこにいっても、何をしてもこの閉塞した狂った環境の中では、彼女の感情は吐き捨てたとしても円環のようにまた彼女の下に戻り、さらに濃くなっていく。

 これは、全てを忘れて楽になりたい、昏い記憶だ。

 

「ボクは」

 

 溢れた感情が頬を伝うのも構わず、ボクは彼女に告げる。

 

「ボクは、キミは化け物ではないと、そう思う」

 

 まぎれもない。本心だった。

 

「ボクは、そういうてくれるんやなあ」

 

 彼女は少しだけ、微笑んだ。

 

「なあ、後生や。ウチと一緒に溶けあおうや、ボク」

 

 そして、甘い吐息を漏らしながら、ボクに跨る。

 

「今、同情したやろ」

 

「それは」

 

「こいつは可哀想なやつやんなあとか、ほんもんの親の顔も知らんと、貪られて不幸な道歩んできたんやなとか、おもうとったやろ」

 

「……」

 

「違うよ。違うよ。ウチは可哀そうやない。ウチは不幸やない。ウチは孤独やない」

 

「ウチはぶっ壊れとる。だから、不幸ってなんなんかも分からん。ウチの体目当てのヤツはなんぼでん群がってくる。やから、孤独やない。可哀そうって憐れまれるほど、ウチ、不幸やないで」

 

 どうしようもなく、感情があふれる。

 

「どうしたん、なんでそんな泣いてんねん。大人知るんが、怖いんか」

 

「そうでは……なくて……っっ」

 

「なんや、言うてみい。ウチは腹が減ってしゃあないんや」

 

「キミが……泣いているのに……ボクには……かける言葉が、見つからないっっ!!」

 

「あ?」

 

 ボクの、頬からは感情が溢れていた。でも、額にはぽたぽたと滴が落ちてきていた。

 

 

「な、なんやこれ。ウチ、おかしなってしもうたんか」

 

 彼女は自分の変化に戸惑っているようだった。

 

「おかしくは……ない。……むしろ、今までがおかしかったんだ」

 

 この閉鎖された空間ではそれが普通だったのかもしれない。

 でも、この村は世界から見たら欠片も大きくない。

 でも、一人のウマ娘にはどうしようもないほど大きな潮流だった。流れを変えるなど不可能だった。そうやって、自分を守るしかなかったのだ。

 

「キミは自分のことを壊れた化け物だという。でも、化け物というにはキミは、美しすぎる」

 

「なっ」

 

「そして、壊れた化け物だからといって、悲しんでいけないわけじゃ、ない! キミは、正しくはない。けれど、絶対に悪くはない!」

 

「なんやそれ……なんや」

 

「ボクは、何度だって言う。君は悪くはない。君はおかしくなんかない。ただ、世界の広さを知らなかっただけだ! 理不尽を理不尽だと訴える術を知らなかっただけだ!…………だから、どうか、泣き止んで、ほしい」

 

 ボクは、当時では絶対に言えなかった言葉を投げかける。

 

「知らんよ……こんなん知らん……なんで、こんなに胸が苦しいんや…………っっ!」

 

 ぽたぽたと数滴ほどだった、滴は、ボタボタとドンドンと勢いを増していく。

 彼女の中の澱を流すように、ボロボロと涙を流していた。

 

「ほんま、ボク……自分、悪いボンや」

 

 泣きながら微笑む彼女はどうしようもなく、美しかった。

 

 

 

 

「なあ、ウチ。どうしたら、ええんやろうか」

 

「それは……ボクにも、わからない」

 

 今が何時かはよくわからなかった。

 でも、ボクたちはずっと川を眺めていた。

 そっと手を握っている。たぶん離したらもう掴めないような気がしたから。

 

「もう、遠いとこまで二人で逃げよか」

 

 彼女は冗談めかしていう。

 でも、ボクの答えは決まっていた。

 

「無理だよ」

 

「すぐに言うやん、そうやけどさ」

 

 少しだけ、彼女はいじけてしまう。

 

「だって、キミは、両親を、置いてはいけない」

 

 でなければ、彼女はここにはもう、いない。

 

「っっ…………うっさいわ、ほんま」

 

「祖父に、聞いてみようと思う。無意味に終わってしまうと、思うけれど」

 

「ボクんとこのじいちゃん、すごいもんな。ようバランスとってやりよるわ」

 

「ボクも、キミのところの野菜は……とてもおいしいと、思うから。なんとか、ならないのかな、と」

 

 最近、知ったが、祖父は自分で作った野菜も使うが、祝い事では彼女の家の野菜でないとダメらしい。やはり、それぐらい、とてもおいしい。

 

「……当たり前やん! ウチとこ何年前から農家やっとんと思ってん」

 

 自分のことのように彼女は誇らしげに笑っている。

 そんな彼女には自分だけどこかに行くなんて出来ないのだろう。

 

「ほんまに、そこ抜けのお人よしの癖に、商売なんか、なーんもわかってへんドアホウどもなんに、それだけはピカイチや」

 

「たぶん、育てるのがうまいんだと、思う」

 

「?」

 

「育てるのがうまい人は、良く人を見て、褒めることから、はじめる」

 

 トレーナーだって、そうだ。

 短所の克服ももちろんだが、担当の長所をよく知り、それが誰にも負けないと誇れるぐらいの武器になるように磨き上げるのは、トレーナーの技量だ。

 ボクの知り合いのトレーナーでそれが出来る人達は、最低でも担当をスタークラスにまでは必ず引き上げていた。

 

「キミの両親は、育てるのがうまい。それは、野菜だけでなく、子どもを育てるのも」

 

「っっ」

 

「やっぱり、育てるのがうまいと言っても、人対人になれば、どうしてもいやな部分や、見たくない部分が出てくる」

 

 それは、トップクラスのトレーナーにだって当てはまる。普遍的な事実だ。

 

「キミは、両親のことが嫌いだ。それは、本当に間違いないんだと、思う」

 

 人やウマ娘は生きている。他人を絶対に嫌いにならないなんて、それこそ、どうかしている。

 

「でも、それ以上に大好きなんだ。キミが見惚れるように美しく笑えるのも、気づかないうちに、ボロボロと涙をあふれさせるのも誰かを好きという気持ちがないと生まれない」

 

 すさんだ環境も匂わせないほど、彼女が美しく見えたのは、美しいと思えるほどの魅力を持ち合わせていたからだ。

 それは、全部が壊れてしまって、世界を憎んでい続けていては絶対に手に入らない魅力。

 だからボクは、彼女は、壊れてなんかいないと、化け物ではないとそう思えてしょうがないんだ。

 

「ほんま、やめてや」

 

 彼女は、しおらしくそう言った。

 また、お互いに黙る。

 

 少しして、彼女は

 

「ウチは、ウチは子どもなんか作る気ないけど。でも、出来てしもたら、ドアホウ共に預けるんやろなあ」

 

「どうして」

 

「ウチは、もうバケモンや。バケモンが子どもなんか育てたってあかんよ」

 

「そんなことは」

 

「あるで。あるよ。ウチをぶった黒鹿毛のウマ娘なんか、ドロドロや。なんも知らんくせに、世界の中心は自分みたいな顔しとる。ウチが勝手に生まれたバケモンなら、向こうはほんまもんの由緒正しいバケモンや」

 

「そうなのか」

 

「ゴミやカスが育てたらああなるいう例を見とるからな。あんな子にさせるくらいなら、ウチはおらん方がええ。でも親無しなんか絶対バカにされる。やから、ウチは絶対に子どもなんか産みとないんや」

 

 自分の経験から彼女は、とてもつよい意志で語っている。

 

「男の子やったらうんこたれぞうかな」

 

「それは、さすがに、品性を疑うというか」

 

 考えはするのか。

 

「しょうがないやん。身近な大人なんってうんこたればっかや」

 

「それは、そうかも、知れないけれど」

 

「女の子やったら、そうやなあ。ウチ似の美人なのは確定やから」

 

「もう少し、謙虚さ、というものを」

 

「ボクは、そう思ってへんの?」

 

「そうは、言ってない」

 

「素直やないな~」

 

 彼女は笑いながらボクの頭をむしるように、なんども撫でる。

 

「女の子ならタマモやな。おタマや。ウチと同じ玉藻御前みたいな別嬪や」

 

「っっ!」

 

 ボクに稲妻が走る。

 やはり、そう、なのだろうか。

 薄々感じていたが、そういう、ことなのだろうか。

 

「ウチの子やからな。顔もええやろな。性格もええ。レースの才能もあるんやろなあ」

 

「ああ、そうだよ」

 

「どしたん、ボク」

 

「キミの娘は、幸せだ。世界一幸せだ。顔もいい。性格もいい。レースではバツグンの才能を持っている。……そして、お互いの実力を高めあう仲間がいる」

 

「見てきたように語るやん、自分」

 

「キミの娘は、誰よりも幸せだ。でも、それじゃ完璧じゃない」

 

「そんだけあって、何が足りんねん」

 

「親だ」

 

「……」

 

「狂っていてもいい、壊れていてもいい。化け物でもいい。どれだけ、おかしくても、キミの娘はたぶん、底抜けのお人よしのおじいさんとおばあさんの深い愛情で、おかしくなんかならない。まっすぐに育つ」

 

「やったら」

 

「だから、親さえいれば、完璧なんだ」

 

「……」

 

「ボクは、そう、思うんだ」

 

「……ほんま、アホらし」

 

 彼女が小さく何かをつぶやいていた。それは、ボクには伝わらずに霧散する。

 ボクらを見下ろすように星々が輝いている。

 ただ、ただ、星が綺麗だった。でも、美しすぎて、どこか恐ろしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 夕日も沈んで、虫の声だけが聞こえる。

 

「ボク。今日は、家から出たらあかんよ。絶対にあかん」

 

 夕食を終えた、祖父はボクを睨みつける。

 ひどく強い口調でボクにそう言い放つのだ。

 ここまで、怖い表情をしている祖父は初めてのような気がする。

 何かを覚悟したような顔つきだった。

 

「今日は、なにか、あるの?」

 

「…………ゴミクズどもが龍神様怒らせた報い受ける日や」

 

 祖父は、冷たい声でそれだけ伝えた。

 当時のボクはひどく恐ろしかったと記憶している。

 でも、今ならそれが分かる。

 

 前日の夜に彼女、ミドリコと祖父のやり取りを見た。たぶん、ボクが寝静まったころを見計らってきたんだと思う。

 

 

『どうか、お願いします。ウチのオトンとオカンをどうに救ってください』

『無理や』

『ほんまに、どうか、お願いします』

 

 彼女は、玄関で冷たい床で土下座をしていた。

 それでも、祖父は頑として断った。

 

『無理や。ええか、肩入れくらいなら、見逃される。でも、本当に手助けしたら喰われるんわウチとこや。錦野さんとこが憎いわけやない。わかってくれ、とは言わん。恨むんなら、無能なウチを恨み』

『…………すんません、差し出がましいお願いでした』

 

 彼女も、祖父の意志を汲み取ったのか、それ以上食い下がりはしなかった。

 そして、望みを絶たれたような、無理だとわかって安堵したような複雑な表情だった。

 力なく立ち去ろうとした彼女を、祖父は引き留める。

『……………………待ち、嬢ちゃん』

 

 祖父は、ひどく低い声で、悪魔のような提案をし始める。

 

『明日は、31日や。夏も終わる。最後にでっかい花火があがる祭りもあるらしい』

 

 彼女はだまっている。

 

『ボヤが起こるんわ、しょうがないで。警察だって、そりゃ、近くうろついとるやろな。ウチも、見回りするし、ボヤが見えたらすぐに通報してしまうやろな』

『……それは』

『恨むなら、ウチを恨み。こんな世迷言しかつぶやくことが出来ひん、耄碌したジジイや』

『……ありがとう、ございます!』

『ドクズに、感謝するなや……こんのドアホ!』

 

 龍神様の祟りが、ドンドンと形を成していく瞬間だった。

 

 

「ボク、明日には東京ん帰るんや。準備しとき。楽しく終われるかはわからへん。でも、最後や。悔い残さんようにな」

 

 今日だ。

 最終日の31日だ。

 たぶん、32日を抜け出す道は今日にある。それ以外は考えられない。

 

「おじいちゃん」

 

「なんや」

 

「ボク、お姉ちゃんに挨拶してない」

 

 その言葉に、悲しみとも憤りとも言えない表情をし始める。

 

「だから、ボクも」

 

「アカン!……絶対にアカンよ」

 

 祖父が低い声でボクを制止する。

 ああ、やはり、これはもうどうしようもない流れなのだ。

 

「……ボヤの見回りをするんでしょ」

 

「……ボク」

 

「おじいちゃん、これは絶対に行かなきゃいけないんだ」

 

「……」

 

「ここで、寝てたら、ボクは一生後悔をしてしまう。いつまでも夏に囚われたままだ。どうしたって、遠い夏の日に引きずられて、夢から醒められないんだ」

 

 ボクは、本当のボクの記憶では、彼女に会わないまま、夏が終わった。

 そうだ。挨拶をしていない。後悔を残して、でも向き合いたくなくて、遠い日に置き去りにした。

 ボクは後悔していた。

 来るはずのない8月32日に囚われているのだ。

 その日に彼女に別れを告げなければ、ボクは夢からは醒めない。

 

 

「……勝手にしいや、ドアホ!」

 

「ありがとう、おじいちゃん」

 

「せやから!……ドクズに感謝してくれるなや」

 

 祖父は、震える手でボクの手を握ってくれた。とても大きくて暖かった。

 

 

 

 

 

 

 

「火ぃが上がったわ」

 

「もう、連絡するの?」

 

「いや、勢いが弱いわ。もうちょいまたなアカン」

 

 ボクらは遠巻きに龍神様が荒ぶる様子を見ていた。

 

「大丈夫、かな」

 

「それは、わからん」

 

「でも……この村のクソったれ共が作ったバケモンは、全部ぐちゃぐちゃにするまで絶対に止まらんわ」

 

 火が上がる。

 その勢いはドンドンと増していき、消防団のかんかんという音も響きだす。

 

「そろそろや」

 

 そう言って、祖父は携帯を取り出す。

 こういったハイテクなものも祖父は好んで使っていた。

 

「もしもし、火が上がっとります。場所は〇〇です。消防車はもう、呼んでます」

 

『……そうですか』

 

「なんや、アンタ! 火上がっとるんやで!!」

 

『アンタ、その村出身ちゃうやろ。ウチとこには連絡来てへんねん』

 

「こんのド畜生がああああ!!」

 

 ここまで激昂する祖父は初めてだった。やはり、すごく怖かった。

 

「ボク、これがな、関わるな言うた理由や。人を食いもんにするっちゅうことや。よう覚えとけ」

 

 祖父はひどく冷たい口調でそういうが焦ってはいなかった。

 というよりは

 

「そして、これがな、人を食いもんにしとる輩を食いもんにするドクズの姿や」

 

 獰猛な笑みを浮かべながら違う場所に電話をかけ始めた。

 

「もしもし……ええ、〇〇です。えろう、お世話になっとります。△△さん、ええ感じのドクズおりましたわ。点数稼ぎにどうですか?……いやいや、そんなおだてんとってくださいや。お互い助け合っていきましょうや。そんで話変わるんですけどね。そのドクズのせいでボヤ騒ぎがあるんですけど、来てくれんのですわ。……どうかならへんかな? あ、いいですか。ありがとうございます。いえいえ、ほんまほんまこっちこそ、おおきに」

 

 そう言って、祖父は電話を切った。

 

「これで、警察は来てくれるわ」

 

「今のは……」

 

「ボク。貸しは作っても、借りは作ったらあかんよ」

 

 こちらを見ずにただただ、燃え盛る火を見ながら祖父は語る。

 

「本当は、こんなんしたらすぐに目え付けられる。知らず知らずのうちに恨みつらみ買うて、食いちぎられる。食いもんにされる。ほんまに人生かけてもええ時以外は、自分から手を伸ばしたらアカン」

 

「……」

 

「でもな、錦野さんとこの野菜は、ほんまに美味かったわ。あの嬢ちゃんはほんまにボクにようしてくれた」

 

 見上げていて少し、表情が見えないけれど、でもその声はとても穏やかだった。

 

「じいちゃんはな、善人やない。極悪人や。人を散々食いもんにしてきた極悪や。どれだけ人を不幸にしてきたか数えきれへん……でもな、せやから思うねん。錦野さんとこは、幸せにならなあかん人やった。それをじいちゃんが今、壊しよる。……ボク、恨むならじいさん恨みや」

 

 そう、語る祖父の声はわずかに震えていた。

 ボクは祖父の裾をぎゅっと握った。

 

「おじいちゃんは、極悪人じゃないよ。ただのドアホウ。ただ、受けた恩を絶対に忘れない、ドアホウだ。……そして、ボクはおじいちゃんがドアホウでよかったと本当に思ってる」

 

「そうか、そうか。……ボクが言うんなら、そうなんやろなあ」

 

 そう言いながら、祖父はボクの頭をずっと撫でてくれていた。

 後ろから、サイレンが聞こえてくる。

 たぶん、もうすぐ夢から醒める警告なんだろうと思った。

 

 

 

 

 その後の対応は想定よりずっと早く、恙なく終わった。

 彼女は、複数人の警官に連れられて、パトカーに乗ろうとしていた。

 だから、ボクは駆けつけた。

 

「お姉ちゃん!!!」

 

「キミ、誰や」

 

 彼女は、ごみを見るような目でボクを見ていた。

 そうだ。

 関係があるような素振りをすれば、ボクや、その祖父にまで被害が及ぶと彼女は理解している。

 でも、ボクには関係ない。

 ボクは、ここで彼女に別れを告げて、この長い夏から抜け出さないといけない。

 

「ボクは、キミが好きだ!」

 

「初めて会った時から稲妻みたいなキミの姿に見惚れていた!!」

 

「走る姿が好きだ! 笑顔が好きだ! 家族が大好きなところが好きだ!」

 

「好きだ! ありがとう! ボクはキミが好きだった。大好きだったんだ! そして、どうしようもなく言いたかった! この喉が枯れて、枯れはてるぐらいの声で、ありがとう!!!! そう伝えたかったんだ!!!!」

 

 前が見えない。全てが、ぼやけてくる。

 

「なんやそれ」

 

 思い出の彼女はボクに言葉を返す。

 

「ウチは、そうでも……なかっ……たわっっ!!!」

 

 ぐちゃぐちゃの目の前で彼女の姿はよく見えない。

 でも、そういう彼女の声はひどく震えて、いた。

 よかった。

 ボクは、これで、夏が終わるんだ。

 囚われていた8月32日ではなく、9月1日に進むことが出きる。

 ありがとう。

 ほんとうにありがとう。

 

 ボクの遠い日の稲妻。

 

 

 ボクは、どうしようもなく、キミに救われたんだ。

 意識が薄らいでいく。

 たぶん、泣きつかれてこの体は眠ろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「また、あのドアホウ共に言えへんかったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

 

「キミは!」

 

「やっと起きたんか、トレーナー」

 

 泣きそうな顔で笑っていた彼女に手を伸ばそうとした。

 でも、目の前にいたのは、彼女ではなかった。

 赤と青の髪飾りをした白い稲妻だった。ボクの担当ウマ娘のタマモクロスだ。

 

「タマモ。ボクはどれくらい寝ていた、だろうか」

 

「トレセン学園にバスが着いてから、30分ぐらいやな」

 

 思わず、笑いそうになってしまった。あの日はたった、それだけしか経っていなかったのかと。

 でも、それ以上にタマモに聞きたいことがあった。

 

「キミのお母さんは」

 

「なんや、あのド畜生の話なんか蒸し返して」

 

「ミドリコ、という名前を持っていただろうか」

 

「!?……なんで、トレーナーが知っとんねん」

 

 ああ、やはり。

 やはり、そうだ。

 ボクは、どうしたってこの気持ちを抑えきれなかった。

 思わずタマモの両肩を掴む。

 

「うわ、何してんねん」

 

「キミの……」

 

「んあ?」

 

「キミの、お母さんは、キミのようにすさまじい、稲妻だった」

 

 これは、これだけは彼女に伝えないといけない。

 

「キミのお母さんは、恩知らずでは、ない」

 

 そうだ

 

「キミのお母さんは、キミのことをたぶん、愛していなかったわけでは、ない」

 

 そうだ

 

「キミのお母さんは、どうしようもなく、おじいちゃんとおばあちゃんが大好きだった。深い愛情を抱いていた。キミにも愛情を抱きたかった。でも、それが出来なかった」

 

「ほ、ほんまになんや」

 

「キミのお母さんは! 世界に全部をぐちゃぐちゃにされた! そして、彼女はきっと、今も! 夏に囚われている!!!」

 

「落ち着けや、トレーナー」

 

 そう言って、タマモはボクの両頬を掴んでボクの顔を見る。

 

「ようわからん。トレーナーの言うとることは、全っ然ウチには分からん」

 

 彼女は、ボクの言葉をばっさりと切る。 

 

「でもな」

 

 そういって、彼女はくしゃっと笑って八重歯をむき出しにした。

 

「アンタが言うとんねん。ホンマなんやろうな!」

 

 ボクの体に稲妻が走った。どうしようもなく、美しい笑顔だった。

 

 

[newpage]

 

 

「また、おんなじ夢見とったわ」

 

 ぼんやりとしながら体を起こそうとする。

 ウチは、ゴミ袋を布団にして寝とったらしい。

 いつもや。いっつものこと。

 寝たり、意識飛んだりすると、昔の思い出見んねん。

 ほんまなんやろ、これ。

 

「あんころはよかったなあ」

 

 そういいながら、ウチは周りを物色しながら、賞味期限が切れたぐらいの弁当を見つけて、腹の中に入れる。

 毎日が楽しかったわ。ボクと遊ぶんは、よう楽しかったわ。

 綺麗なべべ着て、暖かい布団で寝て、腹いっぱい飯食った。

 

 でも、あの8月31日からウチは転々とした。行き場もぜんぜんあらへん。すぐ追い出される。

 もう、ぐちゃぐちゃや。ほんま。

 

「へへへ、姉ちゃん、どうや。おにぎり二個やるよ」

 

 今じゃ、下品なホームレスあいてに食い扶持つないどる有様や。

 

「せやなあ」

 

 なんだか、今日はそういう気分じゃなかった。

 夢から覚めたばっかのせいか、なーんか妙に記憶に残っとる。

 

『ボクは、キミが好きだ!』

 

 ほんま笑えるけど、あの記憶を汚したないなあってちょっと思たから。

 

「ごめんな。今日は気分やないねん」

 

「へ?……ふざっけんじゃねえぞ、このクソが! てめえなんか股開くしか価値ねえだろ!」

 

 はー、これや。これやから、男はみーんなうんこたれや思ってしまうわ。

 たぶん、ボクもそうなっとんねんやろなあ。

 普通なら力で負けんけど、もう、ロクなもん食ってへん今じゃ無理や。

 たぶん、好きにされるんやろなあ。

 

 あーあ、別にどっちでもええけど。

 でもちょっとだけ、なんか嫌やったなあ。

 

 

「何しとんねんこのドクズが!!!」

 

 

 ぴかーって、光ったんよ。

 白くてな、バチバチーって稲妻みたいな速さでオッサン蹴とばしとったわ。

 

 

「ようやっと、見つけたで、こんド畜生が!!!!」

 

 その雷はなんや知らんけどウチにも落ちてきたわ。

 

 

 

 

「このクソタレ! ド畜生! ええかげんにせえよ。今までどこほっつき歩いとってん!!!」

 

 白い稲妻はウチの肩持ちながらどっか行くみたいやった。

 よう見れば、見るほどウチに似とる。そっくりさんや。

 そういや、16か17ぐらいで、ドクズに孕ませられたような気もするわ。

 堕ろすための金もあらへんと、なし崩しに産んだような気もするな。

 んで、どっか捨てるのも忍びのうて、ドアホウ共んとこに投げ捨てたような。

 名前がたしかなんやったかな。

 

「あー、自分、もしかして、うんこたれぞうか」

 

「ちゃうわ、ボケェ! タマモクロスや!!!」

 

「うるっさ、耳キーンなるで」

 

「ド畜生の耳なんか知らんわアホが!!!」

 

 うるっさ。ウチの若いころには似ても似つかんな。

 

「やっぱ、ウチのが顔もいいし。性格もええな」

 

「やかましわ!」

 

「ところで、これどこ向こうとるん?」

 

 抵抗もできひんと、なすがままやけど、このチビはウチをどこに連れてくんやろか。

 

「もちろん、決まっとるやろが」

 

「遠い夏の日に、ケリをつけに行こう」

 

 全然違う、声もちゃう。背もちゃう。顔もようわからん。

 でも、わかる、ハッキリわかるわ。

 

「ボク……」

 

「行こう、囚われた32日から、抜け出さないと」

 

 

 ようわからん、なんもわからん。

 でも、ウチん体は、ボクが差し出した手をようわからんと掴んどったんや。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

「ごめんなあ、ほんまにごめんな」

 

「ありがとうね。ほんまにありがとう」

 

「チっ……あほらし」

 

 ボクに連れられたのは、アパートの一室やった。

 そこに居る、見たくもないドアホウ共の顔見て舌打ちしてしもた。

 

「なんやその態度は!!」

 

「タマモ、落ち着こう」

 

 ボクが、チビを制止しとる。ほんま大きくなったなあ。

 

「お姉ちゃん、いやミドリコ。キミはどうして戻ってこなかったの、だろうか」

 

 

 なんで、なんで、なんでやったやろか。

 それすら曖昧や。ウチはぐちゃぐちゃになってから起きとるんか寝とるんかもようわからん。

 なんでかもようわからん。

 

「たぶん、キミは本能的に恐れていた」

 

「?……なにを?」

 

 ボクが言いたいことが遠すぎてようわからん。

 

「報復されるのを。かつてのように復讐する気が起きないように、ボロボロにされるような悪意に二人が遭うのを。……そして、もし二人があったとして、その事実を直視したくなかった」

 

「……っっ!!」

 

「そして、タマモを預けたのも、それだけ放蕩であることを示して、二人のもとに、戻る意思がないことを遠回しに伝えていた」

 

「……よう、わからんわ」

 

「ごめんな、ごめんな、お玉。ウチらのせいでずーっと迷惑かけててんなあ」

 

「ありがとうね。ウチらが幸せやったんわ、神様やのうて、お玉のおかげやったんやな」

 

 泣きながらそういうドアホウを見て、ウチはかみ切れるぐらいに唇をかみしめた。

 なんや、なんやねん。

 ホンマ、このドアホウ共は。今さら気づいたってもう遅いんや。

 

「うっさいわ、ボケェ! 今さら何言うとんねん!! このアホ共が!!」

 

「おい、ド畜生!」

 

「タマモ」

 

「チッ……」

 

「もう、いいんだ。彼らは一切合切がいなくなったんだ」

 

「は?」

 

「彼らは、警察の家宅捜索で、横領等の罪が分かり。地域の経済基盤も全てが瓦解して、村としての機能が無くなった。もう、キミが出ていっている、間に終わってたんだ」

 

 なんや、なんやそれ。

 

「でも、ドアホウ共は」

 

「ああ、お二人は、いつでも帰ってこれるように、道に迷わないように、合併した後も、同じ場所で、今も、暮らしている」

 

「なんや、それ。なんや」

 

「キミは、もういいんだ。悪意をみにやつさなくてもいい。悪意におびえなくても、いい。もう、キミを狂わせた世界はなくなっていたんだ」

 

「じゃあ、ウチは、ウチは……」

 

「キミは、頑張ったんだよ。今まで、たった一人で頑張って来たんだ。だから、もういいんだ」

 

 わからん。

 なんでウチはボクの言葉でこんなにようわからんなっとるんや。

 ウチは、そうや。最初っから最後までずっと一人や。

 一人で生きてきて、一人で死ぬはずやった。

 そのための生き方をずっとしてきた。

 それで、もういいってなんや。

 

「わからん、わからんよ」

 

 ほんま、わからん。ウチはこれからどうすればいいんか、ほんま分からんなった。

 

「お玉、また一緒に暮らそう」

 

「あんまり贅沢はできひんけど、お腹だけはいっぱいにさせたるからね」

 

 ほんまに、このドアホウ共は……

 

「せやから、ウチにもう構うなや!!!!」

 

「無理や、トレーナー。ウチ我慢できん」

 

「タマモ」

 

「おい! ド畜生、じいちゃんとばあちゃんはな、ずーっとアンタんこと待っとってん。忘れた日なんかなかった。その言葉を聞かん日はなかった。そんだけ、アンタんことを思うとるんに、なんやその言いぐさは!!!!」

 

 ほんま、このチビ、ウチの顔して言いたい放題いいよるわ。

 あかん、ウチも限界や。

 

「バカはなあ、バカみたいになんも考えんと笑ってすごさなあかんねん! 苦しいこともようわからん。辛いこともようわからん、明日になったらぜーんぶ忘れて、楽しいことしか考えとらん頭お花畑にしてアホづらさらして生きとけ!……やから、こんなバケモンのことなんか……いつまでも覚えんと、忘れてくらしとけや……ドアホ」

 

 なんでや、なんで。なんで、言葉が出てこおへんねん。

 なんで、ウチはこんなんに胸がいたいんや。切ないわ。ほんま切ない。

 

 

「ごめんな、ごめんなあ」

「ありがとう、ありがとう」

 

「うっさいわ……ボケェ……」

 

 痛いわ、ほんまに痛い。

 どっかに放り捨てたはずなんにな。

 こんなバケモンにはいらんと、捨てたんに、向こうからやって来たわ。

 磁石みたいにビタビタってくっついてきてん。

 

 

 もう、なーんもわからん。

 ただ、暖かいわ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーー

 

 

 ウチは、もうあの夏の日の夢はみらんごとなった。

 ボクが言うには、32日を抜けたとかなんとかや。

 まあ、悪うないな。

 

「うっわ、なにちょっとニヤついてんねん。ババアの癖に色気づくなや」

 

「は? まだ、ウチは現役やし」

 

「中古が何言うてんねん」

 

「アンタはその中古がひり出したんやで」

 

「きっしょ」

 

 ホンマにウチの子はすごいんやなって。

 このガキ、ほんまに秋の天皇賞勝ちよったわ。

 やっぱり、親がええからやな。

 

「二人とも、喧嘩は、あまりよくないかと」

 

「ケンカやないわ」

「ケンカやないわ」

 

「……とても、仲がいいのは、伝わりました」

 

「いや、ちゃうし!」

「いや、ちゃうし!」

 

 アカン、ほんまアカン。

 このチビと居るとようわからんなるわ。

 

「少しだけ、席を外すので待っていてください」

 

 そういって、ボクは控室から出ていき寄った。

 あの子、ほんまもんの“トレーナーさん”になったんやなあ

 

「なあ、チビ」

 

「なんや、ババア」

 

「あれ、ウチのやからな」

 

「はああああ? なに言うとんねん。トレーナーは誰のもんでもないわ!」

 

「せやで、せやからウチが唾つけとくんや。……なんや、チビもボクのこと好きやったんか」

 

「な、な、な、な、そんなわけあるかドアホ!」

 

 おー、おー、ほんまに初心なねんねみたいに顔真っ赤にさせとる。

 

「じゃあ、ウチがもろてええやんな。誰のもんでもないし」

 

「そ、それとこれとは話がちゃうで!!!」

 

 ずーっと、夢をみとった。

 夏の中におっとった。

 夢から醒めた時には、もう色々終わっとって、ウチは夏に縋って置き去りにされてたみたいや。

 えらい長い空白があって、それに絶望もした。

 でも、ボクはこれから埋めていけばいい言うとった。

 

 失くしたんもんはでかいけど、ウチに残っとったんもちょっとはあったんや。

 

「おい、おい! 聞いとんのか!? このクソババア!」

 

 このうちそっくりのチビなんか、ほんまおもろいわ。

 

「あー、ババアやから耳遠なって、ようわからんやったわ」

 

 ウチは残滓や。夏に縋って、自分から夏を投げ出した。

 

 今はその残り香をゆっくり追ってる残滓や。

 

 往生際が悪い。そんなんわかっとる。でも世界はそんくらい、許してくれや。

 

 

 

 

 ウチは、今が一番しあわせや。


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