体力や
ヒョロヒョロとしていて弱々しい有様を、植物の「もやし」に例えた。
例・『彼女は少し走っただけでバテるもやしっ子だ』
「はぁ……はぁ……」
──上手く呼吸が出来ずに息が詰まる。肺に空気を送るたび、喉が引き裂かれるように痛む。
腕がゼリーみたいにプルプルと震えて力が入らない。脚が感電したかのようにピクピクと痙攣し続ける。心臓がエンジンのようにバクバクと鳴り響く。苦しくて苦しくて、呼吸をすること以外何も考える事が出来ない。
……
「──! ゲホッゲホッ!!」
大きく息を吸い込んだらタイミング悪く気管支に空気の塊が詰まってしまい、勢いよく咳き込んだ。女の子にあるまじき醜くて聞き苦しい呻き声を上げながら、私はへたり込むように地面へと這いつくばる。
「ふぅ……ふぅ……」
「お、おい。大丈夫か?」
ウイナー先輩のトレーナー──柴中と名乗った二十代後半(推定)の男のトレーナーさんが私の側までやって来て片膝をつき、心配そうに様子を伺ってきた。傍らにはウマ娘専用の心拍数測定キットと、呼吸補助用のスプレー缶型酸素ボンベ。それからワザとぬるめの温度にしたスポーツドリンクがある。
柴中さんは息も絶え絶えといった感じになっている私を見て「ゆっくり吸い込めよ」と酸素ボンベを口に当ててくれた。いつも通り、ゆっくりと呼吸を繰り返して息を整えてゆく。
「……すみません、ご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて思ってないさ、お前達の事を第一に考えてサポートするのが俺達トレーナーの役目だからな」
「……ありがとうございます」
三十秒以上経って、ようやく楽に立ち上がれるようになった。柴中さんは「無理するな」と言ってくれたが、折角二人が私の──見ず知らずのウマ娘の為に貴重な時間を割いてくれたのだ。いつも以上に無駄に出来ないし、したくない。
「いえ、もう大丈夫です」
「本当か? ウイナーと後輩達の事は俺も感謝してるけど、もし君があいつに気を使って(唯一まともそうだった)礼を受け取ってるってんなら俺から──」
「い、いえ。本当に大丈夫です! あと、決してそういう事ではないので!!」
ああもう、また誰かに気を使わせてしまった。……別にこの体質で生まれ落ちたことを恨んではいないし、それを馬鹿にされても気にならないが、こういう時だけはなんていうかこう……色々と申し訳なくなる。人からの心配や気遣いをありがた迷惑などと思ってはいないし、自分が嫌いな訳でもないのだが……。
「……? おいどうし──」
「(ブンブン!)」
「うおっ!?」
首を大きく横に振って余計な考えを振り払い、ペチペチと頬を打って沈みかけた気持ちを浮かび上がらせる。
「……ん! よし!」
焦る必要は無い、時間はまだたっぷりとあるのだ。私が何をしたいのか、その為にはどうすれば良いのかなんて答え、とっくの昔に辿り着いている。そして、答えが分かっているのなら──
「まだまだ大丈夫です! 私、一生懸命頑張ります!!」
それに向かって突き進むしかない。結局の所、私が夢を叶えるには‘全力で頑張る,それしか方法が無いのだから。
「……そうか。じゃあ次は五十メートル走を十本。主にスタートダッシュがどうかを見るから、俺が合図したら走り出してくれ」
「はい!」
柴中トレーナーの指示に従い、私は本来ゲートが設置されるのだろうスタートラインが引かれた場所まで駆けだしていく。
「……どうだ、お前から見て」
柴中はゼファーの訓練を土手の上から眺めるように見ていたウイナーに問う。締めの挨拶も終わり、ウマ娘達に解散を促したあと急に『返礼としてゼファーの訓練に付き合うから協力してくれ』とウイナーが言ってきた時は「まーた勝手にそういう事を……」と文句を言ったが、実際柴中もゼファーには何らかの形で礼をしなければと思っていた。
いつものウイナーのパターンだと言葉が足りず、もしくは後輩達の想いや気持ちを察する事が出来ずに話が拗れ、柴中が言葉を尽くして
ウイナーをよく知る自分ですら、あそこまで綺麗に収められるのは極稀だ。そもそもウイナー同様柴中も、あの娘達がああいう理由で悲しんでいる事を察することが出来ていなかったのだから。
その礼として、ゼファーの訓練を見てアドバイスをする。その提案に不満はない。そも、今日はチーム選抜テストを行なった日だ。見るウマ娘が一人増えただけとも言える。ウイナーは柴中の問いに少しだけ考える様な素振りをみせたあと
「……奴は自分の事を『もやしっ子』だと言っていた。少なくとも自己分析だけは出来ていると判断して良いだろう」
「まぁそれは見りゃ分かるけどよ……」
柴中はダートコースの上で自分と縄で繋がれたタイヤをヒィヒィ言いながら引きずるゼファーを見る。タイヤの数は普通車の物を一個だけ、それもまだ400メートルも走っていないのに既にバテバテといった状態だ。小学生のウマ娘でもまだ余裕がありそうな気がする。
マラソンは十キロは走らせるつもりが、五キロを過ぎた時点でゼファーの身体に異常と限界を感じたため強制中止。スタートダッシュは悪くなかったが、新バの平均より少し上程度のそれ。筋力だけは結構余裕があったらしく、バーベル上げでは柴中の予想を上回る重量を持ち上げてみせたものの、スタミナが無いためか長く続かない。
一番重用かつ肝心な部分の測定をしていない為、まだハッキリとした事を言う事は出来ないが……。
(「質」はそこまで悪く無さそうなんだが「体」の方がなぁ……)
ウマ娘に限った話ではないが、生き物が今よりも強くなる為には厳しいトレーニングが絶対に必要だ。そしてそのトレーニングはスタミナがなければ続かない、もとい出来ない。
トレーニングをこなせばこなすだけ強くなるという理屈であれば、他の娘より丈夫でスタミナがあるウマ娘はそれだけで大きなアドバンテージを得ているという事になる。逆説的に、スタミナがない、トレーニングをすることが出来ないウマ娘はそれだけで大きく不利だ。
「典型的な‘虚弱体質,という奴だろう。奴自身の「質」ではなく「体」の方の問題だ」
「やっぱそう思うか。でもそうだとしたら『保険医と相談しながらスタミナトレーニングを徹底しろ』以外に言ってやれる事ないぞ。あの娘だってその辺はよく分かってるだろう」
「…………そうなんだがな」
仮にゼファーがウマ娘レース出走を目指すのであれば、早期の体質改善が絶対条件だ。出来なければ話にならない──とまでは言わないが、大きなハンデを背負い続けることになる。少なくとも重賞レースを勝つのは不可能に近いだろう。もう少しぐらいなんとかしてやりたいが、いくら恩人で後輩とはいえ流石にこれ以上チームメンバーでもないウマ娘の事情に深入りするのは気が引ける。
と、二人が少しばかりセンチメンタルな気分になった所で、タイヤ引きをしていたゼファーがこちらに向かって手を振っているのが見えた。どうやら話し込んでいる間にこちらが指示した五百メートルを走り終えたらしい。
「おっと、タイヤ引きも終ったか。じゃあ最後はダートコースでスピードトレーニングを──」
「いや、どうせやるならレースを想定した併走の方が良いだろう。……奴の場合は私が先行して様子を見ながらの方が良いか」
少しばかり予想外の提案が出て、柴中はちょっとだけ驚いたような顔でウイナーの方を見た。
「良いのか? そりゃテストの時は受ける人数が人数だったから、併走トレーニングはお前が直接見てやれなかったけどさ」
「構わない。一人だけでレース本番を想定して走れというのも酷な話しだ」
「……まぁそりゃそうか。でもなぁ……」
ここまでの比較的軽目のトレーニングで既にバテバテになっているゼファーが、ウイナーと併走なんて出来るのだろうか。いや出来はするんだろうが、無理にウイナーのスピードに合せようと無茶するんじゃないのか?
反対こそしないし、むしろ能力テストの締めとして併走をするのは丁度良いと思っている柴中だが、若干不安があるのは否めない。
「無論、斤量(競馬的にはきんりょうの方が正しいですし、公式に積量というワードを使った例は調べた限りなかったので一応以下全部訂正しておきます。)はハンデ分も合わせて積むし、本気では走らん。あくまで奴のポテンシャルを見るのが目的だからな。近くで私が、遠くでお前が見ているのだ。もし何か異常があってもすぐに気づく事が出来るだろう」
「……じゃあそうするか。つっても、相手が誰だろうとお前が新バ相手に本気で走る必要があるなんて想像出来ないけどさ」
「レ、レースを模した併走ですか!? ウイナー先輩と!?」
「ああ、十分後にな。もう時間も無いし、トレーニングの締めとしては丁度良いだろう?」
柴中さんから貰ったスポーツドリンクを飲みながら休んでいると、想定外の提案が飛び込んできた。
マラソン、スタートダッシュ練習、バーベル上げ、タイヤ引きと来て次は何をやらされるのかと思っていたら、併走トレーニング。しかもただの併走ではなく、レースを模した物にするという。併走トレーニングはレース本番を想定して行なう場合が多いため、それ自体はなんら不思議ではないのだが……。
「あ、あの。それはちょっと……」
ちょっと、困る。正確に言うと『困らせてしまうかもしれない』。私個人としては大歓迎だしとても嬉しいのだが……。
「やっぱ疲れがあるか? それともウイナーと一緒だから気負ってるか?」
「い、いえ! その、そういう事ではなくて……」
私は必死になってどうするべきか考える。一応、知識としては何をどうしたら良いか知っている。レースに出る事を夢見て何度もイメージトレーニングをしたし、‘友達,となら実際に何度もやった。
けれど──
(大丈夫かなぁ……? 失礼な事をしなければ良いけど……)
「──そう難しい事を考える必要はないさ」
悩んでいる私を見て、柴中さんは緊張を解きほぐすように軽い調子で声をかけてくれた。
「いつも通り走る、ただそれだけで良い。『良い走りを見せよう~』とか『胸を借りるつもりで~』とかそんなややこしい事なんて忘れて、ただ一生懸命走ってくれ」
結局の所
「分かりました。私、一生懸命頑張ります!」
「ああ、その意気だ」
それなら──それだけは、私の得意分野だ。
──ダートコースで併走なんて何時ぶりになるだろうか。
そんな事を考えながら、ウイナーはスタート位置に付く。本格的なトレーニングをする前の軽いアップのため毎回のように走っているダートだが、併走自体は一年以上もやっていない。そも、レース本番では芝しか走らないウイナーにとって、ダートでの併走はやる必要がない。
唯一その事に対して柴中から質問をされたが「問題無い」と簡潔に返した。一年以上レースに出場していない上で、自分の脚質に合っていないコースを走るというのであれば分からなくもない心配だが、例え己の脚質に合わずともダートは走り慣れている。
「コースはダートの1000M。諸々のハンデとして、ウイナーには三階級分の斤量を積んである」
「へぇー、これが『斤量ジャケット』ですか……」
ゼファーは物珍しそうにウイナーが着ている黒くて物々しい、いかにも重そうな雰囲気のある(実際重い)軍用の防弾装備のようなジャケットを見る。
斤量──主にレースでウマ娘達の体付きによって発生してしまう諸々の『差』を埋める為のハンデだ。ボクシングなんかでいう所の「階級差」を少しでも埋める為の物だが、今回はゼファーがデビューもまだの新バである事や、直前までトレーニングをしていて疲れが溜まっている事などを加味して、公式のハンデとしては最大級の斤量を積んでいる。スタート位置も、ウイナーがこの距離では不利とされる最内なのに対し、ゼファーは有利とされる外枠(に当たる位置)と優遇されていた。
「俺がホイッスルを吹いたと同時にスタートな。他は特に言うこともないんだが……ウイナー、お前は?」
「そうだな……」
チラリ、とウイナーはゼファーの方を横目で一瞥する。『皇帝』として宣言するか、『先輩』として言葉をかけるか少しだけ迷った後、ウイナーは口を開いた。
「私の背を追えるだけ追ってこい。最終的に2バ身以上放されなければ栄誉をくれてやる」
「お前ホンとさぁ……」
これが同じレースを走るウマ娘達に対して言うのなら挑発込みのパフォーマンスとして成立しなくもないが、相手はまだデビューもしていない新バだ。ウイナーとしては『胸を貸してやるから気を楽にして走れ』程度のニュアンスなのだろうが、気が弱いウマ娘が相手であれば萎縮してしまいかねない言葉尻である。
「はい、よろしくお願いします!」
(……ま、この娘だったら大丈夫そうだけど)
ピシッ! と腰を曲げて礼儀正しくお辞儀をしてから、ゼファーは改めてスタートラインに立つ。先ほどまでの迷い(?)らしきものは既になく、教科書通りの良い姿勢でスタートの合図を待っている。
「……」
対してウイナーは、ただ腰を低くしただけだ。体重も脚ではなく体全体に満遍なく掛けているし、力も分散させているように見える。
一見してゼファーの方が綺麗でお手本になりそうな構えだが──
──ピッ!
スタートのホイッスルが鳴った。
──パ ァ ン ! !
「────っ!?」
その衝撃は、ホイッスルの音を一瞬で掻き消した。
衝撃音を放ったのは、言うまでもなくウイナーの──まるでマグナム銃を思わせるような力強いスタートダッシュだ。ゼファーも特段スタートを失敗している訳ではなかったのだが、スタートから僅か2秒足らずで四バ身以上の差が開く。
己の脚質と合わないダートで、斤量を最大級まで詰み、不利とされる最内でのスタートで尚これだ。「凄い」以外の感想を抱くことが出来なかったゼファーを後ろ目に、ウイナーは己の威光を見せつけるかのようにグングンと前へ進んでゆく。
「──よぉし!」
ゼファーは色々な意味であまりの衝撃に止まりそうになった脚へ、再び力を入れ直す。
柴中は言っていた「一生懸命走れば良い」と。ウイナーは言っていた「私の背を追えるだけ追ってこい」と。
ならば──今の自分に出来る全力を持って、それを遂行するべきである。
──これは酷い。
柴中が一番最初に抱いた感想はそれだ。ゼファーの走りに対してではない。ウイナーの走りに対してでもない。ウイナーの容赦無い走りに対する姿勢について言っているのである。
(なぁにが「本気では走らん」だ。今までの中で十本指に入るぐらい完璧なスタートダッシュじゃないか)
確かにスタート以降は手を抜いて──ゼファーの様子を後ろ目に観察する事が出来る距離を保って走っているようだが、あれではウイナーが手を抜き続けない限り差が縮まることはないだろう。
『奴の場合は私が先行して様子を見ながらの方が良いか』
とは言っていたが、なにもああいう風な形でリードを取らなくても良いだろうに。というか並大抵の新バならあのスタートダッシュを間近で見せられた時点で気力を根こそぎ奪われてもおかしくないぞ。
「……でもあの娘も頑張ってるなぁ」
今度はゼファーの方に注目して、柴中は呟いた。
脚の踏み込み方、腕の振り方、体の姿勢と、どれもこれも平均より若干上な程度で特筆すべき事は特に無い──強いて言うなら少しばかり妙な位置取りをしている事ぐらいだが、大きく先行するウイナーに必死になって食らい付いていっている。
4バ身──3と3/4バ身──
ウイナーとの差は着実に縮まっている。表情や伝わってくる気概も活き活きとしていて気持ちが良い。
3と2/4バ身──3と1/4バ身──
「…………?」
──いや、って言うか……
「差……縮まりすぎじゃないか……?」
ターフを駆ける時の感覚はウマ娘それぞれだろうが、私の場合は「まるで風になった様だ」──と思う。
どこまでもどこまでも吹き荒ぶ風となって、このターフを
何者も寄せ付けない、近寄ることを許さない風の──否、嵐の壁となって猛者達を吹き飛ばし、当然のように勝利の栄光をつかみ取る。嵐を鎮める事の出来る生物など、いはしない。仮にいるとすれば、私と同じく神威を纏った皇帝か、でなければ生物としての限界を超えた
それが私だ。それが皇帝だ。それが勝者だ。
──だから
フワッ
その後ろから吹いてきたか弱いそよ風の事を、最初は自然風かなにかだと疑いもしなかった。
フワッ
そも、余程強烈な物でない限り、走っている時に風のことを気にするウマ娘などいない。そよ風程度が、自分達の力強い走りを脅かすようなものである筈がない。
フワッ
「…………?」
だが、そのそよ風は一向に止まない。それどころか、少しずつ強くなっている。チラリと後ろを見てみるが、3バ身以上離れた位置に例の……ヤマニンゼファーがいるのみ。
脚の踏み込み方は(少なくとも私からしてみれば)甘く、腕の振り方はなっていないし、姿勢もまだまだブレがある。表情と気概だけは悪くないが、ただそれだけだ。奴の走りからは畏怖を少しも感じない。
それなのに私は──
「…………」
少しだけ、ホンの少しだけ、試すように速度を上げてみた。──差が縮まる。
少しだけ、加速してみた。──差が縮まる。
少しだけ、加速して速度を上げてみた。──差が縮まる。
「……!!?」
ここまできて私はようやく、このか弱いそよ風の正体が、奴から感じ取れる威風なのだと理解したのだ──。
(凄い──こんなに気持ちの良い風、初めて君と走った時以来かも)
ダート特有の柔らかい砂を後方に力一杯蹴り上げながら、私は一生懸命に走る。
──正直、体全体がもの凄く苦しい。
二本の脚はもう疲れたと私の意に反してサボりだすし、腕はまるで感電したかのように痺れ、前傾姿勢を保つための腰と背骨が疲れを訴え続ける。約三バ身という、僅か十メートルにも満たない距離にいるウイナー先輩が何百メートルも何千メートルも先にいるように感じる。
とてもじゃないけど追いつけない、追いつける訳がない。相手は「皇帝」だ。私みたいなもやしっ子が相手になる筈がないし、そもそもこれは私の力量を見るための物なんだから辛かったらスピードを落として良いし、なんなら走るのを止めたって良い。
(──うん。私、もっともっと走っていたい。走るのを止めたくない)
そんな事を考える度に、風が弱音を吹き飛ばしてくれた。頬を、髪を優しく撫でて吹き荒ぶそれがもうたまらなく気持ちよくて、私は頑張って走り続ける。
『追えるだけ追ってこい』
ふと、開始前にウイナー先輩が言った言葉が頭を過ぎり、改めて気を引き締める。全身にもう一度力を込め直す。
(うん、分かってる。まだ──まだ──!)
まだやれる。もっともっと──一生懸命、全力で、頑張らなくっちゃ。
「ウソ、だろ……!」
柴中は目を大きく見開いた驚愕の表情でその光景を眺めていた。
ハンデはある。脚質の違いもある。ブランクもある。けれど、それでも確かにニホンピロウイナーが、絶対強者たるマイルの皇帝が、デビューもまだの新バに──ヤマニンゼファーに、差し迫らんばかりの勢いで距離を詰められ続けている。
「どうなって──!」
一体どこに速さの秘密があるのかを確認する為、もう一度ゼファーの走りに──身体全体へと目を凝らす。脚の踏み込み方。腕の振り方。走る姿勢。やはりどれもこれも平均より若干上な程度で、特筆すべき事など特にない筈だ。当然、差を詰める事が出来ているのだから脚の回転数自体はかなり早いが、ただそれだけである。
スーパークリークの様な力強さはない。タマモクロスの様な巧みなステップはない。オグリキャップの様な超前傾姿勢で走れる訳でもない。ただ必死に脚を動かして走っているだけにしか──
「──いや、待て。まさか……本当に?」
本当に、
『分かりました。私、一生懸命頑張ります!』
併走を始める前、ゼファーが宣言していたことを思い出す。その時は「良い気概だ」と軽く流しただけだったが──本当にそれだけで、ウイナーに食らい付き続けているというのか? レース前から疲れ切っていたであろう体で?
「──ッ!」
「全力は出さない」と宣言していたウイナーは、その前言を撤回していた。彼女はもう一切の手加減などなく、迫り来る
残り100メートル──2と3/4バ身
「──たぁあああああああああああああっ!!」
ゼファーが最後の力を振り絞るべく魂の限り叫ぶ。
残り50メートル--2と3/5バ身
「──お、ぉおおおおおおおおおおおおッ!!」
ウイナーがレース本番さながらの声で力の限り吠えた。
残り25メートル──2と2/5バ身
「────ッ!!」
柴中は記録を取るのも忘れて、その「レース」に魅入っていた。
──二人がゴール板を通過する。
まずはウイナー、続いてゼファー。最終的な差は2と1/4バ身。決着を見届けた柴中は、二人の元に全速力で駆け出していく。
「ハァッ……ハアッ……ハアッ……ハアッ……!」
息と体を落ち着けるようにゆっくりと速度を落としながら、私は未だダートコースを走り続けていた。
普通のウマ娘であれば全力で走った後でも疲労感に身を任せ、倒れ伏してさほど問題はないが、私みたいな虚弱体質ならば話が別だ。倒れ伏したが最後、そのまま暫くのあいだ動けなくなりかねない。人間の様に走り続けながらも速度を落とし、荒くなった呼吸を整える。
「ふひゅー……ふひゅー……」
走っている内にだいぶ呼吸が落ち着いてきた。私は更に「歩く」と言えるスピードになるまで速度を落とす。
──1000メートル。たった1000メートルの距離を全力で走っただけなのに、この疲労感だ。これで以前よりはずっと「マシ」になっているのだから笑えない。ちょっと前に「時間はまだある」とは思ったものの、実際あと数年でどうにかなるのだろうか。
「……ふふふっ」
それなのに──私は笑っていた。頬が自然と緩み、口元がUの字に曲がる。
「ははっ! あははっ!!」
小さい頃、初めてレース用のシューズを買って貰った時の様に、私は笑う。
──久しぶりだった。本当に久しぶりだったのだ。
あそこまで気持ちの良い風を感じる事ができたのも。必死になって誰かの背中を追いかけたのも。全身を襲う疲労をすら心地よいと思ったのも。
全部、そう全部──
「……おい」
「う、ウイナー先輩!」
コースを走り終えてなお走り続け、終いにはクスクスと笑いだした私にウイナー先輩が声を掛けてくる。……今更だけど、客観的に見て今の私はかなり頭のおかしな子に映るんじゃないか?
「あ、えーっと! ありがとうございました!! 私、あんなに必死になって誰かの事を追いかけたのって初めてで! 走ってる時に感じる風とかも凄く気持ちが良くて! 色々とその……嬉しくて、つい笑いが……」
「…………そうか」
そう言ったっきり、ウイナー先輩は口を紡いだ。ただ──驚愕? なにか信じられないような物を見るような目で私の事を見ている。
「……? あの、それで差し出がましいんですけど私の走りはどう──」
「お、おい! おーい!!」
ゼーゼーと荒く息を吐きながら、柴中さんが(人間にしては)もの凄いスピードでこちらへと走って来た。酷く慌てているような、けれど、なにか凄く嬉しそうな、そんな表情をしている。……もしかして──
「……差は?」
「に、2と1/4……」
「……そうですか」
着差を聞いて、私は内心でホンのちょっぴりへこんだ。柴中さんの様子からして期待していたそれとは違った物だったからだ。
‘私の背を追えるだけ追ってこい。最終的に2バ身以上放されなければ栄誉をくれてやる,
ハンデを積に積んでもらったとはいえ勝てるとは微塵も思っていなかったが、それでもウイナー先輩が言った
(今の私じゃそれも無理って事かなぁ……)
なら──これからは、もっともっと頑張らないと。
「な、なぁウイナー! この娘は、この娘を──!」
興奮覚めやらぬといった様子で自分に詰め寄ろうとする柴中さんを手で制したウイナー先輩は、逆に私の方へと詰め寄る。
「…………質問に答えて貰おう、ヤマニンゼファー。貴様──
──レースはおろか、こうして誰かと一緒に走るのも殆どやった事がないな?」
「────は?」
柴中が呆けた声を上げ、数十秒前のウイナーと同じ驚愕の表情で固まった。
「ご、ごめんなさい! やっぱり失礼な事をしちゃってましたよね!?」
ゼファーが勢いよく頭を下げ、隠し事をしていたまま走っていた事を謝罪する。
「……」
「言い訳になりませんけど、私、見ての通り体力が全然無いんです。だからスタミナが付くようなトレーニングを基本的にやってるんですけど、いつもスグにバテバテになってしまって……」
「そりゃまぁ……分かるけど……」
最初のマラソンは予定の半分で既に吐きそうになるぐらい参っていたし、タイヤ引きは一個を500メートル引きずるだけでヒイヒイ言っていた。これだけでも異常にスタミナがないことが見て取れる。
そんなゼファーが普通のウマ娘と同様のトレーニングをし続けたら一体どうなるか──想像に難しくない。
「その疲れもみんなより取れるまで時間が掛かるから、併走や模擬レースをする頃にはもう走る体力が全然残っていなくて……。併走は併走にならないし、レースも殆ど最下位だったから『お前とじゃトレーニングにならない』って事らしいんです」
「……」
「確かにそうだって思ったし、それでみんなに迷惑を掛けるのも嫌だったから、ある程度スタミナが付くようになるまでは「併走もレースもしない」って決めていて……。でもでも! 最近は以前と比べてスタミナが付いてきたし、疲れも早く取れるようになったんですよ! お医者さんからも「良い調子」って褒められたんです!」
だから嬉しかった。だから笑っていた。相手が誰だとか、結果がどうだったとかは関係無い。ゼファーにとって、他のウマ娘と一緒に走るという事それそのものがとても喜ばしい事だったから。
嬉しそうに言うゼファーは、ここで再び頭を下げた。
「だからその、誰かと一緒に走る時のルールとか暗黙のマナーとかそういうのに疎くて……。黙っていて本当に──」
「──ああ、そうだな。本当に無礼なことをしてくれたものだ」
威圧的な口ぶりとは逆に、ウイナーの口元は優しく緩んでいる。
「なにが
「……? それってどういう──」
言葉の意味が分からず、ゼファーが質問をしようとした時だった。終業時間間近を知らせるチャイムが学園中に鳴り響く。
日は既に7割以上が地平線に沈み、もうすぐ夜の帳が落ちようとしている。
「ちっ、もうこんな時間か……続きはまた今度話してやる。今日はもう寮へ戻って休むがいい」
「え、ちょっ! おい!?」
「は、はい。分かりました……」
柴中は急に慌て出すが、ウイナーが態度を変えることはない。ゼファーも結局自分の走りはどうだったのかだけでも聞きたかったのだが、門限を破って心配を掛けるような事はしたくなかったので、素直にそれに従うことにしたのだった。
「……なぁ、良いのかよ。だってあの娘……」
「良い訳がないだろう。だが焦ることはない。 と く べ つ に 片付けやその他の雑務は私一人でやっておく。貴様は今すぐに総務課へ『優先交渉権』を獲得しに行け。……あれは、あのウマ娘は、貴様と私の夢を同時に叶えるかもしれん逸材だ」
「……驚いたな。お前の夢はまだしも、俺の夢も叶うかもしれないなんて言うなんて。お前、俺の夢がなんなのか分かってるよな?」
「無論だ。もっとも、例え奴であろうともそれを叶えさせる気は無いが──。それでも、貴様にとっては貴重なチャンスだろう?」
「……ああ」
「皇帝の勅命だ。絶対に奴を……ヤマニンゼファーを他のチームに渡すな」
「……ああ、分かってる!」