「──決まっている、必要が無いからだ」
いつものように凜々しい声質で、いつものように容赦ない言葉を、いつものように躊躇いなく、あの人は吠え立てるように主張する私に言った。その言葉の意図するところが、その理由が、内なる真意が私の低度な頭脳では上手く汲み取れず、やはり愚かにも「何故ですか」と問うてしまう。
「何故……何故、か」
私の問いに、あの人は少しばかり考えるように目を閉じる。……正直、意外だった。「そんな事も分からんのか」と失望したような眼で責めるように理由を言われるか、でなければ「我が真意を読み取れん貴様に言う必要はない」と突き放される物とばかり思っていたからだ。十数秒の間を置いて、あの人が口を開く。
「……‘求めていなかったから,──だろうな」
「一体何を?」とは聞く必要が無かった。自分から行動を起こして置いて何だが、流石にそれは理解出来る。……だが、それはおかしい。貴方は間違いなくそれを欲していた筈だ。その為に数え切れない程の行動を起こしていた筈だ。地獄のようなトレーニングで脚質を改造してまで、中距離GⅠに出たじゃないか。
「それはあくまで‘手段,だ。私の願いを私らしく叶える為には‘それ,を手にするのが一番手っ取り早く、そして似合っていた」
ただそれだけの事だと、あの人は言う。……なんとか、なんとかだが、理解する事が出来なくもない。要するにこの人にとって‘誉れ,や‘栄光,は、目的を達成する為の道具に過ぎないのだろう。であれば、名誉も地位といった物になんら興味がないとしても不思議ではない。トゥインクルシリーズからアッサリ一線を引いたり、トレセン学園新生徒会長の有力候補として挙っていたのに立候補すらしなかったのも、恐らくそういう事だろう。
「あとは……そうだな。これはあくまで後付けの理由に過ぎんが──」
何が面白いのか、あの人は少しばかり口元を歪める。──愉快。その二文字が頭の中に浮かんできそうな、そんな表情だった。
「私は確かに‘皇帝,だが、同時に‘開拓者,でもある。欲しい物、手に入れるべき物、手に入れたいと思った物があれば、それは我と我が臣下達の手で自ら手に入れる。無償の献上──献上物の内容にもよるが、そういうのは基本的に私の柄ではない」
‘皇帝,であり‘開拓者,でもあるからこそ、そういった物は全て自分達の手で掴み取る。他者の手など必要無いし、そもそも欲してなどいない。故に、貴様のした事はありがた迷惑以外の何物でもない。──そこまで言われてようやくこの人の意図が読み取れた気がした私は、そこで再び頭を大きく下げて謝罪をしながら、心の中で強く強く決意した。
──だったら、この人が少しでも願いを、望みを、成したい事を成せるようにしよう。徹底的に周囲に目を光らせ、厄介な輩がいれば排除し、この人が巻き込まれそうな面倒事があれば、巻き込まれる前に私が全て引き受けよう。
これ以上この人に──誰よりも強くて優しい皇帝に、負担を掛けさせて苦しませるなど、させてなるものか。
「…………ちっ」
レース直前に余計な事を思い出してしまったと、ニホンピロセブンは頭をブンブンと振って残悔から逃れようとする。今は枠杁が始まる直前。各ウマ娘がレース前の最後の準備を整えている大事な大事な時間だ。
このタイミングで心身共に良い調子を保ったままの落ち着いたウマ娘は、レースでも良い結果を残しやすい。無論、それで勝敗が決するわけではないし、レース前にどれだけ掛ろうが、唖然とするような奇行に出ようが、それでスタートに大きく出遅れようが当然の様に勝ってしまう化け物みたいなウマ娘もいるが、そんなのは極々一部である。
「……ふぅ」
故に落ち着け。深呼吸をして肺に、身体に空気を送り込め。意識を集中させろ。今回のレースは──否。例えどんな順位だろうが、アイツにだけは絶対に負けるわけにはいかないんだから。
「よいしょ、よいしょ……っと」
チラリと視線だけで斜め後ろを見やると、ヤマニンゼファーが柔軟体操を念入りに行なっているのが目に映る。……その表情に陰りは無い。つい先ほどまで同じくレースに出走する他のウマ娘に「今日はよろしくお願いします!」と暢気に挨拶しては「あ、うん」だとか「……よろしく」だとか素っ気ない返事ばかり返されていた筈だが、どうやら気にも止めていないようだ。
(緊張感って奴が無いのコイツ……)
心の中でそう思い、怒り、嘲る。これは中央の重賞レース……そう、重賞レースだ。たった一つ獲得するだけで
ウマ娘レースにあまり詳しくない人々にはGⅠレースばかりが注目され勝ちで、中には「毎年同じ物やってるんだし、重賞の一つや二つくらい簡単に取れるんじゃないの?」というとんでもない勘違いをしているような人までいるが、本来OP戦はおろか、条件戦ですら「一勝」する事が出来るのは‘極僅かだ,。殆どのウマ娘はメイクデビュー戦ないし未勝利戦にすら勝てないと言えば、重賞レースに出走する事が出来るウマ娘がどれだけ凄いエリートなのかが分かるだろう。
故に、コイツがあの人から見定められたというのが甚だ疑問だ。前走である条件戦もメイクデビュー戦も見たし、中々の好走をするじゃないかとも思ったが、自分には「その程度」止まりにしか見えない。少なくともゼファーにはチームステラの
あの人の──ニホンピロウイナーの‘目的,が一つを知っているからこそ、セブンの中にある「なんでこんな奴を」という思いは膨らむばかりだ。
「1枠1番ニホンピロセブン選手。準備が整い次第ゲートへ」
「──! ……はい」
自分の枠杁順がやってきて、セブンはもう一度頭をブンブンと振って余計な思考を振り払う。疑問の解消など、コイツを負かした後で幾らでも出来る。今はただ、コイツに勝つことだけを考えよう。
(……これが、重賞レース)
──勝ちたい、勝つ、勝ってみせる、勝たなければいけない──
──負けない、負かす、負けたくない、負けるわけにはいかない──
──楽しい、楽しい、楽しい、楽しい、楽しい──
四方八方上下左右。あらゆる場所から吹き荒び、幾重にも折り重なり伝わってくる風の声を身体で感じながら、ゼファーはコクリと何かに対して小さく頷いた。
(うん、分かってる。それだけ強い人達が集まってるって事だよね)
風を介して己の魂にまで伝わってくる、様々な思念。方向性が違ったり想いの強さに差があったりはするが、共通しているのは皆このレースについて思いを馳せているという事だ。
URAが管理、運営する中央はトゥインクルシリーズの重賞レース。その世代のウマ娘のトップ。これまでの戦績や成績などを参考にして選び抜かれたエリート中のエリートしか出走権が与えられない、そんな舞台。
どこぞの野球好きのウマ娘が
『レースに興味がない方にも分かりやすく例えるならば、GⅢがリーグ優勝。GⅡがクライマックスシリーズ優勝。そしてGⅠが日本シリーズで優勝するような物ですわ。……? ええ、勿論レースの話しですがなにか?』
と雑誌のインタビューで答えていたのを思い出す。正直なところ「余計に混乱するだけなのでは?」とも思うが、言わんとする事は分からないでもなかった。今回自分が出走するレースは、野球で例えるならリーグ優勝が掛った一戦──それほどの大舞台なのである。(ちなみに、中央トレセン学園入学で「プロのスカウトが来た」一度でも勝利すれば「二軍のスタメン」OP戦勝利で「今季の一軍内定」らしい)
そう考えると、むしろ何でそんな舞台に自分が選手として立っているのか若干疑問に思わんでもない。今回は格上挑戦だから「二軍から将来性がありそうな奴を引っ張ってきた」という事になるんだろうか。そういう事なら
「1枠1番ニホンピロセブンさん。準備が整い次第ゲートへ」
「──! ……はい」
「…………」
ゴウッ──! と、今感じられる物の中では最も強く、最も危険な‘風,を纏ったセブンがゆっくりとゲートに収まる。彼女の身体から吹き荒んでいるその風が一体どういう物なのか、その具体的な内容は分からなくても、それがどういう性質の物なのかはよく知っていた。
──故に、考える。彼女の為ではない、ウイナーのためでもない。他ならぬ‘自分の為,にもまずは──
「次! 2枠2番ヤマニンゼファー選手。準備が整い次第ゲートへ」
「──はい!」
ゲート係委員に名前を呼ばれて、大きな声で返事をする。ゼファーはそれからもう一度だけ眼を閉じて大きく深呼吸をすると、そのままゆっくりゲートへと収まった。
『さぁ、第5回クリスタルカップ──』
ゼファーにとって初となる重賞レース。
『──今スタートしました!!』
「──ッツ!!」
そのゲートが、今開いた。