「すー……ふぅ……」
東京レース場の地下通路で、バ場入りを間近に控えたイソノルーブルはもう何度目になるかも分からない深呼吸をした。特に落ち着き払っているという感じでもないが、少なくとも動揺したり、必要以上に緊張したりはしていない。
(大丈夫……いける)
シューズと蹄鉄の状態は、楽屋を出る前にトレーナーと一緒に入念に確認をした。勝負服も万が一にも破けたりしないよう、前日に新しく補強し直して貰った。食事制限やトレーニングで必至に調整をしてきた成果か身体は今までで一番と言える程に仕上がっているし、昨日ホテルでゆっくりとした時間を過ごせたおかげか、調子もすこぶる良い。
普段は学外のアニメショップでしか会わない小さな友人達も親御さんと一緒に応援に駆けつけてくれたし、トレーナーはいつも通り王子様の様に優しく手を取りながら『頑張って』という一言と共に送り出してくれた。
(……勝ちたい。ううん、勝ってみせる)
勝つ。勝って叶えなくてはならない。自分の夢を叶え、トレーナーの信頼に報い、ファンの期待に応える。自分に‘そうなってほしい,と願う大勢の人達の為にも、負ける訳には──!
「──調子は良さそうですね、シスター・ルーブル」
「──!!」
真後ろから掛けられた声に僅かに動揺し、勢いよく後ろを振り返る。自分への呼び名は愚か声質の時点で分かっていた事だが、案の定シスタートウショウがそこにはいた。
「シスターさん……。えっと、はい、おかげさまで……」
動揺しているせいか、それとも単にこういう時なんと言えば良いか分からないからか、そんなありきたりな返答しか口から出てこなかった。それを悟ったのか、シスターはスッ──と僅かに頭を下げる。
「本番前にすみません、驚かせてしまったのなら謝罪します。──ですが、どうしてもレースが始まる前にあなたと話がしておきたくて」
「えっと……。私になにか……?」
桜花賞の時と同じく、彼女とは三日前から顔を合せていない。トレセン学園の芝ターフの上を走っているのを一度見かけたが、話し掛けるのは何となく躊躇われた。同じレースに出走するライバルだからというのもあるが、それ以上にレースに向けて最終調整をするシスターの表情が真剣そのもので、何というかそう、気迫負けしてしまったのだ。
「そうですね……。端的に申しまして、あなたの調子を確認しておきたかったんです」
「な、なるほど……」
本番前の敵情視察……という奴だろうか。そういう事なら納得出来る。事実、パドックやゲート前での様子を視て、警戒するべきウマ娘を定めるのはよくある常套手段だ。時折、レース場入り前はまったく無警戒だった人気下位のウマ娘がトンでもない気迫を身に纏わせていて『あ、この娘放置したらヤバイ』と警戒対象を増やすないし変える事があったりする。
桜花賞レコード勝ちという実績から、今回一番人気に選出されたシスタートウショウ。比例して他のウマ娘達からの警戒度も一番である彼女だからこそ、こういった視察も欠かさないという事か。
「ですがまだです。
(…………?)
今度こそ言葉の全く意味が分からず、ルーブルは小首を傾げた。『足りない』とは一体何のことだろうか。会話の流れから察するに、自分の実力や調子について言っているのだと推測することは出来るのだが、そこから先が上手く繋がらない。
「足りない……ですか?」
「ええ。──なので、
ルーブルが「え?」と反応する間もなく、シスターは即座に助言の言葉を紡ぐ。
「昨日、あなたはトレーナーさんの薦めで本番前のリフレッシュを兼ねて某ホテルに泊ったそうですね? そこでエステサロンを含む各種お持てなしを受け、高級ベッドでグッスリ眠ったと……。リフレッシュは出来ましたか?」
「は、はい。疲れをしっかり取って、リラックスした状態で本番に挑むのも大事だと……。理屈は分かりますけど、なにもこんなに高い所じゃなくても良いんじゃ……って言ったんですけど、トレーナーさんがどうしてもって────」
そこまで言って、ルーブルは違和感に気付いた。──
「軽食はどうでしたか? トレーナーさんと二人きりで取ったのであれば、緊張で味など覚えていないかもしれませんが」
昨日の記者会見を終えた後、自分がトレセン学園に戻らず東京レース場近くのホテルに泊った所までは良い。実際トレセン学園には戻っていなかったのだから、知っていても不思議ではない。何故それが高級ホテルだと分かった? 何故エステサロンを受けたと分かった? 何で軽食を頼んだと知っているんだ?
「フフッ──」とシスターが笑う。聖女と呼ぶに相応しい微笑みを携えていながら、その顔には一種の恐怖すら纏っているような気がした。
「しす、たーさん……?」
「貴方の好物のバターケーキも召し上がったのでしょう? もしかしなくとも、それが一番美味しかったのでは?」
「そう……ですけど……」
トレーナーがバラした? 有り得ない。彼は何の理由も成しにこういう事を他人にペラペラと喋るような人なんかじゃないし、情熱的で義理堅い人だ。ではシスタートウショウが探偵か何かを雇って半ば非合法な方法で調べさせた? ……否、その可能性も薄い。無いとは言い切れないが、あのホテルは個人情報及び客の安全保護にもガッツリ力を入れている。そう易々と顧客の情報を漏らしたり等する訳が無い。
そもそも最近のトレーニング成果やコースタイムなら兎も角、そんな事をわざわざ調べた所でシスターにメリットが何も無いではないか。それにシスタートウショウは紛う事なき善人だ。確かに時折非情(にも見える)行動や態度を取ることはあるが、それもこれも全て周囲の人々や友人達の事を思っての、深い慈愛からくるそれである。
そんな前提があるので何がどうなっているのかサッパリ分からないルーブルは、気迫に押されて思わず一歩後ずさる。それに呼応するように、シスターはズイッ──と距離を詰めてきた。
「そうですかそうですか、それは何よりです。私も
「……え?」
「──あのバターケーキはですね、貴方のトレーナーの手作りなんですよ」
「…………………………………………え?」
終いには、ルーブルさえも知らなかった情報を口にした。
「あの人は周りから‘王子様,と呼ばれているらしいですが、その実とても愚直で情熱的な方ですね。オークスに向けて追い込みに追い込んでいるあなたを少しでも休ませたい。せめて本番前はゆったりと気を抜いてリラックス出来るような環境で過ごして欲しい……。そんな想いから、あなたの好物であるバターケーキについて少しでも明確な嗜好がなかったかどうかを私に聞きに来たんです」
「そ、う、ですか」
これはきっと、一種の混乱状態という奴なんだろう。
「本人に内緒で秘密の情報を提供するのはどうかと思ったんですが──
‘最高に美味しいと思える物を食べさせてあげたいんだ,
──他の人物ならばいざしれず、あなたのトレーナーである彼にそう言われて深く頭を下げられたら、教えない訳にもいきませんでしたからね。‘シスター・ルーブルには私が教えたという事は黙っている,それを守ることを条件に‘素朴で手作り感が溢れるような物が好きだと前に言っていた,そう伝えました。そのついでに、あなたが好きそうなロマンス溢れるホテルが東京レース場の近くにある事も」
「ああ、なるほど。だから色々と知っていたんですね」とか「トレーナーさんがそんな事を?」とかそういう事を嫋やかに言いたいのに「あ」と「は」と「え」の三文字しか口から出て来てはくれなかった。「とても素敵なトレーナーさんなのですね」というとても嬉しくなる筈の褒め言葉にすら、何も返事が出来ない。
「そのおかげかは知りませんが、調子は良好で気負いも殆ど無し。身体の仕上がりも過去最高レベル。そして‘負けられない理由,も今こうして二つほど追加された」
一つ目は、自分の知らない所でルーブルの為に色々な事を必死に考え努力し続けてくれていた、トレーナーの信頼と優しさに報いる為。
二つ目は、自分の知らない所でトレーナーと接触して秘密を勝手に漏らした挙げ句、今の今までその全容を黙っていたシスターに対する不満や怒りをぶつけるため。
メラッ──とした闘気がルーブルの身体から滲み出始めているのを確認して、シスタートウショウは一度ゆっくりと眼を閉じた。──次の瞬間
──ゴ ウ ッ ! !
「──!!?」
思わずゾゾゾッ──!! と身震いしてしまうようなトンでもない闘気がシスタートウショウから放たれる。向かい合っているルーブルは勿論、彼女達の近くで待機していた同レースに出走する何名かのウマ娘も、思わず身動ぎをしてしまっていた。中央でもトップクラスのウマ娘‘どころの騒ぎではない,。ウマ娘レースの歴史、その頂に挑むような一部のウマ娘達のそれと大差無い‘覇気,とすら呼べてしまうような物だ。
「ああ、これでようやく──」
「シ、スター、さん……?」
シスターは笑う、笑っている。本当に心の底から嬉しそうに、待ち焦がれた時がようやく訪れたと言わんばかりの喜びに満ちた笑みを携えて。
「絶好調で──」
「一切の不備が無い──」
「本気を出した全力の貴方と──」
「