「ああ……。そうか、分かった。ではまた後でな」
柴中から報告を一通り受けて、私はようやく通話を終える。随分と長く話し込んでしまったような気もするが、実際にはまだ五分と経っていなかった。
空気を読んで別の作業をしにこの場を立ち去ってしまった花姫には悪いが、その気遣いをありがたく受け取ろう。私はあらためてテラスの椅子へと腰掛け、様々な事を思案する。
(……考えなければならん事が一気に増えそうか)
ゼファーの勧誘は無事成功した。チーム編入に必要な書類や提出物も一通り書かせ終わり、あとは総務課か理事長の秘書へでも提出するだけ。──それで終わりの筈が、勧誘へと向かった筈の柴中が予想外の事を提案してきたのだ。
建前としての理由だけでも分からくはないし、私としても‘なるべく早い方が良かろう’(クォーテーションはクォーテーションで挟みましょう 上下で挟んだり前後との空間を作ったりしたいなら「」が無難ですが作品で統一できれば大丈夫です)とは思っていたのだが、流石にここまで急だと建前ではなく本音の理由まで聞き出さなければ色々と危うい。柴中としても建前だけで私を納得させるのは不可能だと理解しているからか、戻って来た後で全て話すと言っていた。
「…………ふう」
静かに息を吐き、ゆっくりと目を閉じて、今ある情報を元に脳内でシミュレートを開始する。
レース場・天候・バ場状態・出走数・枠と番号・風の向きと強さ。それらを毎回ランダムに変えながら、1回2回3回と数を重ねてゆく。……暫くの後、静かに息を吸って、ゆっくりと目を開いた。
「仮に奴のプランに乗ったとして、不安要素があるとすれば主に二つだな」
シミュレートの結果はどれも殆ど同じ物となったが、それでも幾つかは望むそれとは違う結果が出る。絶対の物など無いので当然と言えば当然だし、仮にそうなった所で大した問題ではないが、ただでさえ奴にやらせなければならない事が山積みなのだ。一番最初に躓いて時間を取るような真似は出来る限り避けたい。それを前提に考えた場合、やはり冷静な判断ではないと断言せざるを得ないのだが──
「どう言った所でそれを通すのだろう?
ニヒルな笑みを浮かべながら、マイルの皇帝は呟いた。──彼女は知っている。ああいった声色になった時の柴中は、必ず自分の考えを貫き通すのだという事を。
「さてと、では予定より数段早いが……。準備に移るとするか」
「こらそこ! また無理して持ち上げようとしてるね。アンタは二ヶ月前に三回目の腕の施術を受けたばっかなんだから、負担を掛けすぎるのは控える! 折角神経が出来て自分の意思で動かせるようになったんだから油断すんじゃないよ! そっちは逆に手を抜きすぎ!
『はい!』
(……随分厳しいな)
トレーニングの‘激しさ’では流石に比べ物にならないが、トレーニングの‘厳しさ’なら本校のそれに負けていない。むしろ色々なハンデを背負った上でよくぞ──いや、‘だからこそ’か? 『体質を克服する』という明確な目標がある為か、下手なチームよりも気合が入っている感じがすると柴中は思う。ジムトレーナーの激しい叱咤と指示が飛び、ウマ娘達がそれに答えるという至極単純な形ではあるのだが、GⅠトレーナーの柴中をもってして中々に目を惹かれる光景だった。
(──っと)
チラリ──と何人かのウマ娘から、もう何度目になるかも分からない視線を向けられる。分かっていた事ではあるのだが、休養寮のウマ娘はどうしても『トレーナー』という未知の人材の事が気になるらしい。やはりトレーニングルームには邪魔をするんじゃなかったか? と少しばかり後悔している柴中である。
『休養寮の見学……ですか?』
『はい、是非お願いします。……ダメでしょうか』
集まってきたウマ娘達をようやっと解散させ終わり、柴中と共に院長室へと戻った遠藤は、そこで思いもよらない要求をされる事になった。
『構いませんが……。その、なんの為に?』
廊下で既に‘お願い’とやらがある事は聞いていたが、それはゼファーに関係する物……具体的に言えば、彼女がここへ来てからの詳細なカルテやトレーニングデータが欲しい、的な事を言われると思っていた(当然、そういった担当ウマ娘の資料や詳細なデータはトレーナーにとって必要不可欠な物であるため、即了承するつもりだったし、仮に言われなくても渡すつもりでいた)のだが……。
『もちろん決まってます。彼女……ゼファーの為です』
『……?』
どういう事か今ひとつピンと来ない遠藤に、柴中は若干困り顔になりながら例える。
『そうですね、お医者様である遠藤さん風に言うなら患者の──病気にしましょうか。後天的に原因不明の奇病を煩ったウマ娘がいるとして、少しでも快復の手がかりになりそうな事があるなら調べますよね?』
『ええまぁ。知りたくても手に入れられない情報も多いですが……』
血液検査やCPR検査など病院の検査機で調べられる物は当然として、日々の食生活に家庭環境や血縁関係。家の立て付けに部屋の日照時間、発症以前に何かしらの病気を煩って医者に掛かっていた場合はその時のカルテ──極論、患者やその周囲のプライバシーの侵害だとかそういった倫理的な価値観を排除するならば、病気の治療や予防をするのにいらない情報など無い。意外な所に治療の手がかりがある事も──ああ、なるほど。合点がいった。
『はい、それと同じです。ゼファーが今までどういった環境で育ち、どういうリハビリをして、どういう人間関係を築いていたのか……。医学的な分析に基づいたデータや資料だけでなく、トレーナーである私自身の眼で確かめておきたい』
トレーナーとしてこれから彼女と付き合っていく為に、少しでも役に立ちそうな物があれば知っておきたい──。まだまだ若いが、柴中はこれでも学園屈指のトップトレーナーだ。今まで育成してきたウマ娘達との経験や、幼き頃から志している先立の教えにより分かりやすいデータや資料だけではなく、自分の眼で見て、関わって、話し合わなければ分らない、解決しない事があるというのを知っている。
加えてゼファーは、柴中のトレーナー人生でも初となる大きなハンデを背負ったウマ娘だ。ならばこそ、彼女が今まで過ごしてきた休養寮の知識と情報が欲しかったのである。ここには新人の時に研修で数回ほど来た事があるが、それでは到底足りない、足りるわけが無い。そも、その時はゼファーはまだ入寮すらしていなかったのだから。
中央のトップトレーナーとして至極当然の事を言ったまでなのだが、院長の遠藤は歓心しきった表情を浮かべている。「まだ若いのになんと真面目な青年だろう」という老婆心が透けて見えた。遠藤は「ええ、ええ」と二回ほど頷くと
『そういう事でしたら是非どうぞ。生憎私はこれから仕事がありますのでご案内する事はできませんが……。よろしければ係の者をお付けしましょう。なんでしたらゼファーくんと──』
『ありがとうございます。ですがお気遣いなく。こちらの勝手な都合で来訪して急な見学までさせて頂くんですから、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいきません。ゼファーも、やって貰いたいことがあるので『指示があるまで身体を休めててほしい』って自室へ帰したんです』
自分をチームへ勧誘しに来ただけな筈の柴中の指示に『分かりました』と笑顔で即答して自室へ帰ったゼファー。……彼女が空気を察せるウマ娘で良かったと思う。‘その先’までは流石に読めていないだろうが、少なくとも指示の‘意図’は理解出来ている筈だ。
『やって貰いたい事?』
『ええ』
基本、トレーナーがウマ娘にああいった指示をする場合は三つ。
一つ レース並びにトレーニング終了後に行なうクールダウンの指示。
二つ 緊急の用事並びになんらかのトラブルがあった場合に行なう待機の指示。
そして三つ目が──
『トレーニングですよ。早速ね』
‘余計な事をして疲れを溜めるな’──トレーニング前に行なう、注意に近い指示だ。
「ほら脚が止まってるよアンタらぁ!! 余所見しないで集中集中! トレーニングの一つも真面目にこなせないような娘はレースに出る事すら出来ないよ!!」
柴中へ意識を向けたウマ娘にジムトレーナー兼アドバイザー──清瀬志織の怒号が飛ぶ。怒鳴られたウマ娘達はビクッ! と身体を縮み上がらせると、ランニングマシンの上を再び全力で走りだした。それを見届けてようやく一心地付いたのか、清瀬は脇に抱えてあったカルテボードへ付属のペンで何やら色々と書き込んでいく。……話しかけるならば今か。
「すみません、突然お邪魔してしまって……。ご迷惑をお掛けします」
清瀬の方へ近づき、まずはと頭を下げて謝罪した。予定していたトレーニングに突如として乱入される──学園内で割とよく見る光景な気がしなくもないがそれは置いておいて──結果的な善し悪しに関わらず、それがどれだけ計算を狂わせる事になるかという事を、柴中はよく知っている。
「ああいえ、お気になさらず……。むしろ感謝したいぐらいで」そう言って愛想笑い(苦笑いか?)を浮かべる清瀬は、トレーニングを積むウマ娘達の方を向いて呆れたように言った。
「明らかに普段より気合が入ってますよ、あの娘達。『本校のトレーナーが視察に来てる』って話しが広まったせいか、普段は部屋に閉じこもって一人でリハビリしてるような娘まで来てますし」
「……なるほど」
恐らくは部屋の一番奥で補助付きのフィットネスバイクをしている娘と、二番目と五番目のランニングマシンを走ってる娘の事だろうなと、既に当たりを付けている柴中。『休養寮に長期入寮しているウマ娘は走る気概を無くした物も多い』と院長である遠藤から聞いていたからウマ娘達の気合の入り方に違和感があったが、そういう事なんだろうか。「良い刺激になってます」と清瀬は言うが、柴中の存在が原因でウマ娘がトレーニングに集中出来ていないのもまた事実だ。謝罪を取り下げる気は無かった。
「……まったく。みんな普段からこれぐらい本気でやってくれればきっと──」
──『早く治ると思うのに』──
思わず口から出そうになったその言葉を慌てて飲み込む。自分の目の前で必死に頑張っているウマ娘達こそが一番……狂おしいまでに
ここは休養寮。どんなに望んでも体は治らず、神に祈ってもなにもしてくれず、医者を頼っても匙を投げられる。──己の夢を叶えようとする権利すら剥奪されたウマ娘が‘それでもここならば’と一縷の希望にすがり、学園から退去を命じられるその日まで
ならばせめて、そこへ水を差す事だけは出来ない……してはいけない事なのだ。
「……」
「あと二十分程で今日のリハビリメニューは終わりですので、もし良ければ最後まで見ていってください。……あ、この後グラウンドで特別編入の娘達が模擬レースをする予定なんですが、よろしければそちらもどうぞ」
「……はい。ありがとうございます」
そう言って再びウマ娘達が適切なトレーニングをしているか見回りに向かう清瀬。……彼女は気付かなかった。柴中は確かにウマ娘の事をその眼で観察していたがそれと同時に、トレーナーである清瀬の事もシッカリ観ていたのだという事を。
「……うーん」
休養寮の自室のベットに横たわりながら、私は一人うんうんと唸っていた。
休養──という名の治療が目的の寮とはいえ、本校にある寮の制度と同じで部屋割りは基本二人一組なのだが、三年程前──つまり、私が休養寮に入って数ヶ月も経たない内に、同室だった大先輩が治療を終えて休養寮を退寮してからは、ずっと一人でこの部屋を使わせてもらっている。気兼ねなく考えを口に出来たり、好きに時間を過ごせるのは良いのだが、一人部屋を希望している娘達からは時々羨ましがられて──
「って、違う違う」
変な方向に行きそうになった思考を停止させ、呼吸を整えるように首を軽く横に振った。……どうもさっきから考え、というか思考回路がシャッキリしない。昨日と今日とで色んな事が起こりすぎたせいだろうか。
喧噪を放っておけなくて間に割り込んだと思ったらウイナーさんからトレーニングに誘われ、併走までしてもらったばかりか、翌日にはチームにまで誘われた。
三年以上ものあいだ治療とリハビリそしてトレーニングを毎日毎日頑張って、一ヶ月前にようやく退寮の許可が下りた。これでやっと夢に近づく事が出来ると一人意気込んでいた所へ奇跡のように舞い込んで来た、‘マイルの皇帝’ニホンピロウイナーを頂点とする学園屈指の強豪チーム『ステラ』からの勧誘。日本最高峰のウマ娘トレーナーである柴中からの耳を疑うような好評価。
正しく夢にも思わないような、想像すらしないような展開だ。数日前の自分に言っても相手にされないか、自分は近い内に頭がおかしくなるのだろうかと心配されかねないだろう。
期待に昂揚、混乱と不安。ウキウキドキドキと心と感情は高まるばかりなのにそれに身を任せきれなくて、私はボーッと天井を見上げ続けている。
(あれって多分
『指示があるまで身体を休めててほしい』
柴中はそう言ってゼファーを自室へと帰した。つまり‘これから前準備として身体を休める必要がある指示をする’と受け取る事が出来るし、恐らくそういう意図で言っている筈だ。チーム入りを表明してまだ一時間と経っていないが、早速トレーニングの一つでもするのだろうか。‘善は急げ’と言わんばかりの早さである。
……仮にここまでの推測が全て当たっているとして、一体何をするつもりなのだろう。レースチーム入り直後にするトレーニングと言えば、素養を見直すための再テスト──大きく分けて五つに分類される各種トレーニングを全て満遍なく行なうのが通例だとは聞いた事があるのだが、どうにも違うような気がしてならない。……根拠など何も無いただの勘だけど。
まぁ何をさせられるにせよ、全力で──
ルルルルルルルルル
「──!」
気持ちと思考を上手い具合に切り替えようとした所で、ベット横にある受信機からコール音が鳴った。病院なんかで使われているのと同じ、休養寮専用の内線通信だ。ウマ娘達に割り当てられた個室内では滅多に鳴る事が無いそれが鳴り響いた事に若干驚きつつも、素早くベットから起き上がって受話器を手に取る。
「はい。214号室のヤマニンゼファーで…………」
『あ、ゼファー……で、間違い無いよな?』
手に取った受話器から思いもしなかった声が聞こえてきて、驚いて目を丸くした。つい一時間ほど前まで院長室でチーム編入と契約の話しをしていた、これから私のトレーナーさんになる人の声だ。
「柴中さん!? え、なんで──」
『ああ。UMAINEか何かで連絡が取れれば良かったんだけど、まだお前とは連絡先の交換もしてなかったから職員の人に事情を説明して内線を借り──って違う! すまないがちょっと今手が離せなくてな。本当は俺が直接部屋まで迎えに行って色々と説明するつもりだったんけど、出来そうにないんだ。悪いんだけど運動用のジャージに着替えて休養寮のすぐ近くにあるファミウマまで行ってくれ。で、アイツが来てる筈だから指示に従って欲しい』
「え、あの……」
──なんで休養寮の内線から? そう続けようとした私の声は若干バツが悪そうな、それでいて少し焦っている様に聞こえる上ずった声で喋る柴中さんに思考諸共掻き消される。どうやら柴中さんも柴中さんで慌てているらしかった。
手が離せない? ジャージに着替えてファミウマに行け? 内線を使って連絡をしてきた経緯は分かったが、そもそもなんでそんな事態に? 突然の事態かつ有無を言わさない勢いで指示をされたせいか、頭が混乱する。状況を把握できない。そんな私を知ってか知らずか、申し訳なさそうな声で柴中さんは続ける。
『ホンッと悪い! 俺としても普通に予想外というか、ここまで反響があるとは思ってなか──!』
──ねー、トレーナーさん! 私! 次は私ね!!──
話に割り込むように受話器から聞こえてきたのは、まだ幼い女の子の声だった。……恐らくは、休養寮に特別所属している初等部のウマ娘。「……ん?」と怪訝な顔になった私は、内線本体にグイッと耳を近づけて神経を集中させる。
──あ、ずるい! ちゃんと順番守ってよー!──
──ずるくないもん! れーすで勝った人からってやくそくでしょー!──
──あの、じゃあ私があーちゃんよりも先な筈じゃ……?──
──ああもういい加減にしなアンタら!! こんな事でケンカなんてするならトレーナーさんにはもう帰ってもらうからね!!──
『分かった、分かったからちょっとだけ待っててくれ。ちゃんと全員分見るから!』
微かに聞こえてきたのは子供達による喧噪と、それをビシッと叱りつける聞き覚えのある女性の声。そして騒ぎ立てるウマ娘達に応じようとしている柴中さん。……そう言えば、今日は初等部の娘達がグラウンドで模擬レースをする予定があったような──
(──ああ、もしかして‘そういう事’かな?)
情報がある程度揃ったおかげで大まかな見当が付いた。ベットから降りて窓際の方へと向かい、閉じていた白いカーテンをゆっくりと開けてキョロキョロと休養寮のグラウンドを見渡す。案の定、レース場の隅っこの方でウマ娘達に囲われる柴中さんと清瀬ジムトレーナーがいた。子供達と柴中さんのどちらが言いだしたのかは分からないが、つまりは大体そういう事なんだろう。
大体の状況を把握出来て頭がスッキリとした私は、改めて柴中さんへ返事を返す。
「分かりました。すぐに準備します」
『頼む。一応言っとくとこれから早速トレーニングをしてもらうんだけど、肝心のメニューと何をどうしたら良いかとかは全部アイツに一任してある。準備も運動用のジャージと靴以外なんも用意しなくて良いから』
「はい。……それと、ありがとうございます」
私がそれを言うのは筋が違う──頭ではそう理解していても、お礼の言葉は自然と口から出ていた。私はもうすぐここから退寮する身だけれど、この寮で過ごしてきたウマ娘の一人として、皆に親切にしてくれる柴中さんにどうしてもお礼が言いたかったのである。
柴中さんは内情を見透かされた事を自嘲するように「ははっ」と軽く笑った。
『良いんだよ。俺がやりたいからやってるだけで──もう分かったって! と、兎に角、気合入れすぎて怪我しない程度に頑張れな!』
それを最後に通話は切れた。受話器を置いてから改めてグラウンドの方を見ると、柴中さんが未だワーワーと騒ぐ娘達をなだめすかしつつ何かを言っているのが見て取れる。子供の扱いには慣れていないのか悪戦苦闘しているが、決して悪くない対応をしてくれているのが一目で分かった。そう、一言で言うなら──
「──よぉし! 私も負けてられません!!」
──凄く、頑張ってくれている。それも多分……私の為に。
それに少しでも応え、報いるべく、私は急ぎ運動用のジャージに着替えて部屋を飛び出した。