ソウル・オブ・ゼファー   作:部屋ノ 隅

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ヤマニンゼファー 9/10

「たぁああああああああああっ!!」

 

──ここだ! とゼファーは自分で思ったタイミングでスパートを掛ける。最後の直線コースに入った直後からだ。そのまま一気に指定されたゴールまで走り抜けようとしたのだが、その前にウイナーから激しい叱咤が飛んできた。

 

 

「そこでは仕掛けるのが早いと言っただろう。貴様の耳は念仏も満足に聞けんロバの耳か? 理想と現実は常にかけ離れているのだと思い知るがいい。……息を入れ次第すぐにもう一度だ!」

 

「は、はい!」

 

素直に受け入れ、上がった息を整えつつ再びスタート位置まで小走りで駆けていく。……ウイナーから注意されている事はよく分かるし、自分でも「なるほど」と深く頷ける理論だったのだが、どうしても前知識と余計な感覚が邪魔をして、指定されたそれとタイミングがズレてしまう。

 

『400mダッシュ』

 

ダートコースの一角、コーナーを回りきり直線コースに入った位置からゴール板までの距離を利用して何度も行なわれているそれは、レース開始時のスタートダッシュと瞬発力。そしてレース終盤に掛ける最後のスパートを集中的に鍛える事が出来るトレーニングだ。短距離からマイルにかけてのレースを主に狙う特化チーム「ステラ」御用達のそれを、ゼファーはここのところ何度も何度もやらされていた。それこそ、毎日のトレーニング時間の約三割をこれで消費するぐらいに。

 

 

「……大丈夫です!! いけ」

 

ピッ!

 

「──ッツ!?」

 

「息を入れ終わりました」と合図をするやいなや、即座にスタートを告げるホイッスルが鳴らされる。慌ててスタートを切るゼファー。

所謂「出遅れ」に当たるスタートとなったにしては悪くない落ち着きようだが、‘マイルの皇帝,と呼ばれるウマ娘からしてみれば拙いにも程があったようで──

 

 

「自分で宣言をしておいてこれか? レースにおいて‘勝負所,とされる重要なタイミングの一つが‘スタートダッシュ,だ。ゲートに入ったのなら一瞬たりとも気を緩めるな」

 

走り終えた途端にこれだ。柴中とウイナーのチーム「ステラ」へ入りトレーニングを開始したあの日から、容赦の無い厳しい叱咤が毎日ゼファーを襲い続けている。

 

走る時のフォーム。通常時とスパート時における脚と腕の動かし方。仕掛けるタイミング。前傾姿勢の保ち方。……この四つを中心として、ゼファーが一本走り終える度に何らかの叱責が毎回のように浴びせられるのだ。デビュー戦もまだの新バ故の拙さや慣れの無さなど一切考慮せず、むしろそれを徹底的に叩いて矯正していくウイナー独自のトレーニング方針。

 

 

「……これで10本目だったな。一度休憩を入れるぞ。上がった調子を維持しつつ、疲労のみを上手く抜いておけ。……貴様の得意分野だろう?」

 

「は、はい!」

 

そう言うとウイナーはスマホを取り出して連絡用のアプリを起動すると、文章らしき物を手早く打ち込み始める。ゼファーはゼファーで歩きながらゆっくりと息を整え、それが終わると今度は立ったまま足や腰の筋肉をゆっくりと時間をかけて丁寧に揉み解しだした。

 

 

(……やはり上手いな)

 

メールを打ちながら横目でそれを眺めていたウイナーは口には出さないものの、心の中で感心する。有酸素無酸素に関わらず運動行為全般に言える事だが、激しい運動をした後は身体の‘クールダウン,並びに‘ケア,が兎に角大事だ。緊張で張り詰めた心と筋肉を冷ましながら解きほぐし、その後に起こりうる怪我や故障のリスクを低くする事が出来る、スポーツを嗜む者にとって必須とも言える作業。……の筈なのだが、新バは疎か古バになって数年も経つウマ娘でもこの辺りを蔑ろにしがちな者が少なくない。

 

不意に起きる怪我や故障の恐ろしさをよく分かっている筈の中央トレセン学園に所属しているウマ娘ですら「下手だからその辺りは専門職の人を雇って任せている」という者が何人かいる始末だ。優秀な人材が減り、過疎化が進んでいる地方に至っては言うまでもないだろう。

 

‘専門的な知識や技術がある人物に委ねる,なるほど確かに最適解かもしれないが、だからといってそれは当事者である自分が勉強を怠ったり技術を磨かなくて良いという理由にはならない。「トレーナー任せ」或いは「ウマ娘任せ」‘のみの,トレーニングが酷く怠惰で、危険極まりない行為であるのと同じように。

 

その点、ゼファーはかなりシッカリしている。「どこの筋肉がどれぐらい疲れているか」をキチンと自覚し、それぞれの箇所にあった適切なマッサージをする。スタミナが完全に切れ、誰かの助けがなければ立つことも出来ないほど酷く疲弊している時などを除き、彼女はトレーニング後の身体のケアを素晴らしく丁寧に行なっていた。トレーニング初日にその事について尋ねてみたが、ゼファー曰く

 

 

『私、以前お話した通り昔はトレーニングどころかリハビリでも毎回のようにスタミナ切れで倒れちゃってまして……。だからリハビリ後のケアなんかも、ほぼほぼ看護婦さんや職員さん任せだったんです。なんとか起き上がって自分でやろうとしても‘そういうのは向こうに行ってから学べば良いんだ,‘早く身体を治す方が余程大事だ,って』

 

……分かる理屈ではある。怪我、故障、病気。そういった物からいち早く快復する為には適切な治療やその後のリハビリも大切だが、なにより一番大事なのは‘医者の忠言に従う,事だ。自分自身で身体を‘鍛え,治さなければなければならないリハビリはまだしも、ただ疲労した身体を回復させるだけならば自分の手で行なう必要はない。その道のプロに任せた方が何倍も効果があるし、むしろ素人の手で下手なケアを行なうと余計な怪我や故障に繋がる恐れまである。先ほどと正反対の事を言っている気がするが、あれはあくまで健康体の場合の話であり、何らかしらの患いがあったりする場合は話が別だ。

 

‘確実に治す,病院を兼ねている休養寮の職員としては当然の考えであり、その思考回路に一切の非は無い。……色々と時間が無い者の‘夢,を潰しかねないというデメリットがある点を除いては。

 

 

『大抵の人がそう言ってたんですけど──

 

‘こういうのはちゃんと今の内に……ある程度で良いから自分で出来るようになっときな。じゃないと、いつか本校に行けた時に後悔するよ。ただでさえあんたは他の娘よりも疲労が抜けにくい体質をしてるんだから,

 

──って皆さんとは真逆の事を言いながら、凄く親切で丁寧にやり方を教えてくれた人がいたんです。だからこれは、その人が指導してくれたおかげなんです』

 

ということらしい。『まぁついこの前もトレーニング中にスタミナ切れを起こして立てなくなっちゃったので、その人にケアをしていただいたんですけど……』とゼファーは苦笑しながら言った。どうやら休養寮の方にもウマ娘達の事を真剣に考え、根気良く指導してくれる優秀なトレーナーがいたようである。

 

 

「ふぅ……。ん……よし! 大丈夫です! まだまだ頑張れます!!」

 

休憩開始から約10分後。全体の筋肉を満遍なく揉みほぐし終わり、水分補給も完了したゼファーは笑顔でウイナーの方へと駆け寄る。

 

 

「いいだろう。では‘仕上げ,だ。昨日と同じく、スタート位置から1200mを通して走り切れ。……柴中が説明した戦略概要とそれに値する策は覚えているな?」

 

「もちろんです!」

 

頭の中で柴中から言われた事をもう一度思い出してシッカリと意識しなおす。チーム入りして早々、勉学もトレーニングも今まで殆どやってこなかった──慣れない事ばかりをやらされ続けているゼファーだが、それ故に気概は良く、様々な意味でやる気に満ちあふれていた。

……この調子なら心配要らない。二日後もきっとなんの憂いもなく──

 

 

「……? あの、ウイナー先輩?」

 

「──なんでもない」

 

徐々に仕上がっていくゼファーを見る度に自分達以外全員の唖然とした表情がありありと脳裏に浮かび、それがたまらなく愉快で思わず口元が緩む。果たして彼ら彼女らは、‘それ,を事実だと信じられるだろうか。なにせ、もしこれが他人事だとすれば皇帝たるウイナーですら驚かない自信が無いのだから。

 

しかしそれもつかの間。すぐにいつもの凜々しい表情に戻ると、威厳に満ちた声色でゼファーへ次の指示を出した。

 

 

「では行け。走り終わり次第、場所を移して次ぎのトレーニングに入る。こちらも‘仕上げ,だ。……覚悟は出来ているな?」

 

「はい! 頑張ります!!」

 

 

 

 


 

 

「はぁ……はぁ……ああっ、もう…!」

 

走った後に息を整える為のウォーキングさえしんどくなって、そのウマ娘は休養寮のグラウンドに設置されたランニングコースを避けて木陰の方へ寄ると、尻餅をつくようにその場にへたり込んだ。口から吸い込んだ空気で喉が乾くように痛むのを堪えながら何度も呼吸を繰り返し、ようやく深呼吸が出来るようになった頃。自分と同じようにトレーニングからギブアップしたウマ娘がこちらへやってくるのが見えた為、あらかじめ脇によって場所を開けておく事にする。

 

 

「と、となり……良いかな……?」

 

「お好きにどうぞ」

 

ゼーゼーと息を切らしながらやってきたそのウマ娘は了承の返事を聞いて小さくお辞儀をすると、もう限界と言わんばかりに前のめりにドサッと倒れ込む。流石に心配になって「ちょっと大丈夫?」と聞くと、無言のまま小さな頷きが返ってきた。

 

 

「……自分の限界くらい分かっときなさいよ。なにあのバ鹿みたいな無茶しちゃってるの」

 

整った顔立ちをしている上に鹿栗毛の長髪なのも相まって、スタミナ切れでぶっ倒れるそのウマ娘の姿が自分の中で‘あいつ,と被る。「あはは……」とバツが悪そうに笑う様子なんかもうそっくりだった。

 

 

「な、なんていうかそのね。えっと……」

 

「どうせゼファーとゼファーをスカウトしに来たトレーナーの影響でしょ? ここ最近になってリハビリメニューを急に追加した奴らなんて大抵そうだと思ってるけど違うの?」

 

「……あってましゅ」

 

噛んだ。蚊の鳴くような小さな声だったけど確かに噛んだ。羞恥で顔を紅くするそのウマ娘を「はっ」と鼻で笑いながら、吐き捨てるように言う。

 

 

「アホらし……。なーにみんなして今更必死に努力なんてしちゃってんだか」

 

あのトレーナーが休養寮にゼファーをスカウトしに来てから早三日。彼から直接アドバイスを受けたという初等部のウマ娘達を中心に、最近急にリハビリを真剣にやり始める娘が‘また,少し増えた。今年に入ってから──より正確には‘あの人,が重賞レースに勝利してから少しずつ増えていたから、一概にゼファーとトレーナーの影響だけではないのだが……。

 

リハビリメニューを追加する。身体の状態により一層気を使う。先生や院長に言われた事をちゃんと守る。それ自体は良い事だと思うし、別に咎める気など無い──けれど‘どうせ無価値になる,そんな諦観にも似た大前提が彼女の中にあった。そしてそれは、なにも自分一人だけの思想なんかじゃない。この寮で生活している大抵のウマ娘に少なからず根付いている物だ。

 

必死に努力する事を「無意味」だとは思わないが「無価値」だとは思っている。──少なくとも、この休養寮に入った……入るしかなかったウマ娘には。

 

 

「で、でもゼファーちゃんは……。それに大先輩だって──!」

 

「あの人は‘例外,ここでの治療もリハビリも想いも無駄にならなかったけど、それはあの絶望的な虚弱体質を運良く……奇跡的に治療する事が出来たからよ。‘努力したから無駄にならなかった,んじゃなくて‘身体が治ったから努力が無駄にならなかった,。分かる? そもそもあの人、体質そのものは完治はしたけど後遺症は普通に残ってるって話しじゃない。ゼファーに至ってはデビューすらまだの新バでしょ。それも正確にはまだ休養寮(ここ)から退寮すらしてない病み上がり。……あいつがいつデビューするのかは分かんないけど、あの人や他の娘同様、目も当てられないぐらいボロ負けするんじゃない?」

 

「うぅ……」と叱られてしょぼくれた犬の様に落ち込むそのウマ娘を見て「言い過ぎたかな」と少しばかり反省しなくもないが、彼女としては空気を読んで‘その先,を言わなかっただけ気を使ったと思っている。

 

その先──つまり、何度も何度も敗北を繰り返した後。レースに一度たりとも勝利する事が出来ず、それどころか入着する事すら出来なかったウマ娘の末路。悔しさに泣きながら故郷へ帰る事になるか、勝利を諦めきれずに地方のトレセン学園へと転校するか、あるいは──人生を走る事すら止めてしまうか。

 

いずれにせよ、休養寮出身のウマ娘は体質を完治させて本校へ移った所で大抵そうなる。確かに大先輩を含めて重賞レースに勝利したウマ娘も何人かいるが、休養寮に所属した事のあるウマ娘全体の何百分の一とかいう奇跡にも近い確率だし、彼女達だって転入して一年位は散々なレース結果ばかりだったのだ。

 

 

「……だから「私もいつかあんな風にー」みたいに不用意に憧れたり、それを理由に無茶な努力したりすんのは止めといた方が懸命──」

 

「流石に聞き捨てならないな、それは」

 

「な──!?」

 

横合いから不意に話しかけられ、流石にビックリしながらバッ──! と後ろを振り向く。「やぁ」という気さくな挨拶と共に木の陰からスッと姿を現したのは、二十代後半と思われる人間の成人男性。

 

 

「あ、アンタ……」

 

休養寮では見ない顔だが、その顔と声には覚えがあった。なにせ、ちょうど四日前に直接顔を見たばかりだ。

 

 

「ぜ、ゼファーちゃんのトレーナーさん!?」

 

「柴中な。柴中」

 

四日前に着ていたスーツとは違う、上下共に蒼と白を基板として薄い桃色の文様のような装飾が所々にちりばめられた──恐らくこれが、彼独自のトレーナー服なのだろう──‘魔術師,や‘呪い師、といった部類の人間が着ているイメージがある、全体的にゆったりとしたローブのような服を着ていた。

 

 

「なんでアンタがここにいんの……。ゼファーだったらもうとっくにトレーニングしに出かけたけど」

 

「ああ、もちろん知ってる。っていうか昨日も一昨日も俺がトレーニングルームまで送り迎えしてるしな。明日には退寮だから、引っ越しの荷物纏めなんかもかねて今日はかなり早めに上げる予定だし」

 

柴中はそう言うと、脇に抱えたクリップボードに挟んでいる紙へスラスラとなにやら書き込んでいく。クリップに挟まれた紙は大凡十枚以上あるようで、その一つ一つに七面倒くさそうな……まるで重要書類や契約書みたいな事細かな文章が書いてあった。

 

 

「じゃあなんで──」

 

「そんなの決まってるだろ? ゼファーの……いや違うか。俺の為さ。やらなくちゃいけない事と知っておかなくちゃいけない事がまだあるから、遠藤さんにあいつとの正式なトレーナー契約締結完了とその報告を兼ねてここに来たんだよ」

 

「えっと……し、知りたい事って一体……?」

 

「ゼファーの事さ」

 

このあいだ遠藤に言った時と同じ、どこまでも真摯で単純な理由を躊躇無く口にする柴中。

 

 

「……意外ね。アンタ確か、GⅠトレーナーって奴なんでしょ? 休養寮であいつが今までやってきた治療行為の内容とかリハビリにトレーニングメニューの情報なんてとっくに手に入れてるだろうし、それに加えて今までの経験則があれば……所謂‘育成計画,なんてもう十分立てられるんじゃないの?」

 

「育成だけの話しじゃない。これからあいつと一緒に歩んで行くにあたって、トレーナーの俺が知っておくべき事はまだまだ沢山ある。どんな食べ物が好きで、どんな信条があって、なにを目的としてレースを走るのか--とかまぁ色々な。あと、休養寮出身のウマ娘を担当するのは俺も初めてだから、いつも以上に色々と慎重になってるんだ」

 

書類だとかカルテだとかレポートだとか……。そういった事実的な根拠に基づいた情報資料は確かに大事だけれど、それだけじゃ分からない事は間違いなくある。特に、今までゼファーと一緒に過ごしてきた休養寮の職員やウマ娘達の‘生の声,は貴重だし、凄く参考になる。

 

 

「‘速くて強くて丈夫なウマ娘を育てる,だけが俺達ウマ娘トレーナーの仕事じゃない。担当のウマ娘が何の憂いもなくレースに挑めるように最善を尽くす。気持ちよくターフを走れるように出来る限りの事をする。調子が悪かったり不安になった時とかに可能な限り寄り添って力になるのも立派な仕事さ」

 

その姿勢から仕事に──否。ウマ娘に対する‘情熱,という物をありありと感じる。詳しくは知らないが、GIトレーナーって奴はどいつもこんな奴らばかりなんだろうか。ともすれば愛しい恋人へ向ける想念に近いものさえ感じさせる柴中に、少しばかり気後れしてしまうウマ娘二人であった。

 

 

「そんな訳でここの人達に話しを聞いて回ってるんだけど……。良ければ君達も知ってることや思ってることなんかを聞かせてくれないか」

 

そして、例え自分ではなくともウマ娘に……特に、休養寮の娘に対して真剣に向き合ってくれる一流トレーナーの頼みとあらばそう無碍にも出来ない。

 

 

「わ、私は別に良いですけれど……。でもその、あんまりプライベートな事や休養寮の機密に関するかもしれない事なんかは……」

 

「もちろんその辺りは省いてくれて良い。特に、プライベートやあいつの信条に関する事なんかは例え知ってても話さないでくれ。教えて欲しいって言った手前あれだけどな」

 

先ほどとは真逆にも近い事を言いだした柴中だが「そういうのはいずれ俺がゼファー本人に直接聞く。で、‘話しても良いな,って思った時に教えて貰えれば良いんだ」との事らしい。……自分の担当になるとはいえ、人の過去や事情を勝手に調べておいて今更何をと思わなくもないが、どうやらそれが彼なりの‘易々と踏み越えてはならない一線,なのだろう。

 

 

「……」

 

すぐに了承した後から来た方と違い、先に木陰に来ていた方のウマ娘は少しばかり考える。そも、自分はゼファーの事なんて大して知りはしないし、別段思い入れがある訳でも無い。精々、リハビリを兼ねたスタミナトレーニングを毎日欠かさずやり続けていた事と、ケンカやもめ事なんかに首を突っ込んでは良い具合に収まるまでトコトン付き合い続けていた事。それから、走ってる最中に妙な事を口走る時が極希にあったから不思議に思っていた事があるくらいだ。

 

……教えて困る様な事などなにも無いが、逆に言えばワザワザ教えてやる義理も無い。

 

 

「……ねぇ。その前にちょっと聞きたいんだけど」

 

「なんだ?」

 

「さっき言ってたじゃない。‘ちょっと聞き捨てならないな,って。あれどういう意味? やっぱ一流のトレーナーとしては無駄な努力ーって単語が気に入らなかった訳? それとも不用意に憧れるなーの方?」

 

だから、先にこっちから聞きたい事を聞いてやる事にした。

 

 

「……アンタ、休養寮の娘みんながみんな‘速く病気を治して本格的なトレーニングがしたい。レースに出て走りたい,って思ってるって勘違いしてるんじゃない?」

 

「……」

 

我ながら嫌みったらくてトゲのある言い方だと思いつつも、思った事をそのまま口にする。どうせどう思われようがこれ以上縁がある事はないのだし、気にする必要も無い。……不穏な雰囲気を感じて自分の隣で顔を強張らせている娘には悪いけど。

 

 

「……‘建前,って奴よ。本当はもうとっくに退寮出来るのに、何かと理由を付けてここから出て行きたがらない娘もそこそこいるの。なにせ、休養寮を出たら本校のレース科に移らなくちゃいけない。‘体質に異常がある,っていう恰好の免罪符を取っ払われて、全国から集いに集った化け物達が棲む場所に行かなくちゃいけないんだから」

 

休養寮から出て行くということは、体質が(大まか)改善したということ。体質が改善したということは、みんなと平等になるということ。みんなと平等になるということは、贔屓目抜きで‘比べられる,ということだ。無論、最初の辺りは良い結果が出なくても‘最初だから,‘病み上がりだから,と自分や周囲を納得させられるかもしれないが、だいたい一年も経てばそうはいかなくなる。

 

あれだけ必死に闘病生活を送り、やっとの思いで体質の改善に成功したと喜び勇んで本校のレース科に行っても、重賞を幾つも勝つような怪物(ウマ娘)は疎か、OP戦にすら出られないような娘にまで羽虫のように蹴散らされ、嬲られ、目を覆いたくなるような大敗を繰り返し続ける。体質異常を治療する時に残った後遺症なんかがある場合はまだマシで、本当に何の理由も無くただただ負け続けたウマ娘は‘走る意味を見失う,。──そして、そんなどうしようもない自分に絶望する。

 

 

「……多少大袈裟に言ったけど、休養寮から出てったウマ娘の殆どがそんな末路を辿ってるのよ。GIクラスのレースで当然のように良い成績を残すようなウマ娘ばっか育ててきたアンタには分からないかもしんないけど──」

 

 

 

 

 

「じゃあ止めるか? 走るの」

 

 

 

 

 

ピタリ──と。そのたった一言だけで、彼女は世界丸ごと時間を止められたような感じがした。

 

 

「止めたくないから、ここにいるんだろ?」

 

「……ッツ!」

 

「気付いてるか? 君さっきから‘走りたい,‘レースに出たい,‘勝ちたい、負けたくない、みんなを見返してやりたい,──そんな事ばっか言ってるぞ」

 

負けるのが恐いのならレースなんか出なければ良い。負けても良い理由が欲しいのなら努力なんてしなければ良い。絶望したくないのなら走らなければ良い。そもそもの話し、身体の異常体質をなんとかしたいだけなら医療関係者がもっと沢山勤務していて、設備や機材なんかも充実している有名な大病院にでも入れば良いのだ。金銭面の問題だとかそういう物もあるかもしれないが、少なくとも休養寮に拘る必要などなにも無い筈である。

 

そして、建前としての理由も恐怖に塗れた本音も関係無く、彼女の言葉から余計な物を取っ払えるだけ取っ払えば、休養寮のウマ娘達の本当の‘願い,がありありと見えてくる。

 

──‘だから勝ちたい。体質を治して休養寮を出て、トレーニングを積んでレースに勝って、もっともっと走り続けたい,──そんな純粋な願いが。

 

 

「あとなんか勘違いしてるみたいだから誤解を解いておくけど、俺が‘聞き捨てならない,って言ったのは‘誰かに憧れて無茶な努力するのは危険,って思想じゃなくて、その前」

 

「……その前?」

 

ホンの一分程前の事なのに自分でもなんて言ったかよく覚えていなくて、そのウマ娘は思わず聞き返す。「おいおい」と柴中はあきれ顔でツッコんだ。

 

 

「‘デビュー戦でゼファーがボロ負けする,って言っただろ? そっちだよそっち」

 

「……ああ。確かに言ったけど、それがなに?」

 

柴中に言われて発言の内容を思い出し、特に悪びれることもなく肯定する。柴中がいつゼファーをデビュー戦に出させるかは知らないが、仮に今年中にデビューさせると仮定した場合、目処はだいたい秋頃になるだろう。今は三月だから、凡そ七ヶ月ちょっと。たったそれだけの期間で病み上がりのスタミナ皆無(もやしっ子)が、デビューを遅らせてまで入念に準備を重ねてきたウマ娘達に勝てるようになる訳がない。仮にボロ負けはしなくとも、入着なんてとても期待出来ないだろう。

 

 

「もしかして‘GⅠトレーナー(自分)ならそんな短期間でも病み上がりウマ娘をレースで勝たせられる,って言いたい訳? ハッ、そういう事なら──何で頭抱えてんのアンタ」

 

「いや、なんて言うかその……アイツって本当に誰とも併走しなければレースにも出なかったんだなってさ……。やっぱ‘あれ,言われたの休養寮でじゃないな。もっと過去を、いやでも流石にこれ以上は……」

 

頭を抱えながらなにやらブツブツと小声で呟きだした柴中を怪訝な眼で見るウマ娘二人。‘ゼファーが負ける,という発言が気に入らなかったのはよく分かったが、どうやら柴中の話し、もとい言いたい事はまだ終わりそうにない。

 

一旦息を整えてから、柴中は姿勢を正すともう一度ウマ娘の方を見た。

 

 

「──違う。‘トレーナーがウマ娘(俺がゼファー)を勝たせる,んじゃなくて‘トレーナーの指示を聞いたウマ娘が(トレーニングを積んだゼファーが)勝手に勝つ,のさ」

 

「……ふうん」

 

強気に。不敵に。彼女の華々しい勝利を欠片も疑っていない自信に溢れた表情で、柴中は言う。……トレーナーとしては実に良い口上だと思うし、ここまで強く断言されると期待の一つもしたくなるが、流石に半年では──

 

 

「だから、君達も見に来てくれよ」

 

「は……?」

 

柴中はそう言うと、手提げ鞄の中から二枚のポスターを取り出して二人に手渡す。「是非応援してやってくれ」と笑う柴中をよそに、口が悪い方のウマ娘は途方もない違和感を感じていた。

 

 

「あのぉ……‘見に来てくれ,って、一体何を……」

 

「決まってるだろ? レースだよレース。折角のデビュー戦なんだ、応援席で見てるのが俺一人だけってのは流石に寂しいだろうからな」

 

「あ、アンタさっきから何を──」

 

……こいつはさっきから一体何を言っているんだ? デビュー戦? 応援? 半年以上も先のレースの出走枠を予約なんて出来る筈が──

 

 

「──! まさか!?」

 

癖で丸まったそのポスターを破りかねない勢いで開き、そこに書いてある内容を隅から隅まで見る。レース階級は新バ限定の‘メイクデビュー,。レース場は中山で、コースはダートの1200。雨天決行で、開催日が……。

 

 

「え……え、えぇええええ!?」

 

「アンタ……バカじゃないの!?」

 

それを確認した瞬間、大人しい方のウマ娘は目を見開いて絶叫し、口が悪い方のウマ娘はあと一歩で柴中に掴みかかるところだった。

 

 

「これ、明日やる(・・・・)レースじゃない! まさか碌なトレーニングもやらせないでレースに出させようっていうの!? 何考えてんのよ!?」

 

もはや‘期待出来ない,だとかそういうレベルの問題ではない。

 

 

「別に休養寮のウマ娘はレースに出ちゃいけないなんて決まりは無いよ。それに、ゼファーなら勝てる」

 

「無理に決まってるでしょ!」

 

声を今まで以上に大きく荒げる。騒ぎを聞きつけたのか、二人の他にグラウンドでリハビリをしていたウマ娘達も「なんだなんだ」と野次ウマのように寄ってきた。

 

 

「アンタあいつを何だと思ってんの!? 自他共に認める生粋の‘もやしっ子,なのよ!!?」

 

スタミナ切れを起こして毎日のようにグラウンドやトレーニングジムでくたばっていたゼファーの姿を思い出す。

 

マラソンはいつもたったの5㎞でバテバテ。バーベル上げもボクササイズもタイヤ引きもルームランナーもみんな長く続かない。いくら虚弱体質が大まか改善しているとはいえ、碌にトレーニングも積めていない休養寮出身の病み上がりウマ娘がレースに勝てる訳がない。

 

 

「今からでも出走を取り消すべきよ! ‘ボロ負け,なんてもんじゃない! あの人のデビュー戦と同じで、ブービーから大差以上の差を付けられる……。それこそ、‘もう二度と走りたくない,なんて思っても不思議じゃない最悪の記憶になるわ!!」

 

「……一応聞いておきたいんだけど、やっぱり君もそう思うか?」

 

「え!? ええっと……そ、そのぉ……。ぜ、是非勝って欲しいなぁとは思ってますけどぉ……」

 

柴中を責め続ける口が悪い方のウマ娘に同意しているのかどうか尋ねるが、大人しい方のウマ娘はゴニョゴニョと言葉を濁すと気まずそうに目を逸らしてしまう。その数秒後、小さくコクリと頷いたのが見えた。「そっか」と柴中も小さく頷いて──

 

 

「いや実はな? さっきゼファーとの正式なトレーナー契約の締結が完了した連絡と御礼、それから二日後のメイクデビュー戦に出走させるから是非応援に来てくれって院長さんと清瀬トレーナーに伝えに行ったんだけど、今と似たようなこと言われちゃってさ」

 

「あったりまえでしょうが……!」

 

ただの寮生として一年間一緒に過ごしただけの自分ですら、ゼファーの圧倒的もやしっぷりを知っているのだ。その三倍以上の時間をずっと見守ってきた二人からすれば、それこそプロスポーツ選手志望の長期入院患者を退院後即試合に出場させるような暴挙に感じられただろう。

 

 

「院長さんは「絶対に必要なことなんです」って言ったら渋い顔で了承してくれたけど、清瀬トレーナーは凄かったな。礼儀も外聞も知ったこっちゃないって感じで『アンタ本当にGⅠトレーナーなんだろうな!?』って思いっきり怒鳴られたよ。っていうか院長さんが止めてくれなかったら多分胸ぐら掴まれてた」

 

ハハハッ──と笑いながら柴中は語る。「何がおかしいのよ……!」と口が悪い方のウマ娘が聞くと、嬉しそうな顔で再び口を開いた。

 

 

「ああ、ごめんごめん。四日前にここを尋ねた時から‘そこまで深刻な問題は起こってなさそうだな,って思ってはいたんだけど──。俺の予想以上に‘良い環境,で過ごしてたみたいで良かったなって思ってさ」

 

「……い、良い環境……ですか? 休養寮が……?」

 

「ああ」

 

ハッキリと力強く頷く。

 

 

「ここで過ごすウマ娘の事を第一に考えてそれぞれにあった治療やリハビリを指示してくれる院長と医療スタッフにウマ娘トレーナー。種類こそ豊富とは言えないけれど一つ一つ丁寧に整備された機材や各種設備に、好みをある程度聞き入れつつ、栄養バランスがシッカリと考えられている食事メニュー。それと、君達みたいな友達。……これでどうして‘悪い環境,だなんて言えるんだ?」

 

所属しているウマ娘の割合が本校と比べて圧倒的に少ないから当然と言えば当然なのだが、職員やトレーナーが一人一人のウマ娘に割ける時間や情熱が本校のそれとは段違いだ。~一人一人に合った教育と育成を~なんて謳い文句のマンツーマンサポート制の塾は多いが、それと似た物を感じる。医療現場を兼ねているとくれば尚更だった。

 

 

「……アンタ、私の話聞いてたの? どんなに体制が良くても休養寮はね──!!」

 

「君の言う通り本当に‘怖がってる奴,と‘諦めてる奴,しかいないような頑張りがいのない場所ならゼファーは三年もここに入ってないよ。途中退寮して別の所で体質をシッカリ治してから中央トレセンに殴り込みを掛けてくるさ。‘大人しくて前向きな主人公タイプ,と見せかけて行動力があるし、とんでもないド根性持ってるからなあいつ」

 

「ぐっ……!」

 

言葉が詰まる。まだゼファーと出会って一週間と経っていない筈の柴中の断定するような言い方が、そしてそれに納得してしまっている自分がいる事が何故だか無性に腹ただしかった。大人しい方など「と、友達……友達かぁ……友達、で良いのかなぁ?」と先ほどまでブツブツ言っていたのに「あー……。確かにゼファーちゃんならするかも……」と思いっきり同意してしまっている。

 

 

「……君達の不安も心配も分かる。傍から見れば病み上がりのウマ娘……それもデビューもまだの新バをいきなりレースに出場させるような暴挙でしかない。もしこれで結果が出なかったら新聞やネットの記事で散々と叩かれるだろうな。……いや、結果が出ても同じか?」

 

──ここだけの話し、柴中は休養寮の誰よりも理解しているし、知っている。

 

 

「まぁそこは良いや。最低でも二週間以内にはデビューさせるつもりだったからその辺は大差無いだろうし、なにより必要な事だしな」

 

自分がやろうとしている事が、常識外れにも程がある行為だという事も。確実に、そして堅実に勝ち星を重ねていく方法も。リスクを限りなく低くして、それでいて数年後にはGⅢクラスのレースで勝利する事が出来るだろう育成プランすら頭の中にあった。

 

 

(……けれど、それじゃダメだ)

 

それでは届かない。ゼファーの、ウイナーの、自分の夢は叶えられない。……GⅠのレースには勝てない。

 

時間は有限で、ライバル達は強大で、体質はまだ完全に治ってなくて、その改善に時間が掛かる大きなハンデまで背負っている。──だから今しかない。彼女が大成する為には、今この時期にデビューさせるしかない。

 

 

「その上で言うぞ『ゼファーは勝つ』。過去に休養寮出身のウマ娘達が悉く振わないデビュー戦を飾っていようが、その日同じレースでデビューする有力ウマ娘がいようが、俺とウイナー(あいつ)以外の誰もが勝利を期待してなかろうがだ」

 

そして、だからといって負けるレースになる気は微塵もしていない。仮に「分が悪い」と判断したのであれば、あと一週間はデビュー時期をズラしている。あくまで「勝てる」と思ったからこそ出走させるのだ。

 

 

「で、でも……」

 

「だからってこれは……」

 

GⅠトレーナーである柴中の熱弁を聞いてなお、二人は半信半疑だった。仕方がないことではあるのだが、やはり今の休養寮のウマ娘達(中等部以上)は自分達の事を過小評価し過ぎている。

 

 

「そう思うならレースを見に来てくれ。そして、ゼファーを応援してやってくれ」

 

ならばこそ彼女達は──否。休養寮のウマ娘達は、彼女のレースを見に来るべきだ。柴中は今日、それを大目的として休養寮を訪れたのだから。

 

 

 

「‘仲間達の声援,。それがあいつの負け筋を無くす最後のピースだからさ」

 

 

 

 


 

 

「……ああもう! 良いんですか院長!?」

 

休養寮の院長室に清瀬の鬱憤たまった大声がこだまし、その影響で来客用の机の上に置いてあった三杯のコーヒーカップがカタカタと音を立てて揺れた。呼びかけられた遠藤は遠藤で先ほどから渋くて苦々しい、それでいて迷いや困惑が垣間見えるなんとも言えない表情のまま俯いてしまっている。

 

 

「……」

 

「前代未聞どころの話しじゃないですよ、あんなの……!」

 

一方の清瀬は躊躇なく怒りを露わにして、柴中が出て行ったドアを睨み付ける。一頻り、それもほぼほぼ一方的にゼファーと彼女のこれからに関する説明をして、彼は部屋から立ち去ってしまった。実際の所、柴中は二人に対して失礼極まりない態度を取ったり発言をしたりなどしていないのだが、彼が宣言したゼファーの育成プランがあまりにも性急かつ強引な物に映った為、思いっきり印象を悪くしてしまっている。

 

無論、柴中は一つ一つ順序立てて「今デビュー戦をしなければならない理由」について懇々と説いたし、ゼファー本人もそれに納得してレースの為に調整に入っていると伝えた。結果、院長である遠藤は渋々ゼファーのレース出走を了承したのだが……。

 

 

「そりゃあゼファーはあの娘に負けず劣らずリハビリもトレーニングも毎日しっかりやってましたけどね! それはあくまで休養寮基準の‘体質の治療,を大目的としたただの‘運動,なんですよ! レース科のウマ娘達がやっているような本当の‘トレーニング,なんかと比べたらの話しですけどね!!」

 

「……ま、まぁまぁ。どうか落ち着いてくれ清瀬くん。……私だって快く思ってはいないよ」

 

上司兼年配者として取り乱す清瀬を宥めようとするその口調には覇気など無く、表情も影が差した様に暗いままだ。やはり内心ではまだ完全に納得する事が出来ていないらしい。

 

確かにゼファーの体質はレース科で行なわれているような本格的なトレーニングを行えるくらい快復した。正直な話し、体調面だけを考慮するというのであればウマ娘レースに出走しても特に問題ないだろうと遠藤も思っている。……それ以外の、特に‘勝ち負けの一切を度外視している,とも思うが。

 

 

「だったらなんで──!」

 

「……無理だからさ」

 

レース科に異動する事が一ヶ月以上も前に決まり、学園でもトップクラスのトレーナーが担当に付いた上、彼が率いるレースチームにも正式に所属する事が決まった以上、もはや自分達がゼファーの育成に介入する事が出来る余地など微塵も残されていない。仮に介入する事が出来たとして、その上で遠藤が今回のレース出走を認めなかったとしても、柴中は現在のゼファーの体質状況と治療具合が印されたカルテなんかを根拠にして半ば強引にレース出走へこぎ着けることが出来てしまっただろう。もしこれが柴中の独断で決められた出走であればまだいちゃもんの一つも付けられるかもしれないが、肝心のゼファー本人がレースへの出走を望んでいるというのであればもうどうしようもない。

 

……そんな理由(言い訳)を頭の中で反復しながら、遠藤は深く溜息をついた。

 

 

「それに、その……あれだ。彼は理事長本人が実力と人格を認めた学園屈指の名トレーナーなんだし、急なデビュー戦でもひょっとしたら──」

 

「────勝てるかも(・・・・・)。とでも思ってるんですか?」

 

自分を睨み付けるように見るその瞳があまりにも憂いと悲しみに満ちていて、遠藤は一瞬、完全に言葉を失ってしまった。もう一度深く呼吸をして、色んな意味で慎重に言葉を紡ぐ。

 

 

「……清瀬くん、それは──」

 

「……すみません。軽率な上に院長にもゼファーにも……いえ、休養寮の娘全員に失礼な発言でした」

 

軽く頭を下げて発言を謝罪する。‘休養寮出身のウマ娘はレースで勝てない,と受け取られかねないような発言もそうだが、義理立てて色々とこれからの説明をしに来てくれた柴中に対し、未だに駄々を捏ねているような自分の見苦しい姿の事も。

 

まだゼファーとトレーナー契約をしていなかった四日前ならば兎も角、ちゃんとした手続きを踏んで正式な契約が交わされた今、柴中は二日後──ようは転校初日にデビュー戦をさせる事なんてワザワザ伝えに来なくても良かった筈なのだ。なにせ、ゼファーは明日の昼過ぎには休養寮から出ていく。

 

縁が切れる。関係がなくなる。別に会えなくなる訳ではないが、少なくとも‘休養寮のウマ娘,ではなくなる。それで良いと思っているし、もう二度とここでは会いたくない。明日には他人になる自分達の為に、忙しいなかワザワザ時間を取ってまで直接ゼファーの事を伝えに来てくれたのだ。子供達のトレーニングにも根気よく付き合ってくれていたし、十分過ぎるほど親切で義理堅い性格をしているのは分かる。

 

「ですが」と、そう前置きをして清瀬は喋り続ける。

 

 

「ウマ娘トレーナーにとって一番大事な仕事は担当のウマ娘をレースで‘勝たせる様にする,ことです。特にデビュー戦は絶対に勝たせたい」

 

『ウマ娘レースに出走する者にとってデビュー戦とは、ある意味でGⅠレースより何倍も“重い”』

 

とある『伝説』のウマ娘が残した言葉だが、これ以上ないほどに真理を突いている。なにごとも最初の一歩こそが肝心なのだ。

 

最初に力強い走りを見せて勝つことが出来れば、それだけ見に来てくれた人達に良い印象を残しやすい。ともすればURA上層部からの認可を受ける事で飛び級し、一気に重賞クラスのレースに出場することも夢ではないのである。

 

逆に、負けてしまった場合は悲惨だ。接戦の上で敗北したならば兎も角、一位と大差──10バ身以上の差を付けられてしまえば「弱い」という最悪の印象を一番最初に世間に与えてしまう。当然、努力と鍛錬をもってして成長し、次のレースで勝つ事が出来れば話は別だが──そう簡単に拭い去れる物でもない。なにせ「第一印象」なのだから。

 

そして、それを承知の上で柴中はゼファーを明日行なわれるデビュー戦に出走させるという。

 

 

「……それを分かっていて何であの人は──!」

 

肝心の初戦で圧敗を喫し、そのせいで散々苦労したウマ娘の事を清瀬は誰よりもよく知っている。だからこそ、何故学園最高クラスのトレーナーである柴中がこんな愚行に走ったのかが理解出来ないのだ。

 

 

(勝てるわけがない……!)

 

先ほどのように言葉には出さず、しかし心の中で強く想う。

 

 

 

(勝てるわけがないでしょう!! 治療とリハビリに集中してたせいで他の娘と比べて碌にトレーニングを積んでいない! 休養寮上がりで病み上がり! スタミナなんて目を覆いたくなるような酷さ! 模擬レースはおろか併走一つまともにした事が無いようなウマ娘が! いきなり中央のレースに出て勝ったりなんてしたらそりゃもう本物の奇跡かなにかでしょうが──!)

 

 

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