最終章から始まる物語   作:山田甲八

1 / 10
 この物語は架空のものであり、登場する人物、団体、場所、施設、肩書等はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。またモデルとなる出来事は存在せず、すべて著者の創作によるものである。


第一章 検察官面前調書

 僕は窓に網の付された大型のクルマの中で揺られていた。

 僕は、僕を留置している警察署から地検へと運ばれている。

 僕がこのクルマに乗り、警察署と地検の間を往復するのはこれが何回目だろう。最初のうちは数えていたけれども、もう数えられない。いっそのこと、地検で僕を留置すれば、あるいは担当の地方検事が僕の留置されている警察署を訪れて取り調べをすれば、余程効率が良いのにと思う。

 そう思って担当の検事にも、警察署の留置担当者にも意見したが決まりだからと言われただけで引き続き税金を利用しての地検通いが続いている。

 では、せめて僕を送迎するリムジンを大型のディーゼル車から軽ワゴンあるいはせめてハイブリッド車に切り替えれば燃料代も節約できるのにと思い、これも意見したが雑談程度にしか受け止めてはもらえなかった。

 僕は長年、税金を集める仕事をしていたから、税金の使われ方については少しというか、かなりうるさい。

 子どもが教科書に落書きをしているだけでも、僕は本気で怒る。教科書は税金で賄われている。だから大切に使ってほしい。

 徴税の最前線に立ち、納税者からさんざん嫌味を言われ、時には罵声を浴びせられながら集めてきた税金が大切に使われないのは面白くないのだ。

 今日も、そんなことを考えているうちに僕を輸送するだけのためにチャーターされた大型のクルマは地検に到着し、僕は冷房がガンガンに効いたクルマを降ろされ、三十度を超えるであろう暑い駐車場を数メートル歩かされて、再び、冷房がガンガンに効いている地検の建物の中に入る。

クールビズと呼ばれ、エアコンディショナーの設定温度は高めのはずだが、それでも自然界のそれとは大幅な開きがあって、かえって体調を悪くするんじゃないかと思ったりもする。

 しかし、身体を壊そうが健康体でいようが、今の僕にはあまり関係がないことは分かっている。僕の余命はそう長くはない。

 僕がここに呼ばれているのは、僕が犯罪史上、類例がないほどの人命を奪い、人を傷つけたためであり、僕にはもはや天寿をまっとうする資格はないのだから。

 

 エレベータを監視役の警察官と共に昇り、かごを降りて数十メートル歩くと、僕を担当している検事の仕事部屋がある。監視役がノックすると、やや間があって中から「どうぞ」という女性の声が聞こえた。

 監視役はドアを開け、僕を中に押し込んでから自分も入ると、僕にはめられている拘束具を取り外し、ドアの脇に置かれている椅子に黙って腰かけた。

 拘束具をはずされた僕は、数歩歩いて、若い女性検事の前に進み、僕のために用意されている椅子の左側に立った。

 僕の左側には男の検察事務官が立っている。歳は僕と同じくらいなのだろうが、頭は禿げ上がり、肌艶は悪く、随分とくたびれているようにも見える。身体的特徴だけでなく、ワイシャツやスラックスもヨレヨレだった。育児とか介護とか色々な事情があって自分のことにはお金を掛けられないのだろうと僕は理解した。僕も同じような境遇なのだ。正面の女性検事がピカピカに光り輝いているのでそのコントラストが痛々しい。

 あるいはルーキーの女性検事を補佐するためにこのベテランの検察事務官を貼り付けているのかもしれない。検察事務官は地味でじじいで、きっと加齢臭も漂わせていて、女性からは敬遠されるタイプだが、この女性検事の子守役を果たせるほどに実力は十分なのだろう。

 僕の傍に置かれている椅子は、僕が座るための椅子であることは誰にでも分かることなのだが、僕には勧められない限り椅子に座ってはならないという、下級公務員根性が染みついてしまっているので勝手に座ることができない。それでなくとも、目の前の女性は、僕が八年かけても突破できなかった最難関の国家試験にあっという間に合格し、その若さで他人の人生を左右する立場に辿り着いているのだ。その目力だけで僕は圧倒されてしまう。

「どうぞおかけください」

 数秒の間があって、女性検事がロボットのように、無表情に言った。

 僕はほとんど反射的に「失礼します」と言って頭を下げた。きっと、目の前の女性が本物のロボットで、そのことを完全に理解していたとしても、僕は「失礼します」と言って頭を下げたことだろう。

 僕は女性検事の対面に浅く腰掛け、姿勢を正し、女性検事が座り、少し遅れてゆっくりと検察事務官が座った。

 目の前の女性検事は明らかに二十代だ。御三家のどこかを出て、日本の首都を冠した大学の法学部に入り、恐らく在学中に予備試験からスタートさせた司法試験に合格して検察官の道を歩み始めたのだろうと僕の頭は勝手に解釈し、目の前の無表情な女性検事を見つめた。

 そして、この若さで僕の担当になったということは、この事件の立件が簡単だと、地検は考えているからなのだろうと僕は思った。

 実際、物的証拠はすべてそろっているし、僕も自認している。将来の検察を背負って立つ若きエースがその経験値を積むための研修材料としてはちょうど良いと考えられているのかもしれない。

 僕は、殺害した人数が尋常じゃないので殺害した人の数だけ逮捕されているようだ。なかなか起訴されない。もちろん、釈放されることはなく、逮捕、取り調べ、拘留、取り調べ、拘留延長、取り調べ、再逮捕、拘留……、それの繰り返しである。

「また、何点かお聞きしますが、体調はいかかですか?」

 女性検事は相変わらずロボットのような冷たい無表情で言った。容姿は端麗なので、検事という職業と合わせると「才色兼備」と世間からもてはやされているのかもしれない。きっとそうだろう。その容姿は人生わずか五十年の僕の経験値からいっても最高の部類にランク分けされることは間違いない。

 僕が見上げるくらいだから身長は百七十センチを越えているのだろう。スラっとした細身で大きな瞳を持ち、縮毛矯正されたサラサラストレートが肩の先まで伸びている。街ですれ違えば振り返らない男の方が少数派だろう。

 洒落ではないが、この検事に自己顕示欲がもう少しあれば、検事ではなく、アナウンサーがその職業として選ばれていたことだろう。

 これだけの容姿があればたとえ独身であっても、職場で、あるいは飲み会の席で、あるいは繁華街を歩けば声を掛けてくる無数の男達から身を守るために、左右のどちらかの手の薬指に光り輝くお守りが付けられていても良さそうなものだが、十本あるどの指にもそのような装飾品がはめられていないのは、そんなものがなくとも検事という肩書が男はおろか女をも寄せ付けないからなのだろう。

 僕は出会ったそのときからこの検事のことが大嫌いだ。僕よりも背が高いというのもその理由の一つだが、それは背の高い女性が生理的に駄目だというだけのことで、根本的な理由は天が二物を与えた存在だからということだ。

 容姿に恵まれず、その恵まれない容姿をバネにコツコツと勉強し、努力し、司法試験合格の栄誉に浴したというのであれば、僕もシンパシーを感じるし、検事と被疑者という立場の差こそあれ、きっと仲良しになれたことだろう。

 僕は、世間のほとんどすべての人と同じように、天から一物も与えられることはなかった。だから、この検事の言うことには素直に従いたくはない。

 僕には、既視感というのか、この女性検事とは以前どこかで会ったことがあるような気がするのだが、それを思い出すことはできない。あるいは似たようアナウンサーが実際にいて、その映像が意識の下に隠れているのかもしれない。

「その前に、僕の方から一つ質問していいですか?」

 僕が検事を制するように、ゆっくりと、しかし、少し大きめの声で言うと、目の前のサラサラストレートは黙り、数秒、間があってから静かに、やはり無表情に言った。

「どうぞ」

「どうしてまたここで取り調べを受けなければならないのですか?もう、すべてが明るみに出ているんじゃないんですか?僕は自供しているし、物的証拠も全部そろっている。裏付けだって取っているんでしょ?」

「そうですね」

「ではなぜ?時間も労力も、それに費やされる税金もすべて無駄じゃないですか?」

 検事はまた数秒の間を取って、静かに、諭すように続けた。あるいは小さなため息も混じっていたかもしれない。

「真相を突き止めるためです」

「それって、何か意味があるんですか?僕は犯罪史に残るような大事件を引き起こして多数の生命を奪った。裁判員裁判になれば、いや、裁判員裁判にならなくても、当然に死刑でしょう。それでいいではないですか。それ以上の真実の追及に一体、何の意味があるんですか?」

 僕は検事の目を見ながら言った。

 検事は、あるいは単に面倒臭くなったのか、僕から目をそらし、少し上向きになって続けた。

「意味は色々とあります。例えば、あなたはこの国ではエリート層に属する人です」

「何を言ってるんですか。僕みたいな万年上席が」

 僕は自嘲気味に苦笑した。

「あなたは今の立場には不満だったかもしれません。しかし、あなたの年収は一千万円くらいですよね?」

 それを聞いて僕の声のトーンがやや落ちた。

「確かに、一千万に近付いたこともありましたが、結局、到達はしていません。管理職手当もないので最近は下がり気味です」

「それでも、今の私よりも年収は上です。同年代のサラリーマンの平均年収もかなり上回っているでしょう。ですから、あなたはこの国では上位数パーセントに入るエリート層に入ってしまうんです。そのエリート層に属するあなたがなぜ、こんな犯罪を犯してしまったのか、国民は強い興味を持っています。そして、裁判において真実が明らかになることを期待しています。被害者の方、あるいは被害者のご遺族の方はなおさらです」

「国民の好奇心を満たすために捜査を続けようっていうんですか?」

「それもあります」

「国民の好奇心って、マスコミが煽って作り出してるだけなんじゃないんですか?」

「好奇心を満たすためだけではありません。今回の事件、不可解なことが多々あります。それを分析することによって類似の犯罪を防げるかもしれません」

「不可解なことって?」

「あなたはXさんへの恨みから今回の事件を引き起こしたと証言していますね?」

「そうは言ってはいないと思いますが、Xに原因があるのは事実です」

「通常のケースでは、もしXさんに恨みがあるならば、対象はXさんであるべきです。しかし、あなたはXさんには見向きもしないで、まったく関係がないと思われる国税局の職員を狙いました。普通の人はその動機を理解できません。ですからその動機を解明することによってこの不可解な事件を少しは理解したいのです」

 客観的に見ればそうなのかもしれない。自然と僕の口からはため息が出た。

「なるほどね。それで、僕のような異常犯罪者の心理を分析することによって類似の事例に応用しようっていう訳ですか?」

「異常犯罪者は自分のことを異常犯罪者とは言いません。あなたは正常ですよ」

「今はまだ、精神鑑定中というところなんでしょうけどね」

「私はあなたの担当なのですからもちろん、あなたのことをよく見ていますから言えますが、きっと正常だという鑑定結果が出されるのだと思います。今、こうしてあなたと話をしていても、あなたに異常性は見られません」

「それは経験からですか?それとも勘ですか?まあ、どちらでもいいです。いいですよ。語りましょう。正直、僕は今の自分の気持ちをやはり誰かに聴いてもらいたいですから。僕の真意のとおりに伝わるかどうかは分かりませんけど。最初に質問に答えておきましょう。なぜ、X本人を狙わなかったのか。確かに僕のストレスマックスの原因がXにあるのならばこのストレスをXにぶつけるべきでしょう。そのロジックは僕にも理解できます。Xは上司でも納税者でもなく、後輩に過ぎなかったんですから。Xのことを僕の部下と言っていたお巡りさんがいましたけど、それは違います。Xはあくまでも後輩に過ぎません。それも随分と歳の離れた後輩に過ぎず、部下ではありません。僕にはXの勤評を付ける権限はありませんでしたから。それはそれで残念でした。勤評を付けることができれば分限処分くらいにはできたのに。…申し訳ありません。話がそれてしまいました。なぜ、X本人をターゲットにしなかったのか?という質問に答えなければなりませんね。Xを狙わなかったのは、Xを狙っても意味がなかったからです。Xは病気なんです」

「病気?」

 冷たいロボットが少し不思議そうな感情を見せて言った。

「Xにはお会いになられましたか?」

「私は直接会ってはいませんが、同僚が事情聴取していて、話は聞いています」

「それで、何と?」

「私の口からは申し上げることはできませんが、病気だとは聞いていません」

「なるほどね。確かに病気か?と尋ねられれば病気ではないという回答になるのでしょうね。おっしゃる通り、Xは病気ではありません。分かりやすいように、病気という言葉を使いましたけど、正確には病気ではありません。人格障害です。Xは人格に障害を持っているんです」

「そのような話も聞いていませんが」

「恐らく国税局の人事課にはその記録があるんだと思います。ぜひ、それは検察として書類を押収して、キチンと調べていただきたいと思います。そこが今回の事件の根幹ですから。もし、僕の動機に興味があるのであれば。そういう事情があって、Xに人格障害があると分かっていて、人事は僕とペアを組ませたんだろうと思います。厄介者の世話を僕に押し付けるために」

「話の意図がよく分からないのですが」

 女性検事からまた感情が消えた。

「スミマセン。また話がそれてしまったかもしれません。Xは人格障害です。サイコパスっていうんですかね。とにかくそれは産まれつきのものであって病気ではありません。いっそ、病気の方が良かったんですけどね」

「病気の方が良かったとは?」

「人格障害は病気ではない。病気ではないから治療の方法がないし、治しようがない。治せない。でも病気であれば治療できるし治すことができる。薬の処方だってできるんじゃないですか?」

「なるほど」

「しかし、Xに人格障害があるからといってクビにするわけにもいかない。国税ほどの大きな組織になればXのような人材が入ってくることを排除することはできません。結局、その面倒を誰かに押し付けるほかない」

「そんな話は聞いていないのですが、具体的にどこがどう、人格障害だというのですか?それはあなたの主観なのではないですか?それに、そのことと今回のあなたの犯した罪とはどう関係するのですか?」

「Xのような職員が採用されてしまうことはやむを得ない部分もあると思います。国税職員は五万人もいるんですから。検察にだって人格に障害を抱えている人は一人や二人はいるでしょう?十人いたっておかしくはありません。しかし、どんなにこの人は変だと思っていても、クビはおろか、訓告処分のような分限処分にもできませんね。異議申立てされたりすると大変ですから、ただこの人は変だというだけでは手の施しようがない」

「それはそうでしょう」

「結果として、誰かがXのような職員の面倒を引き受けなければならない。そのことも、全部理解しているんです。でも、引き受けるとしても一年が限度ですよ。Xとペアを組まされて、本当にまいってしまいました。精神的にまいってしまいました。それで、ペアを解消するようにお願いして、一年は我慢しなければならないなとは思ってはいましたけど、でも、一年たてば、税務署には定期人事異動というものがありますから、僕かXのどちらかが転勤して、晴れて自由の身になれると、そう思っていたんです」

「実際は、そうはならなかったということですね?」

「それは検事さんもご承知のとおりです。既にお調べになっているでしょう。二人とも異動しないことの内示を聞いてから、しばらく僕は動くことができませんでした。それからは色々な人に相談したんですけど解決することはなく、そのうち職場に恨みを持つようになりました」

「具体的にXさんの何が問題だったのですか?」

「それは検事さんもお仕事なのですから僕に聞くのではなく、ご自身でお調べになって下さい。そんなに難しい話ではないと思いますよ。Xは、今はR税務署にいると聞いていますが、R税務署のXの周辺にいる職員に聞いてみると分かると思います。ただ、今はまだ、R税務署に転勤して間もないと思いますから、後、半年くらい経過してからの方がいいかもしれませんね」

「どうしてです?」

「Xの異常さにすぐには気付けないのです。僕もXの異常さに気付くのに半年くらいかかっていますから。今、Ⅹの周りにいる人もXの異常さに気付くのにそれなりの時間がかかると思います」

「分かりました。それで、いい加減に私の質問に答えていただきたいのですが、犯罪の対象がXさんではなく、他の国税局の職員に向かったのはどういったことが原因だったのでしょう?ご自身でもよく分かりませんか?ご自身でもよく分からないのでご回答いただけないのでしょうか?」

「M・Tさんの事件をご存知ですか?」

「はっ?」

「M・Tさんの事件です」

「M・Tさん?」

「M・Tさんです。一般人ならいざ知らず、検事さんなら絶対にご存知のはずですけど、ピンときませんか?」

「はい」

「武蔵小金井の事件といってもピンときませんでしょうか?」

「…M・Tさんって、武蔵小金井の事件の被害者の?」

「そうです。武蔵小金井の事件がどのような事件であったかはご存知ですよね?」

「それは承知しています。随分と凄惨な事件でしたから。でも、今回のあなたの事件と何か関係があるんですか?」

「直接的にはもちろん、事件としては間接的にも関係ありませんよ。僕がM・Tさんやあの事件の犯人に影響を受けたということもありません。M・Tさんはアイドル活動をしていた大学生、あるいは大学生アイドルだったわけですけれども、ストーカーの被害を受けていました」

「それは存じております」

「そして警察にも相談していた。しかし警察は助けてくれなかった。M・Tさんは事件後、当時、対応にあたっていた二人の警察官に会わせるように警察に要求しているけれども、警察は組織として対応することを理由にこれを拒否しているという話も聞いています。まあ、それはネット経由の情報ですから真偽のほどは分かりませんけど」

「それは承知していません」

「N市立S小学校の事件はご存知ですか?」

「……さあ?」

「それもピンときませんか?それでは、福島第一原子力発電所から避難してきた児童を菌呼ばわりした先生がいた事件はご存知ですか?」

「ああ、それなら詳しくは知りませんが、聞いたことはあります。…でもそれと先ほどのM・Tさんの事件、そしてあなたの事件と何か関係があるんですか?」

「僕はXとのことを直属の上司はもちろん、色々な人に相談していました。そして直属の上司はそのことを理解していたし、もう僕が限界に来ていることも知っていました。でも誰も助けてくれなかったんです。僕は一生懸命SOSを送ったつもりです。それに気付いていた人もたくさんいた。でも見殺しにされたんですよ。M・Tさんも一生懸命SOSを送っていた。でも、見殺しされた。S小学校の事件も、被害者の児童は担任の先生に相談していた。でも、その担任の先生から攻撃されたんです。僕は二人の気持ちがとてもよく分かるんです」

「だから対象がXさんではなく、国税局になったと?」

「ここしばらくは僕にとって恐怖の時間でした。何が恐怖だったかというと、Xの得体の知れなさよりも、悲鳴をあげても誰も助けてくれないということが恐怖でした。M・Tさんはストーカー行為を受けることによってとても大きなストレスを感じていたと思います。しかし、いつしかそのストレスの元はストーカーではなく、何もしてくれない警察に移っていったのだと思います。S小学校の事例もそうです。最初はいじめっ子に強いストレスを感じていたのでしょう。それがいつの間にか、ストレスの元は何もしてくれないどころか一緒になって攻撃してくる担任の先生に移っていった。僕の場合も最初はXの存在そのものが強いストレスでしたが、そのうち、ストレスの元は何もしてくれない組織の方に移っていった」

「だから攻撃したと」

「後から気が付いたことですが、元々、僕は組織に対していい印象を持っていませんでした。騙されて、いいように使われてばかりで。今回も結局はサイコパスの押し付け役として利用されただけだと思っています。例えば、Xを押し付けるけど、その後のポストは考えるとか、特別手当を出すとか、そういう対価があれば状況は違っていたのだろうと思います。いや、そんな物理的なものでなくても、みんなの目の前で誉めるとかそんなものでも良かった。何か報われる瞬間があれば、今回のような事件を引き起こさずに済んだのだと思います。国税の職場で監察官による予防講和が毎年、必ず開催されていることはご存知ですよね?」

「ええ。今回の件でも、監察官や考査課の方とも情報を共有しています」

「予防講和では公務員の不祥事がいかに悲惨な結果を生むかということを学習させられます。そこでは暗いビデオとかを見せられるんですけど、僕は、正直、そんなビデオの登場人物、非行の原因を仕事のストレスのせいにする登場人物をバカにしていました。登場人物だけではなく、制作者もバカにしていたと思います。あるいは予防講和自体、時間の無駄だと感じていました。自分はこんなことをすることはないと思っていました。でも、今は、あのときはバカにしてすまなかったという気持ちです。なぜ、職員が非行に走るのか。仕事のストレスが溜まっていたという言い訳、全部理解できます」

「それにしても今回はやり過ぎだったのではないですか?これだけ大量の人命を奪ったのですから。それについてはどうお考えですか?組織に対する恨みがあったにせよ、こんなにもたくさんの命を奪う必要はなかったのではないですか?」

「……それはそのとおりでしょう。別に言い訳するわけではありませんが、これだけの命を奪うつもりはありませんでした。動機はさっき述べたとおりですから、周囲の人が僕の存在に気付いてくれさえすればよかった。寂しい少年が非行に走るようなものです。とにかく注目してほしいと。それだけです。だから異臭騒ぎくらいで良かった。異臭騒ぎくらいで僕のストレスは解消されたのだと思います。でも僕は化学の専門家ではありませんから計算に失敗しました。予定していたよりも一万倍くらいの量のガスを発生させてしまいました」

「殺意はなかったということですか?」

「もちろんです。未必の故意すらありません。せいぜい異臭騒ぎくらいで済むと思ったんですから。認識ある過失はあったかもしれませんが」

「難しい言葉をご存知ですね?」

「僕は司法試験を八年間受けていました。結局、モノにはなりませんでしたけど」

「そうだったんですか?それは初めて聞きました。たしか出身は法学部ではないですよね?」

「そうです。なぜ、僕が法学部出身でもないのに司法試験を受けることになったのか、それはまた、辛い話というか、組織に対する不平不満になってしまいますが、もしご興味がおありなのであれば、また、いつか、機会がありましたらお話ししましょう。もし聞いていただけるのなら」

「殺人の故意は否認するということですが、傷害の故意についてはいかがですか?傷害の故意についても認めないということでよろしいですか?」

「傷害の故意はあったか?と聞かれると、それについても答えはノーということになります。さっきお話しした通りです。今度の事件では僕が化学に疎かったために、結果として大量のガスを発生させてしまい、大惨事になってしまいましたが、それは僕の意図したことではありません。僕の存在、…僕の悩みに、辛さに皆さんに気付いてもらうことが目的でしたから。でも、さっきの話に戻りますが、傷害についても未必の故意もありませんでしたけど、認識ある過失はあったかもしれません。あるいは認識ある過失があったと認定されてもやむを得ない状況にはあったかもしれないと思っています。実際にどれだけのガスが発生したのか分かりませんでしたけど、あんなに大量のガスが発生するとは思っていませんでした。でも、もし、ガスが大量に発生して、何人かが救急車で病院に運ばれるようなことになっても、それはそれでやむなしかなとは思っていました。そのことがブレーキになることはありませんでしたから」

「弁護士さんには今の話はしましたか」

「ええ、しています。弁護士さんにも動機を根掘り葉掘り聞かれましたから。それに対して僕は何も隠さず、素直に答えています」

「弁護士さんは心神喪失で無罪を主張するかもしれません」

「きっとするでしょうね。僕が弁護士でもそうするでしょう。おそらく検事さんが弁護士でもそうするのではないですか?いかがでしょう?」

「私はコメントする立場にありません」

 少し人間味の出てきた女性検事が再び冷たいロボットに戻って静かに言った。

「そうですか。しかし、きっとそうするのでしょうね。そうでなければ弁護士としての存在意義がありませんし、あんな事件を引き起こすなんてまともな精神状態ではない。心神喪失以外考えられませんよね。でも、それは僕が否認しますよ。僕はしっかりとした意識を持っていましたから」

「罪の意識はないんですか?被害者に対する謝罪の言葉とか。しっかりした意識を持っていたというのであれば、心神喪失ではなく、通常の精神状態であるというのであれば普通、良心の呵責を感じると思いますけど」

「被害者やそのご家族には申し訳ないと思っています。しかし、もし、こういう行動に出なければ僕がまいってしまっていました。確かにやり過ぎだと言われればそのとおりでしょう。しかし、あれだけ助けを求めたのに誰も助けてはくれず、僕一人に十字架を背負わせた国税当局にもそれなりの、それなりのというよりも僕以上に責任があるのだとは思っています」

「随分と自分勝手ですね?そうは思いませんか?さっき、あなたはしっかりとした意識を持っていたと言いましたよね?では自分が被害者や被害者の遺族の立場だったらどう思います?犯人の行動や考えを許せますか?」

「だったら検事さんもXとペアで仕事をしてみてくださいよ。僕と同じ経験をするはずですから」

「Xさんは勤続十一年ですよ。しかし、周囲の人がこのような事件を起こすことはなかった。あなたが初めてです。そのことについてはどうお考えですか?」

「ペアを組んで、つまり二人っきりで仕事をしたというのは僕が初めてのはずです。それまでXは何人かのチームの中にまぎれて仕事をしていたはずです。ですから、同じチームのメンバーは、管理者も含めて、それなりにストレスは感じていたとは思いますけど、一人で抱え込むことを強制されてはこなかったはずです。たった一人で抱え込むことを強制されたのは僕が初めてのはずです。僕は勤続二十七年くらいになるのでしょうか。組織のために一生懸命やってきたつもりです。それがこんなにすさまじい罰ゲームを与えられることになるとは」

「殺意は否認するんですね?」

「ええ。国税局の、僕を追い詰めた人々を恨んではいますが、殺したいほど恨んでいるわけではありません」

「傷害の故意は?」

「傷害についてもやむを得ないとは思ってはいましたが、あんなに大量のガスが発生するとは思ってはいませんでした。故意はもちろん否認します」

「司法試験を受験していたのは何年頃です?」

「最後の年は短答式試験で終わってしまい、その年は論文に進むことができなかったんですけど、もう二十年くらい前の話になりましょうか」

「それ以降は司法試験の勉強はされていないんですね?」

「受験の回数制限ができてしまいましたから。法科大学院もできて、中断を余儀なくされました。それ以上に、結婚して子供が産まれて、子育てが忙しくなって、勉強どころでなくなってしまいました。しかし、中断という言葉を使いましたけれども、もう再開することはないと思います。法科大学院ができてからも、色々と司法制度改革というのか、司法試験のスタイルも微調整されているのでしょうけど、もう情報を取りに行っていないので、司法試験自体、どういう制度になっているのか詳しいことを承知していません。毎年公表される出身校別の合格者ランキングは必ず見ますけど」

「刑法や刑事訴訟法は相当、勉強されていたということですね?」

「ええ。でもハッキリ言って得意科目ではありませんでした。憲法や民法や商法は論文式試験で合格点に達したこともありますが、刑法や刑事訴訟法はDとかEとかFとかばかりでした。僕は法学部出身ではありませんし、受験予備校に通っていたわけでもない。完全に独学でしたから相当勉強していたとしても自信はありません。それに、それはもう若い頃の思い出で、知識自体が錆びついています」

「それなりの知識があるということで、今回のこの事件、どうなるとお考えですか?もちろん、検察としては起訴する方針ですが」

「殺人の故意は認められず、でも傷害の故意は認められるということで、最初から傷害致死で起訴、検察は傷害致死の最高刑を求刑して、無期懲役の判決を受けるといったところでしょうか」

「冷静に分析していますね」

「今のは嘘です。最初から殺人で起訴され、殺人の故意が認定されて、死刑でしょうね。あれだけの命が奪われたんですから。無期懲役で、何年か後に仮出所して社会復帰するじゃ世間が認めないでしょう。世間が認めないということは、裁判員もそう判断するということです。それに、ある意味、確信犯だったですからね。計画的かと言われれば計画的でしょうし。実際、冷酷なほど緻密な計画を立て、自分は逃げ切るつもりでいたんですから。残念ながら防犯ビデオの詳細な位置まで頭に入れていなかったため、今、こうして検事さんと向き合ってるわけですけど。検事さんも殺人で起訴するおつもりでしょ?」

 僕は笑みを浮かべ、いたずらっぽく聞いたつもりだったが、検事は相変わらず無表情だった。

「今日の取り調べですが、結論としては、あなたはXさんとの勤務に不満を持っていた。当局に不満を訴えたが聞いてもらえなかった。当局への不満が爆発した。大量のガスが発生し、たくさんの人命を奪ったことは想定外だった。そんなところでしょうか?」

「まあ、そんなところですね」

「調書を作成したいのですがよろしいですか?」

「検察官面前調書ですね?」

「そうです」

「署名押印すればいいんですね?」

「今、この席には印鑑をお持ちではないでしょうから、署名だけで結構です」

 女性検事はそう言うと、右側に座る検察事務官に目配せした。検察事務官は無言のまま、さっきから打ち続けているパソコンの操作に集中した。

 検事との会話がなくなった僕は目のやり場に困り、検察事務官を見たり、検事を見たり、部屋の周囲を見回したりして静かに待った。検事は机の上の書類に目を通していて、僕の方を見ようとはしなかった。雑談を振られれば応じる用意はあったが、女性検事は冷たく時間が過ぎるのを待っていた。

 検察事務官がパソコンを五分くらい操作し、一枚の紙をプリントアウトして検事に手渡した。検事は渡された紙を手に持ち、あるいは机の上に置いてじっくりと精査しているようだった。時折、右手に持った赤鉛筆が動く。僕は黙って彼女の作業を見守った。

 数分が経過し、女性検事はその一枚の紙を検察事務官に返し、検察事務官は再びパソコンに向かい、しばらく操作してから再び一枚の紙を打ち出した。プリンターからその紙を取り出すと、検察事務官はそれを検事に渡し、検事は再びじっくりと精査してから、僕の顔を見た。

「では、内容を確認して日付の記入と署名をお願いします」

 検事が一枚の紙を僕の目の前に置き、左側から検察事務官が黒のサインペンを差し出して、その紙の脇に置いた。

 僕は紙の内容を熟読した。ここでの短時間のやり取りが簡潔に一枚の紙にまとめられていた。数枚に渡ることなく、一枚の紙にまとめてみせたのは割り印とか面倒な手続きを省くためだったのだろうかと考えた。

「今日は一体、何年何月何日ですかね?スミマセンねえ。もう曜日感覚もなくなっているもので。軍艦の中では毎週土曜日にカレーライスが出るんでしょうけど、今の生活ではそういうこともないので」

 サインペンを手に取り、キャップを外しながら面倒臭そうに僕が言うと、検事と検察事務官は同じタイミングで部屋の中に飾られているカレンダーの方を向き、僕もつられて同じ方向を見た。

「令和三年七月二十二日です」

 女性検事は相変わらず無表情に言い、僕は言われた元号と年月日を検面調書に記入し、その右下に、日付よりはやや大きな字で僕の名前を記入した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。