宮仕えは辛いものである。
何が辛いのかというと、自分の思い通りにはならないところである。
やりたい仕事、勤務したい場所、宮仕えでそういうことがかなうことはまずない。
宮仕えは、所詮は奴隷労働だ。奴隷契約だからこそ自分の思い通りになるはずはなく、それがパブリック・サーバント=公務員の宿命であることは分かっている。
しかし奴隷労働はある意味では楽だ。あいつの指示に従っただけだと言えるからだ。自分で商売している場合は、個人事業主であれ、オーナー社長であれ、こうはいかない。
要するに自由と責任は一つでセットなのであり、無責任男になりたければ自由を諦めるしかない。
自由を諦めた僕はある意味、年金生活者のような生活を送っている。ゴールまではまだ十年近く走らなければならないが、きっとこのまま走り続けるのだろうと覚悟している。
自分の思い通りには行かないということを建前としつつも、どの世の中にもしたたかな者はいるもので、自分の希望をかなえていく輩は必ずいる。そういう姿を見せつけられると辛くなる自分とあいつより自分の方が幸せだと強がる自分が同居する。
ただ、税務署勤務は一般的な会社勤めのサラリーマンや他の公務員に比べると比較的恵まれているのかもしれない。それはあくまでも比較しての話であるが。
税務署勤務は辞令一枚で北は北海道から南は沖縄までどこに転勤するか分からないという状況にはない。一方、数年おきに転勤は確実にあるので市役所勤務のように嫌な上司と何十年も同じ建物の中で顔を合わせなければならないという状況にもない。すなわち、税務署勤務は国家公務員と地方公務員の美味しいところを両方持っているのである。
仕事の内容にこだわりがなければ都市部と農村部の空気を数年おきに吸うことだってそれほど難しくはないだろう。
国税の組織も国家公務員の職場だからキャリアとノンキャリアがいる。
キャリアはさらに財務省本省採用の財務省キャリアと財務省の外局である国税庁採用の国税庁キャリアがいる。言わずもがなだが、財務省キャリアの方が国税庁キャリアよりも格が上である。そして、傍目には分かりにくいのであるが、この差はちょっとした差ではない。同じキャリアじゃないかと最初のうちは思うのだが、ゴールは雲泥の差で、国税庁キャリアはノンキャリアにむしろ近いのではないか?とうなってしまうくらいである。
キャリア採用、すなわち国家公務員総合職採用試験に合格して採用される公務員にも一般職採用に近い者もいるし、逆に一般職採用でありながら総合職採用に近い者もいる。
前者は法務省のキャリア採用組で、法務省では司法試験に合格して検察庁に採用される司法試験合格組の方が、格が上だから総合職採用組は、例えば矯正職員の場合、いきなり副看守長になれたりするけれども、一般職採用に近いといえる。
法務省官房長→刑事局長→事務次官→次長検事→東京高等検察庁検事長→検事総長というキャリアを歩めるのは司法試験合格組であり、法務省キャリアではない。
一方、警察庁に一般職採用された者は採用当初から巡査部長だ。採用されていきなり警部補になるキャリア採用組にはかなわないが、巡査からスタートして、巡査部長になるまでにも数年の年月を必要とする、あるいは生涯、巡査部長に辿り着けない普通のお巡りさんに比べると格段に優遇されている。
国税庁キャリアと比較して財務省キャリアは極端に優遇されている。
財務省キャリアのゴールはもちろん財務事務次官であるがそれだけではない。次官級のポストは他にもあり、内閣法制局長官とか内閣官房副長官補といった国家公務員の最高ランクのポストを財務省キャリアが担っていたりもするのである。
あるいは財務事務次官というポストそれ自身も単なる通過点に過ぎず、その先のゴールはまだまだ見えないのかもしれない。その先のゴール、例えば公正取引委員長だとか東京証券取引所社長であるとか、あるいは日銀総裁であるとか、一体どのような努力をすればそのポストにつけるのか、そのからくりすら分からないポストが民主的で極めて啓蒙されているこの国にはある。
一方の国税庁キャリアのゴールはせいぜい地方国税局長レベルでしかない。なぜ地方が頭に付くのかというと、東京、大阪、名古屋、福岡といった大都市の国税局長は財務省キャリアの指定席だからである。
いっそのこと、国税庁キャリアの最終ポストとして麹町税務署長くらいを準備できれば国税庁キャリアのゴールとしてふさわしいのかもしれないが、税務署長はキャリア公務員にとっては踏み台に過ぎず、ノンキャリアの最終ポストがキャリアのゴールになることはない。
財務省キャリアが優遇されているのは国税局長だけではない。国税庁内部でも長官はもちろん、ナンバーツーの次長も、ナンバースリーの課税部長も、ナンバーフォーの調査査察部長も財務省キャリアの指定席で、部長職では徴収部長がようやく国税庁キャリアの最終ポストとして準備されているに過ぎない。次長や課税部長や調査査察部長が財務省キャリアにとって次のポストへの通過点に過ぎないのにも関わらずである。官房系の総務、人事、会計のいわゆる官房三課長も財務省キャリアのポストだ。
こうして見ると、国税庁は財務省の植民地で、国税職員は同じ財務事務官という肩書を持ちながら、財務省本省の職員に比べると冷遇されているという話にもうなずける。
いっそのこと検察庁と法務省の力関係のように国税庁と財務省の力関係を逆転させてしまえば、霞ヶ関の力学も劇的に変化するのにと夢想することもある。すなわち、国税庁長官を財務事務次官の上に置くのだ。検事総長が法務事務次官の上に君臨する様に。
そして検察庁と法務省のように、国税庁長官になるためのキャリアパスを例えば、財務省官房長→主税局長→事務次官→国税庁次長→東京国税局長→国税庁長官という風にしてみたりする。そうすれば僕のような末端のヒラ上席の処遇も、今よりは改善するかもしれない。
あるいは国税庁長官を大臣ポストにするとか、国税庁と昔の社会保険庁を担っている組織を合併させて歳入省に格上げするとかでも良い。しかし、大蔵省の伝統を継ぐ誇り高き財務省がそんなことを考えるはずはなく、所詮は夢物語に過ぎない。
財務省キャリアと国税庁キャリアはかように、厳格に差別されてはいるものの、ともにキャリア採用であるから全国転勤に耐えなくてはならないという点では平等だ。キャリア採用の公務員とはそういうものだ。だからこそノンキャリアには認められていない特別扱いが許されているのだ。
しかし、同じ全国転勤に耐えたとしても、用意されているゴールはまったく違うゴールなので、国税庁キャリアよりもむしろノンキャリアの税務職員の方が恵まれているのではないかという気がする場面もなくはない。
ノンキャリアにも大卒採用と高卒採用の二種類がある。この二種類は雲泥の差どころかほとんど差がないと言っても過言ではないどころか、むしろ控えめだとすら言えるだろう。実際に差があるとしたら研修制度くらいのものだ。
何しろ税務署長というゴールが共通している。最終ポストは地方国税局長という説もある。実際、ノンキャリアの採用案内のパンフレットを見ると、税務署や国税局などの勤務を経て、努力次第で、国税局長や税務署長、国税局の部・課長へ昇進することができますとか書いてあるが、これは甚だしい過言である。
もちろん例年、地方国税局長や地方国税不服審判所長のポストにつくノンキャリアは必ずいるけれども、それは一人か二人であり、国税職員五万人のほとんどすべてがノンキャリアの職員であることを考えると、過言を通り過ぎて詭弁とすら言えるかもしれない。
もっとも、採用案内のパンフレットということを考えると、夢を語らなければならないのだろう。現実は「努力次第」というよりは「運次第」なのだが、そういう言葉は若者にはふさわしくない。
ノンキャリアの出世は鈍く、僕のように人生わずか五十年でいまだに管理職につけず、上席国税調査官のまま据え置かれている職員はたくさんいるのも現実である。そのままゴールを迎える職員も多く、MJ、すなわち万年上席と呼ばれている。万年上席には窓際族に近い響きがある。実際には窓際には管理職が座っていて、MJが座ることはないのだが。
しかし、このMJ、そんなにひどい話ばかりというわけでもない。国税組織の中にだけいるとなかなか気が付くことができないのであるが、上席というポストは一般省庁の課長補佐級に相当するポストで、それなりの待遇が与えられている。それなりの待遇というのは「お給料」という文脈においてである。「お給料」という文脈においてだから、その待遇は退職金や年金にもダイレクトに反映される。
また、全国に十ある国税局の管轄の中で転勤するのが普通なので、転居を伴う転勤というのも、管理職にでもならない限り、あるいは管理職になったとしても、そう頻繁にはない。国税職員は全国に五万人ほどいるので、全国転勤を命じていては経費がバカにならないということだ。
だから人生設計が立てやすいともいえる。マイホームを購入するにしても、子育てや介護を担うにしてもそれなりの見通しがつく。
転勤という点では会計検査院や特許庁のように勤務地が霞ヶ関にしかない、地方に出先機関のない官庁もあり、そういう官庁は転勤しないこと=人生設計を立てやすいことを売りに、職員の採用活動をしているが、そういうところは日常的に長期間の地方出張をしなければならない危険がある。税務署勤務の場合、もちろん管外の工場や支店に調査に行かなければならないこともあるにはあるが、そう頻繁ではない。
そういう事情で、辞令一枚で異動を余儀なくされるというのはそのとおりなのであるが、全国、どこに飛ばされるか分からないということはない。大抵、長くても片道一時間半程度の通勤時間のところに異動するのがせいぜいの国税職員ライフはそんなにひどい話ではないということになる。だからたとえMJになったとしても離職率は高くはない。
もし、国税のノンキャリア人生に欠点があるとすればあまり威張れないという程度のことであり、それさえ我慢すれば中々悪くない公務員ライフかもしれない。
僕はそんなことを思い、感じながら二十年以上に及ぶ国税職員人生を送ってきた。野心を持った時期もあったが、その野心もたかが知れていることを知るのに時間はかからなかった。
結果として僕は家族を大切にする道を歩み、どこにでもある小さな幸せに包まれていた、……はずであった。Xが現れるまでは。
税務署勤務も公務員なわけであるから異動にあたっては公務の要請が第一ということにはなる。個人の意思は必ず後回しになる。
しかし、働く側の意思がまったく尊重されないわけではない。特にダイバーシティというのか、男は外で働き、女は家庭を守るというライフスタイルがあたり前でなくなった昨今、仕事を第一に考えていない、あるいは考えることができない職員、仕事と育児や介護を天秤にかけなければならない職員は多くなり、人事当局もそんな職員の意向を無視できなくなっている。
国税職員は年に一回、仕事の希望を人事当局にアピールする機会が与えられている。「身上申告書」という、読んで字のごとく、職員の身上を申告する紙を作成して、提出する制度が設けられている。その身上申告書には異動の希望も書かなければならないことになっている。
今年もそのシーズンがやってきて、僕は身上申告書を書いた、というより、データを打ち込んだ。僕が国税職員となった頃は、身上申告書は紙に書いて提出するタイプだったが、今はもちろん、紙にペンで書くということはなく、データをシステムに入力し、紙に出力して押印し、提出する。押印という昭和の、あるいは二十世紀の遺物が残っていることはいかにも役所らしいが、手書きでなくなったのは国税の職場も日進月歩だということだ。
国税職員には随分前から一人一台のノートパソコンが貸与されていて、そのノートパソコンは物理的にはワイヤーで固定することによって、システム的にはインターネットから切り離すことによって、納税者の大切な個人情報が漏えいすることを防衛している。
だからそのうち紙に出力することもなくなり、電子申告と同じように、データに電子署名を付するだけとなり、人事もAIが組織の効率性を解析して決定する時代がやって来るのだろう。
僕の異動の目標はもちろんXと離れることだ。だから当然、残留ではなく、「ぜひ変わりたい」という希望をすることになる。
税務署の異動の希望は仕事と勤務地の二つで構成されている。
仕事の希望はどのような仕事に付きたいのか、賦課系か徴収系か、賦課系なら法人課税か、個人課税か、資産課税か、酒類担当か、そういったことだ。
税務署も他の組織と同様、縦割り社会だ。新規学卒で採用されて、最初に配属された事務系統に生涯勤めるのが基本だ。これは恐らく民間企業とかでも同じ原理で、例えば総合商社に就職した場合、最初の配属先が石油だったら少なくとも上級管理職になるまで、ことの次第ではそれこそ定年退職まで石油をやり続けるのだろうし、繊維なら繊維を、魚介類なら魚介類をやり続けるのだろう。その方が組織の人的資源の活用という文脈では効率が良い。
僕は最初に法人課税部門に配属されたので、途中、他系統に交流したり、他省庁に出向したりした時期もあったが、基本的に法人課税部門の仕事をしている。
勤務地の希望は国税局か税務署か、税務署ならどこの税務署かを希望することになる。僕は基本的に住所地の近辺の税務署を希望している。通勤時間が延びることはそれだけサービス残業をしていることと同じなので、仕事の内容にこだわりがなければ住所地の近くの税務署に勤務したいと考えることは人情だろう。
ただ、地域調整手当というのが公務員にはあるのですべての人が住所地の近くでの勤務を希望したいと考えるわけではない。地域調整手当は物価の高い、特に住宅費の高い都市部に勤務する場合、基本給の何パーセントかが割り増しで支給されるという制度である。最大の割り増しは東京都二十三区内に代表される大都市の二十パーセントで地方に行くほど割り増しが少なくなり、最後はゼロになる。
だから割り増しのない税務署から割り増しのある税務署への異動、あるいは割り増しの低い税務署から割り増しの高い税務署への異動は実質昇給になるが、その逆、すなわち割り増しのある税務署から割り増しのない税務署への異動、あるいは割り増しの高い税務署から割り増しの低い税務署への異動は実質減給になってしまうのである。
通勤時間を含む拘束時間よりももらえるお金の方に重きを置く輩は必ずいる。そういう輩はたとえ通勤時間が長くなっても都市部での勤務を希望する。通勤手当は基本、満額支給されるので満員電車を我慢できるならば合理的な意思決定だともいえる。
ただし、この地域調整手当、大きな矛盾を内在している。物価に配慮するのであれば、勤務地ではなく、住所地での調整が配慮されるべきである。仕事場よりも家庭の方がより多く消費するはずで、それは食費や住居費を考えれば当然だろう。
しかし、地域調整手当は勤務地を基準に決定されるので、郊外に住み、都市部に勤務している人に高めの地域調整手当がつき、都市部に住み、郊外に勤務している人に高めの調整手当がつかないことになる。
希望の選択肢は五択であり、選択肢には「現状維持」、「場合によっては変わっても良い」、「できれば変わりたい」、「是非変わりたい」、「特に希望はない」の五つがある。
僕がこの五肢択一問題に答える場合、選ばれる選択肢は大抵、「場合によっては変わっても良い」だ。現状に満足しているわけではないので「現状維持」を選ぶことはなく、どこに行かされるか分からない「特に希望はない」を選ぶこともない。
「できれば変わりたい」ではメッセージ性が弱いし、「是非変わりたい」にしてしまうと、現状よりも良くなる可能性はあるが、変わった先の職務や勤務地に不満があるとき、文句が言えない。
「場合によっては変わっても良い」を選ぶのは現状よりも良くなる可能性しかないからである。「場合によっては」はかなりあいまいな表現であり、「現状よりも良くなるのであれば」という意味にも解釈できる。そしてここでは現状よりも良くなる可能性があるならば変わっても良いというメッセージを伝えたいのだ。
今回はXという特殊事情があるので、僕にとっては珍しく「是非変わりたい」を希望することになる。仕事にしても勤務地にしてもそうなのだが、「是非変わりたい」を希望する場合、ただ、是非変わりたいとアピールするだけでは駄目で、必ず理由が必要となる。
理由は数行で簡記しなければならないのだが、僕の場合、仕事の希望も勤務地の希望も、変わりたい理由は同じで、それは簡記できるものだった。
Xと離れたいから。
身上申告書を担当する部署は税務署の上にある国税局の総務部の中に配置されている考査課である。考査課は職員の勤務評定や公務外非行、例えば職員が痴漢で捕まった時の対応などを担っている。
各職員は作成した身上申告書を直接、考査課に提出することはない。各職員は直属の上司に提出することになっていて、僕の場合にはQ税務署法人課税第一部門統括国税調査官に提出する。
提出を受けた統括官は間違いがないかどうか、内容をチェックするのだが、この内容チェックが案外曲者である。間違いがないかどうかをチェックしていただけるのはありがたいのだが、それだけではなく、上司にとって不本意な記載内容がないかどうかもチェックされてしまうのだ。
どうしても異動したい職員がいて、その異動したい理由が、上司が嫌だからだとすると、それをそのままストレートに書かれてしまったら上司としては面白くないだろう。
これは極端な例だが、上司はなんだかんだ理由をつけては自分のキャリアに傷がつかないよう、部下の身上申告書の記載内容を自分の都合の良いように誘導する。
僕の場合も例外ではなく、僕が統括官に身上申告書を提出してからしばらくして、統括官が身上申告書の記載内容をチェックするタイミングがあってから、統括官はそれを僕に突き返してきた。
「ダメだよこれじゃあ。書き直して」
統括官は僕が提出した身上申告書の、異動希望の理由の欄に朱を入れたものを僕に渡した。僕の席での出来事だったが、周囲にXの姿はない。Xのいないタイミングを見計らったのだ。
赤く書かれているところを見ると、Xと離れたいからという記載が赤線で消され、もっともらしい理由が手書きされている。
「どうしても書き直さなければダメですか?できれば書き直したくないんですけど」
僕は軽くため息をつきながら静かに抗議した。
「こんな消極的なことじゃダメだよ。もっと前向きなことを書かないと」
「何が消極的だっていうんですか?」
「現状が嫌だから異動したいってことだよ。もっと未来を語らないと」
「未来ですか?」
「こういうことをしたいからここに行きたいっていうことをアピールしないと希望の異動は難しいよ」
統括官の言うことは一々理解できるのであるが、僕にその余裕がないこともまた事実だった。一年前も同じようなことを言っていたような気がする。そもそも僕にその未来とやらがあるようにも思えない。
一年前、僕はXと離れたいことを署長や副署長、統括官に十分説明していて、それは十分に理解されていると思っていた。Xの異常性は誰の目からも明らかだったからであり、統括官もその旨、署長や副署長に説明していて、署長や副署長も理解しているものと僕は思っていた。
だから、身上申告書にもXと離れたいということを、直接は書かなかった。書かなくても分かっていると思っていたからだ。前向きな理由だけを書いた。
しかし、僕はXとともに残留し、一年たっても、職場でXと顔を合わせなければならなかった。だから、人事当局に僕の本当の気持ちが届かず、僕とXの残留につながったのだと僕はそう解釈していた。
そういう事情もあり、今年はXと離れたいということだけを書いた。仕事の希望にも勤務地の希望にも、理由の欄にそう書いたのは、ただ単に僕がXと離れたいという気持ちを伝えたいだけではなく、Xが異常な存在であることを人事当局に分かってもらう、情報提供の意味も持っていた。
「こんな内容で希望はかなうんでしょうか?」
僕は統括官が朱書きした文字列を一瞥し、暗い表情で統括官に聞いた。
「さすがに君は異動になるよ。もう四年もQ税務署にいるんだから」
統括官は軽く笑って言った。
確かに僕が同じ税務署に五年いたことはない。国税職員は納税者との癒着を防止するためか、かなり頻繁に転勤させられる。
「Xとは離れられるんでしょうか?去年も一生懸命意思表示したつもりですけど、結局、ダメでしたからね」
「君には本当に負担をかけてしまって申し訳ないと思っているよ。まあ、Xのことは無視していいよ」
「既に無視はしていますよ。それは統括もご理解いただいていると思います」
実際に僕だけではなく、すべての職員がXと距離を置いていた。誰もXに仕事を投げようとはしなかった。Xはもはや決められた時間、席に座っているだけの存在だった。
僕は仕方なく、言われたとおりに身上申告書を書き直した。それが正式に受理されると今度は副署長との面接を受けなければならない。
紙に書かれた情報だけでは行間は読めないので、副署長が直接職員と面接し、細かい真意を確認するのだ。
僕の勤務するQ税務署は副署長が事務系統によって二人配置されている。数日後、僕は、僕の席から目と鼻の先のところに副署長室を構える法人担当副署長、通称「法担」に呼ばれ、副署長室の応接で向かい合った。
「どう?」
まずは副署長がざっくりと聞いた。
副署長は僕と同じ大卒のノンキャリアであるが、どちらかというと富裕層の通う大学の出身でノンキャリアの税務職員には珍しく振る舞いが上品である。もっとも近年では大卒のノンキャリアは少しずつ高偏差値化し、上品な、例えばミッションスクール出身の職員も今では珍しくない。
「しんどくはありますね」
僕は事務的に答えた。
「Xか?」
副署長は若干の笑みを浮かべて言った。
「ご理解はいただいていますね?」
「まあ理解しているつもりではいるよ。で、異動は、転勤希望ということでいいのかな?まあ、さすがに今度は異動するんだろうけど」
「ご理解いただけるとは思いますが、Xとは離れたいです。身上申告書にもそう書いたんですけど。Xと離れたいと。でも、統括から書き直しを命じられてしまい、こんな中途半端な文章になってしまいました。本当はもっとストレートに伝えたかったんですけど、身上申告書にXと離れたいからという記載を残せなかったことは不本意です」
僕は残念そうに言った。
「Xと離れられればどこでもいいと?」
「どこでもいいは言い過ぎですが、大抵の所は我慢できると思います」
「まあ、私も離れたいけどね」
「副署長もですか?」
「まあ、君の大変さに比べれば百分の一くらいなんだろうけど。色々なところからクレームがきていて、それをさばくのもしんどくなってきたからね」
「クレームですか?」
「調査担当者からも各統括からもそれ以外からも、色々な所から文句を言われているよ。あいつを審理から外せとね」
「その中に僕も入れておいてくださいね」
僕は少し苦笑いしながら言った。
「それで異動はここから出られればどこでもいいのかな?」
「もちろん、Xと離れることが最優先ですけど、……しかし、残念ながらそれだけでいいと言うことはできません。じゃあ、単身赴任もオーケーか?と言われるとそれは無理ですから」
「まあ、単身赴任させることはないとは思うけど、相変わらず、お子さんの事情とか厳しいのかな?」
「子育てもそうですけど、介護も抱えていますからね」
「下のお子さんはまだ小さいんだっけ?」
「一番下は、今度、小学校五年生になります。でも、一昔前に比べれば自由になった方だとは思います。小学校の高学年ともなれば、発熱で呼び出しがかかるということはさすがになくなりましたからね。今は、むしろ母親の介護の方に手が掛かるようになってしまいました」
「お母さん、具合悪いの?」
「もう九十近いのですが、身体の方は同年齢の普通の人よりも元気だと思います。目も普通に見えますし、耳も遠くはありませんし、歯も丈夫で、自分の歯で食事ができていますから。しかし、頭の方がどうも。認知症が随分と進んでしまい、今は要介護一の認定を受けています」
「今は施設に入っているんだよね?」
「はい。ですから、落ち着いていると言えば落ち着いているとも言えるんですけど、もう実の息子である僕の顔を見てもすぐには分からない状況ですね。ただ、戦前の人なので心臓は丈夫ですからもうしばらくは長生きするんじゃないでしょうか」
「なるほどね。我々ぐらいの世代になると、子育てが終わると次は介護だね。それは仕方のないことだけど。それで、仕事は引き続き審理でいいのかな?身上申告書には資産とか書いてあるけど」
「資産はまあ、長期的に見て経験しておいた方がいいのかなと思っています。こればっかりは経験してみないと相続税とか土地の評価とか分からないですからね。相続税の申告書なんて、作ったことないですから」
「もう、独立するつもりなの?」
税務職員にとっての独立とは辞めて、税理士事務所を開業するということだ。何年かの経験を積めばほぼ自動的に税理士の資格を手にすることができる税務職員は公務員の中では珍しく独立が可能な仕事だ。独立が可能だということは、死ぬまでその仕事ができるということでもある。
「今すぐというわけではありませんけど、いずれはということです。独立するとしても、相続税がまったく分からないようでは、受けられる仕事も限界がありますからね」
「そうだよね。実は私も資産を希望してるんだ」
「そうなんですか?」
「まあ、希望してもなれるもんじゃないけどね。希望者は多いから。君と同じ理由で将来の独立のことを考えてのことなんだろうけど、そういう事情で今すぐ資産というのは難しいという話になってしまうから、引き続き審理でいいのかな?ってことを管理者としては確認しないといけなくなってしまうのだけれど」
「仕事もXと離れることが最優先です。Xと離れられるのであれば何でもいいですと言いたいところです。もちろん査察とか徴収とかを今からやれと言われるのも厳しいものがありますけど、基本的にはなんでもオーケーです。今まで色んなことを経験してきて、大抵のことはこなせる自信はあります。初めての仕事でも、異動して、二、三ヶ月もすれば慣れてきて、普通にこなせると思います」
「まあ、審理がこれだけできてるんだから、それこそなんでもできるんだろうけどね。ポストの方は何か希望があるのかな?」
それを聞いて僕は軽くため息をついた。昔はこういう面接で単身赴任は大丈夫かと真っ先に聞いてくる副署長がいて大きなため息をついたものだった。僕は育児と介護を抱えているので単身赴任などできるわけないのだが、個々の職員の事情など中々、管理職の皆さんには一々理解されない。
しかし、それに比べれば軽いため息だ。
「ポストのことなんか考えている余裕はありません。今はとにかく、Xと離れること。それからここしばらくはXのお蔭で随分と傷みましたから、できるだけ楽をしたいなあとは思っています。リハビリをしないと」
「楽って、例えばどんな?どんな仕事が楽だと思ってる?」
「例えば間接税の担当とかです。間接税は経験が長くて慣れていますし、ここのところ大改正みたいなものもないですから。消費税は大きく変わってますけど、それ以外の間接諸税、印紙税とか、揮発油税とか、航空機燃料税とかはあんまり変わりませんからね。新しいことを覚える必要もないので僕にとっては楽な仕事です」
「なるほどね」
「もちろん、昔の知識が錆びついているということはあるかもしれませんけど」
「まあ、今は子育てや介護もあるだろうから仕方ないのかもしれないけど、もっと数年先も考えた方がいいんじゃないの。もう若くはないだろう?同期の中でも遅れてるだろ?いつまでもMJっていうのもつまらないんじゃないの?今は無理でも将来的に今からポストの準備をしておかないと、間に合わなくなるよ。実力は十分にあるのにもったいないよ」
「MJならMJのままでもいいかなって気はしてきています。無理して管理職になっても何か苦労ばかりさせられそうですし」
「確かに苦労はあるかもしれないけどね」
「正直、今の管理職の人を見ていて、自分もああなりたいと思う人は思い浮かびません。幸せそうに見える人はいませんから。それに、…MJは万年上席じゃなくて、僕は名誉上席だと思っています」
「名誉上席?」
「ええ、名誉上席です。少し古い話になってしまうんですけど、AKBはご存知ですよね?」
「ああ、もちろん」
「AKBの名古屋の方の姉妹グループに終身名誉研究生っていう人がいたんです。その人は、文字通り終身名誉研究生ですから、生涯、正規メンバーに昇格することはない。しかし、それが生き様ならそれはそれでいいではないですか。別に正規メンバーに昇格することだけがAKBのすべてではない。あえて管理職にならないで、終わりまでヒラのままだというのもそれはそれでその人の生き様だと思います。だから僕も終身名誉上席ということで上席のまま引退するのも、それはそれでいいのかなと」
「なるほどね」
「もっとも、その終身名誉研究生は選抜選挙で選ばれてしまい、正規メンバーに昇格してしまいましたけどね。要は肩書よりも中身というか実力だと思いますよ。昔はOB税理士として、顔で引退後、ぬくぬくとした生活を送ることもできたのかもしれませんけど、今はそういう時代じゃないですよね?実力がないと。再任用制度もできましたけど、それも実力ですよね。定年までは食いつないでいかれるかもしれないけど、その後は自分の真の実力だけが頼りでしょうから」
「そりゃそうだけどね」
副署長は納得したように軽くうなずいた。
「Xも転勤を希望しているんですよね?長距離通勤がしんどいように言ってますし、頻繁に遅刻するし」
「まあ、そうなるんだろうね。どっちみち、今の席に座らせておくことはできない」
「Xは審理を外れるんですか?もっとも、今の状態でもとても審理としては機能していないんで既に外れているようなもんですけど」
「全然、仕事してないか?」
「仕事してないって言うと、本人はとても怒ると思うんですよ。ちゃんとしてるって。それは確かにそのとおりなんだろうと思います。精一杯やってあのレベルだと。だから仕事をしていないというよりも、審理官として求められている期待に全然達していないということです。だから審理を続けるとしても大きい署のようにたくさん審理担当者がいるようなところじゃないと、今年のQ税務署のように周りの人がとても苦労すると思いますよ。もちろん、審理から外すのが一番ですけど」
「主務課の審理担当の補佐とも話をしているんだけど、国税局としてはXを審理から離す方針のようだよ」
「それはありがたいですし、当然だと思いますけど、遅すぎますね。そもそもなんでXが審理になったんですか?」
「まあ、色んなポストを試してみようということだったんだろうけどね。詳しいことは聞かされてないけど」
「たらいまわしということですか。でも一年で気付くべきでしたね。一年間の仕事っぷりを見れば分かったでしょうに。僕が気にすることでもないですけど、次はどこに行くんですかねえ」
「さあ?逆に君はどう思う?君はXの一番近くにいて仕事っぷりをつぶさに見てきたわけだから奴にふさわしい仕事が分かるだろ?」
「公務員としてというよりも以前に、社会人としてどうかと思いますけど。電話交換ですら奴にはハードルの高い仕事なんじゃないんですか。どこに繋いだらいいか分からなくてパニックになったり、電話をかけてきた納税者と喧嘩になったりするんじゃないですかね。まあ、それでもどこか?とおっしゃるなら、例えば管理運営あたりで勉強してみるというか、一からやり直すのもいいと思いますけど」
「それは無理だろうなあ」
「管理運営が崩壊してしまうと?」
「崩壊かあ。そこまでは言ってないけど」
副署長は我が意を得たりという表情で豪快に笑った。
「しかし、あれを法人課税部門だけで引き受けるというのも不公平じゃないですか?迷惑この上ないですよね?それについては、副署長は何か発言しないんですか?」
「不公平だと言われれば、それはそうだけど、取引はバーターだよ。Xを他の事務系統に出したら、もっとひどい人材がやってくるかもしれないよ」
「あれ以上の人材がいるとは思えませんけど」
「そんなにひどいかね?」
「僕はもう三十年近くこの仕事をやっていますけど、あれだけ仕事をしていない人は見たことがありません」
「君が大人の対応をしてくれているということで助かっているよ」
「しかし、もう限界です」
「まあ、もう少し我慢してよ。もう少しの辛抱だからさ」
物腰の低い副署長は僕の話を真摯に聴いてくれているようではあったが、しかし、具体的な解決策を提示することはできなかった。結局、副署長にとってもこの問題は他人事なのだろう。
僕は次の打ち手を考えなければならなかった。