時間が少し進み、僕に朗報が一つもたらされた。
事態が何ら進展せず、引き続き厳しい環境の中にいる僕にとっての朗らかな報せとは、来月から国税局のセクハラ相談員がセクハラ以外の問題、すなわち広く職場環境の改善についての相談に乗るようになったと国税局の掲示板に掲載されたことだった。
国税の組織にも、他の多くの職場と同じようにセクハラ相談の窓口が設けられており、相談員が配置されていて問題解決にあたっている。
セクハラとは言うまでもなく、セクシャルハラスメントのことである。これ以上の説明はもはや不要であろう。かようにセクハラという言葉は広く人口に膾炙してしまっている。
国税組織は全体で五万人もの人員を抱える巨大官庁なので、霞ヶ関の国税庁本庁が統一的にセクハラ問題を担当するのは効率が悪いし、現実的ではない。北海道や沖縄の職員がセクハラの悩みを一々霞ヶ関に相談するのは相談する方にもされる方にも苦痛でしかない。結果として、セクハラ問題の解決は全国に十ある、地方支分部局である国税局に権限移譲されている。
セクハラ問題にどう対処するかは各国税局が各国税局の事情に基づいて対処することになるので、僕は他の国税局がどのようにこの問題と向き合っているのかを承知していない。僕のいる国税局では、国税局内に十名程度のセクハラ相談員が置かれ、さらに各税務署にも総務課長を筆頭に、各事務系統ごとにセクハラ相談員が置かれている。
セクハラ相談員といっても男女のいざこざの専門家であるとか、あるいは社会保険労務士のように労働問題の専門家とかではなく、ベテランの職員が各部署からバランスよく選ばれてその役を担っている。セクハラ相談というその本質的な性格のためか、相談員には女性が多く配置されているようである。
セクハラ相談員がこれまでのようにセクハラ問題専担から広く職場環境の問題についての相談に乗るようになったことを知った僕は、早速、国税局の法人課税課に所属する、国際専門官の肩書を持つ相談員にXのことについて相談しようと考えた。
Xの問題はもちろんセクハラではないし、パワーハラスメントでもない。しかし、職場環境が悪くなっていることは事実なので僕の相談には応じてくれるだろう。
セクハラ相談員は国税局の総務課や人事課や厚生課にも配置されているが、法人課税課の職員と面接したいと考えたのは、Xを審理担当にし、僕とペアを組ませたのはそもそも法人課税課なので、そのことを咎めておきたかったからである。
職員の人事は、大まかなところは国税庁の、あるいは各国税局の人事課が担当するが、細かいところは各事務系統を総括する主務課と呼ばれる部署が担当する。
主務課は事務系統ごとに存在していて、個人課税部門なら所得税課、資産課税部門なら資産税課、管理運営部門なら管理運営課が主務課であり、僕の所属している法人課税部門は法人課税課が主務課である。
人事課はもちろん各職員の個人情報を蓄積した膨大なデータベースを持っているはずであるが、人事課の異動担当の職員が各事務系統の事務をよく知らないと適材適所への配置は難しい。だから各主務課に人事担当の職員、通称、人担(ジンタン)がいて、例えば誰を審理担当にするのかなどを、本人の希望も尊重しつつ決定していく。
月が変わってすぐは月末に比べ僕の仕事は暇だった。僕はすぐに法人課税課のセクハラ相談員である国際専門官に電話をして、次の日の午後の面接予約を取った。
職場には医者に行くと言って早退したが、特に怪しまれることはなかった。あるいはセクハラ相談員に連絡したことが既に、当のセクハラ相談員経由でQ税務署の幹部にばれていたのかもしれない。
約束の時間よりもかなり前に国税局の入っている建物に入ると僕は一階のロビーで少し待機し、約束の時間きっかりに法人課税課のフロアを訪ね、セクハラ相談員である国際専門官を呼び出した。国際専門官は僕を待っていたようで、声を掛けられるとすぐに席を立ち、分厚いドッチファイルを持って僕を別室に案内した。
国際専門官もセクハラ相談員だけあって女性だ。
国税局には国際専門官とか実務指導専門官といった「専門官」がお尻に付くポストが存在する。一見、偉くはなさそうだが、偉いか、偉くないかは微妙なところだ。
国税局は、大規模法人を調査したり、悪質な脱税者を強制調査したりする調査査察部、あるいは大口滞納者の滞納処分を行う徴収部には税務署と同じような統括官制度があり、課ではなく部門と呼ばれ、統括国税調査官や統括国税徴収官がいるが、総務部や課税部、あるいは徴収部でも管理運営系は課があり、課長が存在する。
課長の直下には課長補佐がいるのだが、その下は専門官、主査、係長、主任、事務官とピラミッドを下っていく。主査は、それほど偉くなさそうな響きがあるが、税務署に当てはめると統括官クラスであり、ヒラ上席の僕よりは上のポストである。
専門官はその主査のさらに上のポストだが、課長補佐まではいかないので、税務署に当てはめると各事務系統の筆頭統括官、僕のいるQ税務署に当てはめると第一部門の統括国税調査官クラスということになる。
そして、税務署の上部組織である国税局に勤務する者は税務署に勤務する者よりかは選抜されたエリートであり、セクハラ相談員であるこの国際専門官も僕よりもはるかに速いスピードで階段を駆け登り、どこかで僕のことを追い抜いているはずだ。
だから僕よりも職責上の地位は格上ではあるが、僕よりは後輩のはずで、四十は超えているだろうが、五十には達していないはずなのだが、国税局の狭い廊下で僕の前を歩く彼女は、僕よりも若そうには見えなかった。
国際専門官は同じフロアの廊下を少し歩いたところにある打合せ室の鍵を開け、中に入り、僕に奥の席を勧め、部屋の扉を閉めてから、自分は対面に座って分厚いファイルを目の前に置いた。
案内された部屋には、僕は国税局での研修で何度か訪れたことがあるのだが、警察署の取調室のような開放感のない、狭く、密閉された空間ではなく、打合せ室というには少し広めで、テーブルは大きく、国際専門官と僕の間には少しというか、それなりの距離がある。
普通、こういう席では僕の方を下座というか、扉に近い方に座らせ、自身は外の光を背に上座に座り、配席からマウントを取りに行くのがセオリーだが、あえて自分が扉に近い方に陣取ったのは、僕が怒って殴りかかりそうになってもすぐに逃げられる配慮なのかもしれない。僕はそんなことを考えた。
対面に座って、僕は改めて国際専門官を観察した。国際専門官は間違いなく、僕よりも年下のはずなのにそうは見えない。
不似合いな眼鏡がそうさせるのか、短く切った、手入れの行き届いていない髪型がそうさせるのか、落ち着き払ったその声色がそうさせるのか、何が根本的な原因なのかは分からないが、とにかく、もう女は卒業したのだと思わせるその中性的なにおいが僕よりも年長に感じさせるのだ。
左手の薬指にはめられているリングがかろうじて、この人にも中性ではなかった時代があったことを物語っている。
「どういったことでしょうか?」
国際専門官は天気の話もせずに、滑らかに口を開いた。それを聞いて僕は気が付いたのだが、国際専門官が持ってきた分厚いドッチファイルの背表紙には僕の名前が記入してあった。そこで僕は何となく、そのファイルが職員の格別のファイルで、そのファイルの中には僕の個人情報が満載されているのだろうということを感じ取った。
「そこにあるのは僕の人事情報が記載されているファイルですよね?」
国際専門官の質問には直接答えず、僕はそんなセリフから始めた。
「ええ」
国際専門官は感情を表に出さずに言った。そこで初めて、僕はまだこの人の笑顔を見ていないことに気付いた。
「そこには僕のことについて何か書かれていないんですか?それを見れば分かるのでは?今日、僕がここに来た理由が」
「もちろん色々なことが書かれていますけど、どのことが問題で今日いらしたのかまでは分かりませんので。予約の電話をいただいた時にはご説明いただいておりませんから。育児とか介護とか色々と問題を抱えていらっしゃることは承知していますが」
それを聞いて僕は軽いため息をついた。また、最初から説明しなければならない。強い疲労感が僕を襲った。
「何も聞いていらっしゃらないのですね?」
僕は疲れた口調で言った。
「聞いていることもありますが、どのことかまでは分かりません」
国際専門官が無表情に言った。
「僕とペアを組んでいるXのことについてです。Xのことについては何かご存知ですか?」
「Xさんがあなたと一緒に審理の仕事をされていることは存じています。それ以外にもXさんご本人について存じていることはありますが、同勤したことはありませんし、会ったこともありませんので、聞いたことだけです」
Xの名前を聞いても国際専門官は一呼吸置くこともなく、滑らかにしゃべり続けた。僕はもう一度軽くため息をついた。確かに見たこともない一職員の情報など知る由もないのだろう。
「Q税務署の幹部から説明されていることも何もないということですね?」
僕は疲労感に抗い、声を振り絞った。
「直接、説明されていることはありません。ただ、XさんもQ税務署に勤務されているわけですからQ税務署の情報で承知していることはあります」
「なるほど。では結論から申し上げます。Xはサイコパスです。そのXと僕は一年以上も一緒に仕事をさせられています。はっきり申し上げましてしんどいです。もう限界です。今の状況をなんとかしていただきたいのです。今日、わざわざここまでやって来たのはそういう事情です」
僕は冷静に言ったつもりだったが感情が入ってしまっていた。最後の方は涙声になっていた。
「サイコパスとはどういうことですか?」
国際専門官は、まるでそう言われることをあらかじめ分かっていたかのように冷静に言った。
「サイコパスとは…、人格異常者だということです…。人格に障害があるということです」
僕の方が不意を突かれたようにたどたどしく答える。
「どこがどう人格に障害があるとおっしゃるのですか?」
国際専門官は僕のたどたどしさを意に返さず、あくまでも冷静に、事務的に言った。感情がないようだった。
「…例えば、…Xは鳴った電話を全然取りません。普通の職員なら鳴った電話をすぐに取ることは常識なはずです。自分が同じ島の中で一番後輩ならなおさらです。でも、そんな常識をXは持ち合わせていません。電話は他の誰かが取るまで、どんなに鳴り続けていても平気です。それはほんの一例に過ぎません。…それだけじゃない。Xはまったくといっていいほど、仕事に対してやる気がありません。もっともやる気があったところで仕事ができないのでどうしようもないのですが」
「仕事ができないって、例えばどんなところからそう思うのですか?」
「ご存知いただいていますとおり、僕もXも審理です。僕はXとペアで仕事をしているので今までXの実力は思い知らされてきました。エピソードには事欠きません。電話を取っても、知識がなくて答えられない。周りに聞いても理解できないのでやはり答えられない。納税者と面接してもコミュニケーション能力が乏しくて、うまくコミュニケーションできなくてトラブルになる。決議書の審理をしていてもどうでもいいようなことに異常に執着して、調査担当者とやはりトラブルになる」
「どんなところに執着するのでしょう?」
「てにをはのたぐいです。書類がお手本どおりに書かれていないと気に入らないのです。特に若い職員の決議書は重箱の隅をつつくように審査して、どうでもいいようなミスを深く追求します。そのためにXにターゲットにされた若い職員も、担当の統括官も疲弊してしまっています。Xは何が本質的で、何が末梢的かを理解できないのです。他人のミスを許すことができず、そのくせ自分がミスをすると周囲やルールのせいにして自分の非は絶対に認めない。とにかく、税務職員としてはもちろん、社会人としての常識が欠如しているのでどうしようもないのです」
「なるほど」
「最初の頃は僕も育てようと思った時期があったのですが、半年くらいで断念しました。今では足を引っ張られなければいいや程度に考えています。空気が読めないというか、状況を理解できないというか、自分の哲学がまずあって、その哲学に合わないことを受け入れることができないんです。譲るということができないのです」
「大体、概況は分かりました。それで、どうしてほしいとおっしゃるのですか?」
「Xを異動させていただきたいです。別にXがいなくても、むしろXがいない方が仕事はスムーズに回りますから。別にXを異動させなくても僕を異動させるでもいいです。とにかくXとのペアを解消してほしいのです」
「そうですか。しかし、それは難しいというか、現段階では無理ですね」
「難しいことは承知しています。しかし、なんとかならないでしょうか?僕一人で背負う十字架ではないと思いますが」
僕がそう言うと国際専門官は黙った。仕方なく、僕が続けた。
「一つお聞きしたいことがあるんですけど」
「なんでしょう?」
「どうしてXを審理担当に貼り付けたんですか?Xにはどだい審理の仕事は無理だということは初めから分かっていたはずです」
「まず、最初に申し上げておきたいんですけど、因果応報で物事を考えることは、もちろんとても意味のあることだとは思いますけど、少なくともこのケースでは忘れた方がいいと思いますよ」
国際専門官は僕を制するように言った。
「はっ?…因果応報…ですか?」
僕は言葉の意味が直ちに理解できず、困惑した。
国際専門官は僕の困惑をまるで気にせず、相変わらずの無表情で続けた。
「あなたはさっき、どうしてという言葉を使いましたよね?」
「ええ」
「理由を知りたいと、そういうことですよね?」
「そうですが」
「理由を探したいという気持ちは私にも理解できます。きっと私も同じ立場ならば同じ疑問を抱いてしまうでしょう。なぜ自分がXさんとペアを組まなければならないのか、なぜXさんが審理に貼り付けられたのか、なぜXさんが採用されたのか、そもそもなぜXさんがこの世に生を受けたのか…」
「そこまでは言ってませんが、なぜ当局が僕とXを組ませたのか、なぜXに審理を担わせたのか、そのくらいは知りたいと思っています」
「なるほど。しかし、世の中には理屈抜きで受け止めなければならないこともあるのです」
「理屈抜きで?」
「そうです。なぜXさんとペアを組まされたのか、その理由を追及するのではなく、審理担当官としてのXさんがあなたの目の前に座っているという事実からスタートしなければならないこともあるということです」
国際専門官がそう言うのを聞いて僕は深いため息をつきながら目をつぶり、右手の人差し指と中指で両方の目頭を押さえた。
「そんなことは分かっています。僕が話したいことはそんなことじゃない。話したいことはXがサイコパスだということです。法人課税課もXについての情報を持っていますよね?法人課税課も分かっているんじゃないんですか。Xがサイコパスだということを」
「……残念ながら、Xさんの個人情報をここでペラペラとしゃべることはできません。それはご理解いただけますよね?」
国際専門官は相変わらずの無表情で言った。
「…ええ」
僕は唇を噛んだ。個人情報を第三者に教えられないと言われればそれはそのとおりだ。国税組織は納税者の申告書など、莫大な個人情報を管理している。だからその管理にはとても厳しい。
「しかし、あなたの個人情報ならあなたの同意を得た上であなたにお話しすることは、なんら問題はないはずです。もしよろしければこのファイルに書かれているあなたの個人情報をお話ししますけどいかがでしょう?」
国際専門官は、今度は少し上から目線にそう言ってドッチファイルを人差し指で叩いて見せた。僕は言っていることがすぐには飲み込めなかった。
「僕の個人情報?」
「ええ、あなたの個人情報です」
「それを僕に話すことに何か意味があるんですか?」
「今回の面接、あなたはXさんを異動させたいと、Xさんを異動させることを目標として臨んでいらっしゃいますね?」
「ええ、もちろんです。Xの存在がストレスの根本的な原因ですから。職場環境を悪化させているのですから相談には乗っていただけますよね?もっともさっきも申し上げましたが僕が異動するでも構いませんけど」
「しかし、それは本当のゴールではありませんね?」
「はあ?」
「あなたが本当に求めているものはそれではないということです。Xさんが晴れてあなたの望みどおり異動したとしても、あるいは逆にあなたが異動できて、Xさんから離れることができたとしても、その結果、あなたにさらなる災難が降り注いだらなんの意味もないでしょう?」
「それは…もちろんです」
「ですから、Xさんを異動させるということよりも、どうしたらあなたを満足させられるか、満足はさせられないとしても、あなたに今の状況をご理解いただける方法はないかと、そういうことに主眼をおいて私はこの面接に臨んでいます」
「なるほど。確かにXの異動は手段であって、それ自身が目的ではありません。しかし、それと僕の個人情報と何か関係があるんですか?」
「Xさんの個人情報は先ほど申し上げましたとおり、ペラペラ話すわけにはいきません。ですから、あなたの個人情報を少しお話しすることによって、なぜ、XさんがQ税務署の審理担当となり、あなたとペアを組むようになったのかということをご理解いただけたのなら、今のお気持ちを少し整理できるのではないかなと思っています」
「僕の個人情報って、僕に何か秘密があるんですか?」
「その前に、先ほどのあなたの疑問、なぜXさんが審理担当になったのかというところからお話ししましょう」
「はい」
僕は少し姿勢を正して返事をした。
「率直にお聞きしますが、あなたはXさんを外に出せるとお考えですか?」
それを聞いて僕は強い衝撃を受けた。法人課税部門に所属する職員を外に出すということは税務調査を担当させるということだ。
今まで僕は自分こそがXの被害者でどうしてこんな人間と一緒に仕事をさせられなければならないのかということばかり考えていた。被害者意識しかなかった。もっと高いところから状況を判断するべきだったのかもしれない。
確かにXを税務調査に従事させたら納税者とのトラブルは計り知れないだろう。これまでもそういう事件の連続だったのかもしれない。納税者とのトラブルを最小限に抑えるためにXを審理担当に配置したというロジックなら僕にも理解できる。
「……もちろん、…無理だと思います」
「そうですよね。トラブルの元です。それは人事当局も理解しています」
「だから審理だと?」
「内部事務担当でも、源泉所得税担当でも、結局、納税者と接触する場面は出てきてしまいます。その際、Xさんが担当するとそれだけで膨大な時間と労力がかかってしまいます。Xさんにではなく、Xさんの周囲にいる人にです」
「分かります」
「しかし、審理担当ですと、もちろん納税者との接触は絶無ではありませんが、基本的には内向きの仕事です。納税者との直接の接触は納税者からの相談を受けることくらいです。実際に、審理の仕事で納税者と直接、接触するのはそのくらいですよね?」
「説明会とか関係民間団体との連絡調整なんかもありますけど」
「そういう面倒な仕事をXさんが受けることはないと思います。仮にそういう仕事を命じられたとしても嫌がってすぐに他の人に押し付けるはずです。税務相談ですら面倒臭がって他の人に押し付けているのではないですか?」
「そのとおりです」
「結果としてXさんが一般の納税者と接触する機会は税務調査に出ることと比較してとても少ないということになります。もちろん決議書を審理するわけですから、調査担当者や担当統括とは接触しますし、それで迷惑を被る人は出てくるでしょう。しかし、それは所詮、税務署内部の話です」
「僕がその迷惑を被る人になっているんですけど、僕のことはどうでもいいんですか?」
「あなたが多大な迷惑を被っていることは人事当局も承知の上です。でも、あなたはとても優秀な職員です。税理士試験に合格しているだけでなく、語学や情報工学の分野でも優れた能力を持っています。それだけではなく、人間的な面でもとても優れています。あなたは第一統括官や副署長であってもおかしくないくらいの人材です」
「だから僕に押し付けたと?」
「そう解釈していただいても間違いではないと思います。Q税務署の審理は、定員は二人ですがあなた一人で十分に切り回せると人事当局は判断しました。一人で十分でさらにお釣りがくると」
「そこでそのお釣り分、負荷をかけたということですか?」
「そういうことです」
「なるほど。事情は理解できました。しかし、それはやはり組織なわけですから僕一人が背負う十字架ではないと思いますけど。Xはサイコパスなんです。Xには社会人の常識が通用しないのです」
ここまで言って僕の脳裏に一つの疑問が生じた。なぜ、国際専門官はサイコパスという言葉をあっさりと受け止めることができたのだろうか?あたかもその言葉を投げかけられることがあらかじめ分かっていたという、そんな受け答えだった。
普通なら「サイコパスって何ですか?」とか、もしサイコパスという言葉を知っているのなら「どこがどうサイコパスだというのですか?」とか、そんな受け答えがあるはずだ。その疑問をもう一度国際専門官にぶつけてみた。
「スミマセン。もう一つ聞いてもいいですか?」
「ええ」
「僕がさっきサイコパスと言ったとき、専門官はどうしてその言葉を平然と受け止めることができたんですか?」
「どういうことでしょう?」
「その~、サイコパスってそんなに一般に馴染みのある言葉ではありませんから、サイコパスという言葉をあたり前のように受け止めたことを不自然に感じたんですよ。…実は、専門官も、…というか国税組織として、Xがサイコパスであることを承知しているんじゃないんですか?」
「先ほどから申し上げておりますように、仮にXさんがサイコパスだったとしてもそのことをここでお話しすることはできません。肯定も否定もできません。でも、繰り返しますが、あなたのことならお話しできます。ですからここであなたのことをお話ししてしまいましょう」
「僕のこと?」
「ええ。あなたのことです。実はあなたはサイコパスです」
国際専門官は静かに言った。
「はあ?」
「少なくとも国税当局としてはあなたのことをサイコパスとして認識し、人事管理をしています」
「意味が分からないんですけど」
僕は混乱していたが冷静に言った。
「サイコパスと言われてどう思いました?」
「どうって、…もちろん愉快ではありません。不愉快です」
「サイコパスという言葉に悪い印象を持っているということですね?」
「もちろんです。僕がサイコパスだなんて悪い冗談はよしてくださいという気持ちです。Xのような存在こそがサイコパスです。僕はXのように組織に迷惑を掛けているつもりはありません」
「それでは具体的にXさんのどういうところがサイコパスなんでしょう?」
「さっき、申し上げた通りです。まともに仕事に取り組まないということはもちろんですけど、それ以前に例えば他人の感情が読み取れないとか、空気が読めないとか、自己中心的であるとか、平気で嘘をつくとか、そういうところです。普通の人が持っているはずの気質を持ち合わせていないのです」
「なるほど、気質ですか。確かにそれはサイコパスの悪い気質ですね」
「悪い気質って、サイコパスにいいところなんてあるんですか?」
「サイコパスにも二種類あります。ざっくり言ってしまうと善玉のサイコパスと悪玉のサイコパスがあります。それで仮にXさんが悪玉のサイコパスだとしたらあなたは善玉のサイコパスだということです」
「善玉のサイコパスってどういうことです?」
僕の頭は一層、混乱した。
「サイコパスも悪いところばかりではありません。普通の人とは違うというのはそのとおりです。常識が通用しないという言い方も間違ってはいないでしょう」
「僕は極めて常識的な人間なはずですが」
僕は腕を組み、ムッとして抗議した。
「別に非常識な人間だと言っているのではありません。常識に囚われないと。いかがでしょう?ご自身のことを考えて、自分は常識に囚われないと思ったりしたことはありませんか?」
僕は少しうなったが、そう言われてしまうと言い返す自信はない。
「…確かに、常識に囚われたいと思ってはいないかもしれません」
「そうですよね?その他にも、サイコパスの気質は、危機的な状況であっても冷静に対処できるとか、緊張することがないとか、感情が希薄ですから誰とでも同じように接することができるとか長所になることもあるんです。例えばあなたは審理担当として研修会の講師などをこなしているかと思いますけどいかかでしょう?」
「確かにマイクを持って人前でしゃべるのは嫌いではありません。僕の得意技かもしれません」
「普通の人はマイクを持って人前でしゃべるのは苦手です。緊張してしまいますから。なるべく引き受けたくないと思う人の方が多いと思います。しかしあなたはそういうことを平然とこなすことができる。むしろ喜んで引き受けると。そういう人は組織として大歓迎です。あなたは下調べもせずに、メモを見ることもなく、平然と長時間の研修講師を務めることができるそうですね」
「確かにそのとおりかもしれません。おっしゃるとおり、僕は研修や説明会でどんな長い話をするときでも、一切メモを見ることはありません」
「普通の人はそんなことはできません。私にもできません。例えば人類で初めて月面に立ったルイ・アームストロングはサイコパスだったと言われています。月面に着陸する寸前、月着陸船が故障するんですよね。でもアームストロングは決して慌てることなく、冷静に対処し、月着陸に成功しています。あなたも納税者がどなりこんでくるような極限状態であっても、冷静に対処してきたんじゃないんですか?むしろそういう状況を楽しんでいたと。そういう記録が残っています」
「楽しんでいたというのは大袈裟ですが、そういうこともあったかもしれません。しかし、それとXのことと関係があるんですか?」
「あなたは今まで気が付いてこられなかったかもしれませんが、実は当局はこれまで、対人関係に問題のある職員をあなたの近くに座らせてきました」
「対人関係に問題のある職員?」
僕は、腕は組んだまま、眉を寄せ、怪訝そうに聞いた。
「そうです。個性が強すぎて周囲の職員とトラブルになってしまうような職員です。何か思い当ることがあるんじゃないかと思いますけど」
それを聞いて僕は腕を組んだまま目をつぶり、深い呼吸をしてから、過去を振り返った。確かにそう言われてみると、それをサイコパスと呼ぶか、あるいはアスペルガーと呼ぶのかはともかくとして、対人関係が苦手で、周囲の職員とトラブルを起こすような職員が僕の近くの席に、隣とか対面に、座っていたことはある。それも一回や二回ではなかった。
ある署では隣に個性の強い人が座ったなあと思っていたら、その人は実はまともで、対面に座っている人こそが問題児だったということもあった。いずれも僕は難なく一年間をやり過ごしている。
「……確かにそう言われて思い当ることはあります」
「そういう職員ともあなたはうまくコミュニケーションを取り、やり過ごしてきたはずです。そういう記録がたくさん残っています。ですから今回のXさんの件も、あなたならうまくやり過ごすだろうということで考え出されたアイデアだったのです」
なるほど、組織ぐるみの完全犯罪だったのだ。僕がこれまで抱いてきた疑問は一気に氷解した。
「……なるほどね。サイコパスにはサイコパスをぶつけようと。そういう戦略だったということですか。僕は生贄だったと。本当に税務署というところは血も涙もないところですね。しかし、さっきも申し上げましたけど、たとえそうだったとしてもそれは僕一人で背負う十字架ではないと思いますけど」
「一年が経過し、局には特にXさんの件で情報は上がって来ませんでした。だからもう一年大丈夫だろうと判断していました。当局の思惑通り、あなたがうまく収めていると」
「それは僕が我慢していたからです。それに、決して大丈夫ではありません。一年が限度です」
「とにかく、今日、来ていただいて状況は分かりましたから、次の定期異動では確実に異動できるよう善処します。これはお約束します。ですから、今は大変でしょうが、今しばらくご辛抱ください」
「それでは遅いかもしれませんよ?」
「どういう意味ですか?それは」
「僕が辞めてしまうかもしれません」
「それは大丈夫だと考えています」
目の前の中性な生命体は自信たっぷりに言った。
「はあ?僕個人のことなのになんでそんなに自信持って言えるんですか?僕の本当の気持ちまでは分かりませんでしょう?既にストレスマックス状態なのです」
「確かに心の奥深くまでは分かりませんし、分かる必要もありません。分かるのは客観的な事実だけで十分です」
「何が僕の客観的な事実なんですか?」
「お子さんがまだ小さく、小さくはないかもしれませんが、一人前になるまでにはまだ相当の時間がかかる。教育費もかかる。お母様の介護をしていらっしゃる。家のローンがまだしばらく残っている。奥様は、働いているかもしれませんがとてもあなたを含め家族全員の面倒を見ることはできない。既にあなたの家では夫婦共働きを前提とした人生設計が組まれている。これが客観的な事実です」
僕はそれを聞いて再び大きなため息をついた。
「何が言いたいんですか?」
僕は少し喧嘩腰に言った。
「客観的な事実に間違いはありませんね?」
「ええ。よく調べましたね。さすがは国税当局です。知らなくていいことまで知っている。そのエネルギーをもっと別のことに使った方がいいんじゃないんですか?」
「人事当局にはそれだけの情報が蓄積されているということです。何が言いたいのか?というご質問でしたね?回答としては、あなたが多少、過酷な現実にさらされたとしても、直ちに職場を辞めることはないだろうと人事当局は考えているということです」
「過酷というよりも残酷な現実ですよ」
「職場には様々なバックグラウンドを抱えている職員がいます。あなたが抱えているのは、いかに仕事と家庭を両立するかということです。だからたくさん残業をしなければならない仕事とか単身赴任には耐えられないでしょうけど、今のように片道一時間程度の通勤時間で、残業もほとんどないという仕事であれば大概のことは我慢できると当局は考えています」
「Xのことは既に限界に達しています」
「それは承知しました。Q税務署の幹部には連絡して、少しでも職場環境が改善されるよう意見することはお約束します。ただ、今は年度の途中です。年度途中の異動となるとたとえ一人であっても莫大なエネルギーが必要となります」
「だから僕に我慢しろと?さっき僕に降り注いだ情報収集のエネルギーを向ければそれくらい明日にでも実現できるんじゃないんですか?」
「申し訳ないと思っています」
「例えば他の席に移すとかもできないんですか?それだけでも今の僕にとっては大きな進歩ですけど」
「それはQ税務署の幹部が決めることです。しかし、他のどこの部署もXさんのことを求めてはいないし、Xさんのことで税務署内を混乱させたくないとQ税務署の幹部が考えていることは聞いています。それともう一つ、あなたがとても忍耐強く作られているということも」
僕は腕を組んだまま目をつぶり、首を左右に振って少し話題を変えた。
「…これから確定申告期間に入りますよね?」
「はい」
「例えば、Xを管理運営や個人課税に併任させて、法人課税部門からは切り離すということはできないですか?確定申告期間ともなれば、管理運営も個人課税も忙しくて猫の手も借りたいくらいですよね?一年で一番忙しい時期なんですから」
「Xさんが猫よりも役に立つかどうかはあなたが一番よく知っているはずです。おっしゃるとおり、確定申告期間中は猫の手も借りたいくらい忙しいです。だからこそ、Xさんを確定申告事務から遠ざけないといけないんじゃないんですか?」
それを聞いてもう一度僕は大きなため息をついた。
「郵便の開封くらいはたとえXでもできるんじゃないんですか?」
「そうすると、管理運営でマンパワーが一名マイナスになってしまいます。マイナスの一名が付け加わるんですから。そしてそのマイナスは誰かが埋めなければならない。組織としては打撃です」
「……僕は今まで、痴漢とか非行事件を起こしてしまう職員は弱虫だと思っていました。でも、今は理解できます。仕事でストレスが溜まってしまって、それで事件を起こしてしまうということを。さっき、僕のことを善玉のサイコパスとかおっしゃってましたけど、いつ何時、悪玉に突然変異するか分かりませんよ」
「そうならないように祈っています」
「祈るだけですか?」
「ですから、Q税務署の幹部への情報提供はお約束します」
「もし重大な非行事件を起こしてしまったら、僕は人事当局に相談したけど何もしてくれなかったと証言しますけどそれでもいいですね?」
僕が言うと今度は国際専門官が僕にはっきりと分かるように大きなため息をついた。
「そんなことにはならないと思いますけど、もし、そうなってしまったら止むを得ません。その際には私の名前を出していただいても結構です」
国際専門官はこういう場面に慣れているのだろう。そう言って不気味に笑った。
国際専門官が最後になってようやく見せた笑顔だったが、こんな不気味な笑顔なら最後まで無表情を貫いていてほしかった。
国際専門官は僕のことをサイコパスと言っていたが、僕はXや僕なんかよりも目の前の国際専門官の方がよほどサイコパスなのではないかと思い、身震いした。