最終章から始まる物語   作:山田甲八

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第六章 ストレスチェック

 税務署には総務課という部署があり、総務課長というポストがある。他にもポストと呼ばれる地位は色々あるのだが、署長と総務課長は全国どこのどんなに小さな税務署にもあるポストだ。

 総務課長はあたり前だが、総括的な仕事をしている総務課のトップだ。

 総務課は、離島にある小さな税務署では徴収系の仕事、すなわち税金の出入りの管理をする、出納係のような仕事を担うこともあるが、通常は賦課や徴収の仕事に直接携わることはない。

 課長に就任するのは四十歳の後半から五十歳の前半くらいだろうか。ノンキャリアの指定席で、キャリアは、財務省キャリアであっても国税庁キャリアであっても、税務署の総務課長のポストに就くことはない。逆に国税局の総務課長はキャリアが就くこともあるし、国税庁の総務課長は財務省キャリアの指定席だ。

 国税組織のポストは、同じポストであっても二種類のものに分けられている。指定官職と呼ばれるポストとそうでないポストだ。何が異なるかというと、任命権者が異なっている。指定官職は国税庁長官が任命権者となるが、そうでないポストは各国税局長が任命権者となる。

 その差は歴然という程ではない。税務署長はもちろん国税庁長官が任命するが、特別国税調査官や相談官あたりになると指定官職と非指定官職が混在している。だから小さい税務署の署長のポストの次のポストが特別国税調査官になったりすることがあり、特別国税調査官が偉いのか偉くないのか外側からはよく分からないということが起こり得る。

 都道府県庁所在地にあるような、規模の大きい税務署の署長はもちろん格が高いが、離島にある、職員数十数名規模の税務署の署長クラスだと特別国税調査官の方が、格が上だったりするので単純な比較はできない。

 東京国税局管内のように職員の数に比べて税務署の数が少ない場合には、職員数に比して税務署長になれる職員の数も限られてくる。地方への単身赴任などによってアンバランスを解消しようとはされているがその効果は限定的である。

 かようにその肩書の名称だけでは誰が偉いのか判然としないところがあるが、指定官職と非指定官職ではどちらが偉いのかは明確である。すなわち国税庁長官が任命する方が、格が上なのはあたり前であり、辞令の厚みが異なっている。指定官職の辞令は厚く、そうでない官職の辞令は薄い紙で作られている。それゆえ指定官職のことを「厚紙」、非指定官職のことを「薄紙」と呼んだりしている。

 総務課長はその「厚紙」と「薄紙」の端境にいる「薄紙」の最終ポストだ。総務課長の次は「厚紙」が待っているのであり、そういう意味では花形ポストといえるかもしれない。一度「厚紙」になってしまえば「薄紙」に逆戻りすることはない。

 ただし、総務課長の職務はキツイ。総括的な仕事といってもそれはいってみればトラブル対応を美しく言い換えたに過ぎない。納税者からのクレーム、あるいは職員からのクレーム、あるいは不祥事への対応を総務課長はさばかなければならない。そして時には納税者と職員の板挟みになって苦しむということもある。

 そんな総務課長から突然「話がある」と言われた僕は、昼下がりの午後、二階にある総務課長の席に降りていった。総務課長からの呼び出しに心当たりはなかったが、健康の話なのだろうとは思っていた。

 総務課長が職員を急に呼び出す場合、その理由は二つしかない。健康か非行かのどちらかだ。品行方正な僕が後者の理由で呼び出されるはずはなく、前者の理由には心当たりがある。

 総務課長の仕事の一つに職員の健康に気を配るというものがある。これが、総務課長が職員に嫌われる理由の一つである。

 職員は年に一回、普通のどこにでもいるサラリーマンと同じように定期に健康診断を受ける。まるで健康体という職員は少ないので、多くの職員が再検査になったり、いきなり「要治療」になったりする。国税局には産業医に相当する健康管理医が配置されていて、健康診断で良い成績を残すことのできない職員は、健康管理医のコントロール下に入ることになる。

 僕も人生わずか五十年に入り、なかなか健康が維持できないようになってきている。自覚症状はなく、生命に対する危機感も薄いが、健康診断の結果通知書に記載されている各種分析数値があまり芳しくなく、もう何年も前から健康管理医のコントロール下に入っていて、クスリが手放せない。

 三ヶ月に一回は国税局の中にある診療所に出頭し、血液を抜かれ、健康管理医のありがたい指導を受けている。

 僕はかように組織の健康管理方針に素直に従っているが、中には健康診断の結果を無視し、あるいは軽視している職員はいて、そのような職員には総務課長が直々に再検査や治療を受けるよう指示して回っている。

 総務課長席の脇に到着した僕をパイプ椅子に座らせた総務課長は回転椅子のクルマを滑らせて僕にそのイケメンを近付けてみせた。

「先日、ストレスチェックを受けましたよね?」

 やはり職員の健康というプライベートの根幹に関わる問題だと意識しているようで、総務課長は周囲の職員には気付かれないよう小声で僕にささやいた。

「ストレスチェック?…ああ、なんか、やったような気もしますが」

 今一つピンとこなかったが、机上に備え付けのパソコンからイントラネット経由でそんなアンケートに答えた記憶はある。

「それで、あなたが今、大変、高ストレスであるという結果が出ているのですが、何か心当たりはありますか?」

 それは言わずもがなだ。僕がストレスマックス状態であることは自分でも承知しているし、周囲も、そして職員の健康に気を配ることをその職責としているこの総務課長もきっと承知しているはずである。

 持病については自覚症状がないが、高ストレスについてはハッキリとした自覚症状がある。

「まあ、そうでしょうね。現在の職場環境はかなりストレスマックス状態ですから。それは課長もご存知ですよね?」

 僕は自虐的に言ったつもりだったが、総務課長は僕の言葉に同意することはなく、事務的というか冷たかった。

「それで、高ストレス状態にある職員は国税局が委託している産業医の診察を受けることができるのですが、どうしますか?」

「ああ、そうなんですか。それは存じませんでした」

 ストレスマックス状態になったのはXと出会ってからだ。だからここ最近の話で昔の僕が知るはずはない。

「もちろん強制ではなく、希望者のみということですが、希望されますか?」

「ええ、もちろん。そういう話があるなら望むところです」

 よく考えもしないでもそういう言葉が出た。僕を混乱させているXの件について、組織は人事の問題ということでなかなか動きが鈍いようであるが、職員の健康問題ということになれば無視することもできないだろう。そちらから攻めてみる価値はある。とにかく国税の職場は職員の健康にうるさいのだ。

「では、何日か候補日をメールで連絡しますので、都合のいい日時を教えてください」

「基本的に僕はいつでも大丈夫ですよ。それで、局に行くんですか?」

「いいえ。産業医の先生がこちらにやって来ますので、そうですね、恐らく、二階の小会議室で面談ということになると思います。時間は三十分くらいです」

「了解です。どうぞよろしくお願い致します」

 僕はそう言って総務課長に頭を下げた。

 健康問題ともなればあんがい手詰まりの戦局が打開できるかもしれない。僕は久し振りに明るい光を見たような気がしていた。

 

 数週間後、産業医との面談の日、僕は数枚の資料を持って会場の小会議室を訪れた。

 小会議室には僕より一回りくらい年下に見える女医が座っていた。白衣は来ていないから、説明されなければ医者とは気付けない。

 二者択一を迫られれば美人の範疇に入るのだろうが、左の薬指には指輪が燦然と輝いていて、その指輪が「私に声を掛けても無駄ですよ」と強烈に主張していた。

 女医は簡単に自己紹介し、自分は国税局の専属ではなく、外部からの嘱託であることを説明した。

「強いストレスを感じているとの検査結果が出ていますが、何か思い当ることはありますか?」

 自己紹介を済ませると女医は本題を切り出した。外部からの嘱託である以上、僕の抱えている問題を承知していないことは仕方がないのだろう。僕は素直に最初から説明することにした。

「僕の今座っている席の目の前にサイコパスが座っています。そのために大変なストレスを感じています」

 僕は素直に、ストレートに言った。

「サイコパス…、とおっしゃいますと」

「一言で言うと人格障害を持っているということです。まあ、通常でない、異常だということが言いたいんですけど、今まで、色々な人に僕の目の前の席に座っている人のことを相談してきましたが、どうもどこがどう異常なのかうまく説明できません。ですから今日は紙を持って来ました」

 僕はそう言ってインターネット上のウェブサイトから打ち出した数枚の紙をクリアファイルに挟んだまま女医に渡した。

「これは、…なんですか?」

 クリアファイルから紙を取り出した女医は軽く目を通しながら聞いた。

「今日のこの面接を前にして、必ずサイコパスの説明になりますから、対面に座っている人のことをうまく説明できる資料はないかなあと思いまして、サイコパスというキーワードで検索していたらちょうど僕と同じような悩みを抱えている人の投稿がありまして、それを印刷してきました。この人がサイコパスだと考えている職場の同僚の人と僕の対面に座っている人の特徴があまりにも似ていたものですから、この紙を見せればうまく説明できると思いまして。まさにここに書いてあることと同じことを僕は今、経験しているのです」

 僕が女医に渡した資料には投稿者が記載した同僚に対する特徴が十項目ほど並べられている。いずれも感情を持たない、痛みを感じない、平気で嘘をつくなどといったサイコパスの特徴だ。

 女医が資料を目で追う。僕は続けた。

「ただ一つ、当てはまらないなあと思っていたことがあったんです」

「なんですか?それは」

 資料を追う視線が一旦僕に向けられた。

「その資料の何項目かに、サイコパスは新人に取り入るという話が出てくると思います。新人とか、若い職員に取り入って、ランチとか飲みに連れていったりするという話が出てきます。これは、僕の対面の人には当てはまらないなあと思っていたんです。仕事が終わるとさっさと帰っちゃいますし、ランチもお弁当を持ってきていて休養室で食べているようで、若い職員を連れまわしたりはしていないのかなあと思っていたんです。ところが最近になって、若い職員を誘って飲み会を開いたりしていることが分かったんです。自分がボスで、一番上で、若い職員を何人か誘って、自分の自慢話ばかりして、しかも最後は割り勘だそうで、誘われた若い職員もふざけるなと思って、次は誘われても適当にお茶を濁していたら、先輩に誘われたらついていくもんだとお説教をくらったそうです。そんなことで若手職員一同、その対面の職員、Xというんですけど、辟易していると当の若い職員から聞きました。だからそこに書いてあること、見事に全部、Xには当てはまっているのです。僕もビックリしました」

 僕がそう言うと女医は再び視線を落とし、しばらく資料に集中し、一通り読み終わったタイミングがあってから顔を上げ、僕の方を見た。

「大体状況は理解できました。つまりは、目の前にストレスの元となる職員が座っているということですね?」

「そのとおりです」

「それで、あなたとしては何を望んでいらっしゃいますか?」

「僕が望んでいるのはただ一つ、Xの異動です。別に僕が異動するでも構わないのですが、僕とXを切り離してほしいのです。Xは僕の対面に座っているだけではなく、実はペアで同じ仕事を担当しています。審理という仕事です。部外の方には分からないかもしれませんが、申告書のチェックとか、税務職員が調査に行ったときに作成する調査報告書のチェックがメインなんですけど、同じ仕事を担当しているもんですから、ただ目の前に座っているというだけではなく、一緒に仕事をしなければならないので苦痛です。もう限界です。ストレスマックス状態で健康にも影響を及ぼしています。それが今回のストレスチェックの結果なのだと思います」

「そうですか。しかし、残念ながら私にはそれは無理です」

 美形の女医はやや残念な表情を浮かべて言った。

「無理だとおっしゃいますと?」

「あなたにしろ、そのXさんにしろ、異動させるということは無理です。私は医者ですので私ができることはあくまでも診療です。人事のことに口を出す権限を持ってはいません。それはお分かりいただけると思います」

「もちろんです。それは分かっています。しかし、医者だからこそ、できることもあるんじゃないんですか?僕は今まで色々な人にこの問題を相談してきましたが、残念ながら今に至るまで解決には至っていません。しかし、今回、僕のストレスがマックス状態であることは証明できたわけですから、このままでは僕の健康が持たないということで人事に僕の、あるいはXの異動を進言するということはできるんじゃないでしょうか?」

「……一つ聞いてよろしいですか?」

 少し沈黙の後、女医が冷静に言った。

「なんでしょう?」

「夜は眠れていますか?」

「ええ」

 僕は素直に答えた。

「ぐっすりと?」

「そうですね」

「一日何時間くらい寝ていますか?」

「それは、……もちろん日によっても違いますが、平均すると一日六時間くらいは寝ていると思います。僕はレムとノンレムの一時間半のサイクルが割と正確ですから、睡眠時間が一時間半ということはまずありませんけど、三時間だったり、四時間半だったり、六時間だったり、七時間半だったりです。休みの日には九時間というのもあるかもしれません」

「そうですか。それでしたら残念ですが、人事に進言ということはできないですね」

「はあ?…どうしてですか?睡眠時間と何か関係があるんですか?」

「よく眠れているということは、確かにストレスは感じているのかもしれませんけど、病気といえるほどではないということです。病気ではない以上、健康という側面から人事に意見することはできません。単に相性が悪いというだけでは異動させる理由にはなりませんから」

「相性が悪いって、そんな風にしか受け取っていただけないんですか?…そんなレベルではありません。Xは異常なんです。サイコパスです。人格障害なんです。僕でなくても誰でも同じ問題を抱えるはずです」

 僕は興奮して、怒った口調で言った。

「その方は、結婚はされているんですか?」

 僕の怒りをよそに、女医は冷静に続けた。

「Xのプライベートに僕は興味ありません。ただ、複数回、結婚しているということはなんとなく聞いています」

「では、それなりに魅力のある人なんですね」

「まあ、見てくれがそんなに悪いわけではありません。僕もXの異常さに気が付くのに半年くらいかかっていますから、見抜けない人は見抜けないかもしれません。あるいはそういうのが好きだという人が世の中にはいるのかもしれません。ただ、複数回、結婚しているということが、既に普通ではないことをある程度、物語っていると思いますけど」

「今は離婚も三割バッターですから、それだけではなんとも言えません。それで、…どうしますか?」

「人事への異動の進言はどうしても無理なんですか?」

「ええ。それは無理です。今の段階では」

「僕が病気ではないからですね?」

「はい。さっき説明したとおりです」

「でも、それっておかしくありません?職員を病気にさせないためのストレスチェックであり、今回の診察なのではないですか?それなのに病気になるまで我慢しろというのは。ストレスチェックの意味がないじゃないですか」

「そうかもしれません。でも、私も嘱託の身分なので与えられた任務をこなすことしかできないんです」

 女医の表情が申し訳なさそうになった。

「では、なんだったらできますか?」

「今日、ここで聞いた情報を厚生課に報告することはできます。あなたが異動を強く希望されていることも含めて。あとは厚生課がどのように判断するかです。厚生課は国税局の組織なわけですから、私ができないこともできるはずです」

「分かりました。では、できるだけ重症であると報告してください。それで、厚生課の反応を待ってみます」

 僕は諦め口調で淡々と言った。

 結局、ある程度予想はしていたが、僕の思ったとおりにはことは進まなかった。

 それにしても病気にならなければ救済しないという人事のスタンスはなんなのだろう。僕は悲しさを通り越して恐怖さえ覚えた。この国では死者が出なければ対策本部を設置しないと誰かが言っていたのを思い出した。

 

 それでも厚生課の対応は予想外に早く、僕は次の週には国税局の庁舎の中にある診療所に出頭することとなった。

 僕は持病を抱えていて、指導区分なるものを受けており、診療所のお医者様の温かいコントロール下にあって、診療所には三ヶ月に一度の割合で出頭し、血液検査を受けているので出向くこと自体は慣れたものだ。

 一週間後の午後、出張ということで国税局内の診療所に出頭した僕は、受付で来意を告げると中待合で待つように言われ、待っているとすぐに僕の名前が呼ばれて診察室に入った。

 診察室の中には白髪の初老の男性医師が待ち構えていて、僕に椅子を勧めた。傍にその医師と同年代の看護婦を従えている。僕は「失礼します」と言って、勧められた椅子に座った。

「どうしました?」

 僕の着席を確認すると医師は上から目線で話しかけた。それを聞いて僕はまた嫌な気分になった。

「今日、僕がここに来たことについて何か聞いていませんか?」

「ストレスチェックの結果を受けてこちらに来たことは聞いているけど、それ以上のことは何も。そういうことを僕らは聞かされていないんでね」

 医師はさらなる上から目線で面倒臭そうに言った。俺はお前とは人種、身分、階級、財産、あらゆるものが違うんだと言いたげな口調だった。

 マウントポジションを早々に取られた僕は軽くため息をつき、鞄の中からクリアファイルに挟まれた紙を取り出した。

「また最初から説明しなければなりませんね。それ自体が僕にとってはもはやストレスです」

 僕はそう言って一週間前に女医に渡したのと同じ紙を目の前の医師に渡し、続けた。

「ストレスの原因は分かっています。僕の今、目の前に座っている人が異常なのです。どう異常なのか?と言われると説明が難しいので紙を準備してきました。ちょうど似たような境遇の投稿がインターネット上にありまして」

「…これは、…君が載せたの?」

 渡した紙を少し見ると医師は引き続き高飛車に言った。

「いいえ。これはネット上をサイコパスというキーワードで検索していたらたまたま僕と同じ境遇の人の話が見つかったのでそれをプリントアウトして持ってきただけです。ただ、この話、僕自身が投稿したんじゃないかと錯覚してしまうほど僕の境遇に似ているのは事実です」

 医師はしばらく紙に目を向けた。

「なるほどね。…ちょっと、専門官呼んで」

 医師が目は紙の上を追いながら傍に控える看護婦に言った。看護婦は席をはずし、しばらくするとネクタイを締めた、明らかに事務方と思われる男を連れて戻ってきた。

「ストレスチェックなんだけど」

 医師は相変わらず高飛車な態度で事務方の男に言った。

「この人、前の席に座っている人がストレスの原因だそうですよ」

 医師はそう言って僕が渡した紙を事務方の男に渡した。事務方の男は渡された紙に目を通した。

 ざっと目を通すタイミングがあり、事務方の男は「なるほど」と軽い口調で言ってから僕の方に向き直り、自分は厚生専門官であると簡単に自己紹介した。そして続けた。

「状況は理解できました。それで、どうしたらよろしいでしょうか?」

 厚生専門官は医師とは打って変わって慇懃に僕に尋ねた。

「どうしたらよろしいかとおっしゃいますと?」

「例えば休ませてほしいとか、そういうことです。現在、大変なストレス状態にあるわけですから、今、ここでうつ病と診断されて病気休暇に入るということも不可能ではありません」

「それについては先日、税務署にいらっしゃった嘱託の産業医の先生にも診てもらいましたけど、僕は病気ではないそうです」

「病気ではない?」と厚生専門官。

「ええ。僕は毎晩よく眠れているんです。よく眠れているなら病気ではないと、そうその嘱託の先生はおっしゃっていました」

 僕が言うと傍らから「そりゃそうだ」という高飛車な医師の野次が飛んだ。僕は野次を無視して続けた。

「それでこちらを紹介されまして、今日、こうしてやって来たわけなんです。病気ではないから診療はできないけど、厚生課なら国税局の組織なわけですから何かできるのではないかとその先生はおっしゃっていました。そういう事情で病気休暇に入ることは難しいと思いますけど、現状は改善してほしいです。忌憚のない意見を述べさせていただけるならば、異動させてほしいです。僕でもその人でもどちらでも結構です。とにかく二人を引き離していただきたい」

 僕がそう言うと厚生専門官は初老の医師の目の前にある机の上の棚に並べてある小さめの冊子を手に取った。国税局の職員録で、厚生専門官はQ税務署のページを開いた。

「どの人ですか?」

 厚生専門官に聞かれ、僕は「この人です」と言って職員録の僕の数行下に記載されているXの名前を指でさした。

「Xさんですね。分かりました。しかるべき措置をとりましょう」

 厚生専門官があっさりと了解したので僕の方が拍子抜けした。

「異動させていただけるんですか?」

 僕の方が心配になって厚生専門官に聞いた。

「異動といっても転勤はこの時期、さすがに無理です。でも、席を移して、担当を変えるくらいであればそんなに難しい話ではありません。実際にこういう話、稀にではありますが年に数件はありますから。個性的な人はどうしてもいますから」

 それを聞いて僕は安堵すると同時に、そんなに簡単にできるのだったらなんでもっと早く取り組んでくれなかったのかと憤りを感じた。厚生専門官が続けた。

「Xさんはどんな仕事を担当しているのですか?」

「審理です」

 僕は普通に答えた。

「…審理、…ですか?」

 急に厚生専門官の声のトーンが変わり、顔が一気に曇ったことが僕にはハッキリと分かった。嫌な予感がした。

「そうです。審理ですけど、それが何か問題ありますか?ちなみに僕も審理を担当していて、ペアで仕事をやらされているということです」

 僕は厚生専門官の態度の変化が少し気になり、心配そうに聞いた。少し沈黙の時間が流れ、やがて厚生専門官が重い口を開いた。

「……そうですか。審理ですか。そうしますと残念ですが、すぐに席を移すというのも難しいですね」

「はあ?どうしてです。今、すぐにでも変えることができるとおっしゃったじゃないですか?」

 僕は詰問した。

「通常の場合はできます。しかし、審理となるとそれはポストですから、厚生課の一存でどうなるものでもありません」

「ポスト?どういうことです?」

「つまり、審理担当という仕事は誰でもできる仕事ではありませんから、人事課が法人課税課と協議してどの人を貼り付けるかということを決めているのです。ですから、人事課と法人課税課の意向が強く反映されているので厚生課の力だけではどうすることもできないのです」

「しかし、Xのせいで僕が健康を害しているのは事実なのではないですか?それに人事課が決めているからどうにもならないといっても、所詮は人が決めていることだと思いますけど」

「それはそうなんですが…」

 厚生専門官の口が重くなった。厚生課単独でできることはなんでもやるが、他の部署を巻き込まなければできないことはやるのが面倒臭いということなのかもしれない。

「結局、問題は解決しないということですか?」

 僕はさらに厳しい口調で言った。

「とにかく、厚生課の力だけではどうしようもありません。ただ、今日のことはQ税務署の幹部にも伝えて、しかるべき対応をさせるようにはします」

 僕を興奮させないようにしようとしているのか、厚生専門官はつとめて低姿勢に答えた。

「しかるべき対応というのはどういうことですか?」

「いきなり転勤は難しいですけど、座席の移動くらいはできるかもしれません。それはQ税務署の幹部が判断することですが」

 それを聞いて僕は脱力し、大きなため息が出た。後一歩というところまで来たが、結局、どうにもならない。架けられたはしごに登っている途中で突然はずされたような、そんな気がした。

「僕は結論を待っていればいいですか?結論が出るまでにどのくらい時間がかかるでしょうか?」

「それはなんとも言えませんが、できるだけ早めにいい方向に持って行きたいとは思っています。それで、一つお願いがあります」

「なんでしょう?」

「Xさんがひどいということですが、具体的にどこがどうひどいのか、事例をまとめていただけませんか。そうすれば私からQ税務署の幹部に説明するのも説明しやすいですから。簡単な箇条書きでも結構ですので」

「分かりました。具体的な事例には事欠きませんから、早速、レポートを作って専門官あてにメールでお送りしましょう」

「お忙しいところ恐縮ですが、どうぞよろしくお願い致します」

 僕が厚生専門官とやり合っている間、初老の医師は終始無言で、この問題には興味を失っているようであった。退屈そうに厚生専門官と僕の話を聞いていた。

 結局、わざわざ国税局まで出向いてきたものの、この日も事態はなんら進展することはなかった。

 

 次の日、僕は早速、宿題を仕上げ、厚生専門官あてにイントラネットメールで送ることにした。

 国税庁のネットワークシステムは情報漏洩を防止するためにインターネットからは完全に遮断されているが、すべての職員はその閉鎖されたネットワークの中でメールアドレスを付されていて、その空間の中では自由にメールのやり取りができるし、少々重いファイルを貼り付けて送ることだってできる。

 Xのことについて一々記録を取ってはいなかったが、いつ頃、どのようなことをしてきたかはざっくりと記憶しているし、細かいことはそれらの記憶を辿りつつ、スケジュール帳や日記や家計簿、あるいは税務署に保存されている面接記録表を見ればある程度分かる。僕はそれらの情報をつなぎ合わせ、短時間のうちに立派なレポートが完成した。

 レポートを添付して厚生専門官あてにメール送信すると、Xが昼休みで席をはずしているタイミングを見計らって電話がかかってきた。

「早速、ご対応ありがとうございます。読ませていただきましたけど、本当にひどい状況ですね」

 厚生専門官が電話の向こうからそう言うのを聞いて僕は少し安心した。とにかく理解は得られたようだった。Xの問題で誰か他人から同情を得られるのは本当に久し振りのような気がした。

「ええ。ですからなんとかしていただきたいのです」

 僕はすがるような思いで言った。

「お気持ちは理解しています。それで、一つ確認させていただきたいのですが、今回、お作りいただいた資料はそちらの幹部の皆様にお見せしてもよろしいですね?」

「もちろんです。そのために作ったんですから」

「ありがとうございます。とにかく、今回のことはこちらからQ税務署の幹部に伝えます。後はそちらの方でなんらかの措置がとられるかと思いますので今しばらくお待ちください」

「はい。どうぞよろしくお願い致します」

「それと、…辛いと感じたら我慢しないでなるべく早めに休むようにしてください。健康第一ですから。それでは失礼致します」

 最後は厚生専門官らしく、そう言って電話は切れた。僕は期待と諦めが入り混じる不思議な気持ちを覚えた。

 

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