Q税務署の幹部に連絡してしかるべき対応をさせると言われはしたものの、少なくとも僕が満足するスピードでは物事は進展しなかった。相変わらず、Xは僕の目の前で自由気ままに振る舞い、僕をイラつかせている。
やむを得ず、僕は次の手立てを一人で、自分の頭で考えなければならなかった。
さて、どうしようかと考えていたところ、意外なきっかけで思ってもいなかった次の一手が現れた。人事当局に直接相談してしまうというのがその一手である。
規模の大きな組織ではどこでもそうであるように、一般職の公務員として最大の規模を誇る国税組織にも人事を担う部署がある。人事課がそれであり、国税局では総務部人事課が、その上の国税庁では長官官房人事課がその役回りを担っている。
僕は税務署に勤務する最底辺の税務職員なので、僕の人事は国税庁ではなく、国税庁の地方支分部局である国税局の総務部人事課が担当することになる。
国税庁の長官官房人事課は僕にとっては雲の上の組織であり、全庁的な人事戦略を練っているのだろうという察しはつくが、正直、具体的に何をやっているのかは分からないし、分かる必要もない。分かりたくもない。
国税局に設置してある総務部人事課ですら、僕のようなヒラの上席にとっては雲の上の存在なのだ。とてもじゃないが恐れ多くて近付けない。幹部職員ですら容易には近付けないだろう。何といっても人事権を握っているのだ。うっかり機嫌を損ねてしまったらとんでもないことになってしまう。僕はそう思っていたのだが、実は意外と身近な存在だったのだ。
それを知ったきっかけはつまらないことだった。Xはよく遅刻する職員だった。理由は単純で交通機関の遅延である。交通機関の遅延そのものはたとえその原因が人身事故ように人為的なものだったとしても、自然災害のようなものであるから、ある程度、仕方のない部分もあるが、Xに限っては、必ずしもそれは当てはまらなかった。
交通機関が遅延してしまうことは、そう頻繁にはないかもしれないが、あり得ない話ではなく、どちらかというと稀にではあるがある話である。数分の遅延であれば頻繁に起こるとさえ言えるだろう。だから一般的なサラリーマンはギリギリに出勤するということを普通は考えない。
交通機関の乱れに限らず、通勤途中に何らかの障害が発生する可能性はあり、それをも見込んで、こっちのルートが駄目だった場合にはこっちのルートに迂回してということも含めて、余裕をもって出勤するのが普通のサラリーマンが持っている常識である。
だから、普通のサラリーマンは始業時間よりも幾分早めに職場に到着する。人身事故が発生して、電車が大幅に遅延してしまうと苦しいが、通勤時の混雑のため、数分遅延する程度では遅刻することはない。少なくとも国家公務員である以上、その程度のことは心がけておくべきである。
ところがXの場合には常に職場への到着がギリギリであるため、わずかでも交通機関に乱れがあると、即、遅刻してしまうのだ。
ただ、始業時間までに連絡を入れれば欠勤ということにはならないので、交通機関の遅延による遅刻が多いからといって分限処分の対象となることはない。
さらに国家公務員には特別休暇という制度があって、交通機関の遅延によって遅刻し、勤務ができなかった時間についてもキチンと給与は支払われてしまうのである。
もちろんXがいてもいなくても組織の役には立つわけではなく、むしろいない方が組織は回るので遅刻はウェルカムなのだが、いないのにも関わらず税金から給与が支払われてしまうことはなんとなく釈然としない。僕は税務職員という立場上、税金の使われ方に関しては少しうるさいのだ。
そう思って、僕は特別休暇という制度がどのような制度なのか、少し調べてみようと思った。
国税職員の休暇制度を調べるには「職員ノート」という名前の冊子を見るのが一番便利だ。そこには休暇制度や福利厚生など服務上のルールがコンパクトにまとめられているからだ。
昔は本当に紙に印刷され、冊子の形で配布されていたが、国税局内にLANが張り巡らされた今日では、経費削減のためか、冊子で配布されることはなくなり、庁内のサイト内に配置され、職員は自席のパソコンからそのアップされている情報にアクセスするようになっている。
僕は自席のパソコンに職員ノートの画面を表示させたが、その目次を見た瞬間、休暇制度を調べようという当初の目的が吹き飛んだ。
目次には次のような項目も表示してあり、そちらの方に強い興味が生まれてしまったのだ。
各種ハラスメント等の相談窓口
早速、僕はそのページを表示させた。そこには、職員が抱えている各種ハラスメント、職場内の人間関係の悩み等に関する相談及び職場環境の改善に係る意見等について以下のとおり窓口を設置していますという説明文が記載してあり、その下に各種窓口が紹介されていた。
僕は長年、国税職員をやっていて、この職員ノートを見る機会も何度もあったわけだが、この相談窓口の存在に気付いたのは初めてである。それまでは本当に悩みなんかなかったのだろう。
Xの存在は僕にとってハラスメントになるのだろうか。そもそもハラスメントとは何だろう?僕はそう思って机の引き出しにしまってあるいかにも古そうな国語辞典を手に取った。
国語辞典のページをめくりハラスメントを探すものの載ってはいない。巻末を見ると昭和五十四年発行の国語辞典だった。僕が中学生の頃で、まだハラスメントという言葉が知られるはるか前である。最近、発刊された国語辞典には掲載されているのかもしれないが、残念ながら手元にはない。
国語辞典を諦めた僕は、次に英和辞典を調べてみた。英和辞典にはさすがにharassmentは載っている。嫌がらせという意味だった。
ではXは僕に対して何か嫌がらせをしているだろうか?答えはノー、ハッキリ言ってノーである。Xは何もしていないのだ。そして、本来、職員として果たすべき役割を何も果たしていないことが僕にとって苦痛なのである。
それでは組織の僕に対する仕打ちはハラスメントと言えるのではないだろうか?僕があれだけXに拒否反応を示し、なんとかしてほしいと訴えているのにもかかわらず、何も動いてくれないのだから。
僕はそんなことを考えてもう一度、職員ノートの該当ページを見た。
該当ページには部内カウンセラーの他、共済組合の契約窓口、人事院公平審査局の相談室、民間のカウンセリングセンターなど、外部の相談窓口も紹介されていた。
いっそ国税組織の外に相談してみようか。そう思って僕は人事院の窓口に興味をひかれた。人事院が介入してくれば国税当局としても無視するわけにはいかないだろう。
一瞬、そう思ったが、さらに下に記載してある文字列に僕はさらなる興味をひかれた。
各種職場改善に係る意見・相談等の窓口(ホットライン)
さらにその文字列の下には人事課の課長補佐の直通電話の番号と専用のメールアドレスが記載されていた。記載されている専用のメールアドレスは部内LANとは完全に隔離されているようで、自席のパソコンからメールを送ることはできないとの注意が書かれている。
今回のXの問題は色々な要素が絡み合ってのことだろうが最大の加害者は人事課である。異動の発令を最終的に判断し、僕とXがペアを組んで仕事をしなければならない環境を作り出した、最終的な責任部署は人事課だからだ。それならば人事課にクレームを訴えるのが、一番筋がとおる。
いきなりホットラインに電話をするのは敷居が高い。人事課はやはり僕にとっては雲の上の存在なのだ。しかし、メールなら割と気楽に相談できるかもしれない。外部に相談するのも良いが、それ以前に国税組織の中で解決できるものならば解決したい。そんな思いもあった。
人事課はハラスメントの問題ではないとして相談を受け付けないかもしれないが、職場環境の改善に係る意見には少なくとも該当するだろう。最低限、末端の税務署にこういう人がいて、こういうことが起きているという情報提供をする価値はあるのではないだろうか。とにかく声を上げてみないことには前には進めない。人事当局自らがチャンスを与えてくれているのだ。
そう考えた僕は取り敢えず、そこに記載されていたメールアドレスに次のようなメールを送ってみた。
Q税務署法人課税第1部門審理担当上席です。
職場環境の改善について意見を述べさせていただきます。
いきなり電話をかけてしまうと論理的な話ができないと思い、まずは今の自分の置かれている状況を整理する意味も含めて、メールにて情報提供をさせていただきます。
私は現在、Q税務署法人課税第一部門で審理担当をしています。Q税務署での勤務は四年目になり、一年目は管理運営部門で過ごし、法人課税部門は三年目、審理担当も三年目となります。
元々私は法人課税部門の職員でしたが、管理運営部門第一期生であり、そこで五年勤務しましたので法人課税部門は五年ぶりの復帰、そしていきなり審理を任せられることになりました。それ以前に審理の経験はありません。
Q税務署の法人審理担当は上席である私と調査官の二名で構成されています。
前事務年度、調査官が交代となり、Xという審理一年目の調査官が異動してきて、私の目の前の席に座ることになりました。
当初は審理一年目ということで慣れないこともあるのだろうという気持ちと、私自身も審理二年目に過ぎないけれども、先輩として後輩を育てなければならないという思いが強く、Xを一生懸命育てるつもりでした。
Xについては、最初のうちは「やる気のない職員だな」と思う程度で、特に気にすることもありませんでした。
しかし、そのうち、電話に出ない、納税者とトラブルを起こす、仕事を拒否する、平気で嘘をつくなど社会人の常識が通用しない場面に多々出くわすことになり、十二月に入る頃にはXの異常さを強く感じることとなりました。
年明けまで頑張ってみましたが、Xはひどくなるばかりであり、最終的にはXを育てるのを断念し、「とにかく足を引っ張られなければ良い」という気持ちで異動日までをやり過ごすことにしました。
ここでXの異常さについて詳細を述べることは致しませんが、私はXがサイコパス、すなわち病気なのだろうと思っています。
Xがサイコパスであることには気付いていましたが、前事務年度中はそれを口にはしませんでした。
定期異動日が来れば離れられるだろうからそれまでは我慢しようと思い、後は定期異動時に確実にXとのペアを解消できるように尽力しました。
私は幹部に現状を説明し、もう限界であることを訴えました。私以上に当時の法人課税第一統括官は熱心で、私のいる目の前でも署長、副署長に「彼はもう限界に来ている」と言ってくださっていました。
全管署長事務打合せの前には「もし、現在の体制が維持されているようであればすぐに人事課に連絡して変えてもらうよう」署長、副署長、そして総務課長にも同じお願いをしていました。それにもかかわらずこの度の異動で私とXのペアが解消されなかったことは無念でなりません。
私はXに個人的な恨みはありません。悪いのは病気であり、X自身に責任はないと思っています。
五万人を抱える国税の組織ではXのような病気を持った職員が存在することもやむを得ないことと考えます。
また、その病気の職員の面倒を誰かが見なければならないということも理解できます。
しかし、それを一方的に一人の職員に押し付けて良いということにはならないと思います。
嫌な役目を特定の一職員に押し付けるということもハラスメントの一種なのではないでしょうか?
私は前事務年度、とても熱心に仕事に打ち込んだつもりです。
誰もやりたがらなかった軽減税率の説明会も一人でやり抜いたと思っています。
少し大げさですが勲章をもらってもおかしくないと思っています。それなのにこんな罰ゲームを与えられるとはとても納得できません。
確かにXを外には出すのは厳しいでしょうし、管理運営部門に置くこともできないでしょう。
審理二人署に置いておけば、もう一人が二人分働けば組織は回るという理屈もそのとおりかもしれません。
事実、前事務年度、法人審理事務が滞ることはありませんでした。審理担当であれば本人のプライドも傷つかないでしょう。
しかし、そのもう一人はこの一年間で相当傷んでしまっているのです。
その事実はどうかご理解いただきたいと思います。
私は今、モチベーションを維持するのに必死です。
そして、この一年間は棒に振る一年となり、この一年を取り返すのに何年もかかってしまうのだろうと思っています。あるいはもう取り返せないかもしれません。
とても悔しい気持ちでいっぱいです。
貴課に相談するかどうかは最後まで悩みましたが、やはり情報は多くの人に共有してもらうべきだと考え、情報を入れさせていただきました。
ご面倒だとは思いますが、貴課がこの問題に真摯に向き合ってくださることを祈っています。
メールを送ったのは朝の八時だったが、その日の午後三時半には返信が来た。
いつも大変お世話になっております。
ホットライン担当の人事課・課長補佐です。
ホットラインにいただきましたメールを拝見させていただきました。
まずはホットラインにご連絡下さいましたことに感謝申し上げます。
具体的なお話をお聞かせ願えればと思いますので、ご都合のよろしい時間にホットライン直通電話番号(×××―×××―××××)までお電話いただければと思います。
よろしくお願いいたします。
※なお、今週はすべて出勤しておりますので、お電話は本日でなくても結構です。
もう少しメールでやり取りができるかと思ったが、担当の課長補佐は直接、僕と話をしたいようである。メールでのやり取りでは証拠が残ってしまうからか、あるいは本当に真摯に僕の悩みを解決しようと思っているから、だから行間の読めないメールではなく直接、話をしたいということなのか、どちらかは分らないが、少なくとも人事課が僕の存在に気付いてくれたのは僕にとって久し振りのグッドニュースではある。
その日でも良かったのだが、少し落ち着いてからにしようと考え、翌朝、僕は指定された直通電話番号に電話をかけ、担当の課長補佐と直接会う約束を取り付けた。
課長補佐は電話でと思ったようだが、僕が直接会うようにお願いした。それは直接会って相談したという実績を作っておいた方が良いと考えたからだった。
数日後、休暇を取った僕は国税局人事課にホットライン担当の課長補佐を訪ねた。
僕と同年代のおじさんである課長補佐は笑顔で僕を迎え、人事課長の部屋へと案内し、応接に僕を座らせ、自身は対面に座った。
国税局の課長クラスは通常、個室を持たない。個室を持つのは部の次長あるいはそのポストに準じる「監理官」と呼ばれるポストからである。
課長は大部屋の一番上座に座る存在ではあるが個室は与えられない。しかし、人事課長は、あるいは局員の人事という機密事項を扱うその性格からか、課長の立場でありながら個室が与えられている。
人事課長室の応接で僕は連絡をくれた担当の課長補佐と向かい合った。人事課長は不在だった。
「メールありがとうございました」
課長補佐はそんな言葉から切り出した。
「それで、一緒に仕事をされている方が異常だとおっしゃいますけど、もう少し、具体的にお聞かせいただけませんか?」
「…具体的にですか?」
「ええ。一口に異常といわれましても、何がどう異常なのかよく分かりませんので」
確かにそうなのだが、あまりにも異常過ぎて簡単には説明できない。
「…そうですか。…そうですね、例えばなんでもいいのですが、…まずXは電話に出ません。目の前の電話が鳴っても取ることはありません。必然的に僕が取り、納税者からの相談とか、申告書作成のための面接とか雑用がすべて僕に回ってくることになります。最初は何か自分の事務に集中しているのかな?とか思っていたのですが、そのうち、わざと無視して電話に出ないことに気が付きました。今では電話の前に本とかを置いて、電話を完全にブロックしています」
「なるほど」
「通常であれば、あるいはXの前任者の時はそうだったのですが、若い調査官の方が電話に限らず、積極的に雑用を引き受け、どうしても手に負えない場合のみ、上席である僕がヘルプするというやり方になるはずです。Xは恥ずかしがることもなく平気で僕に雑用を押し付けます。先日も、うちの署にはユニマットがあるのですが、コーヒーを作れと言われて度肝を抜かれたことがあります。ただ、Xが電話を取れば解決するのかというとそうでもありません。Xは審理の担当ですが審理を担当する知識も能力もありません。意欲もありません。あるいは社会人の常識も身に着けていません。だから納税者とも職員ともトラブルになります。結果、任せられる仕事が限定されていて、それすらも満足にこなせている状況ではありません」
「知識も能力も常識もないというのは具体的にはどういうことですか?」
「例えば法人の審理担当であるにもかかわらず、会社という制度の仕組みを理解していないようなのです。会社の設立とか解散とか、あるいは清算結了とかそういう基本的な知識がなく、説明しても今度は理解する能力がありません。あるいは理解しようという意欲すら身に着けていないのかもしれません。税法にしてもそうです。相談とかの電話は自分で調べて解決しようとせず、とにかく他の人に押し付けようとします。だから周りの職員が疲弊するのです。特にXとペアを組まされている僕は激しく疲弊しています」
「なるほど。それで苦労されているということですね」
「そうです。それとメールでも申し上げましたが、僕は管理運営部門の一期生です」
「はい」
「僕が管理運営部門に交流に行くときに、当時の担当の副署長には『君達は管理運営の一期生で苦労するだろうから管理運営から出てくるときには我がままを言ってもらってもいいと思っている』と言って送り出されました。それなのにこんな罰を受けなければならないとはとても納得できません」
「なるほど。それは苦労されましたね。それで、どうすればよろしいでしょうか?」
「何かして下さるんですか?」
「今はモンスター部下とかモンスター後輩という言葉もよく聞かれるようになってきましたけど、後輩が使えないということも広い意味では職場環境の問題でしょうから、職場環境の改善ということでできることはしたいと考えています。現状では仕事の効率にも悪い影響を与えているでしょうし」
「どうすればよろしいか?と聞かれれば、それはもちろん異動に決まっています。僕はこの前の異動で僕かXのどちらかが絶対に異動になると思っていたのですから。そうなるように署長にも副署長にも総務課長にも一統にも強くお願いしていましたし、それは十分理解していただいていると思っていました」
「しかし、定期異動の時期ではないこの時期に人事を動かすということはとても難しいことです。それはご承知ください」
僕を説得しようとしているのか、課長補佐は温和な口調で言った。
「それは分っています。そこをなんとかと申し上げているのです」
「異動が難しいとした場合、他になにかできることはありますでしょうか?」
「…まずは僕の存在に気付いてください。それが第一です」
「存在に気付くとは?」
「僕が大変な荷物を抱えてしまっているということをQ税務署の幹部はもちろんですが、人事課も主務課も分かってほしいのです」
「なるほど、今は軽視されていると?」
「僕はこれも一種のハラスメントだと思っています。これはハラスメントにはなりませんか?後輩が使えない現状が放置されているというのは」
「そうですね。一般的には部下や後輩はハラスメントの客体にはなっても主体にはなりませんよね。通常、ハラスメントは力の強いものから弱い者へ向かうものですから」
「Xがハラスメントの主体だとは僕も思っていません。僕が言いたいのは組織がこのXが僕の対面に座っている状況に対して何もしていないということです。僕が悲鳴を上げているのに何もしてくれない状況がハラスメントではないかと申し上げたいのです」
「しかし、組織が何かをしているというわけではないですよね?」
「ハラスメントは嫌がらせということですけど、有形のものだけではなくて無形のものもありますよね?やるべきことをやらないとか」
「まあ、その可能性はあると思いますが」
「では、悲鳴を上げているのに組織が動かないということで、これを一種の僕に対するハラスメントということを認めていただけませんか?実際にセクハラやパワハラが行われた時にどういう措置が取られるのか僕は分かりませんが」
「通常のハラスメントであれば関係者を調査して事実であれば加害者に訓告などの処分をするということになります」
「では関係者から話を聞いてみてください。僕の言っていることが裏書きされると思います。ただ、Xから話を聞いても無駄だとは思います」
「なぜそう思うのですか?」
「メールにも記載しましたが、Xは病気なのです。人格障害なのです。だから何を言っても無意味なのです」
「Xさんに注意したりはしないのですか?」
「最近は諦めています。昔は注意をしていた時期もあります」
「その時のXさんの反応は?」
「ちゃんとやってますという返事で、後は無表情です。それは、実際にそのとおりなのだろうと思います。XはXで全力を尽くしているということに間違いはないのだと思います。前任者と同じレベルのことが自分にもできるとは思わないでくれというようなことも本人から直接言われたことがあります。組織が要求するレベルには全然足りないのです。そんなXをなぜ僕とくっつけたのか。もちろん国税は巨大な組織なわけですからXのような職員が存在してしまうことは仕方のないことだとは思います。でも僕が一人で背負う十字架ではないはずです」
「まあ、状況は分かりましたので、後は我々からもQ税務署の幹部に話をして、対応を考えます。少しお時間をいただけますか?」
「それは構いませんが、なるべく急いでいただきたいです。僕はハラスメントということで訴訟という手段も考えているんですよ」
「訴訟…ですか?」
訴訟という言葉に課長補佐の表情が曇った。
「そうです。配下の職員が窮状を訴えているのにそれを放置しているということですからこれはハラスメント。ハラスメントは僕の権利を侵害する行為ですから不法行為責任が追及できるんじゃないかと、そう思っています」
「裁判をするということは国を訴えるということですよね?」
「まあ、国にするのか上司個人にするのかは分かりませんが」
「公務の執行ということですから当然、国家賠償請求ということになると思いますが。そうなると被告は国であって個人にはならないですよね?」
「上司個人の行為がもはや公務の執行といえないような場合には上司個人に損害賠償請求することもできるんじゃないんですか?セクハラとかはそうですよね?国の監督責任はともかくとして、上司個人の責任も追及できるのではないですか?上司の部下に対するストーカー行為とかはとてもじゃないですけど公務の執行にはならないと思いますが」
「それはそのとおりかもしれませんが、今回のこのケースでは訴訟は難しいと思います。個人を訴えるということもそうですが、あなたが権利を侵害されていると考えているのは作為ではなくて不作為ですよね?何もやってくれないという」
「そのとおりですが」
「不作為の違法性を訴える場合、その違法性を立証するのはとても難しいと思いますよ。もちろん、立証責任は主張する側にあるわけですから」
課長補佐は一転、厳しい表情で言った。
「そうおっしゃるのはそうなったら面倒臭いからですか?巻き込まれるのが」
「…もちろんそれもあります。しかし、私の今の立場から訴訟をお勧めするわけにはいきません。勝ち目はありませんし、困って相談に来られている職員に勝ち目のない戦いを煽って、さらに窮地に追い込むことは相談員として不適切です」
「訴訟に勝ち目のないことは分っています。世論喚起以上の意味はないのだろうと思います。別にこの問題に限らず、我が国の裁判制度そのものがそういう、世論喚起以上の意味を持たないものとなってしまっていますから」
「世論喚起もできない可能性の方が高いです。ただ、我がままな職員が何か言っている程度にしか世間は受け取ってくれないでしょう。それはあなたにとって確実にマイナスです」
「だから僕に今の状況を我慢しろと?」
「…こういう話があります。最近、実際にあった話です。訴訟という話そのものです。ある職員、この方は庁キャリの方でしたが介護を抱えていて通常、庁キャリに要求される全国転勤ができませんでした。そのためなのかどうか、その方はそれが原因だと考えていらっしゃるのですが、人事が随分と遅れました」
「出世が遅かったということですか?」
「スミマセン。言葉を間違えました。人事が随分遅れたと、その人はそう感じていました。客観的にはそういう事情はなかったんですけど、その人は全国転勤を拒否した結果、その報復として自分の出世が遅れてしまったと、そう考えていました。それで、その方は人事に不満を持ちまして、人事院の公平委員会に審査を請求し、負けると続けて訴訟に踏み切ったのです。でも勝つことはありませんでした」
「僕も同じ轍を踏むだろうからやめろということですか?別に僕は、もちろん勝ちたいですけど勝つことだけが目的ではありません。分かってほしいんです。僕がとても困難な状況にあることを理解してほしいんです」
「もし訴訟や審査請求ということになれば我々もガチで勝負に行きます。それはあたり前です。不法、不当なことをやって黙っていたということを認めてしまったら法治国家は維持できませんから。あくまでも行政は公平、適正に行われているということです。公務員の処遇も含めて」
「僕の今の状況が適正ですか?」
「不満はあるかもしれませんが、その対面に座っている方も何か違法な行為をしているわけではありませんよね?国家公務員法違反だとか。違法な行為を上司が黙認しているわけでもないでしょう」
課長補佐の言うことは正論に違いない。それは理解できる。立場が逆だったら僕も同じことを言っただろう。僕は力が抜けていくのを感じた。
「…そのとおりです。ただ異常なだけです」
僕は一気にトーンダウンした。僕のトーンダウンが課長補佐を力づけたようだ。発言に力がこもる。
「ですから誰かには我慢してもらわなければなりません。ただ異常だというのも大変主観に左右される意見です。後輩が先輩よりも率先して電話を取ることは、もちろん好ましいことですし、それが社会人の常識ですけど、法律で決められているわけではありません。法律で決められていない以上、法令違反はないということになりますし、違法でない以上、あなたは我慢すべきだということになってしまいます。外部に訴えても勝つ見込みがないばかりか、あなたが余計に傷つくだけです。そんなことを黙って見ているのは相談員として忍びないです」
「…我慢できなくなったらどうします。僕は案外弱いかもしれません。蓄積されたエネルギーが他の形で爆発してしまうかもしれませんよ。そうしたら組織に大きな迷惑を与えてしまいます」
「どういうことですか?」
「僕は今まで非行に走ってしまう職員の気持ちが分かりませんでした。痴漢で捕まってしまって仕事のストレスがたまっていたとか言い訳する職員の気持ちが。でも今ならハッキリ分かります。この職場にはそういう種類のストレスが溜まる場所もあるんだなと」
「とにかく状況は分かりましたので、今すぐの異動は難しいですが、こういう情報が寄せられたということはQ税務署の幹部とも共有し、しかるべき対応を致します。そして、次の定期異動の際には今の状況が改善されるよう、今から準備に入ります」
僕に期待を持たせようとしているのか、課長補佐は力強く言ったが内容に新鮮味はなかった。
「次の定期異動では遅いんですけど」
僕は力なく言った。
結局、人事課への相談であってもこれまでと状況が大きく変わることはないようで、僕は落胆した。それにしてもこれだけ声を上げているのに動かない、組織が守らなければならない正義とは一体なんなのだろう?僕の頭では理解できなかった。
ただ、今回は人事課の担当者に直接、お願いしたわけだから少しは、重みは違うだろう。僕は自分を慰めるようにそう自分に言い聞かせた。