最終章から始まる物語   作:山田甲八

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第九章 カウンセラー

 僕は悩んでいた。

 Xのことをカウンセラーに相談すべきかどうかということを。

 国税の職場にはカウンセラーという制度がある。国税局にはカウンセラー室という部署があり国税局の課長補佐クラスである部内カウンセラーと弁護士などの専門家からなる外部カウンセラーが職員からの悩みごとの相談に応じている。

 相談内容は基本的になんでも良いことになっている。職場の悩みも、家庭や借金、交通事故といった職場外の相談も受け付けている。だから弁護士も関与している。

 カウンセラー制度の存在は僕もよく知っていて、職員が悩みごとを抱えた場合、最初に相談すべき相手は基本的にカウンセラーということになっている。カウンセラー室は定期的に情報を庁内LANにアップしているし、随時、各税務署を訪問し、職員の相談に応じてもいる。

 職員が悩みごとを抱えてしまうと仕事に集中できないし、事件や事故など不祥事の温床にもなりかねないから、国税当局の人事政策の一環として、カウンセラー制度は合理性の高いものではある。

 ただ、僕はXのことをこの一番身近であるはずのカウンセラーに相談することをためらっていた。それは一度嫌な思いをしたからである。

 今から数年前、僕は管理運営部門という部署で働いていた。国税の組織は縦割り社会であって、個人課税部門、資産課税部門、法人課税部門あるいは徴収部門といった事務系統と呼ばれる縦のラインがある。

 新人は採用時の研修が終わるとその縦のラインのいずれかに配属され、一度配属されてしまうとその事務系統は原則として生涯変わることがない。

 税務職員同士が始めて顔を合わせるとき、あるいはOBと顔を合わせるとき、事務系統はどこですか?あるいは事務系統はどこでしたか?という問いはあいさつ代わりに行われる、普通の質問だ。だから事務系統のことを背番号と呼ぶ人もいる。

 僕は新人研修が終了し、法人課税部門に配属された。その後、僕は二十年以上勤務しているが、基本的に法人畑を歩いていて、「あなたの事務系統はどこですか?」と聞かれたら、「法人です」と答えることになっている。

 数年前に、国税の大幅な組織改編が行われた。それまで税金の出納係を担っていた管理部門に個人、資産、法人各課税部門の申告書の入力や納税者の異動を管理する内部事務を合体させ、新しい部門、管理運営部門を誕生させたのだ。内向きの仕事と調査や滞納処分などの外向きの仕事を完全に分離させ、事務を効率化させようというのが狙いだったようだ。

 初めての試みであるからスタートは大変だった。まず、職員を集めなければならない。管理部門の職員はそのまま残すとして、足りない職員は個人、資産、法人の各事務系統からかき集めることになった。

 各事務系統の職員は管理運営部門への異動を嫌った。賦課を担当する部門としては調査こそが花形である。明らかに傍流の内部担当を希望する職員は子育て中の女性くらいだった。

 僕は建前としては自発的に手を挙げさせられることになった。三年間の期限付きということであり、さらに交流明けには希望が尊重されるという暗黙の了解があったはずだったが、この暗黙の了解は、暗黙の了解ゆえに都合の良いように解釈され、最初からないものとされたようであった。

 管理運営部門に交流して三年後の異動の際、僕には希望する部署があった。そして、僕はそこに異動する資格を有しているはずであった。

 しかし、その時、僕の上にいた管理運営部門担当の副署長は僕の希望に対してノーと言った。期別管理をしているから駄目だというのだ。僕は期別管理という言葉の意味が今でもよく分からないのであるが、要するに特定のポストに就くためには年齢制限があり、僕は歳を取り過ぎているという意味のようであった。

 希望を断念した僕は行き場を失ってしまい、結局、三年の約束を越えて管理運営に居続けることになるのであるが、定期人事異動のときに信じられない出来事が起こった。僕が希望していたポストに僕よりも年長の職員が就いたのだ。しかも、その職員は管理運営が始まるときに管理運営への打診にノーと言い、法人課税部門に残った職員だったのだ。

 後で確認したのだが、そのポストはそもそも期別管理などしていなかった。僕は担当の副署長にあからさまに嘘をつかれたのだ。これは僕の推測なのであるが、管理職としても不人気の管理運営部門に職員をつなぎ留めておく上からのプレッシャーがあったのかもしれない。

 僕は怒り、そのことをカウンセラーに相談した。相談したというよりも、管理運営部門一期生よりも、管理運営部門への出向を拒否し、法人課税部門に残留した職員の希望の方が僕よりも尊重されたことに抗議した。しかし、問題は解決しなかったばかりか、僕はカウンセラーに深く傷つけられることになった。

 僕の応対をしたカウンセラーは、今では田舎の小さい税務署で税務署長をやっているが、僕の悩みをまともに受け止めることはなく、僕のことを我がまま呼ばわりしただけだった。

 僕はカウンセラーに相談してしまったことをとても後悔した。

 

 だからXの問題に直面した時に、本来ならば部内カウンセラーに真っ先に相談すべきだったのだけれども僕は躊躇した。

 それでもカウンセラー室の敷居をまたごうと決心したのは少し前に相模原市のある施設で起こった無差別大量殺人事件の続報に触れたことと、僕が三ヶ月に一度、国税局の診療所を訪れ、血液検査をしなければならないタイミングが重なったからである。

 Xと無差別大量殺人事件を結び付けることは少し大げさかもしれないが、僕がXから感じていた異常さは無差別大量殺人事件の犯人を彷彿させるものだった。

 カウンセラーに対する拒否意識は依然として強くあったけれども、血液検査のついでにカウンセラー室に赴くことにすれば敷居はそんなに高くはない。

 とある平日の午前、診療所の診察を終えた僕は同じフロアにあるカウンセラー室へと向かった。カウンセラー室の前に来ても僕はまだ躊躇していた。最後は中から出てきた僕より年上と思われる女性職員に促されて入室し、明るい応接に案内された。

 しばらく待っていると見るからに再任用と思われるおじさんが現れ、軽く自己紹介して僕の対面に座った。僕も所属の税務署や事務系統、現在やっている仕事など軽く自己紹介した。

「それで、今日はどうされましたか?」

 一通り、お互いの自己紹介が終わると、僕よりも一回りは上だろうと思われる紳士は笑顔で言った。第一印象からその柔らかな物腰が伝わってきた。

「実は職場の人間関係について悩みを抱えてしまいまして、それで相談に伺いました」

「人間関係ですか?」

「はい。実は私の目の前にサイコパスが座っています。サイコパスという言葉はご存知ですか?」

「ええ」

「そのサイコパス、名前はXというんですけど、僕と同じ法人の審理担当で、一年以上前からペアを組まされています。とにかくXはやることが異常で、もう耐えられないと思いまして、上司にも次の異動でどちらかが異動できるように強くお願いしていて、上司もそのことは十分承知してくれていたはずなのですが、今回の異動で二人とも残留してしまいました。次の異動まではと思ってなんとか我慢してきたんですけど、もう限界です。それで、なんとかしていただけないかと思いまして、相談に伺ったのです」

「なるほど。そのXさんが異常ということですけど、何がどう異常なんですか?」

「そうですね。本当に異常なので説明は難しいのですが、例えば電話を取らないとか、自分の哲学に固執してしまって、周囲に合わせることができないとか、周囲とはもちろん納税者ともトラブルを起こすとかそういうことです」

「その人から逃げるとか、相手にしないとかそういうことはできないんですか?職場では口を聞かないとか」

「できればそうしたいです。でも、二人で法人の審理を担当しているのでなかなか難しいです」

「なるほど、法人の審理ですか。その方はあなたよりも年長の方ですか?」

「いいえ。僕より、そうですね一回り以上は若いと思います。正確な年齢は知りませんが、三十は過ぎてます」

「では、あなたの方が大先輩ということですね?」

「職場の経験年数だけではその通りなんですけど、僕も審理の経験はそれほど長くはありません」

「その人の方が審理の経験は長いんですか?」

「いえ、Xはもっと経験が少ないです」

「それで、言っても言うことを聞かないということですね?」

「そうですね。普通の職員であれば先輩の言うことは聞くはずですし、後輩であれば言われなくても雑用をこなしたりするはずです。しかし、Xには何を言っても無駄で、随分前から僕も諦めています」

「諦めているとは?」

「つまり、僕は先輩なわけですから、後輩を育てる責任のようなものを感じていたのですが、そういう感情も今では少なくなってしまったということです」

 そこまで言ったところでさっき、僕をカウンセラー室に押し込んだ恐らくカウンセラーと思われる年配の女性職員がお茶を運んできて、僕とカウンセラーの前に置いた。僕は「ありがとうございます」と一礼し、続けた。

「でも、僕はX本人に各段、恨みがあるわけではありません。悪いのはサイコパスという病気なのであって、病気である以上、それはどうしようもないことなんだと諦めてもいます。もちろん、その態度に一々イライラしたりはしますけど」

「そうですか。…まず最初に一言、申し上げておきたいんですけど、サイコパスという言葉を使うのはやめた方がいいと思います」

 カウンセラーがそう言うのを聞いて、僕は出鼻をくじかれたような気分になり、次の言葉が出るのに少し時間がかかった。カウンセラーに相談して深く傷つけられた過去の記憶が甦った。

 カウンセラーは別に急かすでもなく、僕の次の言葉が出るのを待っている。

「……いや、でも、本当にXは異常なんです。それは理解していただきたいんですけど。今回、僕が敢えてXのことをカウンセラーに相談しようと思ったのも、相談というよりはむしろ情報提供という意味合いです。以前、相模原市のある施設で無差別大量殺人事件が発生しましたよね?」

「ええ、それは存じています」

「あの犯人がサイコパスと呼ばれる者だったかどうかはともかくとして、何らかの精神的な障害を持っていたことは間違いないと思います。まともな精神状態であればあんな事件起こせるはずはありませんから。だから、僕はああいう事件がこの職場では起きることがないように、とにかく危険な情報は提供して総務や人事にも共有してもらいたい、そう思ったから今日、ここに来たんです」

「たとえそうだったとしてもサイコパスという言葉はよくありません。あなたにとってマイナスになるだけです」

 目の前のカウンセラーはさらに僕の言葉を遮ったのであるが、僕は過去に経験したような嫌な気持ちにはならなかった。カウンセラーの物腰の柔らかさがそう感じさせたのだろう。

「どういうことです?」

「つまりですね、サイコパスという言葉の使われ方が本来の意味とは異なった意味合いで使われてしまっているのです。人を貶めるための言葉として。ある人が他の人のことについて『あいつはサイコパスだ』と言うとき、必ずその人に対する悪意がこめられています。それは周囲の人も分かっていますから、だからサイコパスという言葉を使うと、周囲はあなたのことを、人を貶める人間だと評価する危険性があります。だからサイコパスという言葉は使わない方がいいと申し上げているんです」

 それを聞いて僕は一つ大きなため息をついた。確かに上司や同僚を貶めるためだけにこのカウンセラー室を訪れる輩はいるのだろうし、その輩が「サイコパス」という言葉を使うこともあるのだろう。目の前の紳士はそんな職員の愚痴を延々と聞かされているのかもしれない。

「…一つ聴いていただきたいことがあるのですが」

 一呼吸置いてから僕は続けた。

「なんでしょう?」

「僕はもっと早くこの問題についてカウンセラーに相談するべきだと思っていました。僕の話をとにかく聴いてもらいたいと。でも躊躇していたんです。相談することを。なぜだか分かりますか?」

「敷居が高かったとかですか?」

「それもありますけど、根本的な理由は以前、嫌な思いをしたことがあるからです」

「嫌な思い?」

「そうです。何年か前に僕はある悩みを抱えてしまって、それで巡回相談の際に署に来たカウンセラーに相談したことがあるんです。女性の方でしたけど、その時は何も解決しなくて、…何も解決しないばかりか、ただ余計に傷つけられただけでした。僕が我がままだと言われまして」

「…それは申し訳ありませんでした。何を相談されたのですか?」

 カウンセラーが慌てた口調で言った。

「つまらないことと言われればつまらないことです。人事の不満です。僕は管理運営一期生です。三年間の期限付きで法人から交流していました。当時のことを思い出していただければお分かりになるかと思いますが、決して喜び勇んで行ったわけではありません。他になり手がいないということで、形式上は自分から手を挙げたことになってますけど、それは副署長に説得されたからで、本当は不承不承の異動です。三年間の期限付きで、三年後には我がままを言ってもいいという約束だったはずです。それで三年目の異動の際に、僕は源泉事務センターを希望したんです。ご存知ですよね?源泉事務センター」

「詳しくは承知しておりませんが、各署の源泉事務を集中して行う部署だということは分かります」

 カウンセラーは少し首をひねりながら言った。

「……それで、管理運営一期生の希望は叶えるという約束で、僕も統括官にしろとか無茶を言った訳でもありません。でも、期別管理をしているということで希望を変えるよう上から言われ、結果としてさらに二年、僕は管理運営に残ることになりました。でも後から分かったことなんですが、期別管理なんかしていなかったのです。僕はあからさまに嘘をつかれたんです。そのことで僕はなんとかしてほしいとカウンセラーに相談しました。でも我がままだと言われただけでした」

「そうでしたか。しかし、申し訳ありませんけど、我々には人事に関する権限はありません。さらに傷つけてしまったことは申し訳なく思いますけど、だからといって一度決まってしまった人事をひっくり返すような力は我々には与えられていないのです。それはどうかご理解ください。その代わり、あなたの承諾を得て、あなたのお話をQ税務署の幹部や人事課に伝えることはできます。それが精一杯です」

「では何のためのカウンセラー制度ですか?」

 目の前の紳士には申し訳なかったが、僕は不機嫌な口調で言った。

「お話を聴くことによって、問題は解決しなくても気持ちは楽になるとか、そういうことはあります。そういう精神的なフォローはできると思っています」

「何ができるんですか?」

「ですからお話をお伺いすることです。私はもうカウンセラー歴は何年にもなりますけど、あなたのような職員の話を聴くのは初めてではありません。色々な方の悩みを聴いてきています。あなたと同じように、サイコパスとは言いませんが、おかしな人と一緒に仕事をさせられていて悩んでいるというお話ももう何回も聴かされました」

「何と答えているんですか?何か解決する方法はあるんですか?」

「その前に一つお聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

「何でしょう?」

 カウンセラーは別の方向に舵を切ったようだった。

「実はもっと大きな悩みが、あるいは悩みではなく、不満と言った方が適切かもしれませんが、もっと大きな職場に対する不平不満があるのかを確認させていただきたいのです」

「どういうことでしょう?」

「今回のこの問題、実はもっと大きな問題が裏に隠れているのではないかと思うんです」

「もっと大きな問題?」

「そうです。もっと大きな問題です」

「どういうことですか?」

 僕はカウンセラーの真意が分からず首をひねった。

「つまりですね、今回の、そのXさんのことはきっかけに過ぎないということです」

「きっかけ?」

「そうです。実はあなたはこれまでの二十数年に及ぶうちの組織での生活の中で随分と不平不満を貯めてこられたのではないでしょうか?ということです。これまでは我慢してきたかもしれませんが、その不平不満がXさんと勤務することによって耐えられなくなり、爆発してしまった。すなわちリミッターを越えてしまったということです」

「……そうかもしれません」

「管理運営に不本意ながら交流されたこともそうでしょうけど、他にも何かあるのではないですか?誰にも話せないようなうちの組織に対する根本的な不満が」

「そうですね」

「よろしかったらお聴かせ願えませんか。もちろん無理にとは申しません。しかし、何か心につかえているものがあるのであれば、それを吐き出すことによって、問題は解決しなくても気分的には幾分楽になるということはありますから」

「そうかもしれませんね。…組織に対する不満、実はあります。…これは、今まで誰にも言ってこなかったことなんですけど…」

「はい」

「僕は、実は国家公務員採用Ⅰ種試験に合格しているんです。Ⅰ種試験、今は総合職というのだと思いますけど」

「キャリアの試験ですね?」

「そう言った方が分かりやすいかもしれません」

「キャリアには採用されなかったということですか?それでノンキャリとしてうちに来たと」

「採用されなかったことはそのとおりなのですが、話はもう少し複雑です。僕がⅠ種試験に合格したのはこの世界に入ってからです。学生時代にも受けましたけど、そのときは不合格でした」

「転職を考えていたのですか?」

「違います。この世界で生きていこうと思ったからⅠ種試験にチャレンジしたんです。僕はこの世界に入るまでキャリアとノンキャリにここまで差があるとは思ってはいませんでした。ノンキャリのゴールが税務署長でそこに辿りつくのも至難の業だということも。まあ、研究不足と言われてしまえばそれまでですが、それにしてもそんなこと外からは分かりませんよね」

「それでⅠ種試験にチャレンジを?」

「上司や先輩に文句を言ったんです。というより僕は不思議でした。キャリアとノンキャリ、そんなに実力差があるわけではないのに異常なほど差を付けられて、それに対してなんにも疑問を抱かず、平気でいられる上司や先輩が不思議だったんです。そうしたら文句があるならⅠ種試験に合格してみろと、合格したらキャリアにしてやるよと、そういうことを言われたんです」

「それで、火がついてしまったということですか?」

「ただ煽られただけであれば受験してやろうとまでは思わなかったかもしれません」

「何かあったんですか?」

「国税専門官として採用されて、最初の三ヶ月に基礎研がありますよね?」

「専門官基礎研修ですね?」

「そうです。その専門官基礎研修で、当然のことながら僕は民法や商法を勉強することになりました。僕は、大学は経営学部でどちらかというと会計学を専門に勉強していました。それがここの試験を受けるきっかけにもなったのですけど、大学時代は、法律は一切勉強していませんでした。むしろ、法解釈学という学問領域をバカにしていたくらいです。人が作ったルールになんでそんなに囚われなきゃいけないんだろう。そんなの作った人に聞けばいいじゃないかとそんな風に考えていたんです」

「なるほど」

「しかし、専門の先生から教えてもらうと、法解釈学の奥の深さというものを感じるようになりまして、この学問領域が実は自分に合っているんじゃないかと思うようになってきたんです」

「ほう」

「それで、僕は資格マニアみたいなところもあったもんですから、腕試しのつもりで、あるいは単に話題作りのために、司法試験を受けに行ったんですね」

「司法試験をですか?」

「そうです。司法試験です。もちろんほとんど勉強していませんから、あえなく短答式で落ちてしまうんですけど、成績が開示されて総合判定でAを取ることができたんです。Aというと不合格ですけど、合格点からは二点以内ということでしたので、それで僕は勘違いをしてしまうんです。ほとんど勉強しないでそこまで行けましたから、これは本格的に勉強したら割と簡単に司法試験にも合格してしまうなあと」

「それでⅠ種試験の勉強も始めたということですか?」

「学生の頃もⅠ種試験を受けましたけど、当たり前のように不合格でした。もっとも当時の僕は絶対に合格してやろうという意識はなく、専門の予備校とかに通っていたわけでもありません。無料で受けられるから受けに行ったようなものでした。その時は経済職の試験を受けに行って、マクロ経済とか、特に景気循環とかがよく分からなくて、これじゃあ合格できなくて当然と思っていたのですが、司法試験の短答式合格まであと一歩があまりにも簡単に実現できたんで、同じⅠ種試験でも、経済職じゃなくて法律職なら行けるんじゃないかと、これまた勘違いしてしまうわけです。しかし、今振り返るとほとんど勉強しないで短答式でAが取れたのはビギナーズラックで、短答式に合格して、論文式試験に進むこと自体、三年を要してしまうんですけどね」

「でもⅠ種試験には合格したんですね?」

「司法試験はそれから八年受け続けましたけど、合格には至りませんでした。でもⅠ種試験は、一年目は駄目でしたけど、二年目に合格することができました。本当に勉強しましたから。入庁して三年目でした。うれしかったです。これでキャリアになれると本気で思いましたから」

「そうですか」

「でもそれは後から考えると恥ずかしいくらいのぬか喜びでした。国税庁の人事課に面接に行きました。そんな約束はしていないと言われました。それはそうですよね。後から考えるとそれは僕の周囲にいる人たちの無責任な発言だったんですから。Ⅰ種試験の有効期間は三年間です。僕は三年間、キャリア採用を待ちました。でも、順番は回って来ませんでした。それで三年後にまたⅠ種試験を受けてもう一度合格しました。それからまた三年間採用を待ちましたけど、結局、僕がキャリアになることはありませんでした」

「それは残念でしたね。でも、それだけの実力があればノンキャリの星としての道を歩むこともできたんではないですか?」

「そうかもしれませんけど、一度階段を踏み外してしまうとどうしようもないですね。普通にノンキャリとしての道を歩んでいればこんなに悩むこともなく、すべてのことを素直に受け入れることができたのかもしれませんけど、一度普通の道から外れてしまうと修正は難しいです。一緒にⅠ種試験に合格し、キャリアで僕の同期となるはずだった人達はもう国税局の部長クラスです。でも僕はヒラ上席のまま。それは僕がたまたま努力していなかったからそういう結果になったのではなくて、ものすごく努力していてもせいぜい税務署の副署長といったところでしょう。それも僕の同期は八百人以上いますけど、数人程度です。キャリアの人達がものすごく優秀だというならばそれだけの差を付けられることも分かりますけど、そんなに実力に差があるわけじゃない。それなのになんでこんなに差別されるのか、僕の頭では理解できません。そういう状況では、ノンキャリの星と言われてもどっちらけです」

 こんどはカウンセラーが大きなため息をついた。そのため息を僕は僕に対する同情と受け取った。

「お話は大体わかりました。よろしかったら、私の話も少し聴いていただいてよろしいでしょうか?」

 カウンセラーはゆっくりと柔らかい物腰で言った。

「どういうことでしょう?」

「私もあなたと同じような経験をしているのです。ですから少し参考になればと」

「はい」

「昔、税務職員を引退すると税理士の顧問先を斡旋してくれる制度があったことはご存知ですよね」

「ええ」

「税務署長とか、副署長や特官でもそうでしたけど、指定官職で引退すると、人事当局が顧問先を斡旋してくれました。それで引退後は税理士となって、スムーズに税理士事務所を開業することができました」

「はい」

「しかし、その制度は私が引退する直前になくなってしまったんです」

「そうでしたか」

「なくなった理由はそういった制度がおかしいから、公務員だけを優遇するのはおかしいから、そういったことです。もちろんその理由は確かにそのとおりで、説得力のあるものです。私にも理解できます。もし、一国民の立場であるならば私も同じことを考えると思いますから。でもね、でも何か間違っていると思いませんか?私が若い頃は先輩から税務署長になれば後は顧問先を斡旋してもらえて左うちわで悠々自適に生活を送ることができる。だから頑張れとずっと言われてきたんです。だから、頑張りました。それこそ家庭も顧みずに頑張りましたし、先輩との嫌な酒にも付き合ってきましたよ。それで、私は税務署長になることができました。でも斡旋はなくなり、行き場を失った私は再任用として引き続き国税の組織の厄介になることになり、今はカウンセラーとしてこうして後輩たちの相談に応じる毎日を送っています」

「なるほど、僕の経験と似ているということですね。組織に裏切られたという意味では」

「私は別に裏切られたとは思ってはいません。ただ、あなたと同じで運に恵まれなかっただけです」

「悔しくはないんですか?後出しじゃんけんに負けたわけですよね?」

「もちろん悔しくないと言ったら嘘になるかもしれません。でも、悔しがるよりも私はもっと別のことを考えるようにしています」

「別のこと?」

「ストックディールの逆説という言葉をご存知ですか?」

「…いいえ。存じませんが」

「では、ジェームス・ボンド・ストックディールはご存知ですか?」

 ジェームス・ボンドと言われても僕には〇〇七の主人公しか思い浮かばない。

「〇〇七ですか?」

 僕が言うと目の前の紳士は少し微笑んで、軽く首を振った。

「ジェームス・ボンド・ストックディールは、ジェームス・ボンドを名乗ってはいますが、スパイ映画の主人公ではなく、アメリカの軍人です。ベトナム戦争に従軍し、ベトナムの捕虜となり、長期間に渡り拷問を受けることになります」

「はあ」

「その後、ストックディールは捕虜生活を生き長らえ、終戦後帰国し、英雄として迎えられるのですが、その絶望的な時間をストックディールがどのように生き抜いたのかという点が注目されます。なぜ注目されたかというと、ストックディールは明日、殺されるかもしれないという絶望的なその時間をとてもポジティブに生きていたということが分かったからです」

「ポジティブにとはどういうことですか?」

「もう駄目だとか、なぜ自分だけがこんなに辛い思いをしなければならないのかといったマイナス思考、後ろ向きの考えではなく、将来、今の自分を振り返って、あの時のあの経験があるからこそ、今の自分があるんだと考えるようになれると受け止めていったことです。あなたも今は辛いかもしれませんが、今の経験は将来のあなたをきっと支えてくれるんだと思います」

 それを聞いて僕は暗い表情をみせた。

「だから僕にも我慢しろと、そうおっしゃりたいのですか?我慢できないのは僕の我ままであると」

「そうではありません。ただ、一つお勧めしたいことがあります」

「勧めたいこと?」

「簿記は得意ですよね?」

「まあ、その辺を歩いている人よりは詳しいと思いますが」

「あなたは法人の審理を担当されているのですから、その辺を歩いている人よりも詳しいというレベルではないですよね?税務職員の中でも相当詳しい方だと思いますが」

「…今のは謙遜です。おっしゃるとおりです。審理の経験は浅いですけど、税理士試験に合格できるくらいの実力はありますし、実務でも鍛えてますから、簿記の実力は学者レベルといっても大袈裟ではないかもしれません」

「そうですよね?それで、自分の貸借対照表を作ってみてほしいのです」

 貸借対照表は損益計算書と並ぶ決算書類の一つで、資産と負債を一覧にした財産目録のようなものだ。

「財産の棚卸ということですか?」

「いいえ、財産だけではありません。もちろん財産もその中に入ってきますし、重要な部分を構成するとは思いますが、それだけではありません。言ってみればあなたのこれまでの人生の貸借対照表です」

「どういうことでしょう?」

 僕はカウンセラーの真意をつかみかね、もう一度首をひねった。

「今回のことや管理運営のこと、あるいはⅠ種試験のことはあなたの人生にとって負の財産ですよね?」

「もちろんです。黒歴史です」

「しかし、それだけではないはずです。なかなか自分では気付けないかもしれませんが、あなたの人生、プラスの財産もあるはずです。例えば、失礼ですがご家族はいらっしゃいますか?」

「妻と子どもがいますが」

「病気をされていたりしますか?」

「幸い、みんな健康体です」

「それは素晴らしい。文句なくプラスの財産ですね。あなた自身はどうでしょう?健康ですか?」

「僕は、自覚症状はないのですが、持病を宣告されていて、指導区分も受けていて、クスリも飲んでいて、三ヶ月に一度、そこの診療所の血液検査を受けなければならなくて、今日もそこで血を抜いてきたばかりなんですが、それでも今すぐ命に関わるような大きな病気ではありません」

 僕は診療所の方向を指さして言った。

「おおむね健康ということですね?それならそれも大きなプラスの財産です。親御さんはいかがですか?」

「父は随分前からいません。僕が学生の頃に亡くなりましたから。母は認知症が進んでいて、要介護認定も受けてはいますが、今は介護施設のお世話になっていて、安定していると言ってもいいかもしれません」

「ご家族が安泰なのもプラスの財産ですよね。職場は今、辛いことがあるかもしれませんけど、失業しているわけではない。今の世の中、あなたくらいの年齢で勤務先の経営が成り立たなくなったり、自身が病気になったりして職を失ってしまう、それで家族が路頭に迷ってしまうということも稀ではありません。お住まいは官舎ですか?」

「いいえ、持ち家です。ローンはまだ残っていますけど、それももうすぐ終わります。確かにそう言われると僕の貸借対照表には未処分利益が計上されるのだと思います」

「良かったじゃないですか」

「でも今、目の前にある問題は解決しません」

「もっと長い目で見てください。先ほどの話に戻りますが、OB税理士の斡旋がなくなるという話を初めて聞いた時、私は漠然と退職後の生活をどうしようか考え始めた頃でしたが、とても衝撃を受けました。このまま病気になってしまうのではないかと思うくらい悩みました。でも、結局、私はそうやって、自分の貸借対照表を作成することによって気持ちをコントロールしてきたんです」

「……僕は今の状況をやり過ごすしかないのでしょうか?」

「今、いいことを言いましたね?」

「はあ?」

「やり過ごすとおっしゃいましたね?」

「はい」

「やり過ごすという気持ちはとても大切だと思います。結局、時間は過ぎ去っていきます。今、大変お辛い立場にいらっしゃるかもしれませんが、すぐに過去になりますよ。そして未来はいっぱいいいことがあります」

 この人は本当に署長の経験があるのだろうかと思わせるくらい、腰の低い、物腰の柔らかい言葉だった。僕の中に素直な感情が湧き上がってくる。

「次の異動まで我慢しろということですか?」

 僕は少し冷静になって言った。

「むしろこんな経験はそうそう味わえないと、これからの生活の肥やしになると、もっと積極的に受け止めてください」

「辛いですね」

「もちろん、さっきも申し上げましたが、お望みであれば、今日、ここでお伺いしたことをQ税務署の幹部や人事課に情報として提供することは可能です。こういう職員がこういう悩みを抱えて相談に来たと。そしてしかるべき対応をとってもらいます。もちろん内緒にしておきたいというのであれば秘密は厳守します。どうされますか?情報提供を希望されますか?」

「もちろんです。どうぞよろしくお願いします」

 僕はそう言ってカウンセラーに頭を下げた。そんな僕をカウンセラーは笑顔で受け止めてくれた。

内に秘めていたものを吐き出したからか、心なしか気持ちが楽になったような気がしていた。確かに人生で大切なものは健康と家庭円満であり、今の僕にはその二つがある。

 こんな風に思えるのは久し振りだった。

 もっと早くカウンセラー室を訪れれば良かった。

 

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