気持ち悪い男の話です。
夢を見た。ずっと昔の、高校三年生の六月。湿気が体中にへばりついて、今にも大雨が降り出しそうな暗い午後二時。ぼくらは喫茶店で向かい合っていた。
別れよう、と言った彼女の表情は疲れ切っていた。ぼくを睨むような眼は、付き合い始めた頃とはまるで別人のようだった。優しげで花が開いたような笑顔や、綺麗なアーモンドアイも今ではぼくを恨んでいるみたいに鋭く、棘を孕んでいる。そうさせてしまったのは他の誰でもないぼくで、彼女がぼくを恨んでいるというのも大凡間違いではないはずだった。
ぼくは静かに頷いた。うんとも、すんとも言わずにただ首を
ぼくは彼女に酷い迷惑を掛け続けた。そのせいで愛想を尽かされたのだ。別れを告げられた理由はそれ以外に思い付かなくて、浮気したとか、そういうことではなく。簡単に言えば何度も死のうとしたり、ぼくが生きる意思に乏しい言動や行動を多くしていたから。
多くのことに折り合いを上手く付けられず、生き辛く、半ば諦めていた。それは家族との間であったり、進路や将来のことでもあり、出所不明の得体の知れない不安や当時のぼくが抱えていたコンプレックス。ぼくを詰って、俯かせ言葉を失わせるには充分な要素で、それらの悩みを打ち明けることも相談することもぼくには出来なかった。ずっと苦しくて、それでも笑う日々が何度も繰り返され、自分の中で確実に芯を入れらていた筈の物が衰弱して萎む感覚を覚えた。
初めて自傷をしたのは高校一年生の五月だった。剃刀で腕を切った。ガードのない剃刀は軽く刃先を当てて引くだけで簡単に皮膚を切ることが出来る。じんわりと浮かんでくる血と、冷たさから、ひりつき、熱さ、痛さへと変わる感覚。自宅で母親と口論になり、部屋に篭ったぼくは発作的に腕を切った。平行線の言葉のやり取り、すべからくを否定され茹だった頭を静かにその感覚が冷やしていく。馬鹿は死ななければ治らない。どう死ねば治るのか、ぼくには検討もつかなかった。老衰や衰弱じゃきっと駄目で、苦しまなくちゃ治らないのかもしれない。流れる血を見て、そこに悪い物があればいいのになあと当時のぼくは思いながら泣いていた。その時期のぼくは周囲の大人たちから強い言葉を投げられることが多かった。朝、目が覚める度にその日一日で襲来する言葉たちに恐怖し、二度と目覚めが来ないことを何度も祈っていた。
アムカ、リスカ、レグカと一通りやったことはあるけれど、あんまり目立つところにはやりたくなかったから身体を切ったこともあった。
彼女と出会ったのは高校二年の夏休みだった。ぼくはその直前に友人を一人失っていた。少ない友人の一人だったが、彼はぼくを突然親の仇みたいに嫌い、憎んで、胸ぐらを掴んで二度と話しかけるな、顔も見たくないとぼくを投げ飛ばした。ぼくには心当たりが全くなくて、周囲に事情を聴こうにもぼくに教えてくれる人間は一人としていなかった。全員がぼくを非難していた。その時、ふと死が脳裏に過った。
爪弾きにされたぼくは部室に入り浸るようになって、そこで彼女と知り合った。一つ歳下の彼女は部員ではなかったけれど部員の友人を伝手にしていつの間にかいるようになっていた。ぼくは幽霊部員も同然だったから彼女にどうこう言うことはなかったし、それなりに会話をする程度の仲ではあったけれど深く関わることはなかった。それでも、何の蟠りもなく会話出来る相手にぼくは有り難みさえ感じていた。
距離が縮まったのは偶然にも帰りの電車が同じだったことで、電車の中で話すようになり、やがて一緒に帰るようになった。
彼女はよく笑う子だった。元気が取り柄のような活発な性格で、ぼくみたいに年中顔色が悪いこともなくて辛いこととは無縁のような、ぼくのような存在とは対極にいるはずの人間だった。その代わり、少しだけ頭が抜けていた。
そうして秋が深まる頃にぼくは彼女に駅の改札で告白された。ぼくはそれを愛想笑いで承諾して、彼女の手を握った。細くしなやかで、少しだけ冷たい女の子の手。それを握ったぼくの手、その少し上には黒ずんだ薄茶の滲みが蛇腹みたいに並んでいた。
ぼくは彼女の手を取るべきではなかった。それだけは必ず正しいことだと言える筈だ。当時のぼくには人を好きになることがどういうことなのか理解出来ていなかった──今でも理解出来ているわけではないけれど、少しは物分かりは良くなっている──。彼女がどれだけ本気だったかは分からないが、ぼくは断れば何だか気まずい程度に思って了承した。それが苦しみの始まりでもあった。
その時期を境にぼくを取り巻く状況は悪化していった。親との関係は更に冷え込み、担任とも上手くいかなくなった。元友人やクラスメイトたちとは言わずもがなで、何より自分へのコンプレックスが肥大化するばかりで自分の顔も声も性格も何もかもが嫌いで仕方がなかった。そんなぼくを好きだと言ってどこに惹かれたとか言う彼女のことも初めは頓珍漢な奴だと思っていた。
ぼくは彼女のことを好きになろうと努力した。彼女のいいところを思い浮かべてそれがぼくを除いた多くの人間にとって好ましく思えることなんだと考えて褒めて、笑って、好きであろうとした。けれど、ぼくはいつまで経っても彼女を好きにはなれなかった。
冬になってぼくは首吊りを試みた。結果的には失敗した。部屋のカーテンレールに紐を吊るして首を絞めたがカーテンレールごと身体が落ちた。カーテンレールが如何に痩せていると言っても人間の体重を支えきれるわけがない。考えれば上手くいく筈もないと分かるのに、無駄骨を折った。それでもぼくの知らないところで何かが進んで、ぼくが苦しむだけならこの場所から消えてしまいたいと思い、それを留めることは出来なかった。ぼくに向けられるクラスメイトと元友人の視線は冷ややかさを増していた。ぼくはぼくの預かり知らぬところで酷い悪者にされているようだった。
まだ小さかった頃に見てしまったぼくが原因の両親の壮絶な喧嘩、ぼくのせいで起こった小学生の頃の友人同士の喧嘩──片方は全治半年の大怪我を負った──、中学生の頃は人間の振るう悪辣と暴力の快感に味を占めた姿を見て、今度はこれ。
首についた痣に彼女は驚いて何度も首筋を触りながら心配してくれた。涙を浮かべながら、誰かにやられたのかと訊いてきた。ぼくはまさか自分でやっただなんて言えないから寝ている時にイヤホンが首に締まったんだ、とみっともない嘘をついた。彼女はぼくの傷だらけの手首を握っていた。ぼくは彼女に何も伝えていなかった。いつも彼女の話をぼくが喫茶店で聴く、それがぼくらのデートだった。
「何かあったらわたしにも言って欲しい。力になれるとは言えないけれど、でも誰かに言うのって大事なんだと思うから……」
彼女はぼくがクラスメイトたちからどう見られているか知っている筈だった。
「おれが言うことなんて誰も聴いてくれないよ」
「わたしは信じるよ」
「信じるだけでしょ」
「信じるだけだけど、誰も信じないよりは悲しくないよ。絶対」
彼女は最後はどうであってもぼくを信じてくれて、否定することはなかった。辛い思いをさせても傍にいてくれた。それを結局全て不意にしたのはぼくだったのだけれど。
ぼくは彼女に本当に身勝手極まりない悪意を向けていた。彼女は付き合った当初から前向きな言葉を多く口にしていた。ぼくはそれらの言葉が嫌いだった。明日はきっといい日になるとか、次がある、気にしないだとか、何の確証があって明日がいい日になると思ってるんだよって具合に心中でせせら笑っていた。彼女の両親がぼくという彼氏の存在を知っていることを知った時、それを彼女が嬉々として両親に教えたことを知った時、ぼくは血の気が失せた。親、両親。それらはぼくにとって何よりも嫌なことを連想させるものだった。しかし、それ以上にぼくは他所様の家庭というものが大嫌いだった。円満で団欒を謳歌する満たされ、欠陥を抱えない家庭にあろうことか彼女の両親はぼくを連れてこいと言ったようで。ぼくはどうにかしてそれを有耶無耶にして、逃げ続けた。そんな所に引っ張り出されたくはなかった。惨めさを、希死念慮をこれ以上煽らないで欲しかった。会ったこともない大人に、知りもしないくせにぼくのことを値踏みして、また知らないところでぼくはぼくの価値を決められる。それが酷いものだったとしたら?お母さんはあぁいう子は良くないと思うの、あんな男やめなさい、なんて。
幸せが憎かった。
母はぼくが辛い時にあなたよりも辛い人はたくさんいる、と言った。アフリカの恵まれない子供たちの話をした。今辛い思いをするのと、数年後笑うのでどっちが幸せかぼくの肩を強く掴んで迫った。数年後のぼくは幸せではなかったし、ぼくの他の辛い人のことなんて知った話ではなくて、アフリカと日本じゃ何もかもが違う。ぼくは泣きたくて、励まして欲しくて、助けて欲しかっただけだった。話を聴いて、優しくして欲しかった。ぼくは、ぼくなりに頑張って、挫けて。そして手を取って貰いたかったのに蹴っ飛ばされた。
父が嫌いだ。ぼくの身体には父の遺伝子が半分刻まれている。母は事あるごとにその血が悪い、とぼくを怒鳴る。ぼくの悪いところは父譲りらしい。ぼくの父は最低の男で、救いようのない男であると道徳に照らしても言い切れる。そんな男とくっついてぼくを産んだのは貴方なのに、ぼくはセックスの結果でしかないのに当たられて、貴方の復讐ですらない癇癪の道具にされている。そんな今の元凶になった父が嫌いだ。
こういう両親から産まれたぼくは円満な家庭に住まう人々から見ればきっと歪に見えるに違いない。土日のスーパーに小さな子供を連れて買い出しに来る若い夫婦を見て、ぼくは彼らの幸せがどれだけ続くのだろうかと邪推する。互いに愛し合っているように見えても不満や、それにすら満たない些細なものたちは積み重なる。それがいつか彼らを分かつ。誰かと共にあるということは互いに学び合い、尊重し合い、許し合い、そして最後には互いを憎み合って破綻する。子供を育てるにも金がかかるわけで、その資金には裁判所で行われるお行儀良く仕立て上げた泥沼の口喧嘩で散った彼らの唾がかかっている。ぼくの隣で袋詰めをする彼らがそうならないとは言い切れない。幸せなんてものはいつどんな風に消えてなくなるとも限らないもので、凡そ人生では幸せなことよりも不幸せな時間の方が多い。
手を包むようにして握る彼女にぼくは笑うことをやめた。
雑木林の中で首を吊った。手頃な木の枝にロープを括り、首を通した。体重が掛かった瞬間すぐに意識が遠退いた。これまでで最も強く死が目前に迫り、鼻先に触れた。そして、おかしな浮遊感の後にぼくは地面に背中から落ちた。何が起きたのか分からなくなってしばらく呆然として、身体中を触って自分がまだ生きていることを確かめた。太く空へと生える枝は中が腐っていた。ぼくはまた死ねなかった。そう気付いた時、情けなさと同時にそれを上回る恐怖がぼくを飲んだ。真夜中の雑木林で気が狂ったみたいに泣いて、笑って、何かから逃げるみたいに走って帰った。
明け方頃に家の近くにある公園に差し掛かると彼女がブランコに腰掛けていた。ぼくを見つけると駆け寄って来て力一杯にぼくを抱き締めた。泣いている彼女をぼくは抱き締めた。そんなつもりはなかったのに、腕はゆっくりと彼女の背と腰を引き寄せた。
「また、死ねなかったんだ」
ビンタされた。人生で一番痛いビンタだった。そしてもう一度抱き締められた。彼女はずっと泣いたままで、何も言ってくれなかった。
四回にわたって試みた自殺は全て失敗した。消えてしまいたいと思いながらも、本気で死ぬ勇気もなく、いざという場面で毎度何某かで死ねない。ぼくも彼女も疲れていた。
泣き止んだ彼女はぼくの落ち葉と土まみれの髪を払って、
「もうさ、君が死にたくても、消えちゃいたくてもいいよ。悲しいけど、わたしじゃたぶん止められないんだと思う。でも、もうそれでいいよ。わたしは君が大好きなの。おかしいよね、こんな人だとは思わなかったし、いつもいつもわたしが泣くようなことばっかりしてるのに、わたしは君が大好きなんだ。けどね、ほんの少しだけでいいからさ。思い出を作らせて欲しいな……。君がもしいなくなっちゃった時に、君のことを思い出せるように……」
まだ少し涙を浮かべた彼女に頬を撫でられたぼくは、彼女の頬に手を添えてキスをした。静かな朝から何もかも音が消えてしまって、頭の中で溶けてはいけないものが
いなくなってしまいたい気持ちに変わりはなく、悲しいことは何一つとして片づいちゃいない。けれど、ぼくは確かにその瞬間彼女のことが好きだった。
ぼくは彼女に恋をした。
けれど、ぼくが今さら彼女のことを好きになったところでぼくらに何か変化があったわけではなくて、ぼくは相も変わらずクラスから弾かれて、彼女は誰からも好かれるような人で、喫茶店でその日一日あったことを互いに話す毎日が続いた。早く死ねたらいいのにな、と言えば彼女は一緒のお墓に入りたいと言うからぼくは発想がキショいと言って彼女が怒ったり。喫茶店を出て日が暮れた街で彼女の冷たい手をぼくのカーディガンのポケットに突っ込みながら駅に向かって、彼女が言う今日も頑張って生きたねという言葉でぼくは夜を越えるためのこころの強さを補給していた。
──彼女と別れてから随分と後の話になるけれど、当時付き合っていた女の子にぼくは幸せなことには鈍感なくせに悲しいことには人一倍敏感なんだね、と言われた。貴方が俯いて生きる何気ない生活の中にも幸せがたくさん潜み溢れている。貴方はそれに気がついていないだけだ、と。
隣の芝は青く見える。近くで見て、感じて、自分にもそれが手に入ると思ってしまえば余計に綺麗に見えて手を伸ばしたくなる。
春先に、街で彼女が男と歩いているところを見た。後日、学校で見かけた時にシューズの色から彼女と同じ学年だと分かった。爽やかな男だった。育ちの良さが見える歯並びの良さと歯の白さ。短く揃えた前髪を上げて、嫌味にならない程度にワックスで整えた髪型。どんな相手にも悪い印象を与えないような精悍な顔立ちと凛々しい眉、少し垂れた眼。彼と話しながら歩く彼女はとても楽しそうで、随分と見ていなかった心の底から笑っている彼女の顔をぼくはただ呆けて見ているだけだった。
八重歯を隠そうともしないで、すっかり大きく口を開けて君は笑っていた。目尻に涙を浮かべるぐらいに大笑いして、本当に楽しそうだった。ぼくと一緒にいる時にはそんな顔は絶対にしない。いつも優しげに微笑んでいるだけで、冗談を言ってもそんな笑い方はしない。
男の冗談に笑って、腕を叩いて、男がそれに返すようにじゃれついて、彼女も一緒になって巫山戯ていた。
その頃から少しずつ彼女とぼくの間には決定的な溝が出来ていった。彼女は少しずつ余所余所しくなって、ぼくは彼女と距離を取るようになっていった。会って話しても話題は続かず、彼女はずっとLINEを見ていた。
本当に酷い話だと思う。自分のやっていることに自分でもどう嘲っていいのか分からなくなってしまう。あんまりに都合が良すぎる。
きっと、ぼくの想像なんかアテにならないぐらい彼女は辛かっただろう。何度も怖い思いをしただろうし、両親からも色々と言われていただろう。安っぽい言い方だけれど、疲れ切った筈だし、もっと何も考えずに誰かと付き合って笑い合いたいと思っていたと思う。こんな何度も死のうとしたり、いつも誰かに迷惑をかけてばかりの不出来な人間と一緒にいるよりはずっといい。
ふと、一人で彼女と話す喫茶店でコーヒーを飲んでいる時に気がついた。ぼくは幸せだったのだ、と。死にたくても、何度その気もないのに自殺未遂したって、息をすることが苦しくて毎日訪れる日の出を睨み付けても、彼女がそばにいてくれる時、確かにぼくは不安の中でもこの先の未来をどうにかなると悲観せずにいられた。胸の奥、鳩尾が熱くなって、涙が溢れて頬を落ちた。もう、その幸せは二度と戻ることはないことが
初めはあんなに彼女のことを邪険に思っていたのに、この期に及んでぼくは彼女とこれからも一緒にいたいと思っていた。本当に気持ち悪くて、酷い話だ。たぶん、罰が下ったのだろう。彼女を苦しめてきた罰だ。そう思っていないと歩くことが出来なくなりそうで、充血した眼を見られたくなくて俯きながら会計を済ませて店を出た所でぼくの記憶を少しだけ途切れている。次に眼を覚ましたのは病院のベッドの上だった。今度こそぼくは本当に死にかけた。居眠り運転をしたトラックが歩道に進入してきて、喫茶店に突っ込んだらしい。ぼくはそれに巻き込まれたらしいが、医者が言うにはもう少しだけ当たりどころが悪ければ死んでいたという。そのまま死んでしまえたならどんなに良かったか。
彼女は見舞いには来なかった。今頃はあの男と楽しくやっているのかもしれない。そう考えながらリハビリに励んだ。
母からは小言を言われ、見舞いに来る友人はおらず、長く闘病生活を送っているという男と知り合った。助かる見込みは高くないらしい。彼とはそれなりに仲良くなったけれど、ある日突然死んでしまった。彼の死を嘆き悲しむ声が病院いっぱいに響いた。彼の母や友人が病室から溢れるように集まり、みんな泣いていた。誰かに正当に悲しんでもらえること、惜しんでくれること、側にいてくれること。それらが羨ましく思えた。彼にとってはなんでもないことだったのだろうけれど、ぼくにはもうないもので、いつの間にか無くなっていたものだったから。
彼には二つ上の恋人がいた。毎日見舞いに来てくれていて、何度かぼくも話したことがあった。彼と話す時、彼女の話題になったことがあった。いい彼女さんだね、と言うと彼は恥ずかしそうに笑った後に少しだけ浮かない顔をした。
「俺は、まぁさ、たぶん本当に近いうちに死んじゃうんだよ。医者はなんか頑張ってるみたいで、一応この先も生きられる芽が出てきたらしいんだけどさぁ。それはありがたい話だし、すげぇいいことだって分かるけどたまに思うんだ。でもさ、俺、あの人にすごい迷惑掛けながら生きている。あの人、美人だろ?美人なだけじゃなくて俺と違って頭も良いんだ。だから、めちゃモテる。俺なんかがいなけりゃもっと良いやつ捕まえてる。俺に縛られてるんだよ。俺があの人のでっかい物を少しずつ奪ってる。そこまでしてさ、あの人の幸せを損なってまで生きてたくねぇんだわ。あの人は優しいんだ。だから、こんなこと言うと絶対怒る。ブチギレるだろうけど、でも、俺が死んだ後に俺といた時よりもハッピーになれる相手が現れないとは限らねぇだろ?」
彼のこの言葉がずっと頭に残っている。彼と交わした最後の会話だった。
退院する頃にはすっかり衣替えも終わっていた。数ヶ月ぶりに帰ってきた自分の部屋で少しだけ眠った後に、ぼくは彼女を喫茶店へと呼び出して、関係が終わった。改装を終えたばかりで少しだけ居心地の悪い喫茶店で座ったまま、重い空を見ていた。なんで事故で死ねなかったのだろう、と思う中で少しだけ心が軽くなったと感じる自分もいた。
君はきっと幸せになるだろう。
ぼくはもう何も繕わなくてよかった。誰かを傷付けることもなくて、幸せを失うことはなく、苦しいことはずっと続くけれど、嘘を吐かなくていい。彼女と別れたことは足を動かすことが出来ないぐらいに辛くて、先は相変わらず真っ暗だけど、それはどんなに良いことか。
死にたくはないけれど、生きていたくもない。
眼を覚ますといきなり吐き気が昇ってきた。口を抑えて急いでトイレに向かったけれど、その手前で盛大に吐き散らかした。晩に食べた餃子が面影を残したままフローリングにぶちまけらて、頭を抱えた。明け方の四時半から自分のゲロの後始末なんてしたくない。
ブツを丁寧に掻き集めて、ハイターで消毒をして、あらかた終わる頃には空が千草色へと変わっていた。飲み過ぎてフラつく頭を抱えて、寝転んだ。
懐かしい夢を見た。ぼくの何もかもが子供だった頃の夢だ。人生の中でも思い出したくない時期の恥ずかしいことばかりが夢に出てきた。
夢のあとの話をすると、山も谷もなくぼくは高校生活を終えた。半年ほど静かに生活をして、難関でもなければ曰く付きでもないほどほどの大学に進学して上京した。結局大学は中退してしまったけれど、今もどうにか食うに困らず生きてはいる。
最後の夏休みに入る前にぼくを取り巻く環境が急激に軟化した。どんな理由があったのかは分からないけれど、ぼくを疎んでいた以前の友人がとても丁寧に謝罪してきた。全ては誤解だったんだ、と。教室全体にも居たたまれない空気が漂い、みんながぼくに気を遣っていた。ぼくは最初から最後まで何も分からないまま、恐らくぼくにとっても重要な事柄が勝手に清算されてしまっていた。いじめられていたという感覚とも違うし、目につくような嫌がらせをされた訳でもなかった。友達がいなくなって、彼女に愛想を尽かされ、ぼくはみんなにとって悪い存在ではなかったらしい。そういうことが分かっただけだった。
その後、風邪を拗らせてひどい肺炎になった。熱に浮かされ、意識が朦朧とする中で今日のように彼女の夢を見て具合はもっと悪くなった。次の眠りでは以前の友人が出てきた。夢の中はとても幸せな出来事の連続だった。ぼくがそれらに魅せられなかった訳ではないけれど、いつだって現実は酷薄だった。夢を忘れてしまうぐらいに。
現実にはぼくの頭は高熱で茹だり上がって、それから目覚めたとき、ぼくはまたしても病院に搬送された。
彼らはぼくにとって何になったのだろうか。元カノ、友人だった人。それだけのはずなのに、色々な未練や蟠りがそうさせるのか、彼らは具合を悪くしたぼくの夢に出てきては悪化させていく。思い出?そんな馬鹿な話はない。
独りで多くを乗り切らなければならなかった。たくさんの辛いことを独りでどうにかやり過ごして生きていればそのうち、なるべくは近い内に死ねるだろう。もう、泣き喚きながら死ねなかっただのと言うのはやめだ。どうせこんな人間は長生きは出来ないだろうし、どうしようもなく生死窮まった状況になれば諦めがつく。実際にトラックに突っ込まれた瞬間──結局は死ねずにこんな様を晒しておいてなんだけれども──、ぼくは諦めた。これは確実に逝ったなって具合に吹っ飛ばされた。大学二年の春に酔いが回った身体でブロチゾラムを一気飲みして当時の彼女に大泣きされて、病院に担ぎ込まれた。少なくともその時までは自傷や自殺未遂をすることはなかった。
静かに復学して、それからは波もなく卒業式まで漕ぎ着けた。出席単位が少し危ぶまれたけれどそこは多目に見てくれたらしい。
卒業式のことは殆ど覚えていない。ブレザーの胸に造花をつけて、パイプ椅子に座って天窓から見える澄んだ空を見ていた。証書を貰うときに卒業おめでとう、と言われたけれどなんて反応していいか分からなくてへんな笑い方をして会釈をした。何がおめでとうなのか分からなかった。この先の君たちの未来に希望が……、と言うけれど胸を踊らせるような先見はなかった。ただ、一つの区切りがあって、家に帰れば制服も彼女がよく剥ぎ取ってきたカーディガンも何もかも捨てるだけ。思い出にもならないのかもしれない。夜には夜行バスで東京に向かう予定で、早く帰りたかった。
式が終わった後、隣のクラスの男子が後輩の女の子がぼくを探していた、と教えてくれた。ぼくは礼を言って少し探してみるよ、と言って学校を出た。
クラスのお別れ会にも出席せずに直ぐに帰って、制服もカーディガンもゴミ袋に詰めて、燃えるゴミに出した。そうして、ようやく高校生活が終わった。散らばって、けれど纏め上げることのできない空虚な三年間だった。
吐いて胃が空になったら、もう少しだけ飲めるような気分になった。冷蔵庫から冷やした角瓶と炭酸水とレモンを出して、ハイボールを作った。氷をたっぷり入れて勢いよく炭酸水を入れたせいでテーブルにたっぷりと溢れてしまっても、酔って曖昧になった頭はそんなことは気にしなかった。
こんな時間だというのに今の彼女からLINEが来る。朝食を作りに来てくれるらしい。そこでやっと明日が休みだと気がついた。金曜日の夜、土曜日の明け方、明日の予定なんて何も立っていない。どうせ彼女の買い物に付き合わさせられる。夜はここに泊まって、夕飯を食べて、映画を見て、セックスして、また朝食を作ってくれる、その繰り返し。そろそろ彼女はぼくと結婚したいと言っていた。毎度、絶対に上手く行かないとぼくは言うけれど彼女は一緒になってみなきゃ分からないよ、と言う。君が苦しくなるだけなのに奇特だね、と返しても彼女は笑うだけだった。それがなんだか無性に腹が立つ。
風の噂で高校時代の彼女──あの子が結婚したと聴いた。だから今さらあの子の夢を見たのだろうか。何処となくあの子に似た女と付き合っていて、そんな話を耳に挟んで、夢を見るというのはかなり気持ち悪いと思うけれど、夢を自分で律するなんて無理な話だ。
あの子は幸せになれただろうか。ぼくみたいな男ではない、心の底から通じ合って、笑い合えて、あの子を大切にして真っ直ぐに愛してくれる人と結ばれたのだろうか。優しいあの子ならばきっと、ぼくのようにならず、幸せを噛み締めているだろう。それは本当にいいことだ。ぼくのことなんか忘れているだろうけれど、ぼくは今もどうしてだかあの子の幸せを心の底から願わずにはいられない。
いつの間にか眠りに落ちたぼくはまた夢を見る。夢の中で見る夢の続き。ぼくのいる病室にあの子が見舞いに来てくれていた。トラックに突っ込まれて包帯でぐるぐる巻にされたぼくを見てあの子は不謹慎でごめんと言って大笑いして、ぼくはそれが面白くなかった。死にかけたんだぞ、と怒って身体が痛んで泣きそうになった。一頻り笑われて、あの子が持ってきてくれた差し入れを二人で食べながら先の話をしていた。夏休みまでに良くなっていれば何処か遠くに行こう、大それた物でもないけれど旅行だね。海が見えるところに二人だけで、ゆっくりしよう。将来のことも自分自身のことも考えずにただお互いのことだけを見つめていれば、きっと悪いことは何も起こらないよ。
ぼくたちの前に横たわる余りにも膨大、長大な将来がその瞬間だけはその全てがぼくたちを優しく導いてくれるものに見えた。
そんな夢を見た。
大学時代の友人と飲んでいた時のことだった。
四軒目を出て、友人は路地でとうとう吐いて立てなくなって魘され始めている時に見知らぬ男に絡まれた。六十ぐらいの、禿げ上がった頭が脂で照っている、どうにも正気じゃない男だった。寝そべっていた友人もその頓珍漢な怒鳴り声に起き上がって、怪訝な眼を向けていた。
大声で彼は自分の政治信条と宗教と自分が如何に悲しく苦しい状況に置かれているか演説し始めたのだけれど、言葉と言葉がきちんと繋がらず、文は意味を成さない彼の弁は何を言おうとしているのか上手く理解出来なかった。時たま話が飛んで、単純に叫ぶこともあった。ぼくたちは関わり合いになりたくなくて、その場を去ろうとした。
隣を歩いていた友人が炉端のゴミ置き場へ頭から突っ込んだ。横を見ると男が肩で息をしながら友人に怒鳴りつけていた。蹴り飛ばされたのだ。
ぼくは男の横面を殴り付けた。子供がぬいぐるみを投げたみたいに男は路地の端へと倒れ込んで、起き上がった友人とぼくは男が喋らなくなるまで蹴りを入れた。幸い治安が悪いことで有名な場所での出来事だったから、誰もぼくらを通報することはなかったし、道ゆく夜の仕事をする人たちはいつものことだと流してくれていた。友人は執拗に顔面を踏みつけていて、顔面が分からなくなるまで滅茶苦茶に蹴りつけようとしていた。流石に顔の骨を滅茶苦茶にするのは可哀想だったから丁度良いぐらいで落ち着かせたけれど、男は酷い風体になっていた。元から小汚い格好だったけれど、よれたラグビーシャツは赤黒い染みが点在していた。
息はあるし、骨も折れていないぐらいで手を止めて飲み直すことを考えていると友人は男の財布を物色し始めた。慰謝料ぐらい貰っておくべきだろう、と友人は言って古いイヴ・サンローランの財布──何故か女物だった──をポケットから抜き取った。ポイントカードやレシートを捨てながら現金を漁ったが、結局男は一文なしだったようで友人は腹いせにピクリとも動かない男を力いっぱいに蹴りつけた。
飲み直すぞ、と言って歩き出した友人にこういうの良くないぞ、と戒めている時に足元に落ちた男の免許証が目に入った。何となく拾い上げて、男の名前を見た時に少しだけ驚いた。男はあの子の父親と全く同じ名前で、同じ生年月日だった。ぼくは倒れた男の顔を見て、授業参観で遠目に見たあの子の父親の顔と比べてみたけれど全く一致しなかった。あまりにも顔が違くて、面影と言えるようなものもなかった。
男の側から動かないぼくを心配して友人が戻ってきてくれた時、男は眼を見開いて大きな声で泣き始めた。駄々を捏ねた子供みたいに濁った声で手足をばたつかせて大泣きしている。挙句失禁した。友人はそれを見て大笑いしていた。
「しにたいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。あああああ!!しにたいよおおおおおおおおおおおおおおお。たすけてえ、おかあさん、〇〇!!やだあああああああああああああ!!しんじゃうよおおおおおおおおおおおおおおお」
友人に手を引かれるまでぼくは男を見ていた。何も思わずただ声を上げる彼を見ていた。
頭が鈍くずぅっと痛かった。
皆さんは鼻の穴にオクラを刺したことはありますか?ぼくはあります。両の鼻穴にオクラを刺して姿見の前に立った時、ぼくは涙が溢れて止まりませんでした。昨晩のことです。