今後全13章を投稿していく予定です。
一瞬、ひりりと刺すような苦い敗北感が、このところ由良の前頭部から消えぬ鈍痛のあいだをつらぬいた。が、それもほんの一瞬だった。彼女は疲れていた。意に介するにはあまりにも疲れていた。
「どうしました?」新たに着任した艦娘と入れ替わりに旗艦私室に入ってきた秋月に、由良は書類を置いてそっけなく伝えた。
「任務変更よ」
「とうとう上も改心して、哨戒任務を中止にしてくれましたか」
秋月がニコリともせずにそう言うと、由良は表情も変えずに答えた。
「ええ、哨戒任務は先延ばし。アルフォンシーノ行きね」
「アルフォンシーノ!」秋月は呻くようにしてそう言うと、天井を仰いでつぶやいた。
「よっぽど我々のことを嫌っているに違いない」
「そうとも言い切れないわ。何しろ、小型軍艦の数が全く足りていない。外洋水軍統帥部に届く要求のうち、その半分でさえ満たすことができていないのだから。少なくとも私たちは、㊕編成の二個艦隊(㊕編成の一個艦隊は特殊軍艦六隻)の定数を充足できている。それに、補充だってされている」
そう言うと、由良は机の上にあった書類の角をそろえて、ファイルに戻した。身振りで椅子を勧める。「黒茶でいい?」
「ええ」秋月が頷くと、由良は従兵を呼び出して黒茶を二つ持ってくるように頼んだ。一分もたたずに、旗艦私室の向かい側にある士官室から黒茶が運ばれてくる。
「で、いったい何があったんです? 何の事情もなしにいきなり北方航路への復帰を命じたりはしないでしょう」
「交代するはずだった艦隊が対潜哨戒中に群狼につかまってひどくやられたそうよ」
「そういうわけですか」
秋月は苦みのある液体を一気に流し込むと、深々と溜息をついた。黒茶の入ったカップを置き、舷窓の向こう、数ケーブル(一ケーブルはおよそ二百メートル)のところで碇を中心に振れ回っている特殊軍艦搭載戦艦〈蒲原〉を見やった。
「ならどうしてあっちの艦隊を出さないのですかね。もう数カ月は海に出ていないはずですよ」
「運営部の予測では、『イベント』が近いうちにあるそうよ」
「また温存ですか」
秋月はため息をついた。
「どれほどこの艦隊、この艦の乗組員が疲れているかを、上層部はもっと考慮してほしいものです。―すみません、言うまでもありませんでした」
そう言って秋月は軽く頭を下げた。第一四航空戦隊特任参謀(原注)として原注航行中は艦橋に詰めていることが多い由良は秋月よりもそのあたりの事情に通じているはずであった。由良は軽く頷いて、謝罪を受け入れた。不意に、由良はごほごほと咳き込んだ。顔を上げた秋月の眼に一瞬、不安げな色が浮かんだがすぐに由良の咳は止まった。
「それで、用事は?」由良は柔らかい調子で秋月の来意を尋ねる。
「ああ、すみません」秋月は軽く頭をかいた。それから、姿勢を正して由良にまっすぐ向き合う。「さっき、病院から連絡がありました。―杏さんが亡くなったそうです」
「そう」由良の声は、由良自身が少し驚くほど冷たく響いた。目を閉じて、鈍痛の取れない目をまぶたの上から軽く揉む。「残念ね」とはいえ、陸上の病院に送ったのはほとんど言い訳のようなものだった。彼女の結核は、傍目から見てもそれほどにひどいものだった。
「ええ」秋月も頷いて、黒茶をすすった。
しばらくの間、二人の会話は途切れ、二人が黒茶をすする音と、上甲板を歩く人間の足音だけが響いた。
「ところで、補充の艦娘は?」しばらくしてから、秋月はさりげなく尋ねた。
その質問に、由良は口元に運びかけた黒茶のカップを空中で止め、何でもない様子で答えた。
「紀川要中尉。本国艦隊からの転属で、使用する艤装は駆逐艦〈夕立〉」
「……そうですか」
秋月はその名前を、とりわけその補充の艦娘が背負う艤装の名前を聞いて一瞬、足元が揺らいだように感じて体をこわばらせた。単体では特に不吉な名前であるというわけではないが、他のものとの組合せが不吉さを生み出すというものは存在する。わずかにでも表情に出ていると思われる動揺を悟られないよう、黒茶の入ったカップを覗き込むふり。こっそりと由良の表情をうかがうが、そこに何らかの感情を見出すことはできなかった。
「黒茶のお代わりはいるかしら?」
カップを覗き込んでいる秋月に気付いた由良がそう聞くと、秋月は軽く首を振ってコップに残った黒茶を一気に飲み干す。
「ありがとうございます。そろそろ失礼します。彼女の世話もしないといけないですし」
「よろしく頼むわ。あと、ついでに龍驤さんを呼んできてちょうだい」
龍驤が腰をおろし、士官室から赤茶と黒茶を持ってきた従兵が下がると、由良は声を落とした。
「龍驤さん」
「なんや?」
「野分さんの妹は、今日の午後、病院で死んだわ」そう言って由良は舷窓の外にちらりと目をやり、向こうの方に停泊している〈越後〉を見やった。その艦影からの脇の姿を思い浮かべる。銀髪で長身、ダッフルコートの下に色あせた鼠色のベストと白いシャツ―陽炎型駆逐艦の艤装を装備する艦娘の制服―がよく似合う素直な少女だ。龍驤はしばらく由良の顔をぽかんと見つめ、それから窓に顔を向けて、低い声で、苦々しげに悪態をついた。
「彼女はそのことを知っているの?」由良の問いかけに、龍驤は答えなかった。
「龍驤さん!」
由良の柔らかい、しかし叱責のこもった声も、龍驤は一時無視した。軽く首を振って、再び由良の方に向き直ったとき龍驤は仮面のような表情を浮かべ、そこから感情を読み取ることはできなくなっていた。
「いいえ」
龍驤は丁寧な口調で答えた。強い西部訛りが消え、ラジオのニュースキャスターのような、完璧な標準語になっていた。
「彼女は知りません。でも別な知らせは受けとっています。先週、黒井戸市が空襲でやられました。あそこには彼女の母親と下の妹、弟がいます。―跡形もなかったそうです。失礼します」龍驤は軽く一礼して、由良の部屋から出ていった。
帽子を片手に持ち、野分は由良と向かい合って腰を下ろした。そのまましばらく黙って由良は野分と向かい合っていた。多少は考えていたはずなのだが、いざ野分と向かい合ってみると、どう切り出したものか困ってしまった。こうした役割は初めてではなかった。けれども、つらい役であることは変わりなかった。
美唄奈井江―由良は戦争を好かなかった。周囲の人間は、彼女は戦争に「引っ張り出された」、つまり適性のあることが判明して外洋水軍入隊の令状が届いたものだと思っている。だが、美唄の直属の上官である五島だけは彼女が志願して外洋水軍に入隊したことを知っていた。女性補助部隊に配属になる前の検査で、適性を見出されて艦娘となったのであった。もちろんその時彼女は喜んだ。
それでも美唄は戦争を好いていなかった。それは戦争が彼女の愛する生活を妨げるからではなかった。戦争が彼女の愛する世界、彼女の正義感を破壊し、踏みにじるからでさえなかった。彼女は、その中に、人間のどうしようもない無力さをそこに見出すからこそ戦争を嫌っていた。彼女は人類と深海棲艦、そのどちらもが無力であり、その勇気も、いかなる好ましい形質でさえも戦争という巨大な嵐の前には無力であることを感じ取っていた。
けれども、『軽巡洋艦』という名とは裏腹の、決して軽くない役割を担うことになった以上、彼女は何らかのことをせねばならなかった。何よりも、彼女はなすべきことをなさないままでいることを嫌った。結局彼女は、遠い世界で戦った軽巡洋艦由良という軍艦の記憶と、その名を背負うことに付随する様々な職責と共にいくつかの歳を重ね、そして彼女の実際の年齢以上のものを重ねていった。
由良はため息をついた。いくら年齢に見合わぬ経験を積んだとはいえ、やはりつらい役であった。そして、口火を切ったのは野分だった。
「いいんです」抑揚のない声に、落ち着き払った表情。「龍驤さんに聞きました」
「そう―」由良は咳払いをした。
「私から言えることはほとんどありません。故郷の家族と、あなたの妹。どちらも亡くなりました。お悔やみを申し上げます、以外にかけるべき言葉を私は知らないわ」そう言って由良は無表情な顔を見つめ、何とか笑みを浮かべた。自分が言ったのが通り一遍の、何の意味もない言葉のようにさえ感じられた。
「ありがとうございます」不意に、だしぬけに野分がうっすらと笑みを浮かべてそう言った。
「父が話していました。こういうとき、どんな言葉も無意味に感じると。私の父は船長をしているのです」
「あなたのお父さんが」由良は驚いて野分の顔を見つめた。野分の灰色の瞳に、ちらりと得意そうな様子が浮かぶ。「はい。水軍徴用のタンカーです。一万六千トンの」
「そうだったの。それは知らなかった」
「はい。それに、妹の杏のことですが……あれはしょうがないことだったと思います。他の人たちにも病気の人は多かったですし……。何より、妹と同じ艦隊に配属してもらえるように頼んだのは自分です。それに……」そう言う野分の手の中で、帽子が握りつぶされてくしゃくしゃになっていた。
「あなたは休んだ方がいいわ」さらに何か続けようとした野分の言葉をさえぎって、由良はそう言った。引き出しから書類を取り出して万年筆でサインをしたためる。
「あなたには二週間の休暇を出すわ。事務室に行って休暇証明書を受け取ってきなさい。そして、たっぷり休んでくること」
「どこへ行くというんです。黒井戸ですか」
「ええ、そうでしょう。他にどこが―」
そう言いかけて、由良ははっとして口を閉じた。
「ごめんなさい……」
「いいんです。むしろ、このままここに居させてください」
「祖父母や親戚の家でも構わないのよ」由良は、ゆっくりと、なだめるような口調で言った。野分は、静かに首を左右に振った。
「どちらもいません。どこに居るか知らないのです。それに父は、今は海上にいるはずです」
「お願いです。休暇を出すよりも、この部隊に居させてください。ここにいればいつも何かしらやることがあります」野分の口調には哀願するような響きがあった。「それに―仇だってとる機会もあります」
「わかりました」由良はゆっくりと頷いた。「休暇は取り消します。後で司令にも報告しておきます」
「ありがとうございます」
野分が退出した後、ドアは静かにしまった。
原注 特任参謀とは、「艦娘」(正確には特殊軍艦)が配備されている艦隊のみに設けられる、艦娘関連の事柄を担当する参謀。兵科としての艦娘の歴史が浅く、また深海棲艦との戦争勃発後に大きく発展した兵科であるため精通した人間が限られたため、指揮下にある艦隊の旗艦を務める艦娘が任じられることが多かった。