いよいよもって船団は追い詰められていきます。大変景気の悪いお話ですが、要するにそういう話ですので……
「どのような夜にも日の出はやってくる」と書き残したのは千星 克臣(有名な叙事詩人。艦娘の運命の軛と共通するテーマを扱った「サブロクの嘆き」の作者であるであった。)どのようなものであれ終わりは存在し、夜には必ず明け方が続いている。輸送船団MP五四にも夜明けは存在した。しかしそこにはいかなる安らぎもぬくもりも存在しない、いかなる睡眠も存在しない夜の後にふさわしい寒々とした朝だった。船団の誰一人としてまともな睡眠をとっていなかった。黒潮号の火炎を見て集結した群狼との絶え間ない交戦―そこには必ずしも砲火が存在したわけではない。断続的なソナー接触報告と絶え間ない警報、そして時折幸運にも確実に敵を捕捉できた時、投下される爆雷が巻き起こす周囲からくっきりと浮かび上がる水柱。それらの陰ですべての乗組員が一晩中己の配置にて夜明けを待ち続けた。艦娘たちも例外ではなく、彼女らは一晩の大半を待機室、または水上で過ごした。極地方特有の、淡い、奇妙に力のない日の出を迎えたとき、船団のすべての護衛艦艇の爆雷架には一発の爆雷も残されていなかった。こうなると、水中への敵に対抗できるのは艦娘たちのみとなる。〈大瀬〉の弾薬庫には、まだ艦娘用特型爆雷がたっぷりと蓄えられていた。
そして夜明けは、船団にとって終わりを意味しなかった。船団はあと三十時間、一日余りかけてアルフォンシーノ海峡にたどりつき、そうして初めて安息を得ることができるのであった。そしてその三十時間は船団にとりもっとも厳しい時間となるはずであった。北方洋の深海棲艦、その勢力の最も盛んなる区域を通過せねばならなかったからだ。そして夜明けは、配置からの解放も意味しなかった。黎明総員配置、本来であればそうなるはずであったものが彼らを配置にとどめつづけ、絶えぬ寒さと空腹の夜の仕上げを飾った。
正午、船団は緊密な陣形を保って東へと―東であるはずの方角へ進み続けていた。警報の続く夜とは対照的に、午前中の間に発せられた警報はたった一度に過ぎなかった。そしてその警報は間に合わなかった。
正午をわずかに過ぎたころ、配置に就いていない乗組員たちが三々五々、重い足取りで〈大瀬〉の艦尾へと集まっていた。微妙な角度で捻じれ、細かな皺が寄った甲板の上に、黒白水色のトリコロールの軍艦旗で重りと共に包まれた死体が並べられている。その数はけして多くはなかった。
一〇〇〇の少し前に、〈大瀬〉は雷撃を受けていた。見張り員が白波の間に雷跡を認めたときにはすでに遅く、舵が効き始める前に大瀬の艦尾で魚雷の弾頭は爆発した。どのような幸運が働いたのか、機関は一時停止したもののすぐに動きだし、推進器も正常に作動し続けた。船尾に一対設けられている舵のうち片方が根元からへし折られてしまったが、残されたもう一基は正常に動き続けている。しかし、艦尾に設けられた格納庫の右舷側が抉り取られ、そこにいた乗組員ともども消し去ってしまった。
吹雪のさなか、艦隊付僧侶の低い、切れ切れの祈祷の声に送られて死体が残ったわずかな死者たちは次々と板の上から海中へと姿を消す。
「あいつはあれで、粘り強いやつだったんだけどな」遺体を飲み込んだ〈大瀬〉の航跡を見つめながら深雪がぼそりと呟いた。告坂 美花、〈電〉も被雷時に犠牲となった一人だった。被雷の衝撃で架台から落下した己の艤装の下敷きとなっていた。海上においては無比の軽さと強さを誇る艦娘の艤装といえども、火の入っていない状態では鉄塊にも劣らぬ重量物であるのだ。「すくなくとも、深雪さまよりよっぽど長生きするだろうと思ってた」
「それだったら、彼女は不死身だったのに」夕立は雪嵐に煙る水平線を見つめながら応える。深雪はそれに対し「だったらよかったんだけどな」とだけ返すと、顔を上げて辺りを見回した。他の乗組員から距離を置いて、野分が一人立っている。端然と立ち尽くす野分の顔に、深雪はいかなる表情も認めることはできなかった。ただ、奇妙に何かを押さえているような無表情が眉間の辺りから頬に広がっている。黒潮号の船長と野分の関係については深雪も昨日の夜の間に聞き及んでいた。深雪はいたたまれなくなり、再び航跡に目を戻した。低い声で夕立に尋ねる。
「夕立はどうするんだ」
「わからない」夕立は率直に認めた。「とりあえずは格納庫周りの手伝いをすることになるっぽい」夕立の艤装は、被雷時に架台ごと海中へ転落していた。当然、替えの艤装などあるはずもない。
船団は二人の艦娘を一瞬にして失ったのだった。
かすれ、ゆらぎ、吹雪によって散り散りになったラッパの最後の一音が消えると、再び彼らは凍てついた艦内へと姿を消した。
由良と五島は連れ立って上甲板を歩き、ラッタルを登って司令公室に入った。従兵の内鋸に、濃厚な軟飴湯を持ってくるよう言いつけると五島は腰を下ろす。
「統帥部からの返信がようやく届いたよ。ほとんど一日……そうか、まだ一日なのか」
五島は疲れ果てた様子でそう言うと、机の上に置いた通信用紙のつづりを引き寄せ、何度か目をしばたたかせる。
「やはりイベント海域にいるそうだ。統帥部の評価ではおそらく、敵航空基地との戦闘が主体になるだろうということだ」五島は通信用紙を見つめながら早口で続ける。「そんなことはどうでもいい……いや、これでいよいよ我々がどこに向かっているのかわからなくなったわけか。こうなっては引き返すこともできん。……どこにたどり着くかもわからないからな」
「そうですね」由良は頷くと、期待を込めた目つきで五島を見た。「本国艦隊の方はどうなのでしょう」
「本国艦隊は合流まで半日はかかるそうだ」五島は通信用紙から顔も上げずに答えた。「あちらもイベント海域の影響を受けている」イベント海域では、大幅な地磁気の乱れが発生しており、羅針盤が狂い航路を見失うことがしばしば起こっていた。
「そうですか」由良は無感動に応えた。それから、大儀そうに腰を動かす。「失礼してもよろしいでしょうか」
「ああ」五島は通信用紙を置いて頷いた。「少しでも休みなさい」
由良は司令公室を辞すると、船体中ほど、中甲板にある負傷者収容室を訪れた。負傷者収容室はすでに少なくない数の負傷者たちであふれていた。秋月は負傷者収容室のすぐ外側の、明々とした非常灯に照らされた人気のあまりない通路に横たわっていた。
「防空駆逐艦、秋月型の本領をお見せできなくて残念です」由良が枕元に来たことに気付くと秋月は上半身を起こすとそう言って力なく笑みを浮かべた。秋月の右足は、太ももから先が血のにじんだ包帯で覆われ、当て木が添えられている。由良は困ったような表情を浮かべ、秋月の傍らにひざまずいた。「それは次の機会を楽しみにとっておきましょう。そうね、サーモン海でも敵機には不足しないはず」
「由良の下に秋月と夕立が……村雨や五月雨、春雨も揃っていたのに」遠くを見るような目つきで秋月がそう呟きかけたとき、由良は不意に、険しい表情を浮かべた。腰を浮かせ掛けた秋月を制して、コートのポケットから素早くタオルを取り出し、己の口に強く当てる。ごほごほと咳き込むと、すでに白いところが全く残っていないほどに由良の血を吸ってきたタオルから血があふれ、鋼鉄での壁に飛び散る。それを見て秋月はいたずらっぽい表情を浮かべ、負傷者収容室の方を片手で示した。
「せっかくです、あちらにいる先生のお世話になったらどうでしょう」
「確かに、少し休みが欲しいわ」由良は素直に認めた。それから、軽く目元をおさえる。何度か目玉がまだその下にあることを確かめるようにまぶたを揉んでから目を開けた。秋月の顔を覗き込む。「けれど、今はまず由良として戦わなきゃ」
それを見て、秋月はため息をつき、どうにもならない悪友を前にしたときのような苦笑を浮かべた。「美唄さんは白澤にいたころからそういうところ、本当に変わってない」秋月と由良は、白澤での同期生であった。
「そうかしら」由良は首をかしげる。「あまりそうは思ったことはないけれど」
「ええ」秋月は心底楽しそうに答えた。「あなたは目の前に敵がいて、武器があったら戦わずにはいられない人です。昔からそういうところは変わってない。あなたにとって敵とは常に打倒すべき存在だ」
「なるほどね。そうなのかもしれない」由良は困ったような表情で頷いた。「遠軽さんがそう言うのなら、きっとそうなんだと思う」
その時、なんの前触れもなしに、ひきつった高音があたりを満たした。由良ははじかれたように立ち上がり、一瞬ふらついて額を押さえたもののすぐ立ち直り、一目散に艦尾へと駆け出した。
一時間あまりの後、由良は〈大瀬〉の遥か後方、船団の後尾で空をにらんでいた。その間にMP五四はさらに二隻の船を失っていた。一隻は王国の南岸、内宿に船籍を置く貨物船〈剣克〉号であった。前線への物資輸送の要となる鉄道の保守・増強に必要とされるさまざまな資材―その中には王国各地の鉄道からかき集められ必要な改造を施された汽水機関車数両も含まれている―を満載していた〈剣克〉号は魚雷を受けると、何の騒ぎも起こさず、喫水線のまま沈んでいった。〈幸風〉は沈みゆく〈剣克〉号に二度接舷して生存者を救い出した。
いっぽう、もう一隻の〈明星〉にはそれほどの救いはなかった。〈明星〉は〈剣克〉号に魚雷を射かけた潜水艦の所在を捉えるとただちに反転し、爆雷の代わりに自沈用爆薬に水圧信管を取り付けて舷側から投下した。遅れて動き出した艦娘たちが到着するまでの間、敵潜の頭を押さえておくつもりだったのだろう。そして、それが〈明星〉にとって命取りとなった。投下された爆薬のどれか一発、深海棲艦の至近距離で炸裂した一発がその浮上機構を破壊し、急浮上した深海棲艦は〈明星〉の船底に激突した。〈明星〉は急速に沈没し、由良たちがたどり着いたときには何一つ残っていなかった。そしてこの一連の騒ぎの間に、船団を覆う吹雪が不意に途切れ、風がその勢いを失った。依然として全天をのっぺりとした、起伏に欠ける雲が覆い尽くしていたが、天候がわずかに改善したことは間違いなかった。由良の後方では、鹿島が未だに衝撃の抜けきらない表情で空を見上げていた。由良よりも一足先に海上に出ていた鹿島は、聴音機の拾い上げた音を自分のヘッドフォンに流して普段と同じように敵潜を探知しようとした。しかし、妖精さんが敵潜探知の声を上げても、彼女の耳には探針音が全く変化していないように聞こえていた。移動に伴う探針音の変化を全く聞き取れなかったのである。あきらかに過労によるものであった。
一三三〇、由良の艤装に装備されたレーダーが船団に接近する敵編隊の姿を捉えた。巨大なる怪鳥―深海棲艦の陸棲種から発進した爆撃機が十機。そして船団に近づくと高度を大きく下げ、由良のレーダーの覆域から姿を消した。
三十秒が経ち、一分が過ぎ、そして二分が過ぎ去った。深海棲艦は現れない。艦娘の誰もが目を見開き、首を大きく捻って灰色の空を見つめていた。艦娘がいる場合、深海棲艦はしばしば船団の後方から襲来した。その方角は艦娘が最も苦手とする角度であり、艦によっては有効な射撃を行うために転舵を行わねばならないのである。艦娘の艤装が軍事的・工学的見地から設計されるのではなく、未だ研究が不十分な分野の魔術によって定められる部分が非常に大きかったためだった。
二分三十秒が過ぎた。依然として敵機の姿はない。一点の影も空には見当たらず、艦娘の目も、妖精さんもいかなる異変を捉えていなかった。
「どこ……どこなの……」鹿島がうなるように呟く。その両目は血走ってぎらつき、目の下には赤黒い隈が幾重にも重なっていた。
不意に、船団の左側から砲声がとどろいた。それがきっかけとなり、堰を切ったように曳光弾が船団最左列の船上から溢れだす。深海棲艦は定石を破り、直前まで低空飛行を行い船団の側面から襲い掛かった。彼らが、輸送船団にはもはや通常艦艇の護衛がほとんどないことを承知しているのは明白だった。
不意を突かれた由良が艦隊に転舵を命じ、深海棲艦へと舳先を向けると四機の深海棲艦が一列となって輸送船の甲板よりも低く、高音の悲鳴を轟かせながら突進してきた。由良たちの後方には船団に残された最後の一隻のタンカー、航空機用燃料を満載した〈疾風怒濤〉号があった。
突進してきた敵機に対し、由良の長十センチ連装砲が砲門を開き、真正面から―艦娘にとって最良の射角から四基八門の火力を一挙に叩き付けた。一度にそれだけの火力を正確無比な照準で撃ちこまれてはひとたまりもない。先頭の機体は直撃弾を受けて爆発四散した。やや高めを飛んでいた二機目も同じ運命をたどり、主翼を半ばからもぎ取られた機体はきりもみしながら海面に突っ込むと逆立ちしてそのまま水中へ姿を消す。三機目は由良の背部艤装から左右に展開された二十五ミリ機銃の一斉射撃に主翼に埋め込まれたエンジンを吹き飛ばされた。そして、残る三基のエンジンから後方へ伸びる猛然と黄緑色の光が明るさを増し、大気を切り裂く高音の音程を上げながら猛然と由良へ突っ込んできた。後方の四機目に照準を合わせていた長十センチ砲はそれに対応できなかった。
一瞬、一瞬の差で二十五ミリ機銃の射撃が右翼付け根を切り裂き、由良の眼前で三機目は翼をもぎ取られて針路を変えられた。しかし空中分解した機体は、そのままの速度をもって由良へと突進、艤装へと突っ込む。胴体と右翼はきりもみをしながら左舷部の艤装に突っ込み、長十センチ砲の根元に突っ込んで停止、辺りに体液を巻き散らかし火災を発生させた。同時に、胴体内に搭載されていた爆弾が炸裂、二基の長十センチ砲の砲身がへし折られた。由良自身は艤装の力場に守られ無事であったが、衝撃で激しく揺さぶられる。
そしてバラバラに切り刻まれた左翼は由良の頭上にあったレーダーへと絡みつき、取り付け台座からアンテナをもぎ取って海中へころげ落ちた。
船団の最後の電子の目は奪われた。
至近距離で爆弾がさく裂した衝撃で、脳味噌が膨張して目玉が飛び出てきそうな感覚を覚えながら由良はぼんやりとあたりを見回す。先ほどまで船団から空に向けて噴水の如く放たれていた曳光弾や、灰色の空に黒々とした花を咲かせていた対空砲弾の炸裂はすでに止んでいた。敵機の姿もない。空襲はその始まりと同じように、唐突に空襲は終わっていた。
霧がかかったようにはっきりとしない頭の中で妖精さんが受信した発光信号の内容を繰り返している。鹿島からの発光信号だった。船団へ復帰する方向へ転針することを求める内容だった。気が付けば船団は再び陣形を組み直し、由良の後方を東方へ向かっていた。
ふらつく頭を押さえながらなんとか由良が船団へ復帰し、船団後尾の定位置に就くと艦中央部から黒煙を上げる〈大瀬〉の艦橋で信号灯が明滅した。妖精さんが解読した信号の内容はこうだった。
『大瀬ヨリ由良 空襲デ本艦ニ被弾 負傷者収容室全滅 生存者ナシ 哀悼ノ意ヲ表ス』
〈大瀬〉は北方洋の夕暮の中を疾走していた。絶えず押し寄せる波濤に合わせて緩やかにローリングを繰り返す艦は、すべてのマストがへし折られ、レーダーアンテナが艦橋の中途に引っかかり、煙突は大きく傾いでその根元から機関の排煙があたりに漏れて零下の気温の中でぼんやりと陽炎をあたりに漂わせている。煙突根元の右舷側の甲板はおおきくまくれ上がり、その底にはかつて負傷者収容室だった場所が姿を見せていた。左舷側の舷側には被弾によって開いた大きな穴が喫水線の間近まで歪んだ傷口をあらわにし、時折大きな波が上がってくるたびに艦内に海水が流れ込んでいる。巡洋艦らしく優美な曲線を見せる艦尾はその中途から微妙な角度で捻じれ、外板には細かな皺が寄っていた。しかしすべての一六センチ砲は依然として射撃可能であり、一一センチ砲もまだ右舷側の一基が機能を完全に維持している。中心線上の四五ミリ連装機関砲は三基すべてに兵員が取りついており、二四ミリ機関砲も未だ破壊されていないものはその機能を維持していた。四基の機関は不思議にも被害を受けておらず、坂上機関長は被雷時に推進軸が受けた応力を心配しながらもその全力をいつでも発揮できるよう心を注いでいる。傷つき、痛めつけられながらも〈大瀬〉は依然としてその戦力を保っており、その凶暴さを十分に残していた。そして、彼女を基地として周囲の守りを担う艦娘たちも、戦隊全体で八隻、〈大瀬〉乗組みでも三隻が喪われていたが、残った四隻は戦力を維持し、辺りへにらみを効かせ続けている。
警告のベルが響き、モーターのうなり声が人気の少なくなった格納庫を満たした。艦尾に設けられたゲートが左右に割れ、その向こうの夕闇の中から深雪が現れた。深雪は慎重にウェルドックの縁までやってくると一瞬だけ後進をかけて行き足を殺して停止した。水際ギリギリの場所に立っていた夕立がサンドイッチの入った包みを深雪に差し出す。
「サンキューな」深雪がそう言って包みを受け取ろうとした瞬間、二人の手元から包みが吹き飛んだ。突然襲ってきた衝撃に夕立がバランスを崩し、深雪の胸元に倒れ込む。格納庫内の灯りがすべて消えた。深雪は衝撃を感じた瞬間、反射的に艤装へ全速での後退を命じていた。ウェルドックの縁で海水が爆ぜ、傾斜面を白波が駆け上がる。胸元に倒れてきた夕立の背中をしっかり抱きとめる。弾かれたように深雪と夕立が後ろ向きに〈大瀬〉の外に飛び出たとき、艦の右舷側で水柱がまさに崩れ落ちようとしていた。深雪が夕立の尻を抱え、体勢を安定させる間に〈大瀬〉の艦尾が持ち上がり、夕焼けの空に黒々と艦尾の曲線がその優美なシルエットを浮かび上がらせる。〈大瀬〉の艦尾はその状態で一瞬だけ静止すると、そのまま滑るようにして姿を消した。その向こうで艦橋のシルエットも大きく右に傾ぎ、その傾斜は刻々と増大しつづけている。〈大瀬〉がもはや沈没は免れえないことは誰の目にも明白であった。
「そういえばさ、彩球にいる家族のことって話したっけ」〈大瀬〉の前半部が沈みゆくのを見つめながら深雪が夕立の耳元でささやいた。
「知ってる」夕立は深雪の首につかまったまま頷いた。「お兄ちゃんがいるんだっけ」
「そうなんだよ。最近は配給制であんまり手に入らないんだけどさ、その卵焼きがとってもおいしいんだ」誇らしげにそう答えてから深雪はぽつりとつぶやいた。「……ちくしょう、もう一回食べたいよ。今度ばかりはあそこに帰れない気がするんだ」
「何を言ってるのかわからないっぽい」当惑した様子で夕立は答えた。深雪の頭の後ろにわずかに見える艤装の間煙突に目をやりながら、冗談半分、不安半分で深雪の顔を見上げた。「深雪さまは不死身っぽい? 夕立は深雪からそう聞いてたわ」
「ああ、言った、言ったさ」深雪は困った様子で答えた。「だが今度ばかりはどうにもならない。そこでだ、その―兄貴に会いに行ってくれないか」
「冗談は休み休み言って」夕立は怒ったような口調で言った。「なんでもって私が―」
「いってくれるな」深雪は夕立の抗議を無視して念押しした。「猪名町の電鉄通り三番街のアパートなんだ。そこまで言って俺の名前を出せばたぶんたどり着ける」
「わかった、わかった。行けばいいのね、行けば」諦めたように夕立が軽く首を振ると、深雪は安心したように笑みを浮かべた。「そうだ、頼む」そう言うと深雪は速力を落とした。いつのまにか、〈幸風〉のすぐ横まで来ていた。〈幸風〉は一時停止して、波間に浮かぶ〈大瀬〉の生存者を拾い上げようとしていた。
「じゃあな、夕立」〈幸風〉の舷側から垂らされたロープに夕立が掴まったのを確かめると、深雪はそう言って混じりけのない笑みを浮かべた。「幸運を」
母艦が沈んだため、ここからは艦娘は出ずっぱりになります。食事は他の船からもらえますが、眠ったり休んだりできる場所はありません。