艦長の訓示が終わると、薄暮総員配置が始まった。
左舷海上直に配置された夕立はちらりと艦隊の方を見やる。昼間より大分薄くなった吹雪の向こうに、第六十二号護衛艦と大瀬の姿があった。どちらの艦も、甲板上に雪が積もり、マストや空中線にはごてごてと雪が付着して重たげな姿へと変化しているのが、薄明の中で見て取れた。吹雪は弱まったが、うねりは徐々に大きくなっていた。
巨人の手で不意に持ち上げられたような感覚があった後、一転して斜面を滑りおちるような浮遊感が全身を包んだ。あわてて前方に顔を向けた夕立は、脚部艤装から展開される力場にぶつかって砕けた波を正面からもろに受けてしまう。ばらばらと降り注いできた細かい水滴が首元に入り込んできて、夕立は低い罵り声を上げる。
戦隊外周の見張りを続けながら、不意に夕立は昼間に深雪がこっそり耳打ちして教えてくれたことを思い出した。由良は結核なのだ。それも、かなり重症の。
「我等が軍医長閣下からよく隠し通せたものだよ」周囲をはばかるように声をひそめた深雪のぼやきが耳の底でよみがえる。「なにしろ、出港した後に吐血するまで誰も気づかなかったって話だ」
深雪が話したということは、おそらくもうこのことは公然の秘密と化しているのだろう。同期として白澤[原注]にいたころからそうだった。そうなるまで全く知らなかったということはないだろうから、深雪なりの考え方によるものなのだろう。
艤装の力場によって幾分かは和らげられているものの、その速さが増し、より一層冷たくなってきた風は容赦なく肌の露出した部分を突き刺し、感覚を鈍らせていく。徐々に暗さを増していく海上を進みながら、夕立はじっと波間に目を凝らしていた。夕暮時の攻撃は明け方ほどには一般的ではなかったが、それでも気を緩めることはできない。
見張りの妖精さんが、敵機発見を告げたとき、夕立は反射的にその方角に目を凝らしながら、同時に主砲のトリガーに指をかけた。水平線近くの雲間に、巨大な怪鳥の影を一瞬夕立は認めたが、それきり怪しいものの姿は何も見えなかった。深海棲艦の陸棲型・飛行場種から発進した大型哨戒機タイプのものだろうと夕立は見当を付けた。北方航路の船団ではこの種の敵との遭遇が日常茶飯事であるということを夕立は昼間のうちに深雪から聞いていたし、南西海域の輸送船団でも必ずと言っていいほど見かける存在であったからだ。基本的に単機で行動し、その目的は船団の位置を潜水艦、あるいは付近の水上艦艇へと報告することである。そのため単機の際は攻撃をしてくることはまれで、たいがいは見当はずれな位置に爆弾を落としていくだけであった。
〈大瀬〉のマストに、戦隊へ転針を指示する運動旗が一旒翻った。哨戒機が戦隊の針路を見誤るのをわずかながらも期待したものだったが、戦隊の誰一人としてそれで深海棲艦が騙されるとは思っていなかった。敵はすでに第一四護衛戦隊が泊地を出たことをつかんでいるであろうし、その目的も十分承知のはずであるからだった。龍驤を発進させ、零式艦上戦闘機に偵察機を追わせようという試みはなされなかった。もしそれを行ったとすれば、仮に哨戒機を撃墜できたとしても確実に艦上戦闘機は暗闇の中で母艦を見つけることができなくなり、貴重な戦闘機を一機失うこととなるからであった。
哨戒機の姿が消えてから十分あまり経つと戦隊は元の針路へと戻った。それきりであった。およそ一時間ののち、薄暮総員配置は何事もなく終了した。
天候は深夜にかけてさらに悪化の一途をたどっていた。気温は低下し、艦に吹き付ける風はいっそうその強さを増していった。ときおり艦首に激突した波が砕け、真っ白な水しぶきとなって前甲板に降り注いだ。艦橋構造物の張り出しの上に設けられた二十四ミリ機関砲に配置された兵たちは闇の底に蹲るようにして、光の漏れないよう特別のカバーをかけられた電熱線を頼りに寒さと眠気と戦っていた。彼らの上に、時折飛沫が降り注ぎそのたびに押し殺したような罵り声があがった。彼らの頭上に黒々とそびえる艦橋も、決して快適な場所ではなかった。帆船時代からの伝統もあって仮設の屋根のみが設けられた露天艦橋では、窓ガラスの隙間から吹き付ける風が艦橋に立つ人々のわずかに露出した肌を刺し、また衣服の隙間から吹き込んで容赦なく体温を奪い取った。そのうえ艦内の暖房機能も十分とは言えず、絶えず熱を放ち続ける機械類に囲まれた機関室や電探室、無線室といった一部の幸せな例外を除いた艦内のほぼすべての場所にも暖かさや快適さと言ったものはなかった。
艦橋で当直に立つ男たちはほとんど真っ黒な塊のようであった。彼らは、制服の下にセーター、その上にコート、雨合羽、スカーフ、マフラー、手袋、羽毛の防寒帽とヘルメットを着用し、靴を履いた足元と外を見るための隙間のみをのこし防寒具につつまれていた。絶え間なく小刻みに動き続け、少しでも暖かさを得ようとしている者もいたが、それでもなお暖かさを思い出すには相当の想像力が必要であった。艦橋左右の張り出しで見張りに勤しむ者たちは、遮風装置があってなおまともに吹き付けてくる風の中、真っ黒な海面に目を凝らし、時折中腰となって双眼鏡を覗き込んで、何か異常が―特に、波間にそびえ立つ潜望鏡が―ないかを絶え間なく探し続けていた。
当直の交代となる零時の十五分前に、鹿島は見張り員たちの背後を静かに通り抜けた。夜更けの、悪天候と言っていい状況の中、鹿島は平時とまったく変わることなく、豊かな銀髪を左右に垂らし不敵な表情を浮かべていた。この表情のために誤解されることが多かったが、彼女はけして経験豊かな艦娘ではなく、また強靭な少女でもなかった。それでも、彼女が経験豊かな秋月と同じ大尉の階級にあったのは彼女の装備する艤装が〈鹿島〉、いささか装備が貧弱ではあるとはいえ外洋水軍では軽巡洋艦に分類される艦のものであったためであった。むろん彼女はそのことを十分承知していたし、階級に見合った役割を果たせるよう努力もしていた。彼女はそういう人間であった。
「やあ、鹿島か」
艦橋のゲートをそっと開け、立ち止まって鹿島が暗がりに目を慣らしていると、艦橋の隅に立っていた航海長の枕崎が声をかけた。
「わざわざこんな夜分に、いったいどうしましたかな?」
おどけた口調で枕崎がそう尋ねると、ようやく暗がりに目が慣れてきた鹿島は落ち着いた口調で、「少々夜風に当たろうと思いまして」と答えた。
「なるほど」枕崎は頷いてちらりと窓の外に目をやり、深々と息を吸い込んだ。
「確かに頭を冷やすには素晴らしい夜だ」実際には頭を冷やすどころではなく、頭どころか骨の髄まで冷え切ってしまいそうな状態だった。
鹿島がすぐそばまで来ると、枕崎は小声で「旗艦は?」と尋ねた。
「零時に起こすようにとのことでした。いつものように諸々の状況を確認するのかと」すぐさまそう答えてから、鹿島は付け足した。「ただ、今晩は寝ていてもらいます。秋月さんと相談したうえで、私の責任でそうしました」
「まあ、そうだろうな」枕崎自身、鹿島が来た時点でその答えを予期していたようだった。
「彼女は今どこに?」
「おそらく、私室にいるかと思います」鹿島の声にはあまり感情らしいものが浮かんでいなかった。あえて出さないようにしているようだった。
「もっとも、眠ってらっしゃるかは確信が持てませんが」
鹿島はちらりと腕時計を見やり、「どのような状況でしょうか」と枕崎に尋ねた。
「万事悪くない。出だしとしては上々のものだ」枕崎は反語でもってそれに答えた。
「気温気圧共にみるみる下がり、風は増している。視界もまた悪化してきている。嵐になるね。戦隊の各艦の位置は問題ない。レーダーがすべて捉えている。少なくとも、電探室の谷田大尉はそう言ってきている。ちなみに、戦隊は一四五に向けて一五ノットで進んでいる。これはレーダーの情報じゃないからよほど確実だ」
「ありがとうございます」鹿島は軽く一礼すると、艦橋を出た。
船体内に設けられた通路に降りると、ぼんやりと赤い非常灯の下で、ところどころに水兵が着のみ着のままで転がっていた。通常の規律に照らし合わせたら考えられないことだったが、〈大瀬〉では長いことその状態が続いていた。いつ魚雷が艦内に踊りこんできて〈大瀬〉が最期の時を迎えるかもわからず、もしそうなったとき釣床は迅速な行動を妨げ、それは生死と直結していた。さらに、釣床は海が荒れると上下左右に揺れ、睡眠は非常に困難となる。おまけに、暖房装置の能力は北方航路には明らかに不足で、兵員室であっても温度はかろうじて氷点を越える程度であった。
鹿島は、うっかり水兵を蹴飛ばさないようにしながら揺れる通路を艦尾へと進む。途中で電と合流し、艦尾付近に設けられた待機室の入り口までたどり着くとゲートの取手をひねった。
「鳥よ、鳥よ、夜は何の時ぞ」
「夜明けには未だ至りぬ、闇色益々濃くなりゆきて」
鹿島が朗々と古典劇の一節を読み上げながら待機室に入ると、待機室内にいた秋月が即座に別な劇の一節で応じた。夜間視力維持のために赤色灯だけが灯された室内で、秋月は椅子から立ち上がった。
「特に何事もありません。万事、いつもの通りです」
「お疲れ様です。おやすみなさい」
扉が音を立てて閉まると、鹿島は座席に身を沈めた。電も少し離れた座席に腰を下ろす。
「由良さんは大丈夫でしょうか」
鹿島が電の方を見ると、電は慌てて付け足した。
「あ、いえ、余計な差し出口だとはわかっています。ただ……」
言いよどむ電を見ながら、鹿島はため息をついた。
「軍医長が好きなようにできていれば、旗艦はもう陸上の病院にいるはずですね」そう言って、ちょっと迷ってから鹿島は小声で付け足した。「それでも危険な状態だそうですが」
電にもそれは聞こえていたはずだったが、電は何も答えなかった。しばらくの間、二人とも無言になる。しばらく経ってから、部屋に備え付けられた戸棚を鹿島が開けた。
「ところで、戦盆(チェスのようなゲーム)でもやりません?」
「無電室より艦橋へ、無電室より艦橋へ」
艦橋の天井の隅に据え付けられたスピーカーが音を立てたとき、枕崎は飲みかけの軟飴湯(ココアのような飲み物)を放り出して受話器に飛びついた。
「第六十二号護衛艦より信号です。反響音複数を左舷前方に探知、感大、接近中。複数の潜水艦と思われるとのことです」
無電室からの報告を聞きながら、枕崎はちらりと片目でその位置を確認し、「総員戦闘配置」のボタンを押しこんだ。
心地よさも美しさもなく、ただただひたすらに火急を告げ、眠っているものを覚醒させ、全員を緊張させて持ち場へと急がせる、その目的を可能な限り果たすべくつくられたベルはその能力を余すところなく全艦で発揮した。ひきつった高音はほとんど途切れることなく響き続け、誰の耳にも鋭く突き刺さり、各々の持ち場へと急がせた。
五分後、〈大瀬〉は全艦戦闘配置に就いていた。戦闘時閉鎖されることとなっているハッチはすべて閉じられ、鹿島と電はやりかけの戦盆を放り出してすでに海上にあった。
第六十二号護衛艦は〈大瀬〉への報告と同時に敵潜水艦がいると思われる辺りへと出向き、しきりに探針音を放って敵潜のありかを探っている。鹿島もそちらへと向かいながら、本来は妖精さんが処理するソナーの探針音を自分のヘッドフォンにも流させる。不意打ちのように押し寄せる波に対して、進路を保つよう細かに姿勢を変えながら鹿島は探針音に耳を澄ませる。他の艦が発信した探針音、自らの艤装が発信する探針音が重なり合うように響くなか、わずかに異なる音響の変化を鹿島の耳が拾い上げた。方位を確認するとその方向へと舵を切る。いくらか遅れて妖精さんが敵潜探知を告げた。鹿島は音楽一家の出身であり、幼いころから受け続けてきた音楽に関する教育が作り上げた彼女の耳は、時に妖精さんが反響音を聞き分けるよりも早く潜水艦の兆候を捉えることもあった。さらに、駆逐艦〈幸風〉も増援に赴き、しきりに捜索を繰り返していた。艦橋からは時折、投下された爆雷が水柱を立てているのが望見され、その炸裂する音がかすかに艦内にも聞こえていた。
五島と上中村は艦橋にあり、また由良も彼らの傍らにいたが、由良の手にはハンカチではなくタオルが握られていた。五島はそのタオルがじっとりと赤く湿っていることに気付いたが、何も言わず双眼鏡を握りしめて対潜戦闘の行方を見守っていた。
十数分の後、〈幸風〉からの「接触ヲ失ウ。戦果ハ確認デキズ」という報告があり、五島は両艦に陣列へ復帰するように命じた。戦闘配置は解除され、由良は五島に強く促されてまっすぐ私室へと戻った。
鹿島と電が待機室に戻ると、出撃時に跳ね飛ばされたのか、戦盆の盤がひっくり返っていた。どちらも、出撃する前の駒の配置どころか自分が勝っていたのか負けていたのかも覚えていない。電が二人分の温かい飲み物を貰ってくる間に、飛び散った駒を鹿島が拾い集める。電が赤茶、鹿島は軟飴湯で体を温めながら再び戦盆を始めようとしたとき、総員戦闘配置のベルがまた鳴り響いた。鹿島は軟飴湯を一気に喉に流し込むと発進区画へと飛び出す。盤は机から転げ落ち、せっかく拾い集められた駒は再び床の上にばらまかれた。
何十分後かに戦闘配置は解除されたが、この夜、結局鹿島と電は一陣も戦盆を終えることはできなかった。さらに三回戦闘配置があり、最後のものが終わった数分後には薄暮総員配置の時間となっていた。
[原注]外洋水軍特殊軍艦練習艦隊の「旗艦」。実際には陸上施設だが、外洋水軍では伝統的に、陸上施設も軍艦扱いとし、司令部の設けられた施設を「旗艦」と呼ぶためこのようになっている