星って綺麗ですよね。自分は山に登って星を見るのがけっこう好きです。
帽子を片手に持ち、野分は由良と向かい合って腰を下ろした。野分は相も変わらず無表情で、そこから何らかの感情を読み取ることはできない。しかし、今回は言うべきことを見付けるのにさほどの労力は要さなかった。
「それで、確実に撃沈したのね?」
念を押すような由良の問いかけに、野分ははっきりと頷いた。その声には、何の感情も浮かんでいなかった。
「間違いなく撃沈したと思います。単なる偽装ではあり得ないほどの油が海面に浮いてきたのを確認しました」
「なるほど」
そう応えると、由良は頭の中で素早く考えを巡らせた。もともと水中に潜っている潜水艦が沈没したかどうかの判断は非常に難しい。深海棲艦の体液とされる油の流出、破片の漂流が撃沈したという判定を下す際に用いられる。しかし、実際は損傷を与えただけであることもあるし、狡猾な相手であればわざとそういったものを流して水上艦の目を欺くといったこともあった。そうやって逃げおおせた後、こっそりと浮上して無線で仲間を呼び寄せるのだ。そうなれば、数時間の後には辺りにいる深海棲艦が虎視眈々、戦果を求めて船団の進路上に集結しているという寸法だ。船団は之字運動―ジグザグ航行を続けているが、それにしても運良く敵を欺けるかどうかといったところであった。
「私も確認しました」野分の横に座っていた電もそれに口添えする。「油の噴出に加え、多数の破片も確認しました。残念ながら、回収はできませんでしたが」
「なるほど」
由良はほとんど上の空で頷いた。船団を捕捉した敵潜は排除できたと考えるべきなのか? それとも、仕留められなかったと考えた方がいいのか? 野分は対潜戦闘にかけては第一〇一二航空戦隊でも随一の腕前を誇り、複数回の航海で数隻の敵潜撃沈確実と判定されている。〈越後〉にしても彼女が出るのが少し早ければ救われたのかもしれないのだ。発進と同時に母艦が被雷したのではいかな彼女といえどもどうにもならない―。そこまで考えたところで由良は思考が脇道にそれてしまっていることに気付き軽く頭を振った。電の顔には、上官の無言に対する不安の色 がわずかに覗いている。電も由良の黙考の癖は知っているはずだが、それでもどんな反応が返ってくるかが全く分からず、不安になっているのだろう。そこまで考えたところで、由良ははたと気づいた。この情報をどう判断し、それに応じた命令を下すのは自分ではなく、五島司令であるし、その判断は今すぐに二人に伝えなければいけないわけでもない。
「お疲れ様。ゆっくり休みなさい」
己の迂闊さを呪いながら由良がそう言うと、電がほっとした表情を浮かべた。「はい。ありがとうございます」野分も感情の読み取れない声で頷く。それから、低い声で呟いた。
「これから、もっと沈めます」
「……下がってよろしい」
野分と電が司令私室から退出すると由良はため息をついた。
「おそらく、撃沈したと見ていいだろうね。むろん、油断はできないけれども」
それまで黙って聞いていた五島が、いつもの朗らかな声でそう由良に話しかけた。それから艦内電話の受話器を取り上げて従兵に黒茶を持ってくるよう命じた。
数分後には、有能なる司令部従兵内鋸の手で未だ湯気の立ち上る黒茶が前部調理室から運ばれてきた。野分と電に出され、中身が空になったカップを持って内鋸が引き下がると、五島は急須から二つのカップに黒茶を注いだ。
「どうやら、敵潜以外に気になることがあるようだね」
黒茶に白液糖を注ぎながら五島はからかうような調子でそう尋ねた。
「……いえ、なんでもありません」
「……そうか」
由良はありがたいことにとても熱い黒茶を喉に流し込みながら、野分が呟いたとき、彼女の目に一瞬浮かんだ憎悪のようなものを思い出していた。〈大瀬〉が出港して以来、野分が感情らしいものを見せるのはそれが初めてだった。野分が深海棲艦に対し強い憎しみを抱いていたとしても不思議ではない。彼女の肉親は、わずかに父親を除いてすべて深海棲艦によって奪われたようなものであるし、残る父親もいずこともしれぬ海で深海棲艦の脅威にさらされ続けているのだ。しかし、それでもやはり由良はそこに悲しさを感じずにはいられなかった。当然の理を感じながらも、やはり強い憎しみの感情を前にするとそのほの暗さに戸惑いと、悲しみをおぼえてしまうのだ。おそらく野分はあまり長く持たないのではないか―そういった不愉快な想像も顔を覗かせたが、それが決して否定できない内容であることも由良の中の、理性に支配された部分が認めていた。強すぎる憎しみは過度の勇敢さを引き出し、その決着するところは「勇敢なる戦死」以外には存在していない。ただ、もし彼女がこの航海を生き延びることが出来たら―その時は時間が解決してくれるかもしれない。由良としては、そのはかない可能性に希望を託すほかなかった。
野分と電が艦橋構造物から外に出ると、空には一片の雲も見られず、満天の星空が広がっていた。主従二つの月が大瀬を左右から照らし、甲板上は奇妙に陰影に欠け、その向こうで光を浴びる輸送船団ともどもどこか現実感の薄い景色を生み出している。
艦内へ降りるラッタルへ続くハッチを明けようとした電を、手元の腕時計が示す時刻と日付を確かめた野分が見せたいものがあると言って引き留めた。
怪訝な顔をした電が渋々上甲板で十数分ほど寒風に耐え忍んでいると、不意に野分が黙って天頂付近を指さした。電がそちらの方に目を凝らすと、二つの衛星の煌々とした明かりの中でなおその輝きを失っていない星々のなかにひとすじ、光が流れ去って消えるのが見えた。それがきっかけとなったように、か細い光の流れが次々と天頂から水平線へ向けて降り注ぎ始めた。
「小網座流星群」わずかに、注意して聞かねばそうとは気付かないほどわずかに声を弾ませて野分が呟いた。「北の方ほどよく見えるんだ」
「そうなのですか」電は野分の言葉もほとんど耳に入らない様子で空を見上げていた。二人が星を見上げている間に当直交代の時間となり、辺りにざわめきが生じ始めた。上甲板の機銃座で、ヒーターと防寒具のみを頼りとしてじっと寒さに耐える当直配置から解放された兵たちが、降り注ぐ満天の星を最後に一度だけ仰ぎ見ては重い体を引きずって船内へと帰っていく。点呼を終えて配置の機銃座へと潜り込んだ兵たちは、ニクロム線のぬくもりを頼りに押し寄せる寒さに耐えながらぼうっと空を見上げていた。
「あれ、電も見に来たのか」不意に後ろから声をかけられ、電が驚いて振り向くと深雪がニヤリと笑いかけた。「小網座大流星群だ。北方極の海でしか見られないぞ」深雪の後ろでは、ちょうど上甲板に出てきたらしい夕立が艦内に続く隔壁をロックしていた。
「それに野分もか」黙って流星群を見上げている野分に気付いた深雪はそう言って器用に片方の眉を上げたが、そのまま口を閉じて星空を見上げた。冗談の一つさえ言わずに口を閉じるとは、この世のすべてを冗談と心得えている深雪の行動とは電にはとても信じられなかった。カチカチに凍り付き、波浪で大きく捻じれた柵の前の流星群が何の妨げもなく見渡せる場所を一歩下がって夕立に譲り渡すと電は艦の後方に目をやった。流星群と星空の中で、黒々と低く海面に蹲るようにして進む商船たち。その前方で、妙に低い後部マストが二つの月の光を浴びて奇妙に傾いだ姿を見せていた。出港後、まるまる二日間第十四航空戦隊を苦しめ続けた悪天候の置き土産だ。レーダーアンテナを覆い尽くすように成長した氷で先端部の重量が数倍にも膨らんだところに、繰り返し押し寄せる波浪によって激しく振り回されては、いくら強固な三脚マストとなっていても到底耐えようがなかったのだ。電が目を転じて、艦橋後方のメインマストを見上げると、そのヤードアームも奇妙な角度に傾き、荒天の跡を物語っていた。
電は空腹と眠気を感じ、背後にある上部構造物に背中を預けた。それがきっかけになったかのように体中から力が抜けていく。最後の休憩も、食事をとったのも、敵潜を沈めるより前、だいぶ昔のことのように感じられた。疲れを意識すると、それに抗うのは難しい。
「私はそろそろ失礼するのです」一言、野分たちに声をかけると、電は隔壁のグリップを順に外し、艦内へと潜り込む。
十分の後、電は士官室に作り置きされている、すっかり冷え切ってしまった缶詰肉の挟み飯を胃袋に納め、居住区の隅で寝息を立てていた。
星って綺麗ですよね……。