六月二十一日。麻帆良祭二日目。
初夏とはいえ早朝は肌寒く、山に囲まれているという立地もあって湖には霧が立ちこめ麻帆良の中心部一帯を白く包み込んでいた。
時刻は早朝。例え春でなくとも眠い物は眠いわけで、何を言いたいのかと言えばまだ辺りが薄暗いような時間では多くの者達は未だ寝床で微睡んでいるということだ。
人がごった返す大通りにもほとんど人通りも無く、シンと静まりかえり人が消えたようにも見える麻帆良学園。
実際は目に付きづらいというだけのことであって、早朝という時間にも関わらず既に動き出している人間はいるだろうし、多くは眠っているだけだ。彼ら彼女らはもう一二時間もすれば起き出すはずで、この静寂もそう長くは続かない。
そんな時間帯。人が多く集まるはずの大通りでさえほとんど人がいない時間帯に、昼間であっても人がいないような場所に、動く影があった。
人の手が入っていない、麻帆良の外れの深い森の中に。
◆
苔と雑草がこびりついた、ひとかたまりの土の山。成人の、丁度腰の辺りと同じくらいのまでの高さの、ただそこにあるだけの緑の土くれ。
かつては小さな社だった物だが、今となっては正真正銘土の塊になってしまっている。
「――この場所は特別な場所なんですよね。今は何も無いこの場所が、私の終わった場所であり、また始まった場所でもあるんです。だから改めて事を起こすときは、この場所からと決めていたんですよね」
森の中に佇む人影。セイが土くれを見据えながら、木陰と言うには暗すぎる闇の中で言葉を紡ぐ。
今は記憶の中にしかない結界の基点たる社はセイ自身の手で破壊済みと言っても、結界を構成していた各要素、例えば象徴としての湖や森、あるいは霊脈そのものが無くなったわけではない。
都市開発で森が斬り開かれ魔法使いの認識阻害や大結界の影響があるとはいえ、仕込んで置いた仕掛けを“起こす”くらいは問題なく行える。
ふっと上を見上げれば、空が少しずつ白み始め、夜の濃紺が薄まりつつある。始まるまではあと少し。
日が登り切る前、予定では太陽が半分ほど昇ったあたりから“事を始める”と決めている。時間は、もうそれほどない。
「いつのまにやら足かけ二十年ですか。世代交代で人の入れ替わりもありましたし……」
にもかかわらず、どこかへと声を投げかけ続ける。返事はどこからも無く、言葉は間伐される事が無くなり縦横に伸びた木々がもたらすの向こうへ吸い込まれて消えて行く。
「いろんな事がありましたねぇ。大分裂戦争、関東創設、関西内乱……そして最後に、今日この日からの麻帆良侵攻。私一人のわがままでまぁ随分と世界をひっかき回してきたものです」
いよいよ時間が無くなってきて、やっと立ち上がった。
腰に手を当てぐっと背筋を押し、手を頭の上で組んで筋を伸ばし、身体の各部をほぐしていく。そして
「さて……私が首魁なわけですから、私を倒せれば事態を概ね収束させられると思うんですが……いつまでそうして見ているんですかね、お嬢さん?」
その直後、動きがあったのは背後。木陰からゆらりと人影が滑り出てきた。
長身、しなやかな印象をあたえるすらりとした身体付きでありながら、女性らしい丸みを帯びた起伏を兼ね備えた肢体。
「いやー、ばれていたでござるか。隠れることに関しては自信があったのでござるが……」
「はっは、いやいやその年齢でそれだけできれば上等でしょう。さすがは甲賀の中忍といったところでしょうかねぇ。長瀬楓さん」
「いやー、はっは。…………お見通しでござるか」
長瀬楓。セイの世代からすれば若いというよりも幼いと言うべき年齢の少女であるが、見た目には成人していると言われてもそう違和感のない容姿をしている。今は制服のセーラー服ではなく、上下揃いの忍び装束を着ていた。
その表情は笑みを浮かべてはいるが、余裕があるようには見えない。
一方セイの方も同じように笑みを浮かべているが、こちらにはどこか凄みがあるように楓には感じられた。
二人の距離は十メートルほど。互いに必殺の距離と言って良い。ただし、これはあくまで距離だけで考えればの話であるが。
火力、経験共にセイが上。機動力と一瞬の瞬発力となれば楓にも目があるが、それにしても分の良い賭ではない。潜在能力は別としても、今急に強くなるなどといったことはありえない。
よって現状では、どこまでもセイが有利なのだった。
「正直ここで誰かに会うとは思っていなかったんですが……まぁこんなこともあるでしょう。それで、どうします?」
どうとは? と問い返すことはしない。今の楓には、普段ほどの余裕は無い。
「様子見のつもりだったのでござるが……正直逃げたいでござる」
緊張する楓の前で、セイは余裕綽々といった様子で腕を組んでその言葉にほう、と首をかしげた。
「良いんですか? ここで私をどうにかできれば結構なことが片付きますよ?」
「残念ながら、拙者一人では余りに無謀すぎるでござるゆえ」
セイはやれやれとつまらなそうに首を振る。凄みがやや薄れ、楓から興味が無くなったようにも見てとれた。
「ふむ、妥当な判断と言っておきましょうか。若い割に現実的で面白くないんですが……そういう人材も必要でしょうしね」
「見逃してくれるでござるか?」
「ええ。こんな言い方をしてしまうとアレですが、今回に限って言えば貴女のような小娘一人見逃したところで大した驚異にはなりえません」
挑発するような口調。実際にそうしているのだろう。再び凄みが戻り、今まで以上の圧を持って暴威を振るう。
暗く静かな森のどこかで風が生まれ、ざわざわとどこかで草葉が刷り鳴いた。
「はっきりと言いましょう。私は“今”の麻帆良を潰しに来ました。終わった後には貴女の知る麻帆良では無くなっているでしょう。大切なお友達や顔を知る先生方も何人かいなくなっているかもしれませんね」
「!!」
ここで、楓の表情の変化が大きくなった。やや引きつりながらも笑みを浮かべていたのがなりをひそめ、糸のように細くなっていた目がしっかりと開けられセイを視界の中央に据える。
自然と腕が腰の背後へと伸び、膝を落として前傾姿勢に。しかし、そこで動きが止まった。
「おや、どうかしましたか? そのままかかってきてもかまいませんよ。刀だろうと手裏剣だろうと、どうせ通りませんから」
セイの側頭部、耳の真上の辺りから濃緑の髪をかき分けるようにして、角が現れるのを目にしてしまったからだ。
「……化生の類でござったか。何者でござる」
「貴女個人の立ち位置からすると難しいんですが……学園側から見れば、悪の組織の頭領で概ねあってますかね。ようはラスボスですよ、ラスボス」
そう言って、セイは笑みを深くする。
まるで木々の枝葉が伸びるように、人の頭部から二本の角が生えてきた。それを過程も含めて見るというのは、裏の世界の住人である楓であっても中々にショックが強い。
おまけに、角の出現と共に、セイからの圧が“無くなった”。しかし、なぜか木々のざわめきは“強くなっていく”。
太い枝が嵐に晒されているかのように大きく揺れ、暗がりに木漏れ日が差し込んで幾つもの光の柱が途切れ途切れに現れては消えて行く。
そうした明かりに照らされたことで、セイの姿がより鮮明になっていく。首の後ろでまとめられた濃緑の髪。左右から伸びる翡翠の角、房の飾りが付いた色褪せた茶褐色の和装。光を帯びて見える瞳。いつのまにかその手に握られた赤い剣。
楓は、違和感の塊のようだと感じた。全てが、どれか一つであっても強烈な印象を残しそうなものであるというのに、ただ自然体でそこにいる。あるいはざわめく木々よりも樹木のように、静かに。
「さて、そろそろ時間のようですから、私は行くとしますが……どうします? この場で何かしようというなら、今しかありませんよ?」
セイは楓に背を向け、土くれに手をかざしながらそう言った。赤い剣は土くれに向けられている。
行っているのは、昨日仕込んで置いた柱を用いた術式の機動準備。例えるなら電源を入れて待機状態へと持って行くような、そういったこと。その様子は、全くの無防備といっていい様子である。
しかし、楓は。
「ぬぅ……」
刀の柄に手をかけ、いつでも飛びかかれる状態にありながら、それを実行することはなかった。
何が起きるか、どう返されるか。それがわからなかったからだ。想定できないからでは無い。想定したことがすべて、それこそどんなことでも起きそうな気がして恐ろしく感じてしまったのだ。
振り返ったセイは、楓の顔を一度だけ見て、それから木漏れ日に重なるようにフッと姿を消した。
セイの姿が消えると同時に木々のざわめきもある程度落ち着き、楓は身体から力を抜き、緊張を解く。
「…………化け物でござる」
そうつぶやき、楓もまた長居したくないという風にどこかへと走り去っていく。
誰もいなくなった森の中で、土くれの塊が、木々が、静かに脈動した。
あけましておめでとうございます。
新年一発目からこんな出来ですいません。色々試してこうなりました。自分でも何がなんだかわからなくなりつつあります。