契約は、鎖に等しい。
一度結んでしまえば、法や言葉と同じで、人を縛り、隷属させる。
そもそも契約そのものが法に則り、言葉を用いて行われるものであるのだから、それに縛られるのは当然の帰結ともとれる。
しかし――それが、本人の意志に背いた物であったとすれば。
意に反して鎖に繋がれてしまうのは、当然のことと言い切れるのだろうか?
例えば、文面に嘘があれば? 嘘で無くとも、読めないように記載されていたとしたら?
はたまた、それを強制されたり、そうせざるを得ない状況にまで追いやられたとしたら?
正しいはずは無い。むしろ間違っていると言う方がきっと正しいのだろう。だが、契約は結ばれてしまえば、容易く撤回はできない。
仕掛けられた側は、どうするだろう? 受け入れるのか、抵抗するのか。それはわからない。
それを仕掛けた側はそれを見て笑うのだろう。契約は、絶対だと。
だが――それを見た第三者がどう思うのだろうか?
そしてその第三者が仕掛けられた側に好意的だった場合……どうなるのだろうか?
◆
クルトは困惑と思考の坩堝にはまったであろうアスナを見てほくそ笑んでいた。
自身の行く末と何より大切な物の行く末を天秤にかけ、悩んでいるのだろう。そうでなくては困るのだ。そういう思考に陥るように攻め立てたのだから。
クルトとて、必要がなければここまで直接的な言葉を用いてまで婉曲な手段を用いたりはしない。必要があるからこそそうしているのだ。
何をしてでも手に入れねばならない物ができたとしたなら、クルトは迷わずにそれをする。
この望外の幸運を物にするためなら、どんな手であろうと打って当然。徹底的に行う。
世間一般にはとうの昔に死んだ物と思われていた人物。クルト自身も死んだものとして、仮に生きていたとしても、すぐにどうこうできるものでは無いと長い目で見るつもりで半ば忘れていた、ウェスペルタティアの王族にして、存在自体が隠匿されていた姫巫女。
クルト自身、失念していた、と思う。
かつての同志タカミチがいて、尚かつこの麻帆良は尊敬するナギが公的な記録に初めて登場した場所。近右衛門との繋がりがあったとしても不思議では無く、生きていたと仮定すればまず第一に調べなければいけなかった。
だがもはや過去のことはいい。今この場において、オスティア再考の為の大きな一手となる彼女が目の前にいる。ここからが正念場、忌々しい元老院の下部として何年も費やし手練手管を鍛えてきたのは何の為か。
幸い、タカミチは動けない。麻帆良大橋を挟んだ対岸に関東の部隊であろう特殊車両が集結しているという情報を流してあるし、近右衛門も今はこちらまで気を回せない。今しかないのだ。
契約書は読めないよう英語、ではなくさらに念をいれてラテン語でもって。
書くために使用するのもインク、羽ペンともに魔法世界産の特殊な物を用いて契約儀式をより強固な物に。
極めつきに、紙を抑える文鎮代わりに、天秤の飾りが台座に乗っているというデザインの魔法具を置く。それ単体でも契約時に使われる魔法具としては最上級の物を、さらに上乗せしているのだ。
ただ、書名の欄に名を入れれば良い。それで儀式は成立する。
しかし、アスナの手は膝におかれたまま動かない。ならば、と追い打ちをかけることにする。
「……時に。小説はお読みになりますか?」
「え、あまり……」
突然の話題の転換。混乱の最中にあっては上手く頭も回らないだろう。それでいいのだ。
「そうですか。何でもいいから一度読んでみるといいでしょう。人生を豊かにしますよ。面白い物でしてね。……山場ではよくあるんですよ。“どうして私はあとほんの一瞬、間に合わなかったのか。どうしてあの時、躊躇してしまったのか”、とかね。ああいう場面、私は好きですねえ」
「……っ!」
ついにアスナの手が動いた。クルトが思い描いたように、ゆっくりと、だが確実に契約の為に用意した羽ペンを模した魔法具へと伸びていく。
その動きは酷く緩慢で、今も迷いながら――決断を下しきれていないのだろうが、それでも手は進み続けている。
そして……羽ペンがインク壺から持ち上げられた。
ただし、それはアスナでは無く……アスナの背後から伸ばされた手によって。
「む」
「え?」
アスナは背後から伸びてきた手に、クルトは突然の闖入者に驚く。
「こういうのは良くないと思うでござるよ」
今まで誰もいなかった場所に、重装騎士の壁を越えて突然現れたのは、淡い薄紫の忍び装束の上に白い袈裟を纏った楓だった。
楓は手に持った羽ペンを片手でポキリと折ると、今度はひょいと契約書をつまみ上げる。
「あ、ちょっと楓ちゃん」
「ふーむ、拙者には読めんでござる。明日菜殿は読めるでござるか、これ」
「え、あ、読めないけど……」
「なれば、契約などしてはいかんでござる」
楓は、契約書を上下半分に折ってから机に戻し、クルトの方を見た。
「拙者の友達に妙な誘いをかけんで欲しいのでござるが?」
「部外者にどうこう言われる筋は無い、と言いたいところですが……アスナ様のご学友の一人でしたね、貴女は。資料で見ました、長瀬楓さんですね? なるほど、噂に聞くニンジャの隠蔽力、凄まじいの一言です」
クルトは笑みを崩さない。突然の乱入に驚きはしたが、まだ交渉は始まったばかり。今この場で……というのは難しくなったが、少なくとも“種”は植え付けた。おそらくこの麻帆良の一件、そうそうすぐに終わるとは思っていない。機会はまた必ず巡ってくる。
腹立たしいが、今は我慢だ。全てを台無しにするわけにはいかない。最善が駄目なら事前に移るまでのこと。それに、このタイミングでなぜ出てきたのかというのも気になった。
「どうです、何なら貴女も私と契約しませんか? それだけの実力、高く評価しますよ?」
「読めもせん契約書に署名するなどごめん被る」
「無論、日本語で作成しますとも」
「そうでござるか? しかし残念、拙者には既に雇い主がいる故、不要にござる」
「誰か聞いても?」
「答える必要があるとは思えぬ」
「興味がありますねえ。何とかなりませんか」
いつになく剣呑な口調の楓に、笑みに凄みを纏わせつつあるクルト。周囲の騎士達は何かあればすぐ動けるよう両者の一挙一動に神経を研ぎ澄ませる。
「とにかく、この場は帰らせてもらおう。文句はないでござろう?」
「どうぞご随意に。無事にこの麻帆良から避難できるよう祈っていますよ」
「え?ええ? ちょっと何言って……」
袈裟の下から転移符を取り出し、楓は明日菜を連れて消えた。座る者がいなくなった席をクルトは笑顔のまましばし見つめていた。
「……よろしかったので?」
「良くはありません」
間を置き遠慮がちに問いかけてきた小姓に、あっさりとそう切り捨てた。
邪魔が入らなければこの場で決められたのだから、やはり苛立ちもする。
「……冷めていますね。入れ直して下さい。何か甘い物を」
「畏まりました」
――ぷーくすくす……
「っ!?」
嘲笑と侮蔑を含んだ笑い声。しかし、その声にクルトの背筋は凍り付いた。先ほどの楓とは質が違う存在感。明らかに害意のある存在。
瞬時にそちらへ目を向けても、そこにあるのは無人の店舗のみ。ガラスの向こうでクルト自身が見返している。
周りを見ても、同じように声が聞こえた方向へ今度こそ槍を向けた騎士達がいるだけ。何も無い。何もいない。存在感も気のせいだったかのようにカケラも残っていない。
「貴方」
「はっ」
「聞こえましたね」
「はい。間違いなく」
しかし、気のせいなどではない。騎士達にも笑い声が聞こえた以上、何かがいたのだ。
「……都合の良い傍観者、という訳にはいきませんか」
小姓に預けっぱなしであった愛用の鍔のない白鞘の野太刀。
クルトは、この麻帆良に来て初めてそれを腰に差した。