――思い出すのは、ずっと昔の話。
自分が今より、もっと小さく、何も知らなかった頃。
四季にうつろう、小さな世界が全てだと思っていた頃。
世間の異常が、自分の日常だと知らなかった頃。
異常と日常という、簡単な言葉さえ知らなかった頃。
そして――自分の本当の父と母が、まだ生きていた頃の話。
◆
あの頃は、自分は何もしらなかった。
今では呼吸をするような気軽さで扱える符も、呪術も、なにもしらなかった。
家が関西……京都で代々続いてきた陰陽師の家柄だとか、最高幹部の席を持つ名家だとか、そういったこととかも全くしらなかった。
だから、あの頃は魔法使いとかメガロメセンブリアとか、父や知り合いのおじさん達が何を言っているのかわからなかった。
ある日、父と母、そしてよく家に遊びに来ていたおじさん達が家に来なくなった。
自分の小さな世界からも、たくさん人が消えた。
それがどうしようもなく怖くて、たまに遊んでくれたとっても偉いお姉さんの所に遊びに行った。
子供でないと通れないような細い道。でも、いつも木漏れ日が差し込むお気に入りの抜け道だった。
今思えば、随分と無茶をしたものだ。
その日も、お姉さんは部屋の縁側にいた。東の空をじっとにらんでいた。
それまで見たこともないような、怖い顔だったのを覚えている。
あれは、長としての自分のふがいなさが悔しかったのか。それとも裏切り者が憎かったのか、今となってはわからない。
お姉さんは、自分が来るとはっとしていつもの笑顔になった。
父と母、皆がいないと言うと、自分をひざの膝に抱き上げてくれた。
『今は遠くに出かけとるんよ。せやけど、きっと皆帰ってくる。あの人らは、強い人らやさかい』
言い聞かせるような口調だった。
ほんの少しだけ、笑顔が歪んでいた。
それは叶わない希望だと、わかっていたのだろう。
それからの数ヶ月、小さな世界は静かだった。
いつの賑わいは無く、遠くから毎日のように木を打つ音だけが聞こえていた。
一度だけ見に行ったが、黒髪の少女が木刀で木を打ち据えていた。
ある日、皆が帰ってきた。
その中に、父の姿はなかった。
後で、もう会えないとだけ聞かされた。
それから、ほどなくして母も亡くなった。雨の降る日だった。
交通事故だった。
◆
それから、小さな世界は色を失った。
この頃のことは、正直あまり覚えていない。
いつだったか正確には覚えていないが、あるとき、たまに遊びに来てくれた緑の髪のおにいさんがやってきた。
いつも髪の色の薄いおねえさんといっしょにいる人で、お菓子をくれて遊んでくれる人という認識だった。
その隣には、偉いお姉さんがいた。
『私達の子供になりませんか?』
差し出された、大きな手。
その日、新しい父様と母様ができた。
◆
その日から、世界は一気に広がった。
時雨という仮初めの兄も得た。
多くの事も知った。
符、魔法使い、式神、魔法世界、術式、魔法、関東、関西、麻帆良、本山……
初めて、飛行機にも乗った。
志津真という式神のお兄さんと二人で父様と母様を追って南米に行った。
ついたのはとても暑い国だった。
知らない言葉。知らない文字。全てが新しい未知のものだった。
それからは、地下の遺跡にもぐったり、向こうの子と一緒に日が暮れるまで罠をしかけて遊んだりした。
遺跡の奥の大きな翡翠の石柱に触ったら、封印されていた神様が復活したり、それを巡ってどこかの残党と戦ったりもした。
弟もできた。父様にゆずりの緑の髪と瞳が、少しうらやましかった。
ある日、家族皆で日本に帰ることになった。
本山では、雪が降っていた。
長……偉いお姉さんが、死んでしまったかららしい。
新しい長が“ふぬけ”で“へたれ”だから大変だそうだ。
魔法使いとの和平を本気で目指しているなど、夢想家が長などやってはいけない。
自分も、それに対抗する為に天ヶ崎の席を継ぎ最高幹部になった。
そのすぐ後で、父様が関東呪術協会を発足させた。自分と年の近い幹部もいて、友達になった。
ただ、三会の会合に来ていた東の長、ぬらりひょんを初めて見た。あれは絶対人じゃない。嫌悪感しか抱かなかった。
それから、十余年。
自分も裏の重鎮としてふさわしいだけの実力を身に付けた。
知らなくても良いことも、たくさん知った。
偉いお姉さん……先代の長の娘を今の長こと詠春が魔法使いの支配する学校に送ったときは内乱になりかけた。
裏には関わらせないという約束を結んだが、あの妖怪が守るわけがない。
父様の計画まで数ヶ月となった時に、大戦の息子が麻帆良にやってきた。
関西で緊張が高まる中、案の定そのガキはやらかした。
それをぬらりひょんが利用し、愚かなことに眠れる剣鬼を起こしてしまった。
おかげで、黒化暴走した詠春を止めるのに自分は死にかけた。
だが、だいぶんマシになったとは言えやはりあの男はへたれだ。
もう、誰も彼も不可能だと、詠春自身さえも叶わない夢だとわかっているのに。
詠春は、今でも心のどこかでいつか関西が一つにまとまり、魔法使いと融和が出来ると信じているのだろう。
きっと、そう信じていたいのだろう。
だから、あの時暴走していたにもかかわらず、自分を殺そうとしなかった。
殺す気なら、“首”を刺すか落とすかすればいい。あの時、暴走してなお、その甘さを捨てられなかった。
重要な臓器を傷つけないように内臓と骨の間のほんの僅かな、あるかないかの隙間を狙う……甘ったれ。
そんなへたれに、この案件はまかせられない。まかせるべきではない。まかせられるわけがない。
「……なめた真似してくれるやないか、ぬらりひょん」
手元にあるのは、報告書。送り主は、京都府内にいる行政に食い込んだ裏の関係者。
内容は、麻帆良の修学旅行を受け入れる旨の処理が成されてしまったというもの。
関西呪術協会は限界はあるにしても古くは朝廷からつながりがあり、行政にもそれなりに食い込んでおり、有事の際にはある程度は意向を反映できる。
そのため、通常であれば敵対組織である麻帆良の修学旅行がここ本山のある京都を選ぶことなどできるはずはないし、ぬらりひょんもそれはわかっている。
「これは、宣戦布告ととられてもしゃあないわなぁ……」
先日の、近衛詠春の黒化暴走時には京都府庁と府警に協力を要請したのだが、そのごたごたが収まらないうちに、紛れ込まされてしまったらしい。
その頃はそれ以上に最高幹部が融和派と反対派で詠春の進退についてごたごたしており、とても手が回らなかった
どうやら薄くではあるが魔法もかけられていたらしく、一般の職員では不審に思うこともなくそのまま処理されてしまったそうだ。
今となっては麻帆良学園のホームページなど表側でも公開されてしまった上、書類上問題がないため撤回できない。
だが、気に入らないのはそこに大戦の英雄の息子を突っ込んできたこと。
さらには、その息子を、融和の特使としようとしていることだ。
たかだか、英雄の息子というだけで、十やそこらの子供に。
「……」
関西の最高幹部、天ヶ崎千草は立ち上がった。その身の内を、静かな怒りで満たして。
確かに、英雄の息子というネームバリューがあるのは認めよう。
詠春が魔法使いびいきであるから、有効だというのもわかる。
この案件は、きっと詠春が知ればさぞ喜ぶだろう。甘い飴に見えるのだろう。
だが、自分達を忘れてはいないか?
大戦で身内を失った、自分達を。
異国どころか、異界のどこか名も知らぬ地で息絶えた者達を。
――残された自分達は、それを命令したのが誰か、それを伝えたのが誰か――忘れたことなど、一度もないぞ?
自分達の家族が、何の関わりもない理不尽な戦場で戦っている間、貴様は、貴様らはどこで何をしていた?
――なあ、魔法使い。いや、近衛近右衛門。
大戦から二十年以上たった今日この日に至っても、未だに謝罪など一度も無かったぞ?
それに貴様は、十の子供をあてるというのだな?
大戦の戦火も、喪失の痛みも、怒りも嘆きも悲しみも、すべてを形だけで済まそうというのだな?
自分達を、無視するというのだな?
そこまでするというならば――
「……上っ等やないか」
相手は修学旅行として、一般人を多く連れてくる。
不確定要素も、障害も、どれだけあるかわかりやしない。
だが、昔と違って、今は自分の意志で動ける。
意志を通す力もある。自分を信じてくれる仲間もいる。
父様の計画まで間はないが、麻帆良でなくこの関西で事を起こすならば影響は少なく済む。
なら、やってやろう。
貴様らが、望むのであれば。
思い知らせてやろうじゃないか。
さぁいってみよー。