我が家の居間はかつてない緊張感に支配されていた。
隣り合って座る僕と環さんの真向かいには、テーブルを挟んで環さんのお母上が鎮座なされている。
テーブルの上にはお茶を注いだ湯呑みが三つと、茶請けとして木の器に盛ったポテトチップスがある。
何故、こんな時に限ってお菓子がポテトチップスしかないのか。僕と環さんが親に内緒でこっそりと戸棚のものを漁って食べてしまっているからだ。昨日食べた羊羹は美味かった。
せめてお茶くらいは上等な物をと思い、来客用とラベルが貼ってあった茶缶の新茶を使って淹れたものの、お母上は「ありがとうございます」とお礼を述べただけで、まだ一口も飲んではいなかった。
僕たちもお茶なんて飲む気にはなれない。それほどまでに場の空気が重い。
環さんに至っては耳をぺたんと垂れ、全身を小刻みに震わせ怯えている。真っ青な顔をして俯いており、その様はまるで針の筵に座らされている罪人のようだ。着替える暇も与えられずダサT姿のままでいるのがさらに哀愁を漂わせている。
「改めまして、お初にお目にかかります。私はそこにいる環の母でございます。名は数えきれぬほど多く持っていますが、どうぞ玉藻とお呼びくださいまし」
お母上、もとい玉藻さんがそう挨拶したのを皮切りに、僕と環さんへの質問が始まった。
環さんはとてもではないがまともに話せる状態ではないので、僕が答えていく。
御百度参りと、それによる僕と環さんの出会い。
環さんの仕えていた廃神社が取り壊されたことと、僕のお願いでこの家に環さんが遷座したこと。
引っ越してきてからの生活ぶりの説明(慎ましく差し障りのない範囲で)と、僕たち家族がちゃんと環さんを敬っていること。
そして信仰を集めているにも関わらず、未だに神格は高まること無く、環さんが外出もできずにいること。
ここ一年のことを一通り話すと、玉藻さんは「成る程」と神妙な面持ちで頷いた。
次に僕の横、まだ青褪めたままの環さんに視線を向ける玉藻さん。
この世の本質を全て見透していそうな鋭利な瞳が、娘である環さんを見据えている。
「今おっしゃられた件はそもそも、信仰云々以前の問題なのですが……。環、貴女まさか、晴人殿に伝えていないのですか?」
非難めいた声音に、環さんの肩がビクリと大きく跳ねた。
より一層、空気が張り詰める。僕は玉藻さんの言っていることを理解しきれず混乱する。
環さんが僕に伝えていないって、一体何を。
信仰以前の問題とは、どういうことか。
ふと横を見ると、環さんはまるで大蛇に睨まれたガマ蛙のごとく、ダラダラと大量の汗を流していた。その様子は夏休みの宿題を溜め込んで親にこってり叱られる子供にも酷似しており……。
「環はまだ正式にこの家の神になっていません」
「へ?」
素っ頓狂な声を漏らした僕に、玉藻さんが言う。
「やはりご存じなかったようですね。何某かが新たに神と成るには、一度は天界に赴き大御神より許しを得なければなりません。それが我々の道理なのです」
衝撃の事実に僕は放心する。
待て、待ってくれ。玉藻さんの話が本当だとすると、これまで信じてきたことが根底から覆るのではないか。
暫くして、僕は声の震えを抑えながら言葉を絞り出した。
「つまり、環さんはまだ神様ではないと……」
「ええ」
「だから、信者をいくら増やしたところで神格は高まらないし、霊狐の制約を打ち消せるわけがなかったと……」
「左様でございます」
僕がゆっくりと環さんの方を見ると、環さんは気まずそうにふいと顔を背けた。紛うことなき確信犯の反応である。
「環さん、何か言うことは……」
「うわあああ〜! ごめんなさいぃ〜!」
僕の問いかけが最後の一押しとなった。環さんは罪の意識に耐えきれず、ついに己の不徳を白状した。両手で顔を覆ってわんわんと泣く。
「なんで隠していたんですか!? いや、隠すだけでなく信仰が足らないとか信者を増やせとか嘘までついて!」
目の前にいる玉藻さんの重圧も忘れて僕は叫んだ。
環さんは普段の勝気な態度からは想像もできないほどしおれて「ごめんさなさい、ごめんなさい」と謝り倒す。そして泣きべそをかきながらも、このように言った。
「ほんに、ほんに申し訳ない! 実を言うと天界に帰りたくなかったんじゃ。意地張って下界に残って、帰って来いと言われとったのを無視していて。なのにいつの間にか神社を離れて人間と結ばれとったなんて……母上に会って話すのが怖かったんじゃあ!」
つまり平たく言えば、環さんは叱られるのが怖くて帰省しなかった放蕩娘、ということになる。
「いや子供かッ!」
僕はツッコまずにはいられなかった。どんなに重たい事情があるのかと思いきや、数百年生きてきたとは思えない幼稚さに満ちた理由を暴露されては流石の僕も呆れるしかない。
環さんは以前、お母上がどれだけ厳しい人、もとい狐であるかを語って聞かせてくれたことがある。記憶にしっかりこびりついた苦手意識と、百余年の歳月で出来た溝とが混ざり合い、彼女の中で不安の芽がどんどん育ってしまった結果が今のこの状況なのだろう。
正直、八十そこらで寿命を迎える人間の僕には想像するのも難しい超長期的な問題なので、帰りづらいという環さんの心情も察するに余りある。
しかしそれでも納得できないことではあった。
環さんは決して、このような利己的な嘘をつく人ではない。この一年間、すぐ側で彼女のことを見てきた僕は確信を持ってそう言える。そうやって信じることができていなければあの時、秋暮れの神社で、僕が心の内を曝け出した時に環さんは僕と一緒に歩む道を選んではくれなかっただろう。
どこかに齟齬がある。僕の認識に、或いは今の話の中に。
そうやって僕が拭い難い違和感にモヤモヤとしている間にも、玉藻さんの叱責は続いていた。
「はぁ……貴方はどうしてそうも破天荒なのでしょうか」
玉藻さんは頭痛を和らげるように眉間を揉む。
静かであっても母の一声は強い。べそをかいていた環さんは途端に口をつぐみ、再び肩身が狭そうに小さくなってしまう。
「昔から勝手なことばかり。帰らぬ件もそうですが、親に黙って婚姻とは何事ですか。結婚とは己と相手方の親族全てに影響する一大事なのですから、ただの惚れた腫れたではまかり通りません。そのくらいの良識は娘たち全員に教えたつもりでしたが」
「ううう……申し訳ありません……」
節々に棘がある玉藻さんのお言葉に、環さんはしおしおと萎れて謝罪する。
玉藻さんの言う昔気質めいた結婚論は、現代人の僕にとって理解し難いところがあったけれども、なにせ神様の世界での決め事だ。とやかく言うわけにもいかない。
「私の方からこうして下界まで会いに来なければどうするつもりだったのですか。ずっと逃げ隠れていましたか。それとも私が居ない隙を見計らってこっそり天界に来る腹積もりでしたか」
一つ一つの言葉が重い玉藻さんのお叱りを受け続ける環さんは、しかし言われるばかりでなく、抗議の声を上げた。
「な、ならば、きちんと顔見せをすれば、母上は儂と晴人のことを認めてくださったと言うのですか。いえ。いいえ。母上は……母上だけではなく姉たちもこぞって、断固として反対したでしょう」
顔はまだ僅かに俯いており、身体も小刻みに震えている。だがそれは明らかに、環さんが誰よりも恐れる実の母に対して放った反論だった。
「神に成りたいからと天界へ帰れば、儂と晴人は引き離されるのでしょう。儂にとっては、そのことが何よりも耐え難いのです」
環さんの口調は確信めいており、どこまでも断定的だった。
少し飛躍しすぎているんじゃないか。そう思った僕は差し出がましくも親子二人の間に口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。落ち着いて。どうしたんですか環さん」
「晴人……」
「なにも今ここでそんなに意固地にならなくても良いじゃないですか。お義母……玉藻さんが折角出向いてくださったんですから、ここはお詫びと話し合いをして、それでちゃんと認めてもらいましょうよ」
僕もいずれは環さんのご家族に会ってきちんと挨拶をしなければならないと思っていた。玉藻さんの突然の来訪には驚いたが、見方によってはこれは好機だ。この場できちんと話し合っておく必要がある。
そう思って僕がどれだけ宥めても、環さんは頑として首を縦に振らない。話し合いの余地など何処にも無い、とでも言うように。
「無論です」
玉藻さんがぴしゃりと告げた。
僕の発言に賛同してくれたのかと思って振り向くと、玉藻さんは尚も厳しく鋭利な視線を投げかけていた。環さんと僕の二人に向かって。
「あなた達二人の結婚は認めません」
それは死刑宣告にも似た酷薄さを伴って、僕たちに叩きつけられた。
あまりに強すぎる断言に僕は唖然としてしまう。ややあって硬直から抜け出し、頭の中でまとめた言葉をなんとか絞り出す。
「えっと……お気持ちはその、分かります。娘さんがどこの馬の骨とも知れない男とくっ付くなんて、考えたくもないことだと思います」
辿々しい僕の発言を、玉藻さんは静かに聞いている。それがことのほか不気味だった。
聞き流すでもなく言葉を被せて押し込もうとするでもなく、こちらの意見に耳を傾けて静聴した上で、尚も全く引きそうにないその姿勢はまるで堅牢な城砦のようだった。
しかし僕にも僕の矜持がある。今は臆さずにそれを伝えなければいけない。
「でも、僕は真剣です。遊びや半端な覚悟なんかじゃなくて、真剣に環さんとのこと、考えています」
だからどうか、少しずつで良いから認めていただきたい。
誠心誠意、僕が頭を下げてそう言うと、玉藻さんは小さくため息をついた。
「先程も申したでしょう。惚れた腫れたではまかり通らないと」
一切動じる気配のない玉藻さんの声音が、凛として部屋に響く。
「環の世話を焼いていただいたことは、母として厚く感謝申し上げます。後ほどお礼の品を御輿に一杯、牛に引かせて届けましょう。しかしそれと婚姻の話は別です」
玉藻さんはキッパリとそう告げて、今度は環さんに問いかける。
「環、母が何故、神無月の迫った今日になって貴女に会いに来たか分かりますか」
ふるふると環さんが首を横に振る。
ここまでの話で何となく有耶無耶になって忘れかけていた事を、僕もはたと思い出した。
そうだ。まだ玉藻さんが訪ねてきた理由を聞いていなかった。環さんの顔を見に来たのだろうと思っていたが、彼女の口ぶりからしてどうもそれだけではないらしい。一体、神無月とか言うものと何の関係があるのか。
僕は玉藻さんの次の言葉を待ち、ごくりと固唾を飲んだ。
「めでたきことです。貴女の結婚のお相手が決まりました」
「……は?」
今度こそ、僕は完全に思考停止した。
「私が掛け合ったところ、由緒正しき縁結びの神様が貴女をお嫁に貰ってくださるとのことです。今も立派な御社に住まい、人々から祀られている偉大な方ですよ」
錆びついた機械のように僕が横を見てみれば、環さんは押し黙っており、膝の上で拳をぎゅっと握っていた。
逆らえないのだ。
環さんのその態度から、僕は直感的に察した。ついさっき、ほんの少し反論したのが彼女の精一杯。それほどまでに環さんにとって、いや霊狐にとっての玉藻さんとは畏怖すべき存在なのだろう。
瞬間、僕の中でタガのようなものが外れて消し飛んだ。
「母と共に天界へと帰り、神無月の集会に出席なさい。神々の御前で報告奉り祝言を挙げれば、貴女は晴れて……」
「駄目だ」
「……なんですって?」
玉藻さんが再び僕の方を向く。さっきまでとは違い、環さんに浴びせられていたであろう冷徹な視線を叩きつけられる。
しかしそんなものは一顧だに値しない。ここで退いてはならぬ。僕は燃える衝動のままに言った。
「環さんの隣だけは譲りません。例えお義母様のおっしゃることであっても、それだけは駄目です」
「誰が義母ですか、誰が」
玉藻さんが眉間を揉む。
だから惚れた腫れたでは……と同じ台詞を口にしかけたのを、僕はやおら立ち上がって封殺した。純愛主義論者として声高に言わねばならなかった。
「愛なき結婚に何の意味がありますか! 相手が神様だろうがなんだろうが、僕は反対です。こんなこと勝手に決められて納得できるわけがありません!」
僕の言葉に、玉藻さんもより一層威圧感を増す。
「少年、誰に向かって意見しているのか分かっているのですか。世に名高い白面金毛九尾の狐とは、私のことなのですよ」
よく分からないが、偉い存在だから下手に出ろと言いたいらしい。出るわけがない。
「ビャクメンキンモー? 知ったことか! 環さんの伴侶はこの僕だ!!」
僕の声が響き渡った後、居間は時が止まったような静寂に包まれた。
玉藻さんは僕の発言が予想外だったとでも言いたげに目を丸く開いている。それと同時に、彼女から発せられていた圧力もフッと消えたように思われた。
お互いに見つめ合う。そうして僕が目を逸らさないと見ると、玉藻さんは大きくため息をついた。
「……成る程。そこまで意思が固いと言うのであれば、こちらもそれなりの対応をするしかありませんね」
実力行使か。僕は一瞬身構えたが、玉藻さんに先程のような敵意は無く、ポテチを一枚食べて静かにお茶を飲み干しただけだった。
「今日はここでお暇させていただきます。後日、改めて話し合いの場を設けようと思います。今回の縁談は相手方の神様も快諾してくださったものですから、その方も交えもう一度、腰を据えて話すと致しましょう」
そう言って玉藻さんは立ち上がり、俯いたままでいる環さんの横を通り過ぎる。
「ああ、そうそう。ずっと廊下で耳をそば立てていた童たち。あなた方は晴人殿と環の友人でしょう。話が気になるのであれば、次は堂々と顔を見せて結構ですよ」
廊下の方の壁からわたわたと慌てるような音が聞こえた。どうやら小野町と伊藤が盗み聞きにやって来ていたらしい。
と思っていたら二人とも素直に出てきて、ごめんなさいと僕たちに謝った。
しずしずと歩き、玄関へ向かう玉藻さん。彼女を見送るために僕も後に続く。下駄を履いた玉藻さんはふと僕を見つめた。何かを確かめるように数秒ほど。
「あの、何か」
「……いいえ。お気になさらず」
玉藻さんは懐からお札のような紙切れを一枚取り出して僕に手渡してきた。
「日取りが決まったら式神にてお伝え致します。晴人殿、申し訳ありませんがそれまではまた、環の世話をよろしくお願いします」
言われるまでもない、という意味も込めて僕は頷く。玉藻さんはくるりと踵を返して「お邪魔しました」と言い、家から出て行った。
バタンと玄関扉の閉まる音がしてから暫く経ち、ようやく僕は安堵の息を吐いた。
どっと疲れた気がする。あまりの情報量の多さに脳がパンクしそうだった。
環さんの婚約相手である神様との話し合いや環さんの神格についてなど問題は山積みだが、今しばらくは何も考えずに落ち着きたかった。
玉藻さんから渡された式神らしきお札を持って居間に戻ると、そこにはニマニマと満面の笑みを浮かべた小野町と伊藤がいた。
「カッコよかったね、稲里くん!」
唐突な小野町からの賛辞にびっくりしていると、伊藤も強く頷きながら僕を褒めそやす。
「男気を見せたな。いや感心したよ。晴人はやっぱりやる時にはやる男だ」
言われて、ようやく僕はついさっき玉藻さんに対して自分が口走ったことを思い出した。
思い出した途端、顔から火が出るような恥ずかしさに襲われた。興奮していたとは言え何て事を大声で叫んだんだろう。しかもそれを友達二人にも聞かれていたなんて。
天晴れ、すごいすごい、と褒められれば褒められるほど恥ずかしくなり、僕は逃げ場を探して環さんの方を見た。
するとどうしたことだろう。玉藻さんが帰ったというのに、環さんは何を言うでもなく下を向き、顔を両手で覆って固まっている。小さな手のひらに収まらず見えている頬は真っ赤に染まっていた。
「環さん、どうしたんですか?」
僕が近寄ると顔をぷいと背けられる。
そんな僕ら二人を見ていた小野町は何か閃くことがあったのか「環ちゃんこっちこっち」と手招きをして部屋の隅に彼女を連れて行き、何やらゴニョゴニョと話し始めた。
「うん、うん。ははん」
環さんと二言三言話した小野町は、僕に向かって言った。
「えー、単刀直入に言うと、惚れ直したとのことです」
今度は僕が赤くなる番だった。
もっと、もっとコメディ成分を…。