急遽、参加することになった玉藻さんを交えて会談は仕切り直された。
仕切り直すも何も、今まで本題とは関係ない雑談しかしていなかったのだが、無論そのことは誰も玉藻さんに口外しなかった。口は災いの元なれば。
玉藻さんが加わった代わりにドロップアウトした者がいる。
豊女さんである。
なんたる言葉遣い。
破廉恥な格好。
仲人の役目はどうした。
などと玉藻さんにこってり絞られた彼女はお茶汲み係に任ぜられ、茶菓子を出した後は部屋の隅で
もちろん着替えを済ますようにと玉藻さんに言いつけられ、今は女中のような質素な柄の着物姿となっている。
先程まで僕たちを翻弄し尽くしていた威勢はもはや欠片も無い。僕がお茶を飲み干したところで粛々とおかわりを注いでくれたのだが、もう明らかに落ち込んでいて見るに堪えない。
環さんは環さんで「おいたわしや姉上」と憐憫の情を送っていた。同じ母を持つ者同士、他人事とは思えないのであろう。
「さて」
玉藻さんの凛とした声に、場の空気がより一層引き締まる。
変わらず呑気そうにしているのは大山さんだけだ。茶を啜って菓子にまで手をつけている。当事者の一人なのにこの余裕。恐るべき豪胆ぶりである。
「話はどこまで進みましたか」
玉藻さんは、進行役を任せていた豊女さんに聞いた。しかしそれに答えたのは大山さんだった。
「晴人氏らの近況を聞いていたんだ。いや彼は中々に面白い青春をしている。そこに並んでいる友達の二人も良い子たちだ。私は彼らのことが好きになったな。うん」
「……つまり、婚約の話は進んでいないと」
「そうなるねえ」
笑う大山さん。
玉藻さんは苦々しい表情で眉間を揉んでいる。彼女は何か言いたげだが、しかし何も言わなかった。
神前であるため堪えている、ということか。きっと苦労人なのだろうなあ、と僕は玉藻さんに同情すると共に、少し親近感を覚えた。狐も人も、目上の存在には振り回されるものらしい。
しかしそうやってほっこりとしたのも束の間だった。
「環、貴女はこちらにおわす大山之国津茂神様に嫁ぐのです。良いですね?」
玉藻さんの声音には此方が息を飲むほどに固い意志が滲んでいた。取り付く島もない。
あまりに強硬的な物言いに、さすがに一言くらい言わねばと僕が口を開きかけたところ、玉藻さんの鋭い双眸がこちらを真っ直ぐに見つめた。深層心理のさらに奥、魂の核すらも射抜くように。
初めて会った時とは比較にならないほどの重圧を受けながらも、僕は平静を保とうと必死になった。
バクバクとうるさい心臓をあやすように、自分に一つでも落ち度がないかと確認する。先日の我が家での話し合いで生意気な口を利いてしまった自覚はあるが、あれに関しては玉藻さんもそれほど怒った様子は見せていなかったように思う。
そんな考えが顔に出ていたのか、玉藻さんはこう言った。
「晴人殿が本気であることは理解しています。先日、貴方のお宅に寄らせてもらった際、それはしかと示してもらいました故。ただ一つ、聞きそびれたことがあります」
「な、なんでしょう」
「晴人殿は、環との今後の人生を真剣に考えていると、そう仰いましたね」
「その通りです」
なるべく動揺を見せないよう、間を空けず返事をする。
躊躇えば相手に疑念を抱かせる。疑念とは即ち不信感だ。一度湧き出た不信感はそう簡単には拭えない。それこそが今、僕の最も恐れるべきもののはずである。
だから決して、どんな質問が来ようと、躊躇う事だけはしないようにと気を付ける
「その“今後”というのは、何時までのことと考えておいでで?」
「……何時まで、とは」
少し間が開いた。予想の外、と言うよりは予想していた中で一番触れられたくない質問だった。
自分の声が震えていたのが分かる。我ながら間抜けなオウム返しの返事だったが、今は僅かでも心を落ち着ける猶予が欲しかった。
そして玉藻さんはまるで容赦なく、直截に、僕の猶予を打ち砕いた。
「百年ですか。二百年ですか。一体、どれほどの時を環と過ごすおつもりで?」
今度こそ、僕は完全に沈黙した。
「分かっているでしょうが、我々霊狐はもっと長く生きますよ。長く、永く。それに比べて、人間である貴方の寿命は如何ほどですか」
それはぐうの音も出ない正論だった。僕はもう、玉藻さんの目を見つめ返すことさえ出来なかった。
寿命の差を意識してこなかったわけではない。むしろずっと胸に引っかかっていた。
何度も頭を過っては、どうしようもないことだからと考えないようにしてきた不安。きっと環さんに相談しても「何を今更」と笑われるだろうと思って、ちゃんと話し合わずにいた。
その不徳を、今ここで指摘されることになろうとは。
少し話しただけでも分かる。玉藻さんは恐ろしく聡明だ。僕の沈黙から、こっちが何を考えているのかは殆ど察しがついてしまうのだろう。彼女は毅然とした口調で話を続けた。
「晴人殿は環の伴侶として名乗りを上げましたね。しかし伴侶とは生涯を添い遂げるもの。一時、身を寄せ合うだけの関係を、婚姻と認めるわけにはいきません」
もっともな意見だ。反論のしようもなく沈黙する。
頭ごなしに否定されるのであれば、いくらでも抵抗することができた。それこそ先日のように、神であろうが九尾であろうが、自分の主張を声高に掲げるつもりだった。
しかしこうも理路整然と諭されては如何ともし難い。
僕は言うまでもなく根っからの純愛主義者である。
盟友の伊藤と共に古代ギリシャの賢人のごとく崇高な思索の日々を過ごしてきた。
ニーチェ・フロイト博士の著書から巷で“薄い本”と呼ばれる書籍までも読み漁り、パソコンを使い数多の仮想世界で多岐に渡るシミュレーションをこなし、我々は恋愛研究を押し進めた。その成果を文面化したならば途方もない量の論文が積み上がり、学会を震撼させるに違いないと踏んでいる。
だからこそ、玉藻さんのお言葉は僕の胸の奥にずんと効いた。参りましたと言いたくて仕方がない。
純愛主義者としての僕はもはや彼女の質実剛健な価値観に白旗を上げるどころか、尊敬の念すら抱き始めている。是非とも僕と伊藤の輪の中に加わって議論を交わしてもらえないだろうか。
しかしそれでも、今この場で負けを認めるわけにはいかない。退いてしまえばそれまでだ。
環さんとの仲を認めてもらう道があるとするならば、それはもう、僕が頑なであること以外には無いのだから。
打開策を探しながらも黙っているしかできない現状。
そんな歯痒い沈黙を破ったのは僕ではなく、環さんだった。
「母上。儂はそれでも、晴人と一緒に居たいと、思います」
震え声で、しかし真っ直ぐに環さんは言った。玉藻さんに視線を向けられてたじろぎそうになるも、意志の力で背筋を伸ばして相対する。
僕は驚愕して環さんを見つめる。
決意を秘めた凛々しい横顔。普段は言動の何もかもが幼くてちゃらんぽらんなのに、ふとした時に僕の両親よりもずっと思慮深く達観した価値観を有した顔つきをする。
「本気ですか」
「はい」
玉藻さんの問いに環さんはハッキリと答える。
言葉の上ではひどく端的だが、二人とも相手を見据える瞳は言い表しようのないほど真剣味を帯びていた。
環さんは僕と違い、寿命差の問題というものを正しく認識しているはずだ。理屈としてではなく、感覚のものとして。
なにせ彼女はつい昨年まで、およそ百年もの間実際に孤独を味わってきたのだから。玉藻さんもそうした環さんの内情を理解している。故に多くを語ることはない。相手の目をまっずぐに見つめて意思をぶつけることが肝要になる。
僕はいくらか遅れて、そのやり取りの意味を理解した。
どちらも譲る気配は無い。環さんはさらに畳みかけるように、大山さんの方を向いて頭を下げた。
「大山之国津茂神様におかれましても、せっかく縁談を承諾してくださったのに申し訳ありません。しかし儂……私はもう晴人と離れるなど考えらぬのです。どうかその縁結びの御力で、私たちのことを祝福してはくださりませんか」
環さんの言葉にハッとして僕も頭を下げる。
どうかお願いしますと、お辞儀をしながらも頭の中では『寿命、寿命』とそればかりがグルグルと駆け巡る。退いてはならない。それは分かっているのに、剝き出しになった現実を前に、僕の心は否応なく揺れ動いていた。
ただ、僕個人の心情はさて置き、この場で僕たちにとって幸いなのは環さんの婚約者であるはずの大山さんの存在に他ならない。
彼は登場してから今も一貫してにこにことしており少しも剣呑な雰囲気が無い。これは本当に予想外だった。環さんを間に挟んで僕と敵対するどころか大変に友好的で、こちらに協力してくれそうでさえある。
それに環さんが今お願いした通り、彼は縁結びの神だ。その力で僕と環さんを運命的に結び付けてくれるのであれば心強い。
浅ましくもそう期待していたのだが、暫くしても返事が無い。代わりに「ううむ」と大山さんの悩ましそうな声が聞こえる。
「私としても今ここで貴君らを盛大に祝いたい気持ちではあるのだが、なかなかそうもいかんのだ」
大山さんは僕たちに頭を上げさせて「ほら、これを見たまえ」と言って何やら懐から取り出した。
博物館に展示されていそうな和紙製の古びた手帳だった。表紙には達筆な文字で『縁起帖』とある。
「これは私の仕事道具でね。まあ読んで字のごとし、縁結びの天啓が書かれた手帳だ。既に結ばれている者、これから結ばれる者、私の神社を中心にここいら一帯の良縁を網羅している。兎も角この手帳に書かれた者たちは必ず結ばれるというわけだ」
説明しながらぺらぺらとページがめくられる。
一枚一枚にびっしりと人の名前が書いてあり、よく見れば男女で対になるように記載されているようだった。
時々、どう見ても男同士で縁結びが成されている部分が見受けられた気がしたが、気のせいだと断じた。
これが全て現実におけるカップルの登記だとはにわかに信じ難い。おぞましい数だ。
何故、これだけの組み合わせがあって、僕は生まれてから環さんに会うまでの十七年間でただの一人の女子からもモテたことが無かったのか理解に苦しむ。一度くらい良い目を見させてくれても良かったんじゃないか。僕はそんな恨みを込めて穴が開くほど手帳を見つめる。
「あった。ここだ」
大山さんは紙をめくる手を止めて、ある一点を指さした。まだ真新しい項目にはこう書かれていた。
大
山
之
国 × 環
津
茂
神
「認められるかあああ!!」
僕は肺活量の限り叫んだ。
今日び、小学生ですらこんなもの書かんぞ。婚約届でもない、こんな落書き一つで環さんを盗られて堪るか。
いや冗談だろうと思って大山さんを見るも、彼は真剣そのものといった様子で眉根を寄せている。
「そうは言っても君、現にこう書いてあるのだから難しいのだよ」
「いや消せばいいでしょ! これに何の拘束力があるんですか!?」
「そりゃ神のお告げだからね。天啓だよ」
「天啓って、一体誰が決めて書いたんです?」
「無論、私だ」
『縁起帖』なるインチキ書物を目の前の神の手から奪い取ってビリビリに破り捨てたい衝動を抑え込んだ自分を、僕は褒めてあげたい。
「ううむ」
悩ましい声が聞こえた。大山さんでは無い。隣の環さんからだ。
なんと彼女は驚くべきことに、ふざけた手帳に書かれている大山さんと自分の名前を見て真面目に困っている。
一も二もなく否定する場面では?
僕としてはそう思うのだが、見れば玉藻さんも動かぬ証拠を提示した検事のような顔をしており、常識が音を立てて崩れる音を聞いた気がした。
僕は理解に苦しみながらも、どうやら一笑に伏すことが出来るような話ではないらしい、と無理くり納得せざるを得なかった。
少し引いた位置から僕たちのやりとりを見守っている伊藤と小野町だけが僕に共感と同情入り混じる視線を送ってくれており、それだけが救いだった。
「まあしかしだ」
大山さんは手帳をパタンと閉じて懐へしまった。
「横恋慕というものは私も好きではない。これは晴人氏の存在を知らぬうちに環氏との縁談を結んでしまった、すれ違いの結果だ。その上で無理矢理こちらが伴侶を奪ってはあんまりだろう」
僕の中で地に落ちかけていた大山さんの評価がV字回復する。特に「横恋慕が好きではない」という言葉が僕の胸を打った。そこに関しては全く同感であり、同志を見つけた高揚感を覚える。
「玉藻さん。あなたの顔に泥を塗るようで申し訳ないが、やはり二人の仲を応援するということにはならんかね」
環さんが感極まった表情で大山さんを見つめる。次いで、この場の全員の視線が玉藻さんに集中する。
裁判長の判決やいかにといった感じの雰囲気に、さしもの玉藻さんも暫く悩ましげに黙考している。一貫して僕と環さんの仲を認めないと言っている彼女も、どうやら神である大山さんの発言を無碍には出来ないらしい。
難しい顔をする玉藻さんに、大山さんが言葉を続ける。
「何も今この場で彼らの祝儀を挙げるというわけでもない。ただ機会くらいは与えられるべきだと思うわけだよ。そう例えば、彼らの覚悟を試す、くらいの機会は」
試す。つまり、試練。
「貴女も結局はその辺りを落とし所として考えているのではないかな」
大山さんにそう問われて、玉藻さんは「ええ」と答えた。
予想外だった。彼女は僕と環さんの仲に対し断固として反対し続けるものとばかり思っていたから、最初から試す方向で考えていたとは意外であった。
しかし試練とは、何をさせられるんだろう。
目の前の人たちのどこか抜けたところを鑑みればそこまで無茶なことは言われないと思いたいが、しかし相手は曲がりなりにも神である。大学を卒業してからとか、同棲期間を設けるとか、仕事が安定して蓄えが出来たらとか、そういった人間基準での話は通用しないかもしれない。
「晴人殿」
「は、はい」
名前を呼ばれ、殊更かしこまって背筋を伸ばす。
玉藻さんの声色にさっきまでの詰問のような雰囲気はもう無かった。その代わり、真剣にこちらと向き合う腹を決めた凛とした気迫があった。
「もし環と正式に結ばれたいと言うのでしたら、晴人殿には神々の集会に出席していただくことになります。そこで大御神様より許しを得なければ貴方がたが結ばれることはないでしょう。しきたりとはそういうものです」
只の高校生が関わるにはまた大それた話になってきたぞ、と肝を冷やしながらも、僕は玉藻さんの話に一つ思い当たる節があった。
神々の集会。
いつだったか、環さんから聞いたことがある。
毎年旧暦の十月になると、日本中の神様が島根の出雲へと赴き、一同に会するのだと。
「神無月……」
「左様です」
僕の口から漏れた呟きに玉藻さんが頷く。
「ただし人間である貴方を何の条件も無しに招くわけにはいきません。貢ぎ物の一つでも持ってきていただかないことには」
玉藻さんが言いながら何処からともなく美しい錦画家の刺繍がされた手提げ鞄を出現させた。手品のようだが、恐らくはタネも仕掛けもない妖術。
貢ぎ物と聞いて僕の中で悪い予感が膨らんだ。
まさか身体の一部を差し出せと言われるんじゃないか。
神に血肉を捧げる。そういった話はネットなんかで都市伝説と検索すれば幾らでも転がっている。
夏の間中、環さんと二人でその手のまとめサイトを漁りまくったので生贄関連の逸話にも幾つか覚えがある。
大抵は「怖い怖い」とふざけて楽しんでいたのだが、時たま「これガチじゃない?」と環さんが真面目に考察しだして本当に怖い思いをさせられた。
真夜中のトイレへ行くため環さんに付き添ってもらったところを母に見られたことは、僕の人生の真新しい汚点である。
何はともあれ、神隠しや生贄文化というものは決して架空のものだけではないということだ。
ましてや目の前にいるのは本物の神や妖怪なのだから、どうしても不安が先立つ。
玉藻さんが小さな手提げ鞄の中に手を入れる。身構える僕の前に、彼女は鞄から取り出した物をそっと置いた。
それは瓢箪だった。
くびれと飲み口に紐が巻き付けてあり、肩に提げたり片手で持って飲めるような仕様になっている。
そして何より大きい。婦人が小脇に抱えているような小さい鞄には到底入れられないサイズである。
どうやって入っていたのだろうと疑問に思うが、存在が怪奇そのものと言える玉藻さんたちを前にそれは意味のない考えだろう。
触っても良いとのことで恐る恐る持たせてもらったが、中身は空のようだった。触った感じも特に何もなく、不思議な何かが僕の身に起こるということもなかった。
「これは酒瓢箪といいます。注いだ水が上物の酒に醸される、大変珍しい逸品です」
言われて、飲み口に鼻を近づけてみると確かに仄かだが日本酒のような匂いがする。
父が酒好きでよく居間で飲んでおり、味が気になった僕もしばらく前に一口飲ませてもらったことがあるのだが、飲めたものではなかった。まだまだ酒を嗜む舌になるには若過ぎる、ということらしい。
しかしそんなお子様な僕をしても、瓢箪から香る酒精は思わず喉を鳴らしてしまうほど良い匂いだった。
玉藻さんが僕に課す試練は、この瓢箪に水を汲んで来る、というものらしい。
「無論、ただの水ではいけません。とある山に湧き出る、神聖な泉から汲んで来てもらいましょう」
とりあえず身を削る類の話でなくて助かった。
そう思って僅かに安堵した刹那、僕は見た。
一瞬。ほんの一瞬だけ、玉藻さんの口角が上がった気がした。
「霊峰、龍ヶ峰に登りなさい」
聞いたことのない山だった。横目で確認するが、伊藤と小野町も知らない様子である。
よく分からず呆けている僕たちと違い、環さんは玉藻さんの言葉に過敏に反応した。
「は、母上……そこは、尋常の場所では……」
「尋常では試練になりません」
「しかし……」
「安心なさい。元より人の身で意図して辿り着ける場所でもないですから、案内をつけましょう。まずは環、貴女が付き添いなさい」
思わぬ玉藻さんの発言に、環さんの狐耳がピンと立つ。
「儂も、一緒に?」
「伴侶を名乗るのであれば、貴女も同じく龍ヶ峰に登るべきでしょう」
玉藻さんは先ほどの手提げ鞄から一枚のお札を取り出して環さんに手渡した。覗き込むと、式神としてこの前渡された物とは、書いてある模様や文字が全く違っている。
お札を受け取った環さんの手が微かに震えていた。「これは大御神様の」と畏れるように呟いている。
「免状です。下界の時間にして十日ほど、貴女は外へ出ることが可能になります。それを試練の期日としますので、必ず返すように」
環さんは感極まった様子で、うっすらと涙すら浮かべ「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。玉藻さんは相変わらずツンと澄ました顔をしている。
「豊女」
「はいッ」
唐突に呼ばれた豊女さんがビクリと直立し、風のような速さで玉藻さんの側に寄った。
「貴女が二人の案内役を務めなさい。いいですね」
「かしこまりました!」
ここが軍隊だったのなら「イエスマム」と叫んで敬礼しそうな勢いで、豊女さんは案内役の命令を拝領した。恐るべき絶対君主制である。
豊女さんは以前、その龍ヶ峰という山に訪れたことがあるらしく、案内役としては適任とのことだった。大体一週間ほどの旅になるだろうから路銀も持たせてくれると言う。
試練と言う割にはかなり気を回してくれるなと思う。
「では無事に帰ってくるように」
玉藻さんは僕たちにそう言い、大山さんにも会釈をした後、スッとその姿をかき消した。
何の前触れもなく唐突に、瞬きにも満たないほどの間に彼女は居なくなっていた。
僕は驚いて伊藤たちと顔を見合わせる。
まさしく狐に化かされた気分だ。
しかし僕の手には確かに、先ほど玉藻さんから受け取った瓢箪がある。
試練か。
どうにもまだ実感の湧かないその言葉を胸の内で反芻する。
「な、なんだか大変なことになっちゃったね」
それまでひたすら静かに話の成り行きを見守っていた小野町が声をかけてきた。僕は「うん、まあ」と気の抜けた返事をする。
正直、まだ気持ちが現実に追い付いていなかった。
天界へ行って神々の宴に参加しろと言われても、全くイメージが湧かない。
まさか魑魅魍魎に取り囲まれて裁判じみた儀式にかけられ、挙句の果てに神隠しに遭って二度と帰れない、なんて事態には陥らないと思うが。思いたいが。
まあ何にせよ、僕はこれから龍ヶ峰なる山に登らなければならないらしい。
高さはどれくらいなのか、そもそも日本の何処にあるのかすら知らないが、一週間もかかるとなるとかなりの遠出になるのだろう。
今までに経験した外泊と言えば修学旅行の二泊三日がせいぜいの僕にとっては中々に勇気がいる大旅行だ。
それでもヤマタノオロチを倒してこいとか天ノ岩戸を開けろだとか、一般人には不可能な無理難題を吹っ掛けられなかっただけでも、ありがたいと思おう。
「は、晴人。どうしよう……」
環さんの震えた声に振り向くと、彼女は顔面蒼白で困り果てていた。
どうしたのだろう。
まさか、龍ヶ峰は環さんがこんなにも怯えるほどに恐ろしい場所だというのか。命を落とす、或いは帰って来れなくなるといった類の危険が伴うとでもいうのか。
再び不安を覚える僕の袖口を小さな手でぎゅっと握り、環さんは重々しく言った。
「神これが……」
「……ん?」
理解が遅れる。
カミコレ?
いや、神これ。
ややあって、人気ネットゲーム『神様これくしょん』の略称だと思い出す。
『秋イベ*1が……もう始まるのじゃが…………』
このネトゲ廃人がよ。