俺の友人に稲里晴人という男がいる。
高校に入学して間もなく、彼は他の生徒と何かが違うぞと、傍目から見ていた俺は思った。
まず目がギラギラしている。
新入生というのは中学でも高校でもキラキラしているはずだけれど、彼の場合は明らかにギラギラしていた。なんとなーく青春を謳歌しようと浮かれている同級生たちとは一線を画した気迫が彼の瞳には宿っていたのだ。
明確な目的を持ち、それに向けて邁進することに余念のない者の目だった。そのただならない迫力に俺は当初、晴人という男を恐れていた。恋愛目的で筋肉を鍛え続けている俺のような人間が近付きでもしたら「喝!」と叫ばれそうな気さえして、クラスで孤立しているぼっち同士でありながら話しかけることに二の足を踏んでいたのである。
しかしいざ話をしてみれば、彼は同好の志であった。俺と同じで清く美しい青春を求めていたのだ。
周囲をなで斬りにしそうな鋭い双眸はその実、僅かな好機も見逃さぬためのものであり、授業中であろうと全身から尋常でない気迫が迸っているのは常に女子から告白された時のシミュレーションを脳内で行なっているからだ。
まさしく行住坐臥。俺が晴人を尊敬するのに時間はかからなかった。
ブレーキが壊れた機関車のように熱を上げて理想へと突っ走る彼に変化があったのは、高校二年の夏休みが明けてからだった。
蓋を開けてみれば俺の預かり知らぬところで彼は漫画じみた青春活劇を繰り広げていたらしく、更には失恋したなどとぬかす。俺は同情と嫉妬の奔流に飲まれ、相談を受けたその日の晩は寝られずオーバーワーク気味の筋トレで発散する他なかった。
紆余曲折あり彼は彼自身で問題を解決したらしく、俺の心配羨望その他諸々の感情をよそに清々しい顔で登校するようになった。どうやら意中の彼女との関係を拗らせずに済んだのだろうということは想像に難くなかったが、詳細を聞いてもはぐらかされる一方で俺の興味は肥大の一途を辿っていた。
しかし俺にも転機が訪れ、何故かクラスの中心人物である小野町さんとお付き合いすることとなった。彼女からのラブレターが送られて来た時は鍛え上げた心臓が止まるかとすら思ったものだ。
お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸が目の前にある。
俺は恐怖した。
こんな上手い話があるものかと思った。
想定外の事態に冷静な思考は吹き飛んでしまい、俺は晴人に相談するという暴挙に出た。
小野町さんといえば晴人が中学生の頃に告白して玉砕した相手でもあり、唯一の親友とは言えまだその頃の傷を抱えているであろう晴人に相談するなど本来してはならない。しかし混乱の渦中にあった俺は数少ない連絡先から彼に電話を繋げた。
事情を話した俺に対して晴人は何故かとても落ち着いていて、そして彼の返答は実に簡潔だった。
俺のこの腕で小野町さんを抱きしめてやれと言う。なんてことを宣うんだ俺の盟友は。そんなことをしたら小野町さんが圧死してしまう。
電話を切られたので俺の抗議は虚しくも空振り、その後に何度かけ直しても再度繋がることはなかった。
その後、今度は学校で直接小野町さんが話しかけてきて、筋肉フェチであることを告げられ俺が混乱している間にお付き合いすることとなっていた。
びっくりし過ぎたせいで告白の際に俺自身がどんな受け答えをしたかは覚えていない。気付いたら恋人が出来ていたわけで、実感を得るまでに一ヶ月ほどの時を要した。棚から牡丹餅などという言葉では到底収まり切らない一大事であった。
しかし今になって考えると、小野町さんからの告白の件には裏で晴人が一枚噛んでいたのではないかと思う。なにせ彼はあまりに冷静だったし、電話でのやり取りでは俺と小野町さんの仲を明らかに後押ししていた。
小野町さんと恋仲になった当初、友人のかつての想い人を盗ってしまったのではと自責の念に駆られていた俺だが、悩み抜いた末に「俺たち付き合うことになりました」と言ったところ晴人から返ってきたのは「そりゃ良かった」とあまりに淡白な返事だった。淡白とは言っても別に興味関心が無いわけではなく、純粋に俺と小野町さんのことを祝福していることが分かった。
この時点でいくつか察しがついたことがある。
まず晴人は小野町さんへの未練を完全に断ち切ったということ。しかもその上でどうやってか小野町さんと友達になり、何も気負わず会話できる関係になっていること。
確認こそしていないが、やはり彼が小野町さんに協力して俺との仲を取り持ったのだろうということも分かった。そうでなくてはあの落ち着きぶりに説明がつかない。
さらに驚かされたのはしばらくの月日が経ってから知った事実で、どうやら晴人は件の女性と一緒に実家で暮らしいているらしいという話だった。
晴人は何故か執拗に隠したがっていたが、意外なほど好奇心旺盛な小野町さんの追及により明らかになった。
その頃になると俺はもうすっかり小野町さんに惚れ込んでいて、晴人のお相手が例えクレオパトラや楊貴妃に迫る美女だったとしても妬まない自信があったが、同棲ときては話が別である。
けしからん。実にけしからん。
しかも親公認での実家住まいとか、もうなんか色々とヤバい。
そうと分かってからは俺も小野町さんに便乗して晴人を問い詰めたが、彼の口は固く、件の女性の詳細は聞けなかった。俺たちは興味を募らせるばかりで、一切が謎である女性のイメージ像は二転三転した。日本人から外国人、妖艶から純朴、おっとり系からサバサバ系、果ては男の娘からニューハーフへと幾通りにも変化した。
悶々とする俺たちが答え合わせの機会に与ったのは高校三年生の夏休みが明けた後のことだった。
晴人は珍しく真剣な顔をして「彼女と会ってほしい」と言う。もちろん俺と小野町さんは喜び勇んで頷いた。
そして放課後、晴人の家へ行き、長い間ヴェールに包まれていた女性の正体を目の当たりにした時の衝撃はきっと一生忘れられないだろう。
どうやら僕の親友はロリコンらしかった。
◯
晴人と環さん、そして環さんの姉である豊女さんの三人はあの世に似た場所にあるらしい山へ向けて大山神社を出発した。
彼らを見送って早々、神社に祀られている大山のなんちゃらさんという神様(ただのおじさんにしか見えない)は二度寝をすると言って社の奥へと引っ込んでしまったので、俺と小野町さんは静かな境内に取り残された。
時刻はまだまだ早朝で、校門が開くにもしばらく待たなければいけない。俺と小野町さんは木陰のベンチに隣り合って座り、晴人たちのことをポツポツと話した。
「稲里くんたち、無事に帰って来てくれると良いね」
「うん。さっきお参りした時願っておいた」
「私も。でも願掛けするまでもなく大丈夫だと思うけどね。環ちゃんのお姉さんが付いて行っているわけだし」
環さんのお姉さん。
うちの高校全体を探しても稀なほど派手なギャルのお姉さんがウェイウェイ言っている姿を思い出す。
「俺はあの人だから少し心配なところもあるけど……」
「それは、うん……そうかも」
乾いた苦笑を浮かべる小野町さん。
「稲里くんって凄いよね。一途で行動力があって、受験勉強よりもずっと大事なものを見つけていて。たまに同い年じゃないように感じる時もあるよ」
「年上? それとも年下?」
「うーん、えっと、どっちも?」
つまり大人びて見える時もあれば馬鹿に見える時もあると。
俺も同感である。
ただし常に尊敬してはいる。青春への情熱を同じくしていると言っても、晴人の行動力は俺とは比べ物にならない。
学年のマドンナを呼び出して目の前でラブレターを朗読するなんて普通じゃない。晴人が苦々しくも語ってくれたそのエピソードを聞いた時から、俺は彼に深い敬意を持つようになった。
今も、彼は環さんを一途に想い、何ら迷うことなく課された試練に挑もうとしているのだから感銘を受けるばかりだ。ロリコンという事実を差し引いても一人の男として敬意を持てる。
それに対して俺はどうだ。
やることといえば筋トレばかり。その道自体に迷いや後悔は無いが、他に誇れることも無い。小野町さんと付き合えたのも彼女に運良く見初められたことと晴人の暗躍があったからこそで、俺はひたすらに受け身だった。しかも勉強会では小野町さんに付きっきりで教えてもらい、彼女の勉強の邪魔になる始末。
情けない! あまりにも!
しかも最近は食べ過ぎてしまうことが多々あり、唯一の自信の源である筋肉さえも情けない丸みを持ちつつある。もちろんストレス故の暴食であり、小野町さんの言う増量期などではない。
勇ましく出立した晴人の背中を思い浮かべながら俺は考える。どうすれば彼のように思い切りのある人生を歩めるのだろうかと。
このままではいつか小野町さんの心も離れてしまう気がして不安でならない。
隣に座る彼女の横顔をちらりと盗み見れば、小野町さんは「どうしたの?」と小首を傾げて無垢な瞳で俺を見つめ返してくる。
…………別れたくねえなあ。
憂慮に耽りつつも静かな朝の時間を二人で共有していることにほんのりとした幸せを感じていたところ、小野町さんが突然「あっ」と大きな声を上げた。
「私、体操服忘れちゃったみたい」
「えっ、えっ、どうする? あ、俺の使う?」
口走った後で、俺は何を言っているんだと恥ずかしくなる。いくら彼氏彼女の仲とは言え、体操服の貸し借りは無いだろう。しかも俺のサイズはXXL。それを小柄な小野町さんに着せるなど正気の沙汰ではない。
小野町さんは苦笑しながら俺の阿呆な申し出をやんわりと断り「家まで取りに帰るね」と立ち上がった。ここから小野町さんの家までは電車を使って往復しなければならない。まだ時間に余裕はあるが、一度学校の側まで来ておいてサラリと忘れ物を取りに帰る決断が出来ることには驚いた。
「じゃあ俺もついて行こうか」
「ううん大丈夫。私は定期券持ってるけど、伊藤くんは電車賃払わなきゃいけないでしょ。それに私のポカに付き合わせるのも悪いから。校門が開く時間になったら、私のことは待たずに先に教室行っててね」
言うが早いか、小野町さんは手を振って駆け足気味に神社から立ち去ってしまった。一人残された俺は息を吐く。
あの小ざっぱりしたところが好きだ。
変にベタつかず、それはそれこれはこれ、と割り切れる健康的な彼女の心根が好きだ。
こういったふとした瞬間に、小野町さんは精神的に自立しているのだと実感させられる。常に誰かと居ないと不安になるような軟弱さが無い。それは俺と晴人が願ってやまなかった清い恋愛に必要なものだし、小野町さんがそうであってくれるのは有難いことだ。
翻って自分の軟弱さが嫌になる。
受験という佳境に立たされてようやく将来について考え始めたような俺の如き未熟者に彼女の隣に立つ資格はあるのか。
唯一の取り柄はこの筋肉だが、それもここ最近は不摂生のせいで脂肪の比率が上がってきている。このままでは小野町さんに嫌われる可能性が浮上し、それらすなわち死を意味する。
早急に鍛えなければ。いや、しかし勉強も頑張らなければ。
よしんばこの窮地を乗り切ったとして今後が安泰かと言われれば依然として不安は残る。小野町さんが俺を好いてくれる要因は筋肉にこそあるが、仮に俺より立派な筋肉を持つ男が現れた時、果たして俺は愛してもらい続けることが出来るのか。
そんなことを思うにつけ不安になり夜も眠れない。すると夜中にお腹が空いて仕方なくカップ麺を食べてしまうのである。なんとも度し難い悪循環だ。
しばらく頭を抱えて悶々としていた俺は、ふと今いる場所が神社であったことを思い出し、縋るように賽銭箱へと駆け寄った。
これまでの人生、神仏よりも筋肉を信奉してきたわけだが、今は本当の神様がおわすことを知っている。人智では如何ともし難いこの難局に神様の助けを借りずなんとする。
俺は財布からなけなしの千円札を抜き取って賽銭箱の中に突っ込んだ。晴人から神社での参拝には御縁との語呂合わせで五円玉を使うのがメジャーだと聞いているが、高額であるのに越したことはないはずである。どうか200倍のご利益を授けてください。
明晰な頭脳、衰えぬ体、高学歴、高収入、家内安全、子宝エトセトラ。
一心不乱に欲望のまま願い事をする。ただひたすらに小野町さんとの輝かしい未来を手にするために。
そんな俺の一途な思いが天に通じたかのように拝殿の奥へと続く襖が厳かに開き、後光のさす神様が降臨なされた。
「君は本当に賑やかだなあ」
あくびを噛みころしながら大山さんが言う。
俺の願いに応えて現れてくれた大山さんがたいへん神々しく思えたのも一瞬のことで、改めて何回か瞬きをして見れば、やはり何処にでもいそうなおじさんにしか見えなかった。
襖が厳かに開いた気がしたのは彼の動作が緩慢だったからだし、後光がさして見えたのは単に室内のLED電球が光っているだけのことだった。
おそらく二度寝をしていた最中に俺の心の声を聞き届け、起きて来てくれたのだろう。そのことには申し訳なさと感謝の念を抱くけれど、一度目にやった時のようにもっと神様らしい登場をしてもらえなかっただろうかと思う。
「ずいぶん色々と願っていたが、その実君の望みは一つのはずだ。そうだろう?」
言われてドキリとする。彼ら人外の存在は、やはり人間の心を奥深くまで読むことが出来るんだ。
「伊藤氏。君の直近の悩みはその腹回りなんかに蓄えられている脂肪にあるわけだ」
「は、はい。その通りです。彼女に嫌われたらと思うと不安で不安で……」
俺の涙ながらの訴えに、大山さんは全てお見通しと言いたげに「うむ」と頷いた。
「何故、君は筋肉を求める」
「えっ」
唐突に問われて困惑する。困惑したが、それも一瞬のことで俺は毅然と答えることにした。
筋肉主義は長い自己問答の末に導き出した、数少ない俺の誇るべき信条である。その誇りにかけてどんな問いかけにも自信を持って答えられなくてはいけない。
「モテモテになるためです」
「では何故、筋肉があればモテモテになれる?」
「包容力があるからです。包容力とは雄大な力強さのこと。そして力強さの象徴とは筋肉です。俺は誰よりも強く大きな筋肉をつけることで包容力の化身となり、モテモテになることを目指してきました」
俺の力説に大山さんは再び頷いた。
「ならば君、何の問題もないじゃないか」
「え、ど、どういうことですか?」
俺の筋肉恋愛論について納得してもらえた様子だったのに、どうして問題ないという結論になったのか分からない。肥え太りつつある俺のこの体を見れば、今まさにマッスルクライシスに陥っていることは一目瞭然なはずなのに。
「肥えることは悪ではない」
俺の疑問に対し、大山さんはキッパリと言い放った。
「何故、脂肪には包容力が無いと決めつけるのかね。不摂生? 馬鹿を言ってはいけない。脂肪は贅肉とも言うだろう。贅とは本来富める者にしか享受できぬもの。そして富めることとは包容力そのものではないか。つまり贅肉とは富の象徴なのだよ」
大山さんの言葉を受けて俺は自分の腹の中をつまんだ。
今までは憎き敵だとすら思っていた脂肪という存在。それが筋肉に並び立つ包容力の象徴だった……?
「美という漢字があるだろう。あれは「羊」と「大」の二文字に分けることが出来る。大きく肥えた羊こそが素晴らしいと思われていたのだ。ならば太ることに忌避感を持つ必要があるものか。不安がることはない。むしろこれは好機である。脂肪という、今までの君にはなかったもう一つの包容力を身につけるまたとない機会だ。力と富の象徴。その両方を手にするがよろしい」
大山さんは
俺はいつの間にか跪いていた。既に完成したと思っていた理論の地平線に新たな夜明けを見た。
胸の内からは止めどなく感動が溢れ出し、自然と涙がこぼれてくる。信仰とはこの気持ちを指すのだと理解した。
「太っても……良いんですか……?」
震え声を絞り出す俺に、大山さんはにっこりと笑って頷いた。
「良いとも」
もう迷うことはない。
今日、俺は紛れもない天啓を得たのだから。
「汝、肥えたまえよ」