視界の隅で紅葉の葉がひらひらと舞い落ちる。
僕は古びた社の縁側に正座していた。緊張を堪えて固唾を飲み込む。
僕の目の前には狐の耳と尻尾を生やした少女が胡座をかいており、数枚の原稿用紙に綴られた文章を黙々と読んでいる。少女とはもちろん、古くからこの廃神社にいるという狐の環さんのことである。
いや間違えた、霊狐だ。ただの狐と一緒にしてはいけない。怒られてしまう。自分では一介の狐だとか言うのに、僕がそう呼ぶと怒るんだこれが。
環さんは原稿用紙に目を走らせながら「うむ、うむ」と時折、神妙に頷く。今、環さんが読んでいるのは僕が書いた作文である。それもただの作文ではなく、古典文学の素養に裏打ちされた平安貴族を彷彿とさせる雅な小説。甘味と見紛うほどに甘ったるい恋愛短編だ。
何故、満足な教養も文才も無かった僕がそのようなものを書いたのか。その全ては神社復興計画のためである。
信仰を集めて環さんの力を取り戻し僕の悲願を叶えてもらう。それが本計画の目標だ。
しかし言うが易し、行うは難しがこの世の常である。
環さん曰く信仰にも種類があり、それ如何によって使える力が違ってくるらしい。豊穣の力を振るうにはそもそも豊穣神として祀られている必要がある。縁結びを行うにも同様で、縁結びの神として下々に名が知られていなければならない。人の願いとは種々様々であり、その数だけ神もおわすというわけだ。八百万とはよく言ったものである。
稲荷狐の環さんは豊穣を司る。より正確に言えば豊穣を司る神に仕えていた。縁結びは畑違いもいいところであり、さらにこの神社の窮状も考えると環さんが男女の赤い糸をちょいちょいと弄れるようになるのは果てしなく険しい道のりである。
そこで僕たちは話し合った結果、縁結びの先駆けとして学問における信仰を勝ち取ろうという結論に至った。
はじめ、環さんは「嫌じゃ嫌じゃ」と駄々をこねた。自分の専門分野である豊穣で身を立てられないのが気に入らないらしい。
しかしそうは言っても現代は飽食の世である。神の恩恵を与えられるまでもなくそうそう食うに困らないのだから、集まる信仰など皆無に等しいだろう。そもそも以前から環さん自身が、今では農耕であろうとそう大した力は振るえないと嘆いていた。落ち込んだ彼女の機嫌を取るために僕はメンチカツを買いに松葉屋へ走ったものだ。
一足跳びに縁結びの神社として有名になるのも至難の業である。僕たちはどちらも恋愛なるものに対して全くの無知であり、どうすれば男女をくっ付けられるのかなどらいくら考えたところで分からない。これについては大いに激論を交わしたが、結局は僕が誇大妄想の持論をぶちまけて環さんをドン引きさせるだけとなり、何も得ることのないまま会議は自然消滅した。あの時の環さんの冷たい視線はなかなか忘れられない。
そうこう話して僕が最後に提案したのが、まずは学問の信仰を得ることだった。僕と同年代の若者にとって何が重要なのか考えてみれば自ずと勉強に行き着いた。
もっと具体的に言うと受験である。時に受験戦争とすら呼ばれるそれは高校生の恐怖の対象だ。無論僕も恐怖している。僕には姉がいて、昨年から他県の大学へ通うために家を出たのだが、大学受験が近づくに連れ大らかだった姉から余裕が失われていく様を目の当たりにして戦慄したものだ。当時高校一年生だった僕は姉の焦燥ぶりから、あまり難しい大学は受けないようにしようと思った。今もそう思っている。人生に最も大切なものは心の余裕である。その余裕を活かすかどうかは些細な事だ。
閑話休題。
とにかく、受験とはほとんどの若人が通る茨の道であり、現代でさえ藁にもすがる思いで神頼みに走る輩が絶えない。僕はそこに狙いをつけた。願えば実際に学力が上がる神社なんかがあれば千客万来、信仰も捨てるほど集まるに違いない。
そうして若い男女が次から次へと来れば、結ばれる仲もあろう。他人の恋路を取り持つようで甚だ不服だが、これも将来の布石と思うしかない。
方法は至って単純だ。僕がテストで良い点数を取り、それがこの神社に願ったおかげだと宣伝して回る。SNSにも書き込む。噂を聞きつけた何人かがお参りに来て、その中には本当に成績が伸びる人もいるだろう。それはもちろん御利益などではなく、当人の努力の賜物だが。
願い通りテストの点数が上がれば「あの神社は本物だ」と信仰に目覚めるに違いないし、それほど変わらないかむしろ下がってしまった人たちは「神頼みなんてそんなもん」と割り切るだろう。人とはそういうものだ。
評判は評判を呼び、いつしか環さんは本当に学問の神格を得て、道に迷える受験生達を片っ端から合格に導く。僕もその恩恵に与って悠々と進学する手筈だ。我ながら惚れ惚れする完璧な計画である。
しかしここにも関門があった。僕は勉強が全く出来ないのである。即ち良い点数が取れず、完璧だったはずの計画は土台から崩れることとなる。真面目に勉強しなさいよ、と言われればぐうの音も出ないが、人間には得手不得手がある。こればかりはどうしようもない。どうしようもないのである。
万策尽きたかに思われ、途方に暮れた僕の顔を上げさせたのは環さんだった。彼女は項垂れる僕の頭を撫でて言った。
『勉強なら儂が教えてやる』
この環さんの発言に対して僕は思った。無理でしょうと。とても彼女が高校レベルの教養を有しているようには見えなかった。
しかし、聞けば環さんら霊狐は神に仕えるべく相応の教育を施されてきたらしい。つまり生え抜きのエリートだ。例によってエリートという言葉が分からなかった環さんに意味を教えると「そう、儂はエリート」などと威張っていた。少なくとも彼女から英語を学ぶことはできそうにない。
何が出来るのかと問えば、詩に書き物、
「これが今時の算盤です」
スマホの電卓アプリを開いて見せると、環さんは何が何やらといった様子で目を白黒させ、無闇やたらにポチポチと弄るばかりだった。
「変な文字ばっかりじゃ」
「漢数字じゃなくてローマ数字ですからね」
「これはなんじゃ」
「三角関数です。サインコサインタンジェント」
「わからん! 全然わからん!」
「実は僕もよく分からないです」
このような調子だったから、理数系の壊滅は早くも確定してしまった。数学物理英語世界史エトセトラ、絶望は枚挙に暇が無い。
その中で一つだけ期待が持てそうだったのが古文だった。環さんは数百年前から生きており、お母さんからは古典文学や和歌の作法を叩き込まれたという。そのことを踏まえると、彼女以上に古文の教師としての適任はいないだろう。
目指すは一点突破。成績下位の僕が古文であらゆる猛者を押しのけて一位を取り、この神社の威光を知らしめるのである。本当なら全科目の底上げを目指すべきだが贅沢は言えない。むしろ贅沢は敵だ。僕は日本人らしく清貧を重んじる。
そうして僕は彼女に師事を仰ぐこととなった。文法が間違っている、言い回しが雅ではない、と繰り返されるダメ出しの末に一月が経ち、ついに中間テストを控えた最終試練へと漕ぎ着けたのである。
環さんは僕の古典的掌編を黙読している。膝の上で握った拳に汗が滲む。体感で長い時が流れ、僕が痺れを切らしそうになった頃、ようやく環さんは食い入るように見つめていた紙束から目を離した。凛とした瞳がこちらに向けられる。
「いかがでしょうか」
不安と期待で上擦りそうな声を抑えて尋ねる。僕の問いに、環さんは大きく頷いてにっこり笑った。
「素晴らしい。非の打ち所がない。これをもって晴人を免許皆伝と認める」
「し、師匠……!」
約一ヶ月の苦労が報われた瞬間であった。環さんからのお墨付きをいただくことに成功したのである。
僕と環さんは熱い抱擁を交わす。男女間における甘ったるさや気恥ずかしさなどは皆無で、僕たちの間には苦楽を共にすることでしか築けない強い絆が芽生えていた。
「良くやった。たった一月でほんに良くやった。これでこの神社の未来は安泰じゃ」
「はい、必ずや参拝客を呼び込んでみせます」
僕はやおら立ち上がる。気炎万丈、総身に力が漲っている。感情の赴くままに環さんを抱え上げてくるくる回ると、彼女も幼児のごとく「きゃー」と言って喜ぶ。最高だ。雰囲気に任せればこんなことも出来てしまう。僕は環さんと回りながら大変に感動した。
ひとしきり高い高いをして満足した後、降ろされた環さんは何処にあったのか火打石を持ち出し、背伸びをして僕の肩あたりでカチカチと鳴らした。背中に火を付けられるのかと驚いたが、ドラマなどで見たことのある古風な見送りの儀式であることを思い出し恭しく受け入れた。
「では行け、晴人。今までの努力を信じ、大望を成し遂げるのじゃ!」
背を叩かれて邁進する。斯くして僕は、環流和歌道の免許皆伝となったのである。
無論、門下生は後にも先にも僕一人だけだろう。
○
上述の茶番から一週間が経った日のことだ。
季節が流れるのは早いもので、あれだけ鬱陶しく思っていた夏は瞬く間に秋にとって変わられた。残暑も過ぎ去り、明け方には肌寒さを覚えるようになった十月の中頃。二学期における中間テストの結果が出て、教室内は阿鼻叫喚と気色満面の二極に分かれ、いつもの数割増しで賑わっている。
定期考査、つまり期末や中間期に行われるテストは学生にとっての一大イベントと言っても過言ではない。体育祭や文化祭など青春を彩る行事は数あれど、それらと比較しても何ら遜色ない話題性を持つ。
僕の通う高校は三学期制で、学年末テストも含めて一年のうちに計五回行われる。五回もだ。他の行事は一年に一回なのに、何故テストという苦行のみがそんなにも頻繁に催されるのか不満でならない。
数学の意味不明な図形や方程式、歴史の年号、英語のイディオム、国語のあやふやな記述問題。多種多様な関門が僕の前に立ち塞がり、毎度毎度いじめ倒してくる。いい加減にして欲しい。しかも順位付けまでしてこちらの劣等感を煽るとは、なんと意地の悪い仕組みであるか。日本が競争社会と言われる由縁は全てここにあると僕は断ずる。持つ者と持たざる者は相容れず、いつか争いを起こすことは歴史が証明しているではないか。すなわちテストとは戦争の火種である。テストを無くせ。世界平和に貢献しろ。
「晴人、どうだった」
伊藤が採点を終えて返ってきたテスト用紙を持って、僕に尋ねてきた。いつものことながら彼の顔は青い。おおかた勉強よりも筋トレに勤しんでいたのだろう。偉丈夫がテストの点数にしょぼくれて小さくなっている様は何度見ても見慣れない。
伊藤に聞かれた僕は、自分の成績表に目を移す。常であれば、そこには友人のことを笑ってなどいられない非情な現実がある。そう、常であれば。
いつもは苦手な理数科目でも赤点を回避できたのが唯一の救いといった有様だ。しかし今回は一科目に限り異様に点数が高い。国語、その中でも古文は満点だった。他が爆撃された都心のように悲惨な状況の中で、ただ一科目が摩天楼のごとく圧倒的存在感をもって聳え立っている。学年別、クラス内共に堂々の一位を取っていた。
「なんという一極集中」
隣で僕の成績表を見ていた伊藤が呆れとも感嘆ともつかない声を上げる。僕はニヤリと笑う。
「なんで国語だけそんなに頑張ったんだ?」
伊藤の質問に僕はふんぞり返った。目標を成し遂げた自負心が胸の内から滔々と湧いて尽きることがない。鼻高々、ピノキオの如くどこまでも伸びていくかに思われた。いやあ困った困った。
正直なところ、環さんの指導に疑問を抱いたのは両の指で数え切れない。なにせ文学の基本だとか言ってテスト範囲外のことばかりやらせるのだ。そればかりか教科書にある問題集など放ったらかし、独特な修行法を授けてくる始末。その最たるものが前述した短編小説の作文である。
しかし蓋を開けてみれば、特訓の成果は明らかだった。環さんと過ごした今は懐かしの日々が脳裏を駆ける。落書きで遊ぶ合間に差し挟まれるその講義は実にスパルタ的で、僕の腑抜けた集中力を無理やり引き出させ、海馬にあらゆる古典文学の教養を叩き込んできた。
結果として活用形は骨の髄にまで染み込み、僕の古文IQは指数関数的に上昇した。しかもそれだけに留まらず、環さんは「文に隠れた心情を読み解く力も必要じゃ」などと言って源氏物語を暗記させ、登場人物や筆者の意図を巧みに汲み取ることを命じてきた。付随して読解力も稲穂のごとくメキメキと伸びた結果が今回の総合得点として表れている。
「知りたいか伊藤。鯉の滝登りのように劇的な伸びを見せた僕の国語力の秘密を」
「あ、ああ。なんだいその口調は」
「まあ聞き給えよ。あることをするだけで、お前だって古文の点数が良くなるのだから」
伊藤は謎に踏ん反り返っている僕に気圧されながらも、興味を隠しきれない様子で話の先を待った。あまりにも学業成績が悪いとトレーニング器具を一切合切親に取り上げられてしまうらしい。彼にとっては死活問題なのだろう。
「神頼みだ。僕の地元に神社がある。そこでお参りすれば良いんだ」
僕は伊藤にだけでなく、周りにも聞こえるようによく通る声で言った。ここが宣伝のしどころだ。近くにいたクラスメイト達がちょっとした変人を見るような目を向けてくるが、注目されているならば良し。少しばかり僕の評判を落とそうとも、ここで尻込みしてはいけない。
「僕は春先から夏休みにかけて百日間、お参りを欠かさなかった。もちろんテスト前の勉強もするにはしたが、一位を取れたのは神のご加護があったからに違いない」
「晴人、ちょっと声が大きくないか」
「なあに、一科目とは言え一位を取れたんだから気分が良いんだ。一位を取れたんだからな。はっはっはっ」
「お、おお、そうか」
執拗に順位を念押しする僕に、伊藤は軽く引いている。引かれては困るが、しかし今の僕にある武器はこの古文の成績だけだ。環さんとの二人三脚の賜物であるこれをアピールしていかないことには始まらないのである。
僕は及び腰の伊藤の肩をがっしり掴んで引き寄せた。
「伊藤もぜひお参りに来い。結果は必ず出る」
「いや、俺は別に神様とか信じてないし……」
「よく考えてみるんだ。この僕が学年一位を取ったんだ。この僕がだぞ。 それなのに欠片も信じられないと言うのかい」
「うーん。そう言われてみれば」
伊藤、押しに弱い男である。すでに靡きかけている。しかしその決定打が僕の普段の成績の低さだというのは憤懣やるかたない話だ。僕の学力が向上することにおいて、努力よりも神頼みのおかげと言う方が説得力があるということではないか。嘆かわしい。
だが今は好都合と思おう。周囲の興味は引けている。
「晴人の地元っていうと、あの大きな神社のことか。うちも正月は家族で初詣に行くよ」
「いや、違う違う。別のところ」
僕は慌てて言った。僕の町には環さんがいる廃神社の他にもう一つ大きな神社があり、こちらは参拝客の足が絶えない立派なものだ。どうやらその神社の方が環さんの所よりも随分後になって出来たらしく、環さんは悔しそうにしていた。「うちの方が古いから偉いのに」とぐずる幼児のようだった。
「駅の東口から降りてまっすぐ行くと広い田んぼとか畑があるんだよ。今は埋め立てられてるけど。その奥の方にボロっちい神社がある。背の高い木が生えていて薄暗くて気味悪い感じの。僕が言ってるのはそっちのことだ」
我ながら、環さんが聞いたら怒りそうな説明である。まあ、あの神社の特徴としてはそう言う他にない。
僕の説明に「暗いのかあ」と伊藤は渋面をする。どうしたのかと聞くと呪われたり幽霊が出ないか心配らしい。学内随一の身長を誇る男にしては何とも情けない話だが、筋肉信奉者だから物理が効かない手合いが怖いのは仕方のないことかもしれない。それなら僕が一緒に行ってやると言うと伊藤は大変喜んだ。乙女かお前は。
「しかし一科目しか点数が上がらないってどういうわけだ」
「そういう神様だからな。古文の神様だ。他にも日本史と、算盤とか書道とかを司っている」
「ニッチだなあ」
まあそれでテストの点が上がるなら、と伊藤は割と乗り気になっているらしい。まずは信者候補を一名確保できたわけだ。
さて、伊藤は良しとして、他にも誰か勧誘しておきたいところである。そう思って教室内を見ました僕の目に、小野町の姿が止まった。他の女子たちとテスト結果を持ち寄って話している。
「え、小野町さん今回二位なの?」
聞こえてきたその声に、僕は口角が上がりそうになるのを堪える。今話題に出ているのは間違いなく古文のことだ。周りにいる女子たちが騒ぐごとから、如何に小野町の成績が盤石であったか分かるというものだ。そんな彼女を下したという事実を殊更実感し、僕は悦に浸った。
しかし愉悦の時間はまたたく間に過ぎ去った。
「ねえ、稲里君が満点だったんだってさ」
「ウソ、マジで?」
女子たちの注目がこちらに向く。もちろん小野町も。瞬間、僕は蛇に睨まれた蛙の如く硬直し、額からはガマ油のような汗が滲み出る。出来たことといえば咄嗟に顔を背けたくらいだ。
いや、落ち着け。ここはアピールポイントだ。ゆくゆくは縁結びの信仰を得るためにも男女問わず神社の名を売り込まなければならないのだ。臆してはいけない。僕は環さんの使者としての覚悟を固める。
「こっちに来るぞ」
伊藤の言葉にハッと顔を上げれば、小野町の友人が確かに此方へまっすぐ歩いて来ている。何故か小野町本人も連れて。固めた覚悟が一瞬にして砕け散る。
まずい。小野町は対象外だ。何故なら元から成績が良い。彼女を勧誘するメリットは皆無である。
まさか一位の座を取ったことに難癖を付けてくるとは思わないが、何かしら会話をすることは必然であり、そうなると非常に困る。小野町と関わることはすなわち自分の黒歴史と向き合うということ。彼女には全く非がないが、僕にとっては立派な拷問である。
そもそも僕は長らく女子と話していない。経験がない。例外で環さんがいるけれど、彼女と話せるのは奇抜な出会いによる距離の近さと、環さんに独特の親しみ易さがあるおかげだ。周りに他のクラスメイトもいる中でまともな会話すら成り立たせられず、醜態を晒すことだけは何とかして避けたかった。
どうする。どうすればいい。
僕は藁にもすがる思いで伊藤を見た。伊藤の巨体と厳しい面構えによる威圧感は彼の持つ数々の武勇伝が保障している。不良も恐れて近付かぬ彼を盾にすれば、この窮地を乗り切れるやもしれぬ。
「あ、ちょっとトイレに行ってきます」
僕と一瞬視線が交錯した伊藤は、そう言って足早に立ち去ってしまった。女子にビビりやがった。裏切り者が。
「稲里くん」
伊藤の後を追うべく僕が慌てて腰を浮かせたのと、隣に立った女子に名前を呼ばれたのは同時であった。振り向けばそこには当然、小野町の友人が面白そうに此方を見ており、その後ろには小野町がいる。
こうなっては観念する他にない。僕は求められるままに成績表を見せるしかなかった。
「わあ。一極集中してる」
小野町友人が伊藤と全く同じ感想を述べる。
僕は早く終わってくれと思いながらも、小野町の様子が気になってチラリと彼女を見た。すると例によって視線がかち合い、慌てて目をそらす。彼女も成績表の方を見ているだろうから大丈夫と踏んだのに、とんだ誤算だった。
一体、小野町は僕に対してどのような感情を抱いているのだろう。実に気まずい。伏せた顔を上げられない。下手に関わって、ストーカー疑惑がいよいよ現実のものとなったら僕は学校にいられなくなるのではないか。
少なくとも、僕が彼女のことを気にしていつもジロジロ見ている、と思われているのは十中八九間違いないだろう。それほどまでに視線の交わる回数が多い。向こうが見てこなければ目が合うことは起こり得ないので僕だけの責任ではないはずなのだが、客観視すると僕に罪の比重が傾くから不思議だ。
「ねえさっき言ってた、神社にお願いしてたのってマジ?」
「え、あ、ああ、マジです。たぶん」
「ウケる。どっちよ」
小野町友人の質問にドキリとして、変な受け答えをしてしまう。どうやらその辺も聞かれていたらしい。宣伝目的で声を大にして話していたのだから当然なのだが、まさかこうも自分の首を絞めることになるとは考えていなかった。
壊滅的なコミュニケーション能力を今日ほど恨んだことは無い。一体どうしたら過去のしがらみから解放されて異性とまともに談笑できるようになるのか。全ては暗雲の中である。
いや、逆境であるほど落ち着かなくてはならない。今からでも恋愛シミュレーションの如く適切な会話を選択してこの場を穏便に済ませるのだ。あわよくば小野町に対する僕のイメージアップにも繋げ、過去の精算をしてみせよう。それしかない。
まずは正しい認識を持たねばならない。現状把握だ。僕は冷静になれと努めて己に言い聞かせ、状況の分析を試みた。小野町から見て今の僕はどのような人物に映るのか、今一度振り返ろう。
中学の頃に奇天烈な告白をしてフラれ、それなのに何故か同じ高校に進学し、いつも遠くからチラチラと様子を伺い、万年成績下位だったのが唐突に小野町の得意科目で一位を取って威張り散らし、それが全ては神頼みによるおかげだと言う。しかも大声で。
なんだその頭のおかしい男は。僕だった。死にたくなった。
冷静な分析により勝手に致命傷を負った僕は、どう足掻いても覆せない絶望を垣間見て思考を止めた。小野町はよく僕を虐めたりしないなあ。偉いなあ。
そんなことを考えていると「稲里君」と小野町が僕の名前を呼んだ。僕は目を伏せたまま「はい」と畏まる。
「稲里君の言ってた神社って、あの駅向こうの神社だよね?」
小野町の問いに僕は頷く。彼女は地元が同じなので、そういった表現だけでも伝わるものだ。
「私、犬の散歩する時にあの辺りも通ることあるんだけど、稲里君ってこの前の夏休みの間、よくあの神社に行ってたよね。ずっとお参りしてたの?」
僕は一瞬呆気に取られ、顔が火照るのを感じた。夏休みといえば御百度参りを強行していた時期だ。理想の出会いを求めて参拝していたことは知られていないはずだが、廃神社に通い詰めるという奇行をずっと前から知られていたとは、なかなかに恥ずかしい事実である。
どう言い訳したものか。散歩が趣味で、そのついでに寄っていたとでも言うか。いや、ついさっき神頼みをして古文の成績を上げたと自分で豪語している。実に苦しい。
会話に少しの間が空く。
小野町は何か言うのを躊躇っている様子だ。きっと好意的な言葉は出ないだろう。もういい。帰ったら環さんに泣きつこう。馬鹿にされるだろうが、彼女ならその後に何やかんやで慰めてもくれるはずである。
そんなくだらないことばかり考えていた僕にとって、小野町が告げた事実は衝撃的過ぎた。
「あの神社ね、無くなっちゃうんだって」
「は?」
間抜けな声が出る。話を理解し切れないでいる僕に、小野町は「やっぱり知らなかったんだね」と同情するように言った。
「今度取り壊されちゃうらしいの。住宅地開発のためだって、うちのお爺ちゃんが言ってた」
時間が止まった気がした。