廃れた神社の狐娘   作:ふーてんもどき

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七話・くよくよなよなよ

 

 

 

 諸賢、僕は全くの腑抜けになってしまった。あらゆる物事への意欲は途絶え、もはや飯を食うことすら億劫である。

 

 秋の木枯らしが身に堪えるので窓を閉め切り、万年床の上で何をするわけでもなく横たわっている。

 毎朝叩き起こしにきてくれる母からは「キノコが生えてきそう」と手痛い酷評を受けたが、反論する気も湧かなかった。「んああ」とゾンビめいた生返事をした僕に、母は怪しい色のキノコを見るような目を向けてきた。およそ愛息子に向けるべき視線ではないが、今の僕の生産性は明らかに菌糸類を下回っているので、ひょっとしたらあれでも情状酌量の余地が与えられているのかもしれない。

 

 五月病という逃れようのない疫病が蔓延する春頃にも同じような対応をされた気がするが、あの時の僕は今よりよっぽどやる気に満ちていた。朝に耐え難い睡魔と戦う必要があり、それに辟易してこそいたが、魂は健全そのもので学校へ行けば伊藤と青春談義を交わすことに余念がなかった。

 

 翻って現在はどうか。半ば使命感すら持って臨んでいた恋愛ゲームすら手につかない有様である。聖典として崇め奉っていた青春文学の数々も色褪せて見え、読み返そうにも一ページも読まぬうちに手が止まる。

 僕はどうしてしまったというのか。人より誇れるものと言えば鮮やかな青春にかける情熱と、清い男女関係について日夜思索を繰り返し得た知見だけだというのに、その尽くが失われたように思われる。僕の存在意義は何処へ。

 

 モヤモヤとつまらぬ思いが燻る中で、幾度となく思い出すのは環さんのことだ。彼女のことばかりは考えないようにしてもつい頭に浮かんでしまう。

 

 ここしばらく僕はあの神社に足を運んでいなかった。ついこの間まで百数十日にもわたって毎日通い続けてきたわけだが、一度行かない日があると途端に足が重くなる。日記のようなものだ。

 

 再び顔を出すためには行かなかった口実と、何かしらの話題が必要なわけだが、この二つを用意するのは至難だった。口実と言っても正直なところどういう顔をして会えば良いか分からないので行きにくいというだけ事であるし、何か話そうにも僕の口から出るのはおそらく神社のことや環さんの今後など、明るい話題ではないだろう。

 無理に他愛の無いことを言おうとしたところで変にぎこちなくなるのは目に見えている。

 

 結局は気まずい空気を作るだけとなり、環さんにも暗い顔をさせてしまうに違いない。それは僕がもっとも恐れるところだ。

 などと考えて二の足を踏み、一週間以上環さんと顔を合わせていない。そうする内に殊更行きづらくなり足は遠のくばかりだった。日々の中で得るのは罪悪感のみであり、そのせいもあって環さんのことが頭に浮かび、また罪悪感を抱えるという悪循環に陥っている。

 

「晴人、いつまで寝てんの。学校遅刻しちゃうわよ」

 

 階下から母の声が聞こえる。羨ましいほどに元気だ。何故母親が子供を呼ぶ声はあんなにも張りがあるのか謎である。寝不足の頭に響く叱咤に僕はまごまごとした返事をしながら、重い足取りで部屋を後にした。

 

 何をしていても、どんなに腑抜けていても思い出す。環さんが言った「さようならじゃ」が胸に染み付いて仕方なかった。

 

 

 

 

 

 

 学業の義務とはかくも苦しいものか。朝から意欲の底をついていた僕は、一日の授業が終わるころにはすっかりくたびれ果てて天日に晒されたアジの開きのようになっていた。

 

 すぐに帰る気も起きず無暗矢鱈に元気な同級生諸氏を眺めて呆けている。つい先ほど体育の授業でグラウンドを走り回らされたことを些かも感じさせない活力だ。これから部活に赴こうとする者などは、もはや僕と生物学的分類を同じくしているとは思えない。三千メートルだぞ。人間が走って良い距離ではない。

 

 しかし僕が真に驚くのは、一週間ほど前は誰よりも溌溂としていの一番に学校を飛び出していた自分が存在したことである。あの滾々と湧き出て尽きることのないエネルギーの源はなんであったのかと、今や懐かしく思う。

 有体に言えば環さんの所へ通うことが目的だったわけだが、それが無くなるだけでこうも人生に支障をきたすとは何事だろう。情けない話だ。僕はまだ憧れの青春を謳歌するどころかその取っ掛かりにすら辿り着いていないというのに。

 

 またも環さんのことを考えては勝手に落ち込んでしまった。これでは彼女に対しても失礼ではないか。誰もいない神社で独り耐え忍んでいた彼女の最期を見届ける男がこんな体たらくではあまりに浮かばれない。

 

 ……いや、いかん。なんだか死に別れるような感じになってしまった。別に環さんが死んでしまうわけではない。しかし今生の別れであることには変わらないか。

 

「くそ、幸せになりてえ……」

 

 僕は机に突っ伏したまま呪詛のごとく独り言ちた。蚊の鳴くような小声だったつもりだが、それを聞いた者がいた。

 伊藤だった。隣の席の彼は生気の失せた僕を心配するように見つめていた。

 

「どうした晴人。死ぬのか」

「分からぬ。もう駄目かもしれぬ」

「葬式にはちゃんと出るよ」

「死ぬ前提で話を進めるな。引き止めてくれ」

 

 いつもと変わらぬ軽口を叩くも、やはりどこかキレがない。主に僕の方に。それを伊藤も感じているらしく冗談の続きは言ってこなかった。

 

「本当にどうしたよ。最近ずっと元気ないけど」

「うーん。何と言ったらいいか」

 

 伊藤は完全にこちらの話を聞く姿勢だ。

 しかし僕が抱えている事情を一から人に伝えるのは難しい。環さんのことは言わずもがな、恋愛祈願のためにお百度参りをしていたことまで説明せねばならず、その羞恥は想像するに余りある。さすがの伊藤も呆れるに違いない。

 

 第一に、これはもう人に相談したところでどうにかなる話でもないのだ。環さんが去ってしまうことは既に決まっている。覆りようは無い。

 

 僕とてここしばらく、何とかならないものかと考えを巡らせ続けた。と言うか何をしようにも四六時中環さんのことばかり頭に浮かぶので考えざるを得なかった。それによって一つ、我ながら妙案と呼べるものも思いついてはいた。

 しかしそれを実行に移すことはない。進言したとして、環さんが聞き入れてくれるとは思えないからだ。

 

 問題のきっかけは神社の取り壊しにある。環さんの住まいが無くなり、必然として彼女は帰らざるを得なくなる。つまり人の世である下界から去り、天界に戻るということ。

 よくよく考えてみれば、それを解決するのは容易だった。住居が無くなるなら、新たに住む場所を見つければ良いだけの話だ。

 

 手頃な社、それこそこの町にあるもう一つの大きな神社にでも引っ越せば下界に留まれて、尚且つこの先も安泰に暮らせるだろう。

 調べたところによれば神様のいる場所を移すことを遷座と呼び、それはあまり珍しい話ではないらしい。社が古くなったので建て替えたり、人々の暮らしに合わせてより相応しい場所へ移されたりと割とぽんぽん住まいを変える。

 

 神様がそうであるのだから、霊狐の環さんが引っ越せない道理はない。

 引っ越し先の神社にいる神様との折り合いがつくかどうかという疑問はあるが、不可能ということはないはずだ。

 

 しかしこれは思い付いたすぐ後に却下した。根本的な解決にはならないからである。

 

 環さんは「少し疲れた」と言っていた。少しの部分を除けば、それはきっと彼女の偽らざる本心なのだろう。

 人の一生よりも長く独りの時間過ごした心境は推し量るに余りあるが、それでも環さんが口にした「疲れた」という言葉の持つ重みは分かっているつもりだ。

 

 思い出されるのは、どことなく憑き物の落ちたような環さんの表情。

 諦めてしまったのだろう。過去への執着を。孤独に耐えてまだ欲しかった何某かを。

 恐らくそれは、あの神社でなくては意味がなかったのだ。でなければ環さんならとっくに自ら何処かへ移り住み、今とは違う生活をしていたはずである。

 

 結局のところ、初めから他人が口を出す余地などなかったのだ。

 環さんは既に諦めをつけている。ならば僕もこの寂しさを乗り越えて強く生きてゆかねばならない。それが道理というものだろう。

 

 しかしそんな思いとは裏腹に燻ってばかりいる。現実とはままならないものである。

 

「僕はダメな男だ。誰も幸せにできない」

「暗いなあ。そんなんじゃモテないぞ」

「いいよもう。どうでもいい」

 

 僕が力なくそう言うと、伊藤は声にならぬ悲鳴を上げた。まだ教室に残っていた何人かのクラスメイトが何事かとこちらを向いたが、なんだいつもの変人二人かと納得した様子ですぐに興味を無くす。

 

 一方で伊藤は大地が裂け、天が割れる光景を目撃したかのごとく取り乱していた、何か言おうとしているが、アワアワと言うばかりで意味のある言葉になっていない。

 彼は百面相をした挙句、その巨大な両手で僕の肩を掴んで揺さぶってきた。

 瞬間、僕の首から上に凄まじいGが襲いかかった。

 

「しっかりしろ!死ぬには早いぞ!」

「待て、死ぬ。マジで死ぬ。止めてくれ」

 

 僕の必死の説得により、伊藤はなんとか恐慌状態から立ち直ってくれた。間違いなく過去最大の危機であった。

 ただでさえ朝から重かった頭がさらに朦朧とする。あわや教室内で殺人事件が起こるところだった。

 

「ほ、本当にどうしちゃったんだよ。色恋沙汰がどうでもいいとか、それもう晴人じゃないだろ」

「僕の存在定義が薄すぎないか?」

 

 いやまあ完全に間違っているわけでもないけれど。

 

 僕が気にするなとなだめて話を打ち切ろうとするも、伊藤は頑として一歩も引かぬ構えだった。こうなった彼はテコだろうがブルドーザーだろうが、クレーン車で吊られようが動かない。物理的にそうされても動じないだろうと思わせる迫力がある。

 

 説明の必要に迫られた僕は頭を捻り、しばらく考えてから口を開いた。

 

「例えばだ。海外から移住してきた女性がいるとする」

「唐突だね」

「その人は美人だ。そして伊藤、お前と仲が良いものとする」

「おお……それで」

 

 何の前振りもなく始まった僕の話に面食らった様子の伊藤だったが、次の瞬間には全力で耳を傾けていた。こういった妄想は僕たちの会話の鉄板であり、それにより磨かれた彼の順応性は素晴らしかった。

 

「日本に憧れてやって来たは良いが、彼女はそれまで日本での生活に馴染めていなかった。そこで出会ったのが伊藤だった。二人はなんやかんやで意気投合する。いつしか定番の待ち合わせ場所ができて、毎日逢瀬を繰り返す」

「す、すごい……」

「趣味が合うので話すだけでも面白い。彼女の屈託のない笑顔や、天真爛漫で元気に溢れた仕草を思い出すだけでも楽しく、充実した日々」

「最高じゃないか……」

「だが突然、彼女は故郷に帰らねばならなくなってしまうんだ」

「なんでー!」

 

 伊藤は慟哭した。この短時間で想像上の外国人にずいぶんと入れ込んだらしい。強面の巨漢が現実にいもしない美女を想って泣く様は親友である僕をしてさえ見るに耐えない。

 僕は彼を無視して話を続けた。

 

「家の都合なんだ。多少頑張れば日本に残るという選択も出来たが、彼女はそれをしなかった」

「なんでさ。こんなのあんまりだ。俺との時間は嘘だったのか」

「……まあ、思うところがあったんだろ」

「俺に?」

「日本に。それと実家に。移り住んで暫く、いろいろと溜め込んでいたものもあったんじゃないかな。他人であるこっちが相手の全てを理解するなんて土台無理な話だ。彼女自身それが分かっているのか別れに際しても潔い。少し憑き物の落ちたような顔さえ、する」

 

 少し語り口調に熱が入りすぎたか。僕は恥じて眉間を揉み、一息ついてから伊藤に問うた。

 

「なあ。そんな時、伊藤は彼女を引き止めるか。日本に残るよう説得するか」

 

 伊藤はひどく悩ましそうに腕を組んで考え込んだ。ついぞこんなにも真剣に悩む彼を見たことはない。追試に向けた勉強をしている時でさえここまで集中してはいなかっただろう。

 

「……俺は引き止めない、かな。ていうか出来ない」

「そうか」

「たぶん彼女なりに辛いことがあったんだろうし、晴人が言ったように全部分かってあげられないなら、止める資格なんてない気がするよ。なんて言うかそれはもう相手のためとかじゃなくて、こっちのエゴなわけだし」

「そうだよな」

 

 伊藤の言葉に僕は納得した。それは僕が欲していた答えそのものだった。やはり親友である。ここぞという時に意見が合致する。

 一人で悩んでいた時と違いこうして人の見解も取り入れると、揺れていた心も定まるものだ。

 

「なあ、今の話だけどさ、晴人の体験を捻った例え話ってことでいいんだよな」

「うんまあ、そうなるな。詮索はするなよ、頼むから」

 

 僕がそう言うと、伊藤はなおも悩ましげな顔をしてブツブツと呟いた。

 

「つまり、その、アレか……」

 

 なんだ。アレでは分からん。

 

「晴人は失恋したってことか」

「えっ」

 

 言われて僕は呆然とした。それは思ってもみなかった事だった。

 

 確かに僕は環さんに良縁祈願をしてばかりいたが、一度として彼女自身に恋愛感情を抱いたことはなかった。親友とか悪友とか、そういった位置付けにあると既に結論付けていた。

 

「いや、これは、違うだろ。さっきの例え話ではそう聞こえたのかもしれないが、僕のこれは恋愛とは関係ない。だって中学の頃にフラれた時とは全然違うんだ」

 

 そう、これが初めてのことならいざ知らず僕は経験者だ。既に失恋の味は嫌というほど知っている。

 アレは羞恥と後悔の塊であり、誓って僕が今感じているような郷愁にも似た喪失感などはなかった。

 

「うーん。でもなあ。話を聞く限りは失恋したようにしか考えられないけど」

 

 未経験故か伊藤の歯切れは悪い。しかしその口調はどこか確信めいていた。

 

 僕は反論しようとしたが、出来なかった。理屈などを超えた心の奥底で納得している自分がいた。

 

 にわかに環さんと過ごした日々の思い出が頭を過ぎる。

 暑い日に二人並んでラムネを飲んだこと。ノートを丸々一冊も使って遊び倒したこと。環さんが舌を火傷しながらも美味そうにメンチカツを頬張っていたこと。他愛もない話で何時間でも喋っていられたこと。

 

 夏休みが終わってからの約数ヶ月。今にして思えば実に短い時間だった。光陰矢の如しとはこのことだ。間違いなく僕の半生で最も短く、濃く、楽しい時間だった。

 

「なあ晴人、さっきの話どこまで本当?うちの学校の女子?というかいつの間にそんな甘酸っぱい青春を……」

 

 伊藤が何か言っているが、僕は茫然自失として答えることができなかった。

 

 ようやく腑に落ちた。モヤモヤの正体をはっきりと認識できた。だからこそ、胸の内を締め付ける思いがさらに強くなった気がした。

 

 そうか、僕は失恋したのか。

 

 

 

 

 

 

 その日、家に帰ると母から買い物を頼まれた。一日中学業に勤しんだ息子を帰るなり使い走らせるとは何事かと憤慨したが、今日は唐揚げと言われてしまっては致し方ない。せっかく出掛けるなら松葉屋の良い鶏肉を買ってこようと思い、僕は制服姿のまま家を出た。

 

 日が落ちるのが随分と早くなったもので、薄いうろこ雲が茜色に染まっていた。秋風は既に冷たく、上にもう一枚着てくれば良かったかと思いつつ足早に商店街へと向かう。

 

 夕暮れ時の商店街はそこそこ賑わっている。

 隣町に大型のショッピングモールができてからこちら、衣類や雑貨を扱う店は廃れるところも出てしまいシャッターが降りている場所が増えたが、未だに食料品を求める客は多く、全体で見れば活気に溢れている。

 

 昨今の時勢に逆らうように昔ながらの光景を残すその様子は、まるで八百万の神々の加護でも受けているかのようだ。

 もしそうだとしたら、環さんも関わっているのだろうか。

 いや、本人が力を失ったと言っていたしそれは無いかと思い直す。彼女のことだから祈りくらいは捧げていたかもしれないが。

 

 少し歩くと松葉屋のレトロな看板が見えてきた。遠目でも常連の奥様方で賑わっているのが見え、風に乗って揚げ物の香ばしい匂いがこちらまで漂ってくる。

 僕は不意にメンチカツを食べたくなった。

 伴って連想するのは環さんのこと。僕が毎日のように持って行った貢物の中でも彼女は松葉屋のメンチカツを特に気に入っていた。その味わいを二人して絶賛しながら頬張った憧憬がよみがえり、僕はたまらなく泣きそうになった。

 

 やはり別れの挨拶くらいはきちんと済ませておくべきなのだろう。このまま自然消滅というのはあまりに悲しいし、何より環さんに対して不義理だ。

 ほんのわずかでも夢と理想を共有した仲なのだから、せめて別れは晴れやかなものにしたい。つい先ほど気付いた僕の慕情を伝えるかどうかは置いておくとして。

 

 そうだ。すっきりと別れよう。一週間もうじうじと悩んだのが馬鹿みたいに思える。きっと最初からそうすべきだったのだ。環さんを訪ねる口実も何も必要ない。二言三言話して終わり。それで良いじゃないか。

 

 善は急げ。鉄は熱いうちに打て。僕はまた億劫になることを嫌い、今すぐにでも環さんに会いに行こうと思った。手土産に松葉屋のメンチカツを持っていけば尚良いだろう。

 別れの品に形の残らない食い物を渡すのはあまり一般的ではないかもしれないが、むしろ後腐れがなくて良い気がする。環さんとの思い出の品であることには変わらないし、僕の気持ちは十分に伝わるはずだ。

 

 僕の、気持ちは。

 

 ダメだ。ことあるごとに陰鬱な思いが浮かび上がってくる。大きく息を吐いて邪念を散らす。

 

 既に決意は固めた。今日だ。今日行くのだ。こんな気持ちにはさっさと決着をつけてやらねばならない。

 

 僕は勇み足で主婦の方々の列に並んだ。

 しばらく待って運良く揚げたてのメンチカツを二つ購入し、さあ行こうと心の帯紐を結び直した、ちょうどその時だった。

 

「稲里くん」

 

 横合いから声をかけらて、僕はドキリとした。聞き覚えのある女子の声だった。

 

 油の切れたロボットのようにぎこちなく振り向くと、そこには小野町がいた。

 私服姿で、犬を連れている。憎めない顔をしたダックスフンドは僕の靴を執拗に嗅ぎ回る。しまいには短い前足を伸ばしてこちらに登ってこようとする。「こら、タロー」と飼い主である小野町に注意されてもまるで反省の色はない。

 

「学校帰りにおつかい?」

「う、うん。そう」

 

 突然のことに思考がショートしかけていた僕は自分でも引くくらい声が吃っていた。

 しかし小野町はそんなことは気にもせず「私も」と言って買い物袋を見せる。

 

 僕はもう何が何だか分からなかった。

 いや、偶然クラスメイトに街中で会ったから普通に声をかけただけなのだろうが、生憎僕と彼女の関係は普通の同級生とは言い難い。なにせ中学の頃のいざこざがある。

 その上でわざわざ僕に挨拶なんぞする小野町の肝っ玉には驚嘆せざるを得ない。おかげで僕の方の肝は凍てついた。

 

 ほんの少し言葉を交わすだけでもう居たたまれない。さっさとこの場から退散しよう。

 そう思い「それじゃ」と言って彼女の横を通り抜けようとした。

 

「待って」

 

 小野町の一言が僕の足を否応なしに止めさせた。なんたる強制力。

 恐る恐る振り向いて小野町の表情を伺う。剣呑な感じはなく、普段通り人当たりの良さを感じさせる顔だが、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳には何かしらの固い意志があるように思われた。

 

 僕はたいへん押しに弱いので、こうなるともう逃げようがない。女子が相手となると尚更だ。

 

 僕の足に乗ってこようとする犬のリードを引きながら、僕が何か発言するよりも先に小野町は言った。

 

「ちょっと話したいことがあるの」

 

 

 

 

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