廃れた神社の狐娘   作:ふーてんもどき

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八話・話をしよう

 

 

 

 僕は小野町に誘われるがまま近くの公園に移動した。公園は夕陽の色に染まっているが、砂場では小学生くらいの子供たちがまだ遊んでいる。僕と小野町は隅にあるベンチに座った。

 

「稲里くんって商店街にはよく行くの?」

「まあ、それなりに」

「そう言えば近所だもんね。私もあの辺は散歩とかでよく通るんだけど、今日みたいに偶然ばったり会うのがこれまでなかったのって、なんか不思議」

 

 小野町が何やら喋っている。緊張で岩のごとく固まっている僕は会話の半分ほどしか理解できていない。

 商店街の本通りから公園に来るまでに少しは冷静さを取り戻せるかと期待したが、僕は今もなお混乱の渦中にあった。状況整理をしたいのに頭はとんと働かない。

 

 僕の足元では小野町の飼い犬であるタロー氏が元気よく走り回ったり、こちらの靴の臭いを嗅いだり、前足を僕の脛に乗せてきたりしている。もはや可愛らしいを通り越して鬱陶しい。

 しかし今この状況では彼だけが癒しだった。もしも犬に戯れつかれていなかったら緊張の逃げ場がなく、会話の半分どころか小野町の発言の全てが右から左へ抜けていたことだろう。僕の心の均衡を寸でのところで保ってくれているタロー氏には感謝するばかりだ。もっと鬱陶しくしてくれ。

 

「さっき買ってたのってメンチカツだよね。それが今日の晩御飯?」

「いや、これは、おやつと言うか」

「おやつにメンチカツ!?すごい、意外と大食いなんだね、稲里くん」

「別に大食いというわけでは……」

 

 僕は今何を話しているのだろうか。自分の口が勝手に動いている感覚だ。誤って変態的なことを言わぬよう気を付けたいが、そこまでの余裕が持てているのか自分でも怪しい。少なくとも今のところは相手を不快にさせてはいないようだけど。

 

「ねえそれよく買うの?」

「よくと言うほどじゃ……いや、最近はよく食べてるかな」

「へえー、良いなあ。私もおつかいで松葉屋にはたまに行くんだけど、メンチカツは食べたこと無いんだよね。唐揚げとか揚げ物系おいしいから気にはなっているんだけど」

 

 しかしどうにも先程から小野町はよく喋る。普段小野町との交友が無い僕から見ても、彼女にしてはかなりテンションが高い気がする。お世辞にも僕の相槌は面白いと言えないはずなのに。

 

 彼我の間に温度差があると低い方は思考が冷静になるもので、僕もまたそれを意識したために若干ではあるが平静を取り戻した。そしてようやく現状について一考する。

 

 わざわざ公園まで連れてきたにも関わらず、何故、小野町はこうも益体のない世間話を僕に振るのか。

 

 自他共にコミュニケーション能力不足を認める僕であっても分かることがある。赤の他人がこういった当たり障りのない話をする時は、大抵の場合そのあとに何か重要な、或いは言いにくい本命の話題を切り出したいからであると。

 しかも学校の友人などでは無く僕に話しかけてきたのだから、彼女の隠し持つ話題は僕にも関わることに違いない。

 

 では小野町と僕の関係における、言い出しにくい話とは何か。

 考えられるのはただ一つ。中学の頃の告白事件である。あの凄惨極まる事件の生傷は未だ癒えず、僕と小野町の間には高校に進学してからというもの事あるごとに互いの視線が交錯すると言う珍妙な現象が頻発している。

 

 まさか、その件に関して糾弾されるのか。

 いや、まさかではない。それしか考えられない。僕は絶望した。

 

 目が合うことは避けようの無い不運な事故であり、こちらとしても何とか解消したいと常々思っているのだが、それはあくまで僕側の視点での話である。

 

 小野町からしたらきっとこう思うだろう。あんな頭のおかしい告白をしてきた奴がこっちをジロジロ見てきている、と。恐るべき冤罪だが証拠も何もないので僕は反論ができない。

 

 そして証拠不在の水掛け論において、最も効果を発揮するのは多数決である。小野町は言うまでもなく優等生で交友関係も広い。彼女を支持する輩は多くいるだろう。

 それに対して僕は孤立無縁である。伊藤がいる?女子相手に彼が何の役に立つと言うのか。

 

 圧倒的劣勢の僕が敗訴するのは火を見るよりも明らかであり、異議ありと唱えたところで耳を貸す者はいないだろう。その後、卒業するまで付いて回るのはストーカーの汚名。つまり青春の終わりである。

 

「こらタロー。稲里くんのメンチカツ盗ろうとするんじゃないの」

 

 いつの間にか松葉屋印の紙袋を僕の手からくすね盗ろうとしていたタロー氏が小野町に捕まって引き離される。割とキツめの口調で怒られているが、タロー氏はメンチカツの入った紙袋をつぶらな瞳で見つめたまま一切の悪意が無い顔で舌をぺろぺろ出している。

 

 横槍が入ったことでふと我に還り、僕は先ほどまで考えていたことを思い直した。

 小野町が数の暴力に頼ろうとするなら、わざわざこうして僕と二人で話そうとはしなかった筈だ。それに彼女は元から意地悪なことをする性格でも無い。もしそうであれば僕が校舎裏に呼び出して恋文の朗読をしたことを、中学生の頃に周囲へ言いふらしていただろう。

 

 少なくとも、学校での立場が危うくなることはない。

 そう結論を出して腹を据える。覚悟は固まった。

 

 さあ小野町、どこからでも話を切り出すがいい。今ここで過去の精算をしてやる。

 

「うちのタロー何でも食べようとするの。この前なんて台所にあった生の玉ねぎ食べかけてて、本当に焦ったよ」

 

 羞恥と屈辱を乗り越える覚悟で僕はそう意気込んだのだが、小野町はやけに饒舌で、世間話がなおも続く。何なんだ。犬のことなどどうでもいい。前置きはもう十分だろう。早く僕に沙汰を言い渡してくれ。

 

 元来堪え性というものと縁の無い僕である。木綿豆腐のように押し固めた覚悟は早々に崩れかけ始めた。まるで死刑宣告を待つ囚人の気分であり、有り体に言えば大変居た堪れない。

 小野町に返事するにも精神を振り絞る必要がある。そのせいで一秒一秒が理不尽に長く感じ、この針の筵に座らされているかのような苦痛が永遠に続くかに思われた。

 

「雨以外の日は毎日散歩に連れて行っているんだけど、そこでも何かと拾い食いしようとするから大変で」

 

 逃げよう。僕はそう決めた。一分前の覚悟などとうに消え失せた。

 

 一言断ってスマホで時間を確認する素振りを見せ、それから「もう帰らなきゃ」とでも言ってこの場から立ち去ろう。そんな計画を一瞬で組み立てる。演技力に自信は無いが、おつかいの大義名分もあるし、多少わざとらしくても構やしない。

 あとは今まで通り、小野町とは距離を置いて、出来れば目を合わせないよう努め、高校卒業までやり過ごせば良い。今後神社回りを僕が彷徨つくことも無くなれば今日のように街中で出会すこともないだろう。

 これは恥知らずの逃走ではない。戦略的観点に基づく撤退である。

 

 一拍、小野町の話に区切りが出来る。好機だ。僕は気持ちが早って腰を浮かせかける。

 

「ねえ稲里くん」

 

 僕が立ち上がることはなかった。縫い止められたように動きも思考も止まる。僕の名前を呼んだ小野町の口調はさっきまでのものと違い、どこか真剣味を帯びていた。

 

 まずい。ここでいきなり本題を切り出されるなんて。覚悟を固め直す余裕など無いというのに。

 出鼻を挫かれた僕は、それでもと半ば強引につい今しがた立てた計画の続行を試みる。

 

 しかし僕の起立をタロー氏が物理的に阻んだ。膝の上に乗ってきて、メンチカツの紙袋を見つめながらクゥンと鳴くのだ。僕が咄嗟に紙袋を遠ざけると、今度は膝に乗ったまま伏せの体勢をとって寛ぎ始める。癒しとは何だったのか。

 

 逃げる機会は完全に逸した。僕は小野町の次の発言を準備不足の覚悟で迎えるしかない。

 ジロジロ見てしまいごめんなさい。中学の頃のことは忘れてください。

 そうやって謝り倒す言葉だけを用意し、身を固くする僕に小野町は言った。

 

「稲里くん、最近元気ないよね」

「えっ」

 

 実に間抜けな声が僕の口から漏れる。予想していたものとは違う言葉に上手く対応できなかった。

 

「一週間くらい前にテスト結果出た時、少し話したでしょ。稲里くん急に帰っちゃうし、次の日からずっと元気なさそうだし、それがちょっと気になってて」

 

 なぜ小野町が僕の調子など気にかけるのか。いやそれ以前に僕は傍目からも一目瞭然なほど憔悴していたというのか。まさか知らぬうちにそこまでの無様を晒していたとは思っておらず、僕はにわかに恥ずかしくなった。

 

 何を言えば良いのか分からず目ばかり泳がせる僕に、小野町は言葉を続ける。

 

「稲里くんがそうなったのって、やっぱりあの神社が取り壊されることと関係あるんだよね」

 

 糾弾ではない。

 しかしこれはまた別の意味で困った。どういうつもりか分からないが、小野町はぐいぐいと僕の抱える悩みの核心に迫ってくる。某少年探偵に追い詰められる犯人の心境とはこういうものか。

 

「……なんで小野町がそんなことを気にするんだ」

 

 とにかく考えるゆとりが欲しい僕は、そうやって答えをはぐらかす。小野町は困ったように苦笑しながらも言葉を選んで僕の問いに答えた。

 

「うーん。やっぱり私が神社のこと言ったからっていうのはあるよ。ちょっと変かもだけど、それだけでも気になるものは気になるし」

 

 それに、と小野町は続ける。

 

「稲里くんとは、その、中学の頃のこともあるから」

「な、なんのことですかぁ!」

 

 僕は絶叫した。膝の上のタロー氏も砂場で遊んでいる子供たちもびっくりしてこちらを見る。

 油断していた。そっちの話題に飛ぶとは思っていなかった。

 心の中で悶絶する僕に小野町は追い討ちをかけてくる。

 

「え、何って稲里くんが校舎裏に私を呼んで手紙を読んだあの……」

「やめて。分かってる。だから全部言うのはやめて」

 

 僕は顔を覆い隠して背中を丸める。穴があったら入りたい気分だ。先ほどの覚悟など嘘だったのだと痛感する。現実に向き合わされるというのは想像を絶するほどに耐え難いことだと知った。

 

「忘れてくれ。あの時はどうかしていたんだ。今では反省している。だから小野町と目が合うのも偶然で、僕は邪なことなんて考えていないんだよ」

 

 僕は思いつくままにそう言った。後半、何か要らぬことを口走ったと気付いた時には遅かった。

 

「目が合う?私と?」

「いやそのあの」

 

 中学時代の話から離れたいがために捲し立てたのが失敗だった。もっと触れて欲しくない話題を自ら口にしてしまうとは。

 

 邪なことなんて無い。いかにも邪な考えの人間が言いそうな台詞である。どうにか上方修正をしようと言い訳を試みるも、僕に心の余裕など一欠片も無かった。

 意味不明な言葉の羅列が浮かんでは消え、口から出るのは「あうあうあ」などという奇声ばかり。環さん助けてください。

 

 恐らく今の僕は過去最高に気持ち悪かっただろうが、しかし小野町は特に引くこともなくポツリと言った。

 

「そっか、稲里くんもそう思ってたんだね」

 

 そう、とはどういう意味だ。僕はそれまで捻り出そうとしていた言い訳の一切を忘れ、小野町の言葉に耳を澄ませた。

 

「中学の時のこと、稲里くんは真剣だったのに私が有耶無耶にしちゃったからずっと気になってたんだよね。それで話すきっかけがないかなって稲里くんの方チラチラ見たりしちゃってて。そのせいで目が合うから、むしろ困らせてるんじゃないかって思うと余計に声をかけづらかったりして……」

 

 照れ臭そうに小野町が頰を掻く。

 あまりに予想外の展開に付いて行けず、僕はしばらく呆然とした。

 

「その、ごめんね。あの時は逃げちゃって。高校でも迷惑かけちゃったし」

 

 小野町の言葉を頭に巡らせながらタロー氏を撫でている内に、段々と彼女の言っていることを理解し始める。

 

 どうやら面倒臭くあれこれ悩んでいたのは僕だけではないようで。

 とどのつまり、小野町もまた僕と同じように互いの距離感について「どうしよう」と考えていたらしい。

 

 中学の頃の告白の件を精算したいということも、目が合うことで相手を困らせているのではという不安も結局はお互い様で。

 たったそれだけのことに僕たちはおよそ二年もの間悩み続け、すれ違い続けて来たわけだ。

 

 言葉にすれば簡単なことだったのに。まったく、遠回りにも程がある。

 

「は、はははっ」

 

 人生の命題のごとく悩んできたことが馬鹿らしくなって、僕は思わず笑ってしまった。糾弾されるとか、ストーカー疑惑だとか、本当に馬鹿みたいだ。

 真面目な話をしていたのにこちらが突然笑い出したせいで小野町は戸惑っている。

 

「え、なに。なんで笑ってるの」

「だってそりゃ、ははは、僕はずっと悩んでたんだよ。なのに蓋を開けてみたらこんな簡単に解決する話で、もう笑うしかないって」

 

 腹の底から笑う僕にしばらく呆然としていた小野町だったが、次第につられて可笑しくなったのかくすっと笑った。

 その笑顔を見て僕は思った。小野町の中でも、この二年間抱き続けてきたしこりが溶けて消えたのだろうということを。

 

「話せて良かった。じゃあこれで私たちの問題は解消、ってことでいいんだよね」

「ああ。そうなるな。誓って言うけど、僕だって小野町のこと変な目で見てたわけじゃないから」

「分かってるよ。大丈夫」

 

 念を押す僕に小野町が笑いながら頷く。

 

「あと出来れば中学の頃のことも忘れてくれよ。キモかっただろ。本当にどうかしてたんだよ、あの時は」

「別にキモいとか、そんなこと思ってないよ」

 

 いやそれは嘘だろ。僕が怪訝な目を向けると小野町が「ほんとほんと!」と食い下がる。

 

「どう返事していいか分からなくて頭パニックになっちゃったから逃げただけで、告白自体は嬉しかったのよ。あんな、その、熱烈に言われたことも無かったから凄く印象深かったし」

「やめろ。熱烈とか言うな」

「……嬉しかったよ?」

「やめろぉ!」

 

 恥ずかしがる僕をからかってか、小野町がそんなことを言う。ただの良い子ちゃんだと思っていたのに意外な一面だ。かつて中学時代に仲間と苦心して作り上げたの女子ランキング帳にもこんなことは記されていなかった。

 

 今にして思えば、中学生の僕は恋などしていなかったのだろう。小野町のことなど何も知らぬまま、その外側にだけ惹かれていたのだから。

 

 僕の反応は余程からかい甲斐があったらしく、小野町はしばらくの間楽しそうに笑っていた。その笑いがひと段落したところで、僕はふと気になったことを尋ねた。

 

「しかしなんで今日、わざわざ僕に話しかけたんだ」

「それはさっきも言った通りだよ。稲里くんが最近悩んでて元気無さそうだったから、何かあったのかなって」

 

 小野町の目を見る。疑るまでもなく、彼女は本心から言っているのだと分かる。「それをきっかけに、こうやって色々話したかったのもあるけどね」と罰が悪そうに小野町は言う。

 

「何について悩んでるのかな、神社のことかな、私のせいじゃないといいな、とか考えててね。それで今日、稲里くんと伊藤くんが話してるの聞いて一つ確信したことがあったんだ。だから商店街で偶然会った時、これはチャンスだって思って」

「待て、待て小野町」

 

 小野町の言葉の中に聞き捨てならない部分があり、僕は話を遮った。

 

「僕と伊藤の話を聞いてたって、アレのことか?」

「そう、アレだよ」

「つ、つまり放課後の」

「そうそう。仲良くなった女の子が故郷に帰っちゃうとか、失恋したとか話してたアレ」

「忘れてくれ」

 

 僕は何度目になるか分からない台詞を吐いてうなだれた。小野町が「まあまあ」と言って背中をぽんぽん叩いてくる。こいつ絶対僕が恥ずかしがることを分かってて言ってるな。

 

「実際のとこさ、あの例え話ってどこまで本当なの?」

「……駅向こうの神社と関係がある。ってとこまでは分かってるんだよな」

 

 僕が聞くと小野町はこくりと頷いた。

 まあそうだろう。神社が取り壊されると知ってから落ち込み始め、そのことで心配してきた伊藤に『もしも外国人の美女と友達だったら』なんて例え話をしたのだから、関連性があるのは側から見てた小野町にも明らかだったに違いない。

 

「まあ、ちょっと複雑でな、詳しくは話しにくいんだ。でも大丈夫だよ。小野町が心配することはない。どのみち神社は取り壊されるんだし、僕はもう納得してるからさ」

「じゃあ、相手の女の人も納得してるの?」

「ああ。そう言ってたよ。と言うか彼女が納得してるみたいだったから僕もそうしようと思った。こっちばかりが子供みたいに駄々を捏ねたって仕方ないからな」

 

 口に出して、環さんとの別れに対して自分がちゃんと納得できていることを認識する。大丈夫だ。そう思いながらタロー氏の頭を撫でくり回す。

 

 すでに結論は出ているのだから、もう深堀するものも何もない。

 しかし小野町は何故か不満そうだった。足を組んで頬杖を突き、難しい顔をしている。彼女でもそういう姿勢をするんだなどと思っていると、小野町はパッと顔を上げこちらに向き直った。力強い視線が、僕を射抜く。

 

「私はやっぱりちゃんと話をするべきだと思う」

「え、ああいや、僕もそのつもりだよ。実はこれから神社に行ってきちんとお別れの挨拶を済ませようと思っていたんだ。ほら、このメンチカツは手土産で」

「違うよ。そうじゃない」

 

 小野町は僕の発言をばっさりと切り捨てた。あまりの気迫に僕は思わずたじろぐ。

 

「稲里くんはその神社で会っていた人のことが好きなんでしょ?」

「は、はい。そうです……」

「本当は一緒に居たいって思ってるんだよね?」

「はあ……」

 

 小野町の繰り出す怒涛の質問に僕は生返事で答えるしかない。昔告白して振られた相手にこうして恋愛事情を聴かれるというのは、なかなかどうして居心地の悪いものだ。

 

 あまり深く聞かないでくれると助かるんだが。

 そんな抗議を込めた目を向けるも、小野町は僕のささやかな抵抗など一顧だにせず、強烈な一言を真っ向から叩きつけてきた。

 

「稲里くん、そのこと相手の人に全然伝えていないでしょ」

 

 何か言おうとして、しかし何も言えず押し黙った僕に、小野町は「やっぱり」と苦笑した。その微笑にはからかいや面白半分といった感じは無く「しょうがないなあ」とでも云うような慈愛の色があるように見えた。

 

「それを言わなきゃ。相手にちゃんと伝えなきゃ、ずっとずっとモヤモヤした気持ちが残ると思うよ」

「ま、待て待て。それは僕側の気持ちの問題だろ。エゴってやつだ。相手には関係ないし、ただの重荷にしかならないに決まってる」

「本当に? どうやって確認したの?」

 

 さっきまでの和解の雰囲気もどこへやら、小野町は鬼気迫った様子で畳みかけてくる。僕はまたもや沈黙し小野町に言われたことについて考えざるを得なくなった。

 

 相手が、環さんが本当はどう思っているのか。

 そんなこと確認などするまでもなく大体の見当はつく。本当は帰りたくなどないのだろうと。

 何せ彼女は百年もの間あの神社に残りながら人と戯れる日を夢に見てきたのだから。心の底から楽しかったであろうかつての日々をもう一度と願い、待ち望んで生きてきたのだ。しかしそれが叶わないと知り、神社の取り壊しを潮時と見て天界に帰ろうとしている。

 

 その決断をするためには並々ならぬ勇気が必要だったはずだ。長年の孤独に耐えてまで欲しかったものを手放すという勇気が。だから僕は彼女の意志を尊重すべく、せめて後腐れのない形で終わりにしようと——————。

 

「……?」

 

 そこまで考えて、僕の中にふと疑問が湧いた。

 

 環さんの意志とは何か。

 彼女が天界に帰ろうとしているのは今まで抱いてきた意志を折らざるを得なくなったからだ。そして今まで環さんが抱いてきた意志とは、独り下界に残ってでも叶えたかった願いに他ならない。

 

 なのに僕は環さんの諦めを尊重して、彼女が押し殺そうとしている願いは切り捨てるのか。

 僕自身も、本当は環さんに帰って欲しくないというのに。

 

 僕たちは一度も、お互いに本音を語ってなどいないというのに。

 

「小野町。僕は……」

「ね。言葉にしなきゃ伝わらないことって、あるんだよ」

 

 小野町の声音は柔らかかった。ようやく、僕は彼女の言わんとしてることを理解し始めた。

 考えてみれば……いや考えるまでもない。

 話し合うとか尊重し合うとか、それ以前の段階で僕は立ち止まっていたのだ。物分かりの良いふりをして環さんの本心も聞かず、自分の本心も打ち明けず。

 

「私も、最初はこんなこと言うつもりじゃなかったの。余計なこと言って迷惑かけたら嫌だなって思っていたし」

 

 でもね、と小野町が照れ臭そうに笑う。

 

「さっき稲里くんと話して、お互いに変な誤解をしていたんだって分かってさ。それで思ったんだ。やっぱり心って、声に出さなきゃ伝わらないんだよ。相手の人もきっと迷惑だなんて思わない。私と同じで、話してくれたら嬉しいはずだから」

 

 夕陽に照らされた小野町の屈託のない笑顔はとても可憐だった。きっと中学の頃の僕なら卒倒していただろうし、環さんと出会っていなかったら今だって惚れ直していたかもしれない。けれどこの時、僕はただ純粋に、人のためを思って笑える小野町が素敵だと思った。

 

 不意に、タロー氏が飛び起き、メンチカツの紙袋を再び奪おうとしてきた。僕はそれをサッと避け、タロー氏を抱きかかえて膝から降ろして立ち上がる。ズボンが抜け毛だらけだ。

 きょとんとするタロー氏を横目に、僕は小野町に礼を述べた。

 

「ありがとう小野町。色々とスッキリした。時間も無いから、僕は行くよ」

「うん。頑張ってね」

 

 気持ちが急く。すぐにでも環さんの所へ行きたいという、およそ一週間ぶりに感じる衝動が僕を突き動かす。気付けばすでに数歩、駆け出していた。

 勢いのまま小野町と別れようとした時、一つ思い付いて僕は振り返った。

 

「小野町も何か悩みがあったら相談に乗るよ! 僕で良ければ!」

 

 それだけを一方的に言って走り出す。返事は聞かなかった。照れくさくて聞けなかった。しかし小野町のびっくりした顔を最後に見られただけでも収穫だった。そう思いつつも、もし本当に小野町が何か相談してきたら親身になって協力したいと考える。今日、彼女から教えてもらったことはあまりに大きく、返すに返しきれない恩が出来てしまったから。

 

 僕は駆けた。もう日没までは幾許も無い。

 商店街を一目散に走り抜け、陸橋を越え、東口から西口へと駅を横断する。

 

 息が上がるのも構わず、神社めがけて。落ちる夕陽を追うようにひた走った。

 

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