廃れた神社の狐娘   作:ふーてんもどき

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九話・僕の神様になってください

 

 

 

 一週間ぶりに訪れた神社の入り口には、立ち入り禁止の黄色いテープが張られていた。すぐ側に置いてある立て看板には、取り壊しが決まった旨と工事の日時などが記載されている。老朽化のため崩れる危険があるから入らないように、とも。

 

 小野町と公園で別れてからこちら、一度も止まらずに走ってきた僕は息も絶え絶えだったが、一切の躊躇なく立ち入り禁止のテープを乗り越えて境内へと侵入した。

 神社の敷地は相変わらず雑草に支配されていたが、生えている種目がススキなどの秋季のものに変わっていた。今まで気にかけることもなかった時の移ろいを目の当たりにして、僕の心は焦燥に波立った。

 

「環さん、僕です。晴人です」

 

 いつもなら僕がやって来たと見るやとっとこ出てくるはずの環さんの姿が見えない。社の前に立って呼びかけても森閑としているばかりだ。

 普段から不気味な雰囲気のある境内は、夕暮れで薄暗いこともあり不吉な予感を起こさせる。

 

 僕は不安に駆られた。もしかしたら環さんは既に天界に帰ってしまったのか。せっかく小野町に背中を押してもらい自分の本音と向き合う決意を固めたのに、全ては遅きに失したと言うのか。

 

「環さん! 環さーん!」

 

 僕は腹の底から彼女の名前を叫んだ。ジュリエッタを呼ぶ悲恋のロミオさながらの気持ちで環さんの行方を探す。

 

 すると、境内の隅で何やら影が蠢いた。茂った草の間でもぞもぞと動く影はホラー映画さながらの恐怖を感じさせる。

 畏れながらも凝視すると、立ち上がったそれはよく見覚えのあるシルエットをしていた。上に立つ尖った耳と、輪郭だけでも豊かな毛並みの分かる尻尾。環さんの姿であった。

 

「ふああ……」

 

 環さんは欠伸をしながら覚束ない足取りで此方へやって来る。まさか外で眠っていたのだろうか。相も変わらず天衣無縫の人である。

 僕も歩み寄ると、眠たそうだった彼女は擦っていた目をパチクリとさせて驚いた。

 

「ややっ、晴人! 誰じゃと思うたらお主か!」

「はい。ご無沙汰していました」

「まったくもう。最近全然来ないから何事かと心配していたのだぞ」

 

 フンスと鼻息の荒い環さんだが、その口調には喜びの色があった。どうやら僕が一週間も顏を出さなかったことを怒ってはいないらしい。

 

「草むらで何をされていたんですか」

「おう、蟻の行列があってな。暇潰しに眺めておったらいつの間にやら寝てしまった」

 

 もう日暮れじゃのう、と環さん。時間の使い方が大雑把すぎる。

 

「しかし蟻とは、いつ見ても珍妙じゃよなあ。大勢があんなちっこい穴から出入りしておるが、土の中でどう暮らしているのか見当もつかん。奴らの家は異界とでも繋がっておるのだろうか」

 

 数百年は生きているはずなのに少年のような目でそんなことを言う。僕は呆れつつも、環さんが何も変わっていないことに深く安堵した。もう二度と、こんな風に彼女と喋れないのではないかと思っていたから。

 

「蟻の話は置いておいて、はいこれ、今日の供物です」

「わあメンチカツ!」

 

 まだ仄かに温い紙袋を渡すと、環さんは飛び上がる勢いで喜んだ。「ほら、はよ食うぞ!はよう!」と僕の手を引き、社の石段に並んで座る。環さんはいただきます、と手を合わせて早速三角の紙に包まれたメンチカツを頬張る。

 

「ほれ。二個あるから一つはお主の分じゃ」

「もともとそのつもりで買ってきたんですよ。なんで僕が貰う感じになってるんですか」

「はあー、美味い。美味いが、熱々じゃったらもっと美味かったのう」

「無視しないでください」

 

 あっという間にペロリと一個食べ切ってしまった環さんが物欲しそうに僕のカツを見てくるので、一口ならと差し出したところ二口食われてしまった。唯我独尊の霊狐である。本当にこの人はどうしようもない。

 まあ分かっていたことではあるので、僕は大人しく残り少なくなったメンチカツを食した。

 

「こればかりが心残りじゃ。天界に帰ったら二度と食えないんじゃよなあ」

 

 天界。その単語が出たことを僕は好機と見た。環さんが醸すのほほんとした空気に浸って腑抜けてはいけない。このきっかけを逃さず、話すべきことを話すのだ。

 

「環さん。お話があります」

 

 僕がそう言うと、環さんは「なんじゃらほい」とヘンテコな返事をする。せっかく真剣な雰囲気を作ろうとしたのに台無しである。小野町助けてくれ、と念じつつ僕は覚悟のほぞを固め直した。

 

「僕はこの一週間ずっと悩んでいました」

 

 環さんの顔がにわかに凛と引き締まる。見た目に似つかわしくない思慮深そうな双眸が僕を見つめ、続きを話せと促してくる。

 

「環さんのことを引き留めるべきじゃないと思っていました。僕にそんな資格は無いし、そもそも環さんが望んではいないかもしれないから」

 

 さっきまでの和気藹々としたやり取りが嘘のように、僕たち二人の間の空気が張り詰める。それを感じているのは僕だけだろうか。緊張による錯覚だろうか。

 何をするにせよ、本当の瞬間とは怖いものだ。裸足で逃げ出したくなるほどに。

 

 しかし僕はつい先程、その恐怖に立ち向かう勇気を小野町からもらった。ここで発揮できなくて何とする。

 

「でもやっぱり僕は、環さんに帰ってほしくないです」

 

 少し前まで胸の内にしまっておこうと思っていた言葉をハッキリと口にした。

 環さんは睨め付けるかのように僕の目を強く見つめていたが、しばらくしてふと視線を逸らし、ため息をついた。

 

「はあ。お主はまったく……同情などせんでいいと言うのに」

「同情じゃないです。僕が環さんに居て欲しいんです」

 

 畳みかけるように言うと、環さんは困ったように苦笑して自分の尻尾を弄り始める。

 

「言うではないか。でも、なあ。そう我儘を言ってもおれんのよ。下界での儂の居場所はこの神社のみじゃ。ここが無くなることに変わりはないのだから、最早どうともならんて」

「いいえ。そんなことはないはずです。方法なら考えてきました」

「ほう。どんな」

「引っ越すんですよ。新しい社に還座しましょう」

 

 一度は思い付き、口に出すこともなく破棄した愚案。環さんは意外そうに目を瞬かせたが、やはり聞き分けの悪い子供を諭すような苦笑に戻った。

 

「なるほど。少しは勉強したな、晴人。だがそれも無理じゃ」

「何故です」

「人間であるお主には分からないかもしれんが、儂らの世界にも色々としきたりや風習というものはある。今からすぐに移り先を見つけるのは難しい。それにな……何よりも儂が嫌なんじゃよ。他に移りとうない」

 

 言い聞かせるように語る環さんは、躊躇いがちに最後の言葉を付け足した。僕はそこに、彼女の本音を垣間見た気がした。

 

 環さんの気持ちは痛いほどに分かる。本音を、もっと言うなら自分の弱い部分を少し見せることで相手に退いてもらいたいのだ。これ以上踏み込めば面倒な話になるということを匂わせて、会話を打ち切りたい。自分の経験と照らし合わせ、きっとそういう心理なのだろうと僕は断定した。

 

 退いてなどやるものか。僕はまだ伝えたいことの一部しか言葉に出来ていないのだから。

 

「勝手で申し訳ないのですが。環さんの還座先はもう絞ってあります」

「は?」

「どうか僕の家に来てください。立派な神棚を僕の部屋に飾りますから、そこへ来て、一緒に暮らしましょう」

 

 再びこちらを見た環さんは驚きのあまり呆然としていた。口がぽかんと開いたままになっている。目がキョロキョロと泳ぎ、左右に振り回されている尻尾からは彼女の混乱具合がよく分かる。

 時間が経つにつれて環さんの頬が赤く染まっていき、みるみるうちに顔全体が紅葉のように真っ赤になった。

 

「は、晴人お主! 自分が何を言っておるのか分かっておるのか!?」

「もちろんです。僕は本気ですよ。いずれは環さんに信仰を集めて、自由に外出できるよう努力もします」

「い、いや待て。待つのじゃ。そう、お主の願い事はどうなる?」

 

 プロポーズ紛いの発言に環さんが待ったをかける。

 僕の願い事。理想の女性と、理想の出会いを。それを叶えるべく僕と環さんは夏から秋にかけて侃侃諤諤の議論を交わしてきたわけだ。

 

 今となっては的外れの、ちゃんちゃら可笑しい話だが。

 

「そんなもんは既に叶っています」

「そ、そんなもん!?」

「僕が今言ったのは、それを踏まえた上での追加のお願いです」

「百日詣に追加なんてないぞ!?」

「願うだけならタダだと何処かで聞きました」

「強欲じゃあ……」

 

 強引に迫る僕に気圧された環さんはほとほと弱り果てた様子だった。まだ赤みの抜けない顔で「これだから人間は」などとぶつぶつ言っている。

 僕は環さんの正面に立ち、深々と頭を下げた。正真正銘、掛け値なしの一生に一度のお願い。その覚悟を持って告げる。

 

「お願いします。僕の神様になってください」

 

 九十度に腰を折ったまま、僕は環さんの返事を待った。

 しかし返事は無い。曲げている腰が痛くなり始めるくらいの時間が経っても環さんは何も言わなかった。

 

 僕はゆっくりと頭を上げる。向き直ってみれば、環さんはひどく難しい顔をして俯いていた。この数ヶ月ずっと彼女に会ってきたが、今までに見たことのない表情だった。膝の上に置いた手をもじもじとさせるばかりで、一向に返事をする様子は無い。

 

「駄目ですか」

 

 ややあって、こくりと環さんが頷く。

 

 告白の熱が幾分か冷めた僕はにわかに不安に襲われた。もしかしたら、何処かで環さんの地雷を踏み抜いたのか。今にも泣き出しそうな環さんの顔は、そう思わせるのに十分な説得力があった。

 どうしよう。この状況は聞いていない。自分の気持ちを伝えようと、そればかりで話していたから想定外の展開に対応できない。

 

 そうだ。とにかく環さんの気持ちもちゃんと確認しなければ。僕は努めて平静を装い、ゆっくりとした口調で話を続けた。

 

「嫌なら、ハッキリ言ってもらって大丈夫です。僕は腹を割って環さんと話がしたいんです」

「……嫌では、ないんじゃ」

 

 環さんの声はなんとか絞り出したように苦しげだった。辿々しく、まるで迷子の子供が上手く自分のことを話せないような拙さを感じさせる。

 

「嫌じゃない。たぶん、儂は嬉しい。嬉しいと思っておる。晴人といるのは楽しい。なのに変じゃ」

「変、ですか?」

「よう分からんのじゃ。儂はもう何もかんもよう分からん」

 

 どういうことかと環さんの言葉の意味を僕が考えている間に、彼女の目尻には涙が浮かび始めていた。

 

「何をどうしたら幸せなんじゃ。ずっと考えてきたのにとんと分からん。思えば儂は、晴人のこともよう知らん。一緒にいて楽しいのは分かるのに、ずっと居られるのか考えると、分からんくなってしもうた」

「これから知っていけば良いではないですか」

「……きっとまた分からなくなる」

 

 僕のありきたりな言葉を否定し、環さんはぽつぽつと語り出した。

 

「実はのう。昔のことをよく覚えてはいないんじゃ。楽しかったことや嬉しかったことは分かるのだが、誰と仲良くなったのか、どうやって遊んだのか、あまり思い出せない。時が経つにつれて、どんどん思い出せなくなっていっとる」

 

 そんなはずはない。現に環さんはこれまで、過去の思い出を幾度となく滔々と話してきたではないか。

 

 考えていることが顔に出ていたのか、環さんはこちらを見て寂しそうに笑った。環さんと初めて会った夏の日に見た、遠い情景を見つめるような顔が不意に思い出される。

 

「晴人もあるじゃろう。よく覚えていないことでも、その前後の記憶からこうだっただろうなと考えて、空白を埋めるようなことが。儂のはそれじゃ。別に嘘を言っていたつもりはないんじゃが、正確に覚えていることなど微々たるものでな。それも端からどんどん曖昧になって、儂の中から出会った人間たちの顔や名前が消えていくんじゃよ」

 

 僕は辛そうな彼女に少しでも寄り添いたくて肩に手を置こうとしたが、振り払われてしまった。そのぞんざいな態度が「同情しないでくれ」と訴えていた。

 

「忘れるのは、何も儂だけではない。この神社に来ていた人間たちも、年月が経てばその分だけ過去のことを忘れていく。そんなことを気にして残るなんてお前はどうも人間くさいと、仕えていた神様や姉妹たちにも言われたよ。儂だって、自然なことだというのは分かっているんじゃ。この神社の廃れた原因が単に周りから忘れられていっただけということも、それが避けようのないことだったのも分かっている。分かってはいるが……!」

 

 環さんは声を荒げ、着物の袖で目尻に浮かんでいた涙を拭った。

 

「儂ばかりが覚えている! 人と遊んで楽しかった気持ちも、神社の祭りの高揚感も、全部儂しか覚えていない! 他のことは皆と同じように忘れられるのに、あの日の感情だけがずっと残って消えないんじゃ!」

 

 環さんが堰を切ったように叫ぶ。それは荒ぶる感情に任せた魂の悲鳴であり、血を吐くように悲痛さがあった。

 ひとしきり叫んだ環さんは息を抑えようとしながら、両手で顔を覆った。猫背に丸まったその姿からは、羅生門の老婆のように鄙びた哀愁が漂っていた。

 

「どうしたらこの苦しさが消えるのかずっと考えてきたよ……でも時間が経てば経つほど寂しくなるばかりで、どうしようも無いんじゃ。一緒にいると約束してくれた者たちもいつの間にか居なくなってしまった。今じゃ顔すら思い出せん。なのに忘れたはずのそれをまだ欲しがっている自分がおる。自分のことすらままならぬ。もう儂は、何を信じたら良いか、これっぽっちも分からんのよ」

 

 環さんの独白はそこで途切れた。僕たちは向かい合ったまま、しかし俯く環さんと目が合わないまま沈黙した。

 鈴虫の鳴く声がどこからともなく薄暗い神社に響いている。見上げれば生い茂った木々の枝の隙間から藍色の空が見え、仄かに白い月が顔を覗かせている。

 

 環さんの抱えていたものは、僕が考えていたそれよりずっと広く深かった。たかだか一介の高校生である僕の想像など及ぶべくもなかった。

 

 どう言葉をかけたら良いか。どうしたら上手い具合に彼女を慰められるのか。僕は内心で血眼になって思考を巡らせた。

 しかしそれも十数秒程度のことだった。夜の冷たい空気を吸い込むと頭の中が明瞭になり、重く捉えていた悩みも押し流されていく。

 

 僕が一人であれこれ考えて分かることなど知れている。何が相手のためになるかなんて、いくら悩んだところで言い訳と妥協が澱んで濁り、屁理屈未満の情けない結論がひり出されるのみだ。

 僕に出来ることは最初から決まっている。今日はそれ胸に、環さんの元を訪れたのである。

 

 今ここで環さんの悩みを全て払拭する妙案など浮かぶべくも無い。僕は僕の覚悟を、真剣な思いを、迷い続けている彼女にきちんと伝わるまで誠意を尽くすしかないのだ。

 

「環さん。僕のことも信じられませんか」

 

 尋ねてみても、環さんは黙ったままだ。膝をついてしゃがみ、彼女と目線を合わせようとしたがそっぽを向かれてしまう。僕はそれに構わず言葉を続けた。

 

「幸せが分からなくなったなら、これから探していきましょう。その中でだんだんと信じられるようにならば良いんです。約束します。僕は絶対に環さんから離れたりしません」

 

 環さんはそっぽを向いて黙ったままだ。暗い中でも着物の裾を握る彼女の手が強張っているのが分かる。

 

「秋が終わるまでに焚き火で芋を焼きましょうよ。冬には餅をついて、春になったら桜を見に行きましょう。環さんに言われて僕も思ったんです。ずっとそうやって暮らしていけたら良いなって」

 

 環さんは黙っている。僕が何を言っても。子供が親の小言に耳を塞いで嫌がるように。

 

「……そうですか。分かりました」

 

 僕はやおら立ち上がった。環さんがハッとした顔でこちらを見上げるが、そんな彼女の横を通り抜けて石段を登る。

 

「は、晴人?」

 

 環さんは僕が怒ったとでも思っているのか困惑した声をかけてくる。それを背中に受けながら僕はずんずんと歩き、古びた賽銭箱の前に立った。

 

 ズボンのポケットから財布を出す。小銭入れにはちょうど良く五円玉が一枚あった。僕は穴の空いた黄金色の硬貨を満腔の思いで握りしめ、賽銭箱に放り投げた。チャリンと底に落ちた音が鳴る。

 

 言葉で駄目なら、もうこれしかない。

 

 環さんは神社の霊狐だ。多くの力を失った今でも、参拝客が願い事をする際に心の内を見ることはできるという。僕も御百度参りで恋人が欲しいという願い事どころか自分さえ預かり知らぬ深層心理まで覗かれたものだ。環さんの能力は折り紙付きである。

 

 今はとくと覗くがいい。言葉では分からないと言うのなら、何を信じたら良いか分からないと言うのなら、言葉にし尽くせないほど深い心の中を覗き見るといい。

 これは賭けだ。深層心理など自分のことさえ定かではない。もしも僕の奥底にある想いが環さんの心を揺さぶるほどのものでなかったら、この行為には何の意味もなくなる。それどころか、彼女を傷つける恐れすらあるだろう。

 

 しかし迷うことなど無い。今この瞬間だけは、環さんに対する思いだけなら、僕は僕自身に全幅の信頼を置ける。

 

 背筋を伸ばし、呼吸を整える。久しぶりに行う祈祷の型は、しかし百日間の練磨のおかげで些かも衰えてはいない。考える必要もなくすんなりと身体が動く。

 二礼二拍手。僕は粛々とその儀式をこなし、ありったけの願いを心の中で唱えた。

 

 どうか、どうか環さんと。

 

 …………。

 

 本気の御参りは短く済んだ。たった一つだけの単純な願い事だったからだ。御百度参りで幾度となく祈りを捧げたきたが、今回ほど真剣に願ったことは一度もないと断言できる。

 

 伝わっただろうか。今の僕に出来ることは全てやったわけだが。

 合わせていた手を解いて最後に一礼をし、さて成果や如何にと振り向く。

 

「わっ!」

 

 振り向いた瞬間、僕の胸に金色の風がすごい勢いで突っ込んできた。たたらを踏みそうになるのを何とか堪えて抱き止める。

 飛び込んできた環さんは顔を押し当て、しがみ付いたまま離れようとしない。背中に回された彼女の手が僕のシャツをぎゅうと掴む。

 

 暫し混乱していた僕は、取り敢えず彼女の名前を呼ぼうと口を開きかけて止めた。胸に顔を埋めたままの環さんから、ひっくひっくと啜り泣く声が聞こえてきたからだ。

 

「ば、馬鹿もんが…この馬鹿もん……」

 

 嗚咽混じりに環さんが言う。

 

「はい。そうです。馬鹿なんです」

 

 そう答えると彼女は頭をぐりぐりと擦り付けてきた。回されている腕に一層力が込められる。僕は少し逡巡した後、彼女の頭を撫でた。愛くるしい耳には当たらぬよう気を付けながら、子供をあやすように撫でる。

 

「浮気は許さんぞ。絶対じゃ。狐の恨みは恐ろしいんじゃからな」

「承知しました」

「あと、貢物を欠かすでないぞ。言っておくが、儂はあのメンチカツが好物じゃ」

「分かっています」

「あと、それと、えっと…………」

 

 まるで言い訳を探すように環さんは辿々しく言葉を重ねる。僕はそれにとことん付き合うつもりだった。今まさに、一生をかけて彼女の側にいると誓ったのだから。

 

 ひとしきり喋って、環さんは落ち着いたらしい。もう啜り泣いてはいないし抱き締める強さも和らいだ。しかしそれでも一向に離れず顔を見せようとしない。

 僕は頭を撫で続けながら、そんな彼女のいじらしさを心の底から好ましく思った。

 

「晴人」

「なんです」

「……ありがとう」

 

 日が沈み、すっかり暗くなった境内。空には煌々と輝く太陽の代わりに満ちかけの白い月が浮かんでいる。四方から鳴り響く鈴虫の音色に混じって、彼女がぼそりと呟いた言葉は確かに僕の耳に届いた。

 

 その後もしばらく無言で抱き合う僕たちを、淡い月明かりが照らしていた。

 

 

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