どこでバトルを行う気なのかと思えば、男は立ち上がってそのままボールを構えた。
「本気ですか?」
「ええ」
こんなところで戦ったら大惨事。一体何を考えているのか。その動きに嘘があるようには見えない。ボールからポケモンを出せば、すぐに攻撃が届く。視線をはずさず瀬良もまたゆっくりと立ち上がって、少しでも距離を取ろうと部屋の端まで移動する。ソファにテーブル。会議用の机に椅子。こんな場所で一体どんなバトルをする気なのか。
「随分距離を取るんですね。チャンピオンらしくない」
男はその場に立ったままだった。確かにらしくないのかもしれない。チャンピオンとして横綱相撲を取るなら、あの場に立った方が良かった。だが瀬良はバトル初心者。ゲームの知識しかない。ある程度の距離を取って、判断の時間が欲しかった。
「どう言ってもらっても構いませんよ」
平静を装った。間違っても、違和感を抱かれてはならない。男の話を聞いた時、瀬良は今後負けられない戦いを強いられるのだと思った。チャンピオンを捨てるなんて格好つけたところで、そんなもんかよ、なんて言われてはならない。瀬良がレッドの名前を傷つける訳にはいかない。
男はボールを放って、ポケモン繰り出す。ボクシンググローブをつけた様な拳を持つ、二足歩行のポケモン、エビワラーだった。せめて知っているポケモンが出てきて良かった、と瀬良は思ったものの、こういう場合は自分からポケモンを繰り出して、相手にポケモンの選択をさせなければいけなかったのではないか。
舌打ちを一つして、瀬良もまたボール一つ掴んでボールを放った。
出て来たピカチュウはテーブルの上ですぐ戦闘体制をとって、エビワラーと睨み合った。二匹が膠着し、トレーナーからの指示を待っている。
「では、いきます」
バトルの運び方を分かっていない。主導権を男に握られている気しかしない。
なんとか、取り返さないといけない。
「メガトンパンチ!」
エビワラーがアクリルのテーブルを足場にして空へ飛んだ。遠距離攻撃が出来るピカチュウに対しては一見悪手に見えるが、何か裏に策があるのかもしれない。こういう時、バトル初心者である瀬良には瞬時の判断が出来ない。何かあるのではないかと勘繰ってしまう。
「でんこうせっか!」
打たれる前に攻撃を入れてしまえ。そう思って叫んだが、ピカチュウはギリギリのところで拳をかわし、壁に向かって飛んだ。拳が空を切って相手が体制を崩している間に、壁を蹴って跳ね返る。圧倒的なスピードだった。明らかに、エビワラーとスピードの違いがある。でんこうせっかの勢いそのまま、タックルをもらったエビワラーは壁に激突。ピカチュウは空中で姿勢を立て直し、相手を蹴って距離を取り、机の上で体制を立て直す。そのまま頬袋から威嚇するように放電を始めたその意図を、瀬良は汲み取った。このタイミングで十万ボルトだ。
だが、技名は叫ばなかった。男が咄嗟に、二匹の間に割って入っていた。
「みっともないのは分かっている。けど、ここまでにして欲しい。これ以上は、ただエビワラーを傷つけてしまうだけだ」
バトルは終わりだった。瀬良にしたって、殺そうと思っている訳ではない。ピカチュウはバトル終了を理解し、瀬良の足元まで戻って欠伸をかます余裕っぷり。
「元チャンピオンは伊達じゃない。本当は向かい合った時点でこうなることは分かっていたのに、自分の気持ちを優先してしまった」
トレーナーとしての後悔だ。男はかがんで、壁に激突して悶えるエビワラーをさすってからボールへと戻した。
初バトルは、あまりにもあっけない。自分はバトルが上手いのかもしれないなどという思い上がりを、ピカチュウが許さない。圧倒的なまでの力を秘めたその小さな生き物は、この地方の大抵のトレーナーとそのポケモン達を問題としないだろう。そもそも、瀬良は空中に飛んだエビワラーが技を打つ前に先手を取ってしまおうとしたが、ピカチュウの目論見はそうじゃなかった。この狭い部屋と自分の身体の小ささを最大限活用した。この辺の判断は、きっとピカチュウの方が正しい。呼吸を合わせないといけないのは、瀬良の方だ。
「分かりましたか? チャンピオンを降りた意味が」
男はゆっくりと首を横に振り、そのまま壁にもたれたまま座り込む。理解が遠すぎる、という様子だった。
「君達が異常に強いってことだけ、良く分かったよ」
この部屋で、本当の意味でレッドがチャンピオンを降りた意味を分かる者はいない。
「狂ってるよ。そんなに強いのに、何の地位にも着かず放浪しているなんて。まるで社会の外側の人間だ。訳の分からない君が、私は恐ろしい。一体何が目的なんだ」
「特に言えることはありません。ただ、俺の方はとても参考になりました」
「参考に? どこが?」
「何を考えているのか聞けたので。それだけで、満足です」
一体こいつは何を言っているんだと、妖怪でも見るような目で男は瀬良を見つめた。訳が分からないのはしょうがない。きっと今カントーで一番意味不明な人間であるのは間違いない。
「では、そろそろ失礼しますね」
マサラから一歩外に出ただけで、こんなにも色々な人間が居る。チクサの様に友好的な人間、明らかに敵意を向けて来る人間、その双方にたった二日の間に出会ってしまった。レッドと言う人間がいかに色々な印象を抱かれているかよく分かった。瀬良はどこかまだ、夢見心地だったと言って良い。本当にここがカントーで、レッドとグリーンがチャンピオンを戴冠した後の世界だというのを分かっていなかったのかもしれない。
人間もポケモンも皆生きてそれぞれが社会を作り上げている。間違えようもなく、この世界は現実だ。
外側の人間だ、という男の言葉は、ある意味とても正しかった。瀬良はこの世界で一人つまはじきにされていると言っても過言ではない。レッドには頼れる人が居ても、瀬良には頼れる人がいなかった。一人だ。皆が皆社会の中で繋がっているのに、瀬良だけが繋がっていない。
レッドというカントーで今一番有名なトレーナーになっているからこそ、余計にそれを感じてしまう。
瀬良は唐突に元の世界へ帰りたくなった。
「あ、ちょっと!」
客室を出ようとしたところで、男が声を掛けて来る。
「なんですか?」
「グリーンさんのジムトレーナーになる、ヤシロだ。まだ、名前を名乗っていなかったと思ってね」
「ご丁寧にどうも」
「それともう一つだけ言わせてくれ。色々言ってからじゃ遅いのは分かるけど、君のトレーナーとしての強さにだけは、敬意を表するよ。何はどうあれ、あれは本物だった。それに、なんだか印象と違う。君はもっとこう、寡黙で、無鉄砲で、アブノーマルな人間かと思っていたよ」
ほんの少しの間、二人の目が合った。それが何を意味するのか、ヤシロには分からない。特に返答もせず客室を出た瀬良は、そのままトキワジムを後にした。あの一瞬、レッドの中の自分を見つけてくれた気がして、瀬良は妙な嬉しさを感じてしまった。初めてこの世界の中に受け入れられた様な気になって、それに浸っていたらおかしくなってしまいそうで、瀬良は無視してその場を離れた。
何がどうなっても、待っているだけでは元には戻れない。ここはどうしようもなく現実で、夢なんかではない。レッドとして生き抜くしか、方法は、ない。