翌日の朝、早く目覚めてしまった瀬良はバトル場に向かってニビを歩いていた。バトルが出来ると決まっただけに、昨日の様にいきりたった様子で町を歩かなくて済んでいる。
ニビの朝は、空気がとても澄んでいた。まだ肌寒く、季節的には春らしい雰囲気である。人の生活音のしない静けさが漂う町は、心を落ち着けて散歩をするのに最適だった。
瀬良は歩きながら、昨日タケシが言った言葉を思い出していた。
まだバッジ所持数ゼロだった頃、ニビジムを訪れた”レッド”もまた初心者トレーナーと同じような行いをしている。
マサラで母と喋った時分かったことだが、この世界でのレッドは旅に出るまでの間スクールに通っていた。スクールがマサラにあると知らなかった瀬良は驚いた。しかしそれならば、言葉の読み書きや四則演算以外にも学ぶはずだ。レッドが勉強なんて嫌いで碌にやってこなかったのだとしても、ピカチュウでタケシの繰り出すイシツブテとイワークに勝とうとするだろうか。
そんな訳はない。読み書きや四則演算が疎かでも、バトルが好きならポケモン関係は熱心だったはずだ。グリーンと仲が良かったという話もあるし、旅に出る前からある程度の知識を身に着けていたに違いない。というよりも、予備知識なしでポケモンと一緒にわずか十歳の少年が旅に出るなど、狂気の沙汰ではない。
能天気に旅へ出るなんて、ゲームプレイヤーぐらいなものだ。
予備知識があった”レッド”がピカチュウ一体でジム戦に挑んだのは何故なのだろう。タケシにその理由を尋ねたかったが、それも変な話。ピカチュウで勝てると踏んだのだとすれば、何か策略があったということだろうか。その時のジム戦の勝ち負けを聞きそびれていたので、きちんとタケシに尋ねるまでは分からない。
トキワの本屋でも、レッド初めてのジム戦結果までは文章になっていなかった。
この辺が分かれば、レッドをまた少し理解出来るだろうなと瀬良は思う。
「ここか」
バトル場は、ただの広場だった。フェンスに囲われた広場の中に、フィールドとして引かれた白線と、トレーナーが位置するボックスがあるだけ。元の世界によくある郊外のテニスコートみたいなものだ。見渡すとそれと同じものがいくつも並んでいる。
昨日少年にかき集めて来いと言ってしまったので、その通りトレーナーがたくさん現れたらレッドのポケモン達には連戦を強いることになる。この前のヤシロとのバトルを見れば大した負担にはならないのかもしれないが、瀬良のせいで余計なダメージを受けてしまうことも考えられる。間違っても負けられないのだと考えると、いいところで引き上げなくてはならない。その辺の言い訳も考えておかないといけないなと思いつつ、瀬良はバトル場を見て回った。
中に出入りするのは自由なようなので、瀬良はバトル場の一つに入ってみることにした。囲われたフェンスの一部はドアになっているようで、押してみれば簡単に開く。中からは閂でロック出来るようになっていた。
フィールドの中央まで来ると、誰もおらず何もないのに妙な緊張感を感じてしまう。習い始めたスポーツの初めての公式戦なんて、こんな面持ちなのもしれない。今回はただの野良試合だが、ポケモンというとんでもびっくり生物を前において戦わせるなんていう、普通に考えたら元いた世界では誰もやったことのない競技を行おうとしている。
今は加えて、そんな大人気スポーツのトッププレイヤーとして初心者瀬良が人前に立つのだ。罰ゲームと言っても大袈裟ではないだろう。
この前ヤシロとバトルをした時は周りに人もいなかったし、あの時はせめてヤシロに勝てないとこの先どうしようもないと瀬良は考えていた。勢いで行ったイレギュラーなバトルだったので、今回みたいな緊張はなかった。
トキワの森でもバトルを挑まれるようなことはなかった。何のきっかけもなしに、元チャンピオンに気軽に声を掛けて来るようなトレーナーはいなかった。
瀬良は緊張感に身を包まれながら、かき集めて来て良いなんて言い過ぎだったかなと半ば後悔。
「やらなきゃいけない時が来るかもしれないんだから、慣れておかなきゃな」
自分に自分で喝を入れる。そんな瀬良の前向きな気持ちに反応したのか、バトル場にいるのを理解したか、腰に付けたボールが揺れた。
六つのボールを手に取って、順番にポケモンを出していく。朝から元気な奴らだな、と苦笑した瀬良だったが、この屈強なポケモン達を前にすると自然と緊張は和らぐ。世界からつまはじきにされている外側の人間だとしても、レッドのポケモン達だけは味方をしてくれるのではないかと思ったら、頼りになる存在だ。
それでも瀬良は、例えばリザードンの背に乗って空を飛ぼうと思えない。例えばカメックスの背に乗って海を渡ろうと思えない。ポケモン達を心の奥底で拒絶してしまっている自分がいるのを理解していた。都合の良い時だけ都合の良いように、自分の緊張を緩和してくれる存在程度にしか思えていないのだとしたら、トレーナーとしては失格だろう。タケシ風に言えば、互いの期待に応えようとしていない。
分かりやすく言えばまだ怖いのだった。
目の前の六体は、自分達に指示を出すのがレッドだから従っているに過ぎない。そうじゃなければ自分に牙を向く存在でしかない。マサラでの技の確認やヤシロとのバトルで力の片鱗を見ただけでそう感じてしまっていた。こればかりはどうしようもないものだと諦めるか、なんとか乗り越えてレッドのポケモン達だけにでも中身が瀬良だということを分かってもらうか、瀬良の迷いは尽きない。
バトルだバトルだと気合いを入れるポケモン達をなんとか宥めていたところで、瀬良の耳に唐突に音が響いた。カシャ、という確かなカメラ音。
撮られている、と瀬良は即座に理解して辺りを見回せば、フェンスの向こうにカメラを構えた女が一人。ポケモン達に指示を出して捕まえようとしたものの、コントロールを間違えば怪我をさせかねない。これ以上レッドについてあれこれ書かれたくはない。怪我をさせてしまってはさらにレッドは評判を落とす。
どうするか迷っている間に、女は気付かれたことに気付いてその場を去っていく。走って捕まえるか、とも考えるが、そんな気にもならない。
「嫌になるね、本当に」
しょうがないので逃がすこととした。
バトルの時間までこの場にいて、写真を撮られ続けても敵わない。瀬良は時間まで一度、ニビでとった宿へ戻ることにした。
昼時、再びバトル場近くまで訪れた瀬良はとんでもない光景に目を剥いた。「まじかよ」と、あんぐりあけた口から涎のように言葉が零れる。
早朝、閑散としていた、落ち着いた雰囲気のニビはどこにもない。わいわいと騒ぎ立てるもの凄い数の人間がバトル場にわらわらと集まっている。何をしているのかといえば、それは一つしかない。レッドを待っているのだ。瀬良はなめていた。分かっていなかった。良いものにせよ悪いものにせよ、文章だけで見た”爆発的”なレッドの注目度を、見誤っていた。
遠目に見ているだけでも、あんなところに行きたくないと瀬良の足は一歩後ろに下がる。何でこんなことに、と考えても、この状況を生んだのは瀬良自身。もう、どうしようもない。
一歩引いた鉛のように重い足を戻し、気の進まないバトル場へ一歩一歩足を進める。レッドならどうするかと考えれば、当然何食わぬ顔でバトル場へ入っていくだろう。それを頭で分かっても、今の瀬良にはそれが出来なかった。瀬良は完全に瀬良だった。
挙動不審にバトル場へ近づいた”レッド”の姿に、一人の少年が気付く。「レッドだ!」の声で人がわらわらと集まり、ある程度の距離を置いて道が出来る。身に余る経験が目の前に現実として広がる光景に、瀬良は耐えきれない想いで一歩一歩足を進める。わーわーと騒ぐ周りには、今どう見えているのか。そんなことを気にする余裕など、まったくない。
一番近い入口からバトル場に入り、瀬良はトレーナーボックスに付く。広くフィールドを見渡せば、あっという間に人が囲う。レッドファン、と呼ぶべきであろう少年少女達は大盛り上がりだが、中にはある程度年齢を重ねていそうな大人の姿もちらほら。どんなものか見てやろう、というレッドアンチかもしれない。様々な人間が”レッド”を取り囲み、そのバトルを心待ちにしている。
しかし、バトルを行うのは瀬良。
その事実を知る者は、誰もいない。