Ⅰ
春季関東大会の日程は夏の本戦や秋大会と比べて酷く変則的で、開会から閉会まで僅か五日間の間に全ての試合が行われる。そのため勝ち上がった高校は翌日には次の試合が待っており、決勝まで進むとなれば五日間の間毎日試合をこなさなければならない。このいっそ猟奇的ともいえるほどのハードな日程はそれぞれの高校に単なるベストメンバー九人の能力だけではなく、ベンチも含めた総合力を問うものとなっている。
さて初戦を劇的な逆転勝ちで勝利した青道高校は勢いそのままに二回戦も無事突破を果たしたものの、続く三回戦では惜しくも勝利を逃していた。
余り重要度の高くない春季大会とは言え敗北は敗北。
本来であれば多少なりとも暗い雰囲気がチームを包むものであるが、どういうわけか試合に敗れた日の夜、青道高校の監督室は随分と明るい空気に満ちていた。
「いやぁ。今日の試合は惜しかったですな~。春のベスト16相手に後一歩まで追いつめたんですが……」
悔しいですなと言いながらも、その表情は随分と明るいものだった。
後一本出ていれば逆転でしたのにと、筒状に丸めた春季大会のプログラムをバットの様に振るう太田に高島礼は柔らかな表情で同意を示した。
「そうですね。敗れこそしましたが収穫も多い試合だったと思います。打線は相変わらず好調でしたし、何よりも丹波君がしっかりと試合を作れたというのはチームにとって大きな収穫かと」
「えぇ! あの千川相手に七回三失点! 八回からマウンドに上がった川上も点数こそとられましたが、それでもいいピッチングだったんじゃないんでしょうか、監督!」
太田の同意を求めるような眼差しに、片岡鉄心はふんと鼻を鳴らし右手に持った煙草に口をつけた。ふぅと吐き出された灰色の煙が立ち上り、部屋の端に設置された換気扇へと吸い込まれ消えていく。
「一昨日、そして昨日の試合が試合だったからな。丹波と川上―――特に丹波には感じるものがあったんだろう」
「あぁ。山城ですか。確かにすごかったですなぁ~」
山城が登板した二日間の試合を思い出し、太田はうんうんと深く頷いた。
一昨日、横学戦ではピンチから登板し相手の勢いを完全にシャットアウト。
そしてまさかの先発として登板した昨日の二回戦では強豪作前学院相手に六回まで一塁すら踏ませぬパーフェクトピッチング。終盤の疲れから浮いた球を捉えられ一点こそ失ったものの、それでも全国でも定評のある作前打線相手に九回一失点とは上出来を通り越して完璧とさえいえた。
これぞ正しくエースと言わんばかりの大活躍。
そんなスーパールーキーがもたらした弊害に礼は苦笑した。
「昨日の試合の後は大変でしたね。殺到する記者陣に、練習試合を希望する電話の嵐。OBの方達からもお祝い代わりの選別を頂きましたし、一部では気の早いプロのスカウトも動いているとか」
「プロもですか!? それはすごい!」
「クリス君や御幸君の時も注目度は高かったですが、山城君はそれ以上かと。夏の大会でもきっと我が青道の重要な戦力になってくれると思います」
「復調してきた丹波に川上、そして山城……苦しかった投手事情が一気に解決したんじゃないんでしょうかこれは!」
試合の余韻が未だ残っているのだろう。
鼻息を荒げ、投手王国の立国を謳う太田に片岡が「いや」と待ったをかけた。
「確かにいささかの目途は立ったが、まだ夏までは時間がある。それまでに投手陣がどこまで調子を上げて行けるかが甲子園に行くための鍵になる」
「そうですね。それに関東大会ほどではないとは言え、タイトなスケジュールの予選を勝ち上がっていくには投手三人ではいささか不安かと」
「とは言っても高島先生。二軍にあの三人ほどの投手は……」
「いずれにせよ、本戦まであまり時間がない。最後に残っているのは誰になるか……」
夏の本戦まで、あと2か月。
Ⅱ
――――山城君、この前の作前学院との試合ではいきなりの先発だったけど緊張はなかったのかな?
――――九回一失点、これについての感想は?
――――数多の勧誘を蹴ってまで青道に来た理由は?
――――やましろく~ん。視線、こっちに貰えるかな?
――――ちょっ! 押すなよ!
――――取材時間が限られてるんだ! ありきたりな質問しかできないなら下がってろ!
――――なに!
山城君、山城君と連呼される名前に飛び交うシャッター音。
青道高校野球部のグラウンドの隅はまるで、ちょっとした記者会見場になっていた。
そしてそんな報道陣に囲まれる芸能人の如く、記者達の中心にいるのは先日鮮烈なデビューを果たしたルーキー山城空。
数多のカメラや年上の記者に囲まれながらも堂々としたその佇まいは、ある種の貫録すら漂っていた。
そんな同級生の姿を、栄純はブルペンから唸りながら見ていた。
「ぐぐぐ。山城の奴、ちやほやされやがって! しかも何か妙に慣れてるし!」
「シニアの時から取材には慣れているからな。それよりしっかりと肩を作れ」
「でも!」
「……止めるか?」
「投げます!」
せっかく掴んだブルペンで投げる機会を失ってたまるかと、栄純は慌てて山城から視線を切りボールを投げた。いつものように球持ちのいいフォームから放られたボールが、立っていたクリスのミットを鳴らす。ふむとそのミットから伝わる手応えにクリスは声を漏らし、ゆっくりとボールを投げ返した。
「今の内に聞いておくが沢村、お前は自分の長所が何かわかっているか?」
「長所っすか?」
「そうだ。丹波なら長身を活かしたカーブ、川上ならば低めのコントロール、そして山城ならば伸びのあるジャイロボール……良い投手というのはそれぞれ自分だけの持ち味というものを持っている。そしてまたなければ試合に勝つことは難しい。ではお前の持ち味はなんだ?」
「俺の持ち味……」
栄純はボールを投げる手を止め、
「なんすか?」
「少しは自分で考えろ……」
あっさりと考えることを放棄したバカな後輩にクリスはため息を漏らした。
「ヒントを出そう。この前の二軍との練習試合、お前は4回4失点だったそうだな」
「えっ、あっ、はい」
「ウチの打線は二軍でも強力。並の投手ではそれこそあっという間に炎上するだろう。ではなぜ四隅に投げ分けるコントロールがあるわけでもなく、MAX130にも満たない真っ直ぐしか投げられないお前がその程度の失点で済んだと思う?」
「そりゃやっぱり気持ちで負けなかったからで……」
「気持ちだけで抑えられたら練習はいらない。お前の投げるボールと他の投手の投げるボールの違いはなんだ?」
他の投手との違いと言われ、栄純の頭に真っ先に浮かび上がった投手はやはり山城空だった。
……あいつと俺の違い。
最初に栄純が空との差を思い知らされたのは、かつて共に行った遠投。
空がノーステップかつ低いライナーでボールをフェンスまで届かせたのに対し、ステップを入れて山なりに投げた栄純のボールはフェンスまで届かなかった。
いや届かなかったどころか―――
――――まともに真っ直ぐにも投げられないのにか?
山城に言われたことを思い出し怒りで体を震わせる栄純だったが、あれと何かに気付く。
そして思い出す。中学時代、何故かみんなが自分とキャッチボールをしたがらなかったことを。青道に入っての練習初日、監督に言われた遠投試験でボールがどういう軌道を描いたのかを。
……もしかして俺の持ち味って。
「気付いたようだな」
クリスの言葉を呼び水に栄純は思考の海から戻った。
そしてクリスの顔を伺うと、そうだと頷いた。
「柔軟な関節と球持ちの良い投球フォームに毎球異なるリリースポイント。そんな変則的な投げ方がボールに様々な回転をかけ、打者の手元で微妙に変化するクセ玉を生み出す。綺麗なバックスピンを至上とする日本じゃはっきり言って、投手と名乗るのもおこがましいクセ球だな」
「お、おこがましい」
「だがそのクセ球こそがお前の武器」
「クセ球が俺の武器……」
「そうだ。速い球を投げれないお前がエースを目指すならそのクセ球を磨き上げる以外に道はない。そのためにも前にも言ったように投げる際の軸を安定させる必要がある」
栄純に構えるよう指示を出し、クリスはマスクを被って腰を下ろした。
ベース板の上、ストライクゾーンど真ん中に茶色いミットが構えられる。
「とは言え、言葉で説明するよりも実際に投げた方が早い。左足に体重を乗せることを意識してボールを投げてみろ」
……左足。
言われた通り、栄純は軸足である左足に注意を払いながらボールを投げた。
足元に注意を払い過ぎたために少し高めに浮いたものの、乾いた音が栄純の耳を打つ。
なかなか良いんじゃないかと内心で手応えを感じる栄純だったが、実際にボールを受けたクリスは首を横に振った。
「全く駄目だな」
「んがっ!?」
「まだ軸がぶれている。軸足に体重が乗り切ってない証拠だ……そうだな、一度右足をもっと高く上げて投げてみろ」
「右足を?」
「そうだ。コントロールは気にしなくていい、限界まで高く上げろ」
それが一体何になるのかと疑問符を浮かべつつ、栄純は投球動作へと入った。
振りかぶって右足を後ろに引き、
……限界まで上げる!
勢いのついた右膝が顔につかんばかりに高く上げられる。
その瞬間、ストンと何かが噛みあうのを栄純は確かに感じた。
「っておぁああ!?」
だがその感覚もつかの間、栄純はバランスを崩し半ば上半身を前に突っ込む形でボールを放した。
まともに腕を振りぬかないで投げられたボールはミットが構えていた場所から大きく外れ、クリスの背後にあるネットへと突き刺さる。
結果だけを見れば大暴投もいいところ。
けれど、
「いま、確かに一瞬……」
「左足に体重が乗ったのがわかったか?」
こくりと栄純は頷いた。
それでいいと、クリスはマスクを外し下ろしていた腰を上げた。
「左足に体重がしっかりと乗れば自然と軸は安定してくる。そしてその状態で体重移動をスムーズに出来れば力のある―――お前だけの暴れる球が投げられる」
「俺だけの……」
「今の感覚を忘れるなよ」
「って! 何帰ろうとしてるんすか!?」
ブルペンの出口にすたすたと向かうクリスを慌てて呼び止める。
呼び止められた本人は「うん?」と体は出口に向いたまま首だけを栄純へと向けた。
「まだ何か用か?」
「いやいや。俺の球を受けてくれるんじゃあ……」
「受けただろう? 二球も」
「えー」
「俺にも自分の練習がある。それに前にも言っただろう? 無闇にボールを投げても意味はないと。しばらくはこれまで通りサーキットトレーニングを中心に行え。そしてボールを投げたくなったらそれを使え」
クリスの指差したのはブルペンに設置された休憩用の小さなベンチ。
そしてその上に置いてあるのは、
「タオル?」
「シャドウピッチング。これから毎日ブルペンでボールを投げさせてやるが、身体の軸が安定するまではそれほど球数は投げさせない。だからそれ以外の時はボールの代わりにタオルを使ってシャドウを行え、さっきの感覚を意識してな」
これまでやったことがないためか、シャドウピッチングにどことなく懐疑的な表情を浮かべる栄純だったが軸が安定してきたら徐々に投げる数を増やしてやるとクリスが告げると、わかりやくすやる気の炎を滾らせた。
単純なやつだとクリスは肩をすくめた。
「それと、全体練習を見て思っていたがお前は野球の知識が足りなさすぎる。投手というのは単にボールを投げるだけではない。セットプレー、クイック、牽制、覚えることは山ほどある。本を読めとは言わないが、せめてプロ野球でも見てもっと野球について学べ」
「うっ!? でも野球はやっぱ見るよりもやるもので……」
「エースになりたいんじゃないのか? 山城は見ているぞ(嘘)」
「よっしゃ。メジャーリーグっすね!」
「プロ野球と言ったんだが……まぁどっちでもいい」
何となくこいつの扱い方がわかってきたなと思いながら、クリスはブルペンを後にした。
Ⅲ
陽が西へと沈み空が茜色から薄い黒へと染まる頃。
本日の練習を終えたばかりの青道高校野球部の専用グラウンドは緩やかな空気に満ちていた。球児達は練習中の張りつめた精神を解きほぐし、昼間の授業で出された課題や昨夜見たバラエティー番組何かの話題で盛り上がる。
背中越しから聞こえて来るそんな他愛無い会話を耳に入れながら、クリスは蛇口から流れ落ちる水流を両掌ですくい顔を洗った。
「ふぅ」
汗を流し落とし、柔らかいタオルで顔の水滴を取る。
ほっと一息を突きながらクリスは今日の練習を思い返していた。
………シャドウを始めさせてから1週間、少しずつだが沢村の軸も安定して来たな。
これまで変に指導を受けてこなかったのが功を奏したのか、それとも本人の素質ゆえなのか。ブルペンでボールを受けた初日と比べれば随分と軸を安定させてボールを投げれるようになっていた。また誰かから教わったのか、グローブを潰すようにして上半身にタメを作る新たな投球フォームも軸を安定させることに一役買っていた。
……まだ新フォームに慣れていないせいでコントロールが荒いが、軸さえ安定していれば自然とストライクはとれるようになる。三日後のことも考えれば、明日からはもう少しブルペンで投げさせるか。
軸が安定して来たことで前以上に暴れるようになったムービングボールに、タイミングの取り辛い変則フォーム。コントロールなど不安な部分も多いがそれでも対戦する打者にとっては厄介なボールであることに間違いはない。
後は三日後の試合でどこまで自分の力を発揮できるか。
山城と丹波というエース候補が二人もいる以上、その試合の結果次第で沢村栄純が夏の大会に出られるかが大きく変わってくる。
……いや、沢村を心配するよりもまずは自分か。
思わず、自嘲する。
三日後に迫った狛代高校との練習試合。クリスもまた、栄純と同じくその試合でおよそ一年振りとなる実戦復帰を果たそうとしていた。
すっと、クリスはつい先日完治した右肩に左手を置いた。
……肩の調子は問題ない。
だが肉体的には完治していようとも、感覚的なものまではすぐには戻らない。
万全だった頃の感覚に少しずつ戻り始めているとは言え、不安なく試合に出られるかと言われれば首を横に振らざるを得ない。出来ればもう少し時間が欲しいというのがクリスの嘘偽りのない正直な気持ちだった。
……とはいっても、このチャンスを逃すわけにはいかない。
5月の中旬に差し掛かった今、三日後のチャンスを逃せば次に試合に出られる可能性があるのは下旬に入る翌週以降。
いやそもそも、一年近くも練習を休んでいた身にそのチャンスが巡って来るかどうかさえわからないのだから、何が何でもクリスは次の試合で実力を示す必要があった。
……一軍への昇格枠は全部で四つ。
今の所先週の練習試合で結果を残した小湊が一歩リード。次点で一軍の経験がある山崎と遠藤が続き、その後に一発のある前園が続いている。
なかなか厳しいなと苦笑するも、その顔に諦めの色はなかった。
もう少し残って練習するかとクリスが決めたその時だった。
「クリス」
「丹波……」
呼ばれ、振り返ったクリスの目に飛び込んできたのは良く知った顔だった。
青道の元エースにしてクリスと同じ三年生、丹波光一郎は驚くクリスに黒いタオルを見せた。
「ちょっといいか?」
勢いよく振られたタオルが黒き線となった小さな弧を描いた。
黒き半円は風を押しのけ、びゅっと鋭い音を鳴らす。
丹波は息を吐くと、それを見ていたクリスへと顔を向けた。
「どうだ?」
「右肘が下がっている。恐らくは疲れによるものだろうが、そのフォームだと肘を痛めかねない」
「右肘か……」
呟き、丹波は再びタオルを振った。
人気のなくなったグラウンドの端で風を切る音だけが何度も何度もリピートする。
腕を組みながらそれを眺めていたクリスは、懐かしいなと頬を緩めた。
「しかし久しぶりだな。お前がこうしてフォームを見てくれと言ったのは。確か最後に言ったのは二年の夏頃だったか?」
クリスの言葉に丹波は返事をしなかった。
ただひたすら、青道の元エースはタオルを振るう。
そして黒き線が描く弧の数が100を超えたあたりで、ようやく口を開いた。
「……三日後の二軍の試合。お前も出るそうだな」
「うん? あぁ、監督から聞いたのか? 先発が沢村だからな。指導を任された身として俺も先発のマスクを被る予定だ」
「……結果は残せそうか?」
「さぁな。随分と実戦から離れていたからな。実際に試合に出てみないと何とも言えないというのが正直なところだが――――」
ふわりと、クリスは笑った。
「それでも結果を出して見せるさ。でなければ一軍には行けないからな」
「……それは山城のためか?」
「うん?」
「一軍に行きたいのは山城とバッテリーを組みたいからか、クリス」
一体何を言っていると口にしかけて、クリスは寸前の所で飲み込んだ。いつ間にか丹波はシャドウピッチングを止め、真剣な眼差しでクリスの顔を見つめていた。
だからこそ、クリスもまた正直に己の気持ちを述べた。
「あぁ、そうだ。俺は山城のボールを受けるために一軍に上がる」
「……そうか。今日は付き合ってもらってすまなかったな」
短く礼を述べると、丹波はくるりとクリスに背を向けた。
遠ざかっていく後ろ姿がいつになく小さく、クリスには見えた。
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