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Ⅰ
青道高校野球部には創部以来から続く伝統的な行事がいくつかある。
例えば夏休み、真夏の猛暑の中で行われる地獄の千本ノック。
例えば冬のオフ、12月の下旬に行われる終わりのないエンドレスマラソン。
そしてそんな行事の一つとして、大会直前合宿というものがある。
夏大会まで一か月を切った時期に行われるこの合宿において、本選に選ばれた二十名は選ばれなかった者達のサポートを受けておよそ一週間の間徹底的に体を苛めることとなる。
合宿開始から四日目。
今日も今日とて厳しい練習を終えた二十名の選ばれたメンバー達の顔には、くっきりと隠し切れない疲労の色が色濃く表れていた。
これまで合宿を経験したことのある上級生ですら練習の終わりと共にグラウンドに座り込む中、今回が初めての参加となる空はふらふらと頼りない足取りで何とかベンチにたどり着くと、そのまま倒れ込むようにベンチの上へと体を投げ出した。
「あー。疲れた~」
体力には自信があったんだけどなと呟きつつ、ごろんとベンチの上で仰向けになった空の目に入ったのは深い緑色の金属の天井。
そんな面白味の欠片もない緑をぼんやりと見つめていると、黒い影が空の顔を覆った。
「さすがにぼろぼろだな」
「あっ。クリス先輩……」
慌てて体を起こそうとする空を制し、練習着を真っ黒に汚したクリスは僅かに残るベンチの余白に腰を下ろした。先輩の気遣いを素直に受け取った空は―――体を動かす余裕がなかっただけとも言えるが―――天井を見上げたま口を開いた。
「合宿ってこんなきついんすね……正直、舐めてました」
「一軍になった者に待つ最初の関門だな。だが良くもっている方だと思うぞ? 同じ一年の沢村と小湊はグラウンドに倒れ込んだまま起き上がれていないからな」
「鍛え方が違うんすよ、鍛え方が」
「そこまで軽口を叩けるならまだまだ大丈夫だな。明日は走る量を更に増やしてみるか?」
「うげっ。それだけはマジで勘弁してください」
この四日間、ただでさえ空は調整に主眼を置く大会前としては有り得ない距離を走り込んでいる(なお、走り込みの後は休む間もなく疲れた体でブルペンに入って投げ込み)。
これ以上増やされたらたまらないと、心底嫌そうに顔を顰めた空に「冗談だ」と悪戯っぽくクリスは笑った。
「土曜に試合が組まれている。明日からは走る量を減らして調整に入るから、そのつもりでいておけ」
「試合っすか?」
「あぁ。大阪の名門、大阪桐生との練習試合―――それも朝に一試合、休憩を挟んで昼から一試合のダブルヘッダーだ。沢村と御幸が昼からの試合でバッテリーを組み、俺とお前が朝の試合でバッテリーを組むことになる」
「へー。ダブルヘッダー……って、クリス先輩が受けてくれるんすか!?」
疲れていることも忘れて、空は勢いよく体を起こした。
聞き間違え出ないことを確認するようにクリスの顔を見れば、クリスは首を縦に振った。
「あぁ、そうだ」
「ッしゃぁ!!」
渾身のガッツポーズ。
あまりにもウキウキな後輩の姿に、クリスは苦笑を漏らした。
「土曜の試合は点差に関わらず、最後まで投げ切ってもらうことになる。疲れもあるし厳しい展開になるだろうが、全国の強豪と戦えるまたとない機会だ。気合を入れていくぞ」
「ようやくクリス先輩と一緒に試合でバッテリーを組めるチャンスが来たんすよ? 言われなくても気合入りまくりっすよ!」
「あぁ、俺もだ」
そう言って、クリスは瞼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶは、かつての記憶。
クリスが空と初めて出会った時。
頂点まで連れて行くことを決めた過去の記憶。
Ⅱ
クリスが空と初めて出会ったのは、今からおよそ3年前。
クリスが丁度中学の最上級生に上がる間近―――徐々に東京にも桜前線が到来しつつあった三月の半ばのことだった。
久方ぶりにシニアの試合も練習もなく、完全なオフとなった日曜日。
自宅で久方ぶりの読書を満喫していたクリスのもとに、所属するシニアチームの監督から一本の電話があった。
『よぉ、優。ちょっとグラウンドまで来い。面白いものが見れるぞ』
その肝心な面白いものが一体何なのかを言わないまま電話は切られたが、監督が面白いというからには、きっと何かとんでもないものであることをクリスは経験から知っていた。
そしてそのとんでもないものが、大抵クリスに迷惑をかけるということも。
聞かなかったことにするという手もあったが、そこは真面目なクリスのこと。
小さい頃からの知り合いということもあり、五割の不安と四割の諦め、そして一割の好奇心を胸に抱いてクリスは家を出た。
電車を乗り継いでおよそ三十分。
普段練習に使っている丸亀シニア専用グラウンドにクリスは着いたものの、そこに呼び出した当人はいなかった。
代わりにいたのは、ベンチの上で息を荒げたくせっ毛の子供。
見たところ随分と幼く、まだ中学にも上がっていないであろう小さな少年は某有名なスポーツメーカーのジャージに身を包み、ベンチの上で横になっていた。
気が付けば、クリスは少年がいるベンチへと向かって歩を進めていた。
「……誰?」
「それは俺のセリフだ」
はぁと、クリスは息を吐いた。
それが、後に黄金バッテリーとしてプロの世界を席巻することとなる滝川・クリス・優と山城空のファーストコンタクトだった。
◇
「こんな所で何をしている? 一応ここは私有地だぞ」
クリスはフェンスにかかった看板を指差した。
そこに書かれているのは、『私有地につき関係者以外立ち入り禁止』の文字。
基本的にシニアチームというのはどこかの公共グラウンドを借りて練習するということが多いのだが、丸亀シニアは年間通して使える専用のグラウンドを保有している。
そしてそれ故に可能となる練習量の多さが、丸亀シニアを関東有数の強豪として支える土台となっていた。別にチームが練習していない時に誰かがこっそりと忍び込んだからといって、それで一々目くじらを立てる気はクリスにはなかったが一応ルールはルール。
グラウンドを使用するチームのキャプテンとして目撃してしまった以上、注意せざるを得なかった。
クリスが早めに出るよう促すと、少年はムスッとした顔で上半身を起こした。
「いや、俺はおっさんに言われた通り走ってただけなんだけど……」
「おっさん?」
誰のことだと言いかけたところで、クリスの背後から「お~い」と声が聞こえた。
耳馴染のその呼びかけに振り向くと、案の定の人物がいた。
「監督……」
「おぉ、休みに突然呼び出して悪かったな優」
許せと豪快に笑う、非常に立派な体格をした中年男性。
丸亀シニア監督、扇総一郎。
扇はクリスの体に隠れた少年を見つけると、持っていたビニール袋からスポーツドリンクを取出し少年へと渡した。
「ちゃんと走ったか?」
「言われた通り、20周きっちり走ったよ」
「それはよし!」
「監督。もしかして見せたいものって……」
「あぁ。こいつのことだ。ほら、自己紹介しろ」
扇に促され、少年は口をつけたペットボトルをベンチに置いた。
「えっと、小川小学校6年の山城空……です。4月から丸亀シニアに入る予定……です」
「ってわけだ。ちなみに山城、こいつは滝川・クリス・優。前からお前に言っていたキャッチャーだ」
「えっ! おっさんが前から言ってたあのスーパーキャッチャー!?」
それまでのどことなくムスッとした顔から一転して、空は目を輝かせた。
まるで星でも見えそうなほどキラキラとした視線を向けられたクリスは、居心地悪そうに頬を掻いて自分の監督に目をやった。
「……俺のこと、一体なんて説明したんですか?」
「うん? あぁ、別に嘘は言ってねぇよ。いずれは古田や野村を超える日本の一のキャッチャーになる男って言っただけだ」
「その説明のどこに嘘がないのか俺が逆に知りたいぐらいです」
「ははは。自分のことを卑下する必要はねぇよ優。お前にはアニマル譲りの野球センスと、俺が叩き込んだ野球の知識がある。間違いなく15年……いや、10年後には日本を代表するキャッチャーになっている筈だ」
「その自信がどこから来るのか一度聞いてみたい所ですが――――それで何で俺を呼んだんですか?」
そう。もしも空が丸亀シニアに入るなら、わざわざ今日クリスをここに呼び付ける必要はない。来月になれば嫌でも顔を合わせることになるのだから。
素朴な疑問に、扇は答えを返さなかった。
代わりに、別のことを聞いた。
「優、ミットは持ってきてるな?」
「えっ、はい。言われた通り持ってきましたけど」
「よし。山城、ボール持ってマウンドに上がれ」
「はーい」
ベンチから立ち上がると、空は置いていたグローブを左腕に嵌めた。
怪訝な表情でクリスが見つめる中、空はマウンドへと走っていく。
「監督? いったいなにを……」
「言葉にするよりも体験した方が早い。優、実際にボールを受けてお前が判断しろ」
これ以上聞いた所で恐らく求める答えは返ってこない。
そう判断したクリスは、釈然としないまま持ってきたミットをつけていつもの定位置へと向かう。
既に空の体は温まっていたため、軽くキャッチボールを行いクリスは腰を下ろした。
「じゃ、いっきま~す」
「あぁ、こい」
ミットを構える。
……相手は未だ小学生。体格を考えればそれほど威力のあるボールは投げられない筈。
だがそんな常識的な考えと同時に、そんな普通のボールを見せる為だけにあの監督がわざわざ呼び出すのかという疑問もまたクリスの中にはあった。
力まず、されど気は抜かず。
精神を集中させ、投球を待つ。
そして10秒後、クリスは己の判断が正しかったことを痛感することとなる。
マウンドに上がった空がゆっくりと両腕を振りかぶる。
どことなくぎこちない動作をもってやたらと高く上げられた左足が勢いよく前方へと踏み出され、それに遅れて上半身―――右腕が振り下ろされる。
これまで様々な投手を見てきたクリスに言わせれば、無駄が多すぎる投球フォーム。
されどそんな無駄だらけのフォームから投げられたボールは、クリスの予想以上に速かった。
……速い。
迫りくる白球を目で追いかけながら、クリスは素直にそう思った。
球速になおせば、予想よりも5キロ近く速い。
……大体シニアの平均ぐらいか?
丸亀シニアのエースである財前ほどではないが、それでも小学生であることを思えば破格のストレート。今後しっかりと練習を積んで磨きをかければ、全国が相手でも十分使える武器になるだろう。
なるほど、これが監督が見つけてきた逸材かとクリスはボールが来るであろう低めにミットを構えようとして―――
……いや、違う!
下げかけたミットを、逆に上へと上げた。
リリース当初、クリスが低いと判断したボール。
されどその低い筈のボールは、ベースを通過するときにはいつのまにかストライクゾーン高目へとその軌道を変えていた。
パァンと、乾いた音がミットから響く。
その音を聞いた空はマウンド上で一瞬呆けた顔をし、その直後喜色の色を爆発させた。
「すげぇ! すげぇ! 本当に初めてで俺のボールを捕った!」
空が一人興奮冷めやらぬ様子で騒いでいる一方で、クリスは言葉を失っていた。
無言のままボールを収めたミットに目をやる。
……今のボールは。
「驚いたろ?」
「監督……」
いつの間に近づいていたのか。
半ば呆然としたクリスに、扇は悪戯が成功した子供の様に無邪気な笑みを見せた。
「俺も最初見た時は驚いた。確かに理論こそあったが実際に投げる奴なんて殆どみたことねぇからな。山城が投げたボール、ありゃあまだまだ未完成だが間違いなく」
「……ジャイロボール」
「あぁ。それもただのジャイロじゃねぇ、ストレートとして使える落ちねぇジャイロだ」
落ちないジャイロボール。
それは空想上の中にだけ存在する筈の、ストレートの進化系。
理論上不可能でないことはクリスも知っていた。
ただ、現実に再現できる可能性がほとんど0に等しいということも。
「一体どうやってあれを……」
「なんでも前に読んだ野球漫画に影響されて、練習してたらいつの間にかできたんだとよ」
「ま、漫画?」
「普通は練習してできるもんじゃなぇんだけどな……恐らく相当特殊な指先感覚と、体の作りをしているんだろ。まぁ、その習得に時間を注ぎ過ぎたせいで他はてんで素人なんだがな」
まともに野球のルールを把握しているかすら怪しいと、扇は笑う。
「どうもこれまでお遊びみたいな野球しかしてこなかったみたいだから、山城自身は自分の球の特異性をあんま理解してねぇ。ただまぁ、まともな指導者があいつの球を見たら……」
「矯正しようとするでしょうね」
「だろうな。その方が正しい」
ジャイロボールを追っても夢はない。
かつて、とあるプロ野球選手はそういった。
ジャイロボールを求めてもその先にあるのは、徒労だと。
そしてそれはきっと正しいのだろう。
才無き者は永遠に届かない。
才があっても届くかどうか―――いや、例え届いても使えるかわからない。
ジャイロボールとはそういう不確かなもの。
指導者としては、才ある子供にそんな大博打をさせるわけにはいかない。
だからこそ指導者は、教え子に対してこれまで最も実績のあるスタンダードを教えるのだ。大成功はしないかもしれないが、また大失敗もしないから。
けれど。
「教え子が間違った方向に進もうとしているなら、それを咎め導いてやるのが教育者の役目だ。けどな優、俺はそいつに誰にもねぇ才能があるならそれを伸ばしてやるのもまた指導者の務めだと思っている」
何も型にはまらなくてもいい。
別に綺麗なバックスピンストレートじゃなくても、ゴロ狙いのダウンスイングじゃなくてもいい。人にはない才能があれば、それを思う存分伸ばせばいい。
己にあった、己だけの野球を身に付ければいいというのが扇の持つ野球観だった。
「あいつのジャイロは未完成。花で言う所の、まだ芽が出た段階だ。もしかしたら芽のまま終わるかもしれねぇし、逆に歴史に名を残すような大輪の花を咲かせるかもしれねぇ。今のあいつに必要なのはジャイロを容認できる俺みてぇな破天荒な指導者、そして何よりも実際にボールを受け、高みへと導いてくれる“キャッチャー”だ」
そう言って、扇がクリスを見た。
「どうだ、優? わくわくしてこねぇか?」
「……わかってて聞いてますよね?」
「ハハ。お前があんなダイヤの原石どころか、地球産かどうかもわからない未知の原石を見せられて黙ってられないのはわかってるからな」
「前例がないっていうのはかなり難しいんですけどね……」
ふぅとクリスは息を吐いた。
その脳裏にはこれから待ち受けるであろう困難がいくつも浮かびあがる。
けれど、クリスは。
そんな困難を含めて面白いと、笑った。
「導いて見せますよ。俺もあのジャイロボールに夢を見たくなりましたから」
こうして、山城空と滝川・クリス・優の物語が始まった。
ジャイロボールに夢見て。
それは、過去の物語にして未来へと続く物語。
Ⅲ
ゆっくりと、クリスは瞼を開けた。
明るくなった視界に映るのは、あれから一回りも二回りも成長したかつての原石。
本当に大きくなったと、クリスは思った。
クリスが半ばマンツーマンになって指導し、巨大な基礎を作り上げていった三年前。
その後、クリスが卒業した後も空は様々な練習を重ね、経験を積み、驚くべきスピードで成長してこの青道へと入ってきた。
……まだまだ成長途中とは言え、基礎は完成しつつある。
扇監督にならって言うならば、今の空は蕾の段階。
花が咲くまで後一歩。
その最後の一歩を踏み出せるかどうかは、導くキャッチャーの腕にかかっている。
段々と教えられることが少なくなっていくことに、寂しさを感じる部分は確かにある。
けれどそれ以上に、その大事な最後の一歩に立ち会えることが、導けるキャッチャーが 自分であるということが、クリスにとっては何よりも嬉しかった。
「山城」
「はい」
「絶対、甲子園に行くぞ」
「うっす!」
前々から書きたかった、空とクリスの出会いが書けて作者的には結構満足です。今後も合間合間に、過去話を挟んでいこうと思っています。
◇別に知ってもしらなくてもいい裏情報
・タイトルの意味
『ジャイロボールに夢見て』というタイトルは、クリスが空のジャイロボールに夢を見たことからきています。そのためこの物語は山城空の物語でもありますが、同時に滝川・クリス・優の物語でもあります。(実際にそうやって書けてるかは別にして)
・扇総一郎
クリスや空が所属する丸亀シニアの監督。登場時、42歳。
元は甲子園にも出場したキャッチャーで、ドラフトにかかっていたにもかかわらずそれを拒否し単身渡米してメジャーに挑戦。6年近いマイナーを経てメジャーに昇格し、正捕手まで後一歩と迫った所で怪我のため引退。それ以後はアメリカで身に付けたメジャー仕込みの野球をアレンジし、子供達に教えている。性格は破天荒ながらも、監督としての腕は確か。個人の才能を伸ばすことを第一に考えた野球観を持つ。アメリカ時代の縁からアニマルと仲が良く、クリスのことも幼い頃から知っている。
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