1話
Ⅰ
4月初旬。
東京にも春の風が吹き起こり、あちこちで満開の桜が新たな門出を祝福するニューシーズン。大きなバッグを抱えた山城空が青道高校に着いたのは陽が沈みかかった頃だった。
よいしょと校門から入ってすぐのとこに設置された案内板の前でバッグを下ろし、空は目的の場所を探す。
……寮は第二校舎をまっすぐ抜けて右側。グラウンドは左ね。
道は覚えたと、下ろしたバッグを左肩にぶら下げて舗装された道を案内板通りに進んでいく。綺麗かつ現代的な作りをした校舎を抜け、しばらく歩き続けると“青心寮”の文字がレリーフとして刻まれたアーチが空を出迎えた。
……ここが寮か。
二階建てになる鉄筋コンクリートの建物。
傍から見ている分には特に罅割れなどもなく、少し大きめのアパートという言葉が良く似合った。これから三年間余りお世話になる新たな住家を前にして空は「ふ~ん」と鼻を鳴らすと、左手首に巻いた腕時計へと目をやった。
……5時ちょっと前。確か七時までには必ず寮に入れだったか?
およそ午後7時ごろにちゃんと入寮しているかのチェックがあるから、それまでに寮の部屋に入っておくように。少し前、入学のために色々と手続きをしていた際に強く言われた言葉をぼんやりと思いだす。
7時まではおよそ二時間あまり。
まだ時間はあるなと、空は寮に背を向けた。
寮からまっすぐ伸びた道を道なりに少し歩くと、それまでアスファルトだった道が土のそれへと変わりお目当てのものが姿を現す。
私立ならではの広大な敷地に隣接された二つのグラウンド。
その内の一つへと近づき、空は息を漏らした。
「……随分と広いな」
視界一杯に広がるのはシニアで使っていたものよりも一回りは大きいグラウンド。
ネットに張り付けられた札を見れば、青道高校野球部Aグラウンドと書かれていた。
……流石は名門。広い上にちゃんと整備も行き届いている。
巨大なグラウンド看板の下からだと、丁寧に時間をかけて整備されたグラウンドの様子が良く見えた。ライトからレフト、バックスクリーンのある外野から内野に至るまでぐるりと見回し最後にマウンドを見つめる。
一目見ただけでもわかるぐらい、投げやすそうなマウンドだった。
早くあそこで―――
「投げたいか?」
「っつ!」
内心を見抜かれたことにも突然の背後からの声にも驚いたが、それ以上に空が驚いたのはそれが“知っている”声であったから。
「荷物を置く前にグラウンドの確認か……まったく、中学から変わらないなお前は」
昔となんら変わらぬ穏やかな声。
――――この学校で会うことはわかっていた。
――――そのために空は青道を選んだのだから。
――――しかしそれでも、これほど早くとは思っていなかった。
予想外の事態。
しかし嬉しいことに違いはなかった。
ゆっくりと振り向くと、そこには思った通りの人がいた。
「クリス……先輩」
「待っていたぞ。山城」
滝川・クリス・優。
白いユニフォームに身を包んだ空の憧れが、そこにいた。
Ⅱ
話したいことは色々あった。
クリス先輩の肩の調子、大地が北海道に行ったこと、現在習得中の球種。
どれもこれも、クリスと会ったら話そうと空が思っていたことだ。
しかしいざこうして対峙してみると、空は言葉に詰まった。
話したいことは山ほどあるのに、言葉にならない。
そんなもどかしい気持ちに葛藤していると、柔らかくクリスが頬を緩めた。
「山城」
「えっ? はい!」
「グラブとユニフォーム、それにスパイクは持っているな?」
言われて、空は無意識にぶら下げたバッグを見た。
確認するまでもなく、そこには今朝方詰め込んだ野球道具一式が入っている筈だった。
「ありますけど……」
「なら着替えてこい」
「えっ?」
「言葉よりも、お前にはこっちの方がわかりやすいだろ?」
そういって、クリスは左手にはめたキャッチャーミットと逆の手で持ったボールを空に見せた。空の顔が子供の様に輝く。
「うっす!」
気合と共に、空はクリスに教えられた更衣室へと駆け込む。
そして高速で着替え終えた空を出迎えたクリスは、空を連れて歩き出した。
向かったのは、先程まで空が見ていたAグラウンドの中へと通じる金属の扉。
「ここって……」
「入るぞ」
甲高い独特の金属音を上げて開いた扉をクリスがくぐると、空もそれに続いた。
初めて踏み締める高校のグラウンドの土の感触を確かめながらも、空は一抹の不安を覚えていた。
「……グラウンドに入って大丈夫なんですか?」
「あぁ。問題ない」
「ならいいんですけど……」
「それより急いで体を暖めるぞ。まだ幾分かあるとは言え、ぐずぐずしていては陽が完全に落ちる」
「はいっ!」
空の胸の中に浮かんだ違和感は、クリスの言葉でまた深く沈んだ。
軽いランニングに柔軟、キャッチボールをある程度の時間をかけて行う。
およそ二年ぶりとなるクリスとのキャッチボール。
胸元に構えたグラブにしっかりと力のあるボールが返ってくるのがこの上なく嬉しくて、空は素直に笑みを零した。
「クリス先輩。大分肩良くなったみたいですね」
「あぁ。順調に回復している。まだ完全にとはいかないが、それでもこうしてキャッチボールぐらいは問題ない」
「……夏までには間に合いそうですか?」
「間に合わせるさ。約束だからな」
そんな会話をする頃には、空の肩はだいぶあったまっていた。
それを見て取ったのだろう。
クリスはキャッチボールを切り上げると、用具倉庫から引っ張り出したプロテクターを手早く身に着けてホームベースへと向かった。
「よし。山城、マウンドに上がれ」
「えっ? 投げるって、マウンドでいいんですか?」
「あぁ。許可は得ている」
……許可?
クリスの言葉に空は再度違和感を覚えるも、すぐにそれを捨て去る。
久方ぶりにクリス先輩にボールを受けてもらえるのだから、今はそれ以上余計なことを考える必要はない。
そのような思いで、空はゆっくりとマウンドに上がりスパイクの爪先で土の感触を確かめる。
……ドームよりちょっと硬いけど、思った通り悪くない。
これなら何ら問題ないと、空は視線を足元からホームへと移す。
ホームベースの後方、どっしりと腰を下ろしキャッチャーミットを構えるマスクを被ったクリスの姿がそこにはあった。
懐かしい、二年前の記憶が空の脳裏を過っていく。
「……はっ」
駄目だとわかっていても、空は自然に湧き出てくる笑みを抑えることが出来なかった。
これは試合ではない。
マウンドに立っているとは言え、あくまでも打者のいないただの投げ込み。
ブルペンピッチングと何ら変わらない。
それでもクリス先輩が自分の球をまた受けているという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
……この人の前で無様な投球は出来ない。
大きく腕を振りかぶり、それに連動させて左足を高く上げる。
中学時代、クリスの指導によって身に着けた投球フォーム。
何度となく投げ込み、空想でしかなかった理論を現実と化した魔球を生み出す源泉。
練り上げられた腰(下半身)の回転が腕(上半身)の回転を生み出し、極限まで高まった二つの回転が単なる四シームを魔球へと変貌させる!
ゴウッ!
右腕から放たれた白球が唸りを上げてキャッチャーミットに突き刺さり、乾いた音が広いグラウンドに響きわたる。
キャッチャーマスクの下で、クリスの顔が緩んだのがマウンドからでもわかった。
「ナイスボールだ」
投げ返されたボールを受け取る。
そして最早隠そうともせず、空は目を爛々と輝かせ口元を大きく歪めた。
「どんどんいきますよ?」
「あぁ。投げ込んで来い」
言われなくてもと、空は次々とボールを投げ込んでいく。
右打者のインロー、アウトロー、インハイ、アウトハイ。
クリスが構えた場所に勢いのある“伸びた”球が次々とミットに突き刺さる。
シニア時代、中学二年から卒業までの間バッテリーを組み空の球筋を見慣れた筈の後輩でさえ、油断すれば取り損ねる球を悠々とキャッチするクリスの姿に空は笑みをさらに深め、ボールを投げるペースを上げていく。
それはまるで長年欲しかったおもちゃを手に入れた子供のよう。
およそ三十球を超えた辺りでストレート(4シーム)以外の球種も混ざり始め、そのピッチングはより幅広く実践的なものへと変貌していく。
そして丁度八十球目。
鋭く変化したボールがアウトロー(右打者にとっての)に突き刺さると、クリスはマスクを外して立ち上がった。
「……今日はこの辺りにしておこう」
「えっ。まだまだ投げれますよ?」
「もうじき日が暮れる。それに七時には入寮チェックがあるだろ?」
「あっ」
忘れていたとばかりに、空は間抜けに口を開けた。
やはり忘れていたかとクリスが呆れた顔で指摘すれば、空は困ったように笑った。
「ふぅ。ダウンしてあがるぞ」
「……はい」
アップの時とは逆にキャッチボール、柔軟、ランニングを行った後、二人は来た時同様鉄の扉をくぐりグラウンドを後にする。
グラウンド看板の下に置いておいたバッグを背負った空に、クリスが声をかけた。
「山城。お前は先に戻っていろ」
「あれ? 一緒に寮に行かないんですか?」
「……あぁ。この後少し用事がある」
部屋の場所はわかるな、部屋に戻ったらアイシングを忘れるな、荷物は今晩の内に片づけておけなどと、まるで子供に言い聞かせる母親のような口ぶりに、「わかってますよ」と空は口を尖らせて青心寮へと歩き始めた。