Ⅰ
……ここで動いてくるか。
今しがた6回の守備を終えて引き上げてきたばかりの明川ベンチ。
額から零れ落ちる汗を拭い、瞬臣は新たにマウンドに上がった青道の二番手投手へと視線を送った。
背番号20、一年沢村栄純。
高校野球では比較的珍しい、そして青道投手陣で唯一のサウスポー。
……投球練習を見ている限り、ストレートにはさしてスピードはないな。
また遠目から見る限りではこれと言った変化球も投げておらず、幾ら打者に有利なサウスポーとは言え、それまでマウンドに上がっていた山城空と比べれば雲泥の差がある。
日本のことわざを借りれば月とスッポン。
それこそ、比べるまでもないレベルである。
……このタイミングで動いてくるのは予想通り。山城がレフトへ退いたのも、想定の範囲内。だが―――
「瞬臣、これってチャンスだよな!?」
興奮気味に話しかけてくるチームメイトに瞬臣は小さく頷いた。
「あぁ。投手が変わった。俺達の作戦通りだ」
「よっしゃ!」
山城空をマウンドから引きずり下ろした。
名門相手に一歩も引くことなく―――それどころか、自分達の当初の作戦通りにことを運んでいる。それは自信となり、明川の選手全員へと伝播していく。
―――遂に反撃の時が来たな!
―――あぁ。相手は大したことない一年! この回で必ず点数をとって瞬臣を楽にしてやろうぜっ!
―――おおぉお!!
待ち望んでいた時がついに来たと盛り上がりを見せる明川ベンチ。
頼もしいチームメイトの姿に瞬臣は僅かに口元を弛ませたものの、すぐにまた険しい顔で青道のベンチを眺めた。
……確かにここで投手を変えるのは予想通り。だがなぜあの一年をマウンドに送った?
青道にはまだ二年のサイドスローが後ろに控えている。
山城ほど突き抜けた実力はないが、名門青道で背番号を背負うだけあって纏まったいい投手だというのが瞬臣の率直な感想だった。
緊迫した場面で出てくるとしたまず間違いなくその投手だと思っていただけに、ここで一年の控えが出てくるのは全くの想定外。
単なる場繋ぎか、それとも未だ明川を舐めているのか。
あるいは。
……あの一年に何か特別なものがあるのか?
◇
7回の表、明川の攻撃は一番センター二宮から。
それまでの二打席を完璧に抑えられていたにもかかわらず、左打席に入る二宮の顔には一切の諦めの色はない。むしろそれまでには薄かった、何が何でも打ってやると言う闘志の炎が全身に漲っていた。
投手が山城から沢村に変わった途端にこの反応の変わり様。
随分わかりやすいなと、マスクの下で御幸は思わず苦笑を零した。
……まぁ、明川にしてみれば千載一遇の大チャンスだしな。
攻略の糸口さえ見つからない山城をマウンドから引きずり降ろして出てきたのは、一見何てことのない平凡な投手。
御幸とて逆の立場であったなら、否応なく気合が入る場面だ。
とは言え、それはあくまでも逆の立場での話。
青道の捕手として今御幸が気にしなければいけないのは沢村の精神状態だった。
……沢村のやつ、力んでねぇだろうな。
ただでさえ緊迫した展開での登板の上に、こうもあからさまに山城の時と対応を変えられれば体に力が入ってもおかしくない。
特に試合経験の浅い、単純で一本気な沢村なら尚のこと。
幾ら状態が良くともそれを発揮できなければ何の意味もない。
一抹の不安を抱えながら御幸はマウンドの後輩へと視線を向けた。
「はっ」
結論から言ってしまえば、その懸念は杞憂だった。
御幸が見たもの。
それは自分の世界に埋没し、静かに御幸のサインを持つ一人の“投手”だった。
……随分と良い顔してるじゃねぇか。
今の沢村の顔には馬鹿にされことに対する怒りや、緊迫したマウンドに上がったことに対する緊張などといった余分なものは一切ない。
あるのは何が何でも絶対に抑えるという、強い純粋な意志だけ。
……これは監督に言われたのが効いたか?
この回が始まる前、片岡は沢村をベンチ前に呼びつけていた。
攻守が入れ替わる僅かな時間だ。
事細かに何かを伝えられる余裕はない、ゆえに一言。
たった一言だけ、片岡はこれからマウンドに上がる沢村へと言葉を贈った。
―――この試合の結果はお前にかかっている、と。
ともすれば重いプレッシャーになりかねない一言。
しかしその短い一言が、山城空と言う絶対的なエースの陰でここまで本当の意味で試合に関われなかった沢村栄純の心に火をつけた。
相変わらず人を乗せるのが上手いなと、御幸は改めて自分の監督の人心掌握力の高さに舌を巻いた。
……でもまぁ、お前がそんな状態なら何も問題はねぇ。
この回、青道はただ0で抑えるだけでは駄目なのだ。
まだ行ける、攻略できると思われてしまえば明川は決して試合を諦めない。
相手の作戦を打ち砕く完璧なピッチング、それこそがこの回沢村に求められるもの。
そしれそれが出来るだけの能力を、沢村は既に持っている。
サインをだし、コースへとミットを構える。
沢村は躊躇することなくそれに頷き、投球動作へと入った。
右足が引かれ、両腕が高く振りかぶられる。
……見ている連中の度肝を抜いてやれ!
Ⅱ
「おおおおぉっ!」
「っつ!?」
鈍い金属音と共に、芯を外れた打球が上空へと舞い上がる。
勢いのない打球は内野の頭を超えることなく、緩い放物線を描いてほぼセカンドの定位置へと落ちていく。打ち上げた明川の二番橋本は一抹の期待を込めて一塁へと走るが当然その期待は実らない。
セカンドを守っていた小湊がしっかりと落ちてきたボールを捕球し、アウトが成立。
7回の表が始まってから未だ5球。
されど電光掲示板に灯ったこの回二つ目となる、赤いランプにスタンドからどよめきが生まれた。
―――おぉ! セカンドフライ! これで2アウト!
―――随分と振り遅れてたけど、あれ130も出てないだろ? その前の一番もインコースに振り遅れていたし、一体どうなってんだ?
―――よくわかんねぇけど、随分と小気味いいピッチングしてるのは確かだよな。
―――さ、沢村が何事もなく連続で打ち取った!?
―――奇跡だ。いや、必ずこの後何かやらかすぞっ! 何せ次は楊だしな!
―――何で青道側がこんなに驚いてんだよ?
―――山城を代えた時は何考えてんだと思ったけど、中々やるじゃねぇかあの一年サウスポー!
頭上から降り注ぐ無数の声の中、凡退を喫してベンチへと戻る橋本はネクストサークルから打席へと向かう楊に対して小さく頭を下げた。
「すまん瞬臣」
「最後のボールは?」
「まっすぐ……だと思うけど、何か手元で動いた気がする。それにフォームが滅茶苦茶で、タイミングがすごく取り辛い」
「変則なのはビデオでもわかっていたが、その上ムービングボーラーか……」
呟き、楊は右打席へと入った。
いつも通りの動作でバットを構えながら、楊はマウンドに立つ新たな敵を見据えた。
……想定外だったな。
山城を引き摺り下ろしたからと言って、すぐに得点が入るわけじゃないというのはわかっていた。近年振わないとは言え、青道はれっきとした野球名門校。
いくら二番手投手であっても、決して打線が強いとは言えない明川がそう簡単に打てるものではない。だがそれでも緊迫した展開に持ち込みさえすれば、必ず攻略の糸口は見つかると踏んでいた。
だが実際にはここまで完璧に―――それも殆ど注意すらしていなかった一年サウスポーによって―――抑えられている。
恐れていた不確定要素が登場してしまったことに、楊は眉を顰めた。
……俺達の作戦は青道の投手陣の層の薄さを前提にしている。
ここまで明川の選手達が緊張を切らさずやってこれたのも、山城さえ引き摺り下ろせば何とかなるという希望があったからこそ。
それを打ち砕かれれば―――
……ウチに勝利はない。
グリップを握る両手に力を込める。
一本、ここで一本出ればまだ明川に希望は残る。
打てないことはないのだと、まだ攻略できるのだとチームに示すことが出来る。
マウンドの沢村がモーションへと入る。
振り遅れぬよう楊がそれにタイミングを合わせる―――前に、ボールは投げられていた。
……なっ!?
咄嗟に振りぬいたバットに振動が走った。
バットの先に当たったボールは一塁線へと転がり、ベースに到達するよりもずっと速くファールラインを超えた。
―――ファールボール!
状況を告げるコール、スコアボードに灯った黄色いランプ。
痺れの収まった手元を見つめ、楊は再びバットを強く握り直した。
……了解(リャオチエ)。本当にタイミングが取り辛いな。
映像で見ただけではわからない、実際に対峙して初めてわかるこの感覚。
限界ぎりぎりまで隠れていた左腕が突如として飛び出し、いつボールをリリースしたのかが全く掴めない。これを初対決でタイミングを合わせるのは至難の業だった。
それに、
……動いたな。
決して大きな変化ではない。
しかし確実に、打ちに行く直前でスライダー方向へと変化した。
変則投法+ムービング。打席に入る前からある程度わかってはいたが、実際に対峙して見るとその厄介さが際立つというもの。
……動く球を打つにはボールの変化を見極めることが常識だが―――
メジャーでよく見られる、打席の後ろに立って引きつけて打つバッティング。
だがそれはボールに振り遅れないスイングができて初めて成立するものであり、残念ながら楊にはそれを為しえるだけのパワーが備わっていなかった。
ならばと、楊はそれまで長めに持っていたバットのグリップを一つ余らせた。
二球目。少しでもピッチングを齧った者なら滅茶苦茶とわかる汚いフォームから再びボールが投げられる。一球目がインコースだったのに対し、今度はアウトコース。
ポイントを前にし、やや真ん中気味に入ったボールへと陽はバットを振った。
―――ファールボール
引っ張った打球がサードの頭を超えてファールネットへと突き刺さる。
……少し始動が早かったか。
だが振り遅れて力ない打球が飛ぶよりも遥かにマシ。
未だその滅茶苦茶なフォームにはなれないが、幾ら速く感じようとも決して山城の剛速球程ではない。緩急をつける変化球もない以上、余程いいコースに決まらない限りはカットできる自信が陽にはあった。
……これまでの試合の映像を見る限り、この投手はまだ外のコースを突いたピッチングは出来ない。
カウント、0‐2。
もしも自分があの投手をリードする立場ならと、楊は思考を巡らす。
セオリーならば一球外すところだが、外したところでそれを活かせる変化球を沢村は持っていない。打者に余分な情報を与えないためにも、そして試合の主導権を握る意味でもここはすんなりと三球で切って取りたい局面。
沢村がモーションへと入る。
……初球、二球目は共に少し甘めの外のボールでカウントを稼いだ。
決め球となる変化球がない、アウトローを正確につけるだけのコントロールもない。
そんな投手をリードするとなれば(陽としてはやりたくもないが)、当然勝負球として最後に持ってくるのは―――
……インコースへのストレート!
正にドンピシャリ。沢村の指先から離れたボールが向かう先はインコース高目。
予想通りのボールに楊は力強くバットを振り下ろした。
綺麗なセンター前を打とうなどいう考えは最初からなかった。
金属バットは木製とは違いミートポイントが広く、多少芯を外しても振りぬきさえすれば打球は内野の頭を超える。
ただただ強い打球を打つことのみを目的としたスイングを行いながら、楊は確信する。
捉えた、と。
サウスポーの投手が右打者のインコースに投げ込んでいるだけに角度がキツイが、それでも問題なくバットを振りぬけると思ったその時だった。
……なっ!?
それは先までの二球とは似ているようで全く違う変化だった。
上下左右のいずれかに多少動く程度では済まされない。
バットがボールへと当たる直前、ただでさえ角度のついていたボールが更に内へと―――それも“ハッキリ”とわかる程の変化で内角へと抉り込んできた。
「っつ!?」
何とかバットを抜こうとするがもう遅かった。
ボールが根元に当たり振り抜けなかったバットは鈍い音を鳴らし、力ない打球が三塁線へと転がる。痺れた両手を抱えて楊は一塁へと走った。
……あの角度から更に抉れただと?
そのボールの名を楊は知っていた。
空振りを取るためではなく、打ち取ることを目的としたムービングの一種。
日本では近年になって脚光を浴び始めた、曲がる真っ直ぐ。
……カットボール。まさか、意識して投げたのか?
陽が一塁に到達するよりも早く三塁手の増子から一塁手の結城へとボールが送られ、これで3アウト。礼儀としてアウトとなった後も一塁を駆け抜けた楊は、すぐにはベンチへと戻らなかった。ヘルメットを外し、新たに0の刻まれたバックボードへと目をやる。
明川高校、1番から始まった7回の攻撃もまた三者凡退。
そう、結果だけ見ればそれまでと同じ三者凡退。
けれどそこに秘められた意味を楊は誰よりも深く理解していた。
息を吐き、明川のエースは視線をバッグボードから己の右手へと移した。
小刻みに震える―――未だ痺れが残る手の平。
楊瞬臣はそっと瞼を閉じた。
Ⅲ
青道高校対明川高校。
戦前には誰も予想していなかった熱い投手戦が繰り広げられたこの試合だったが、その決着は意外なほどにあっさりと着いた。試合が動いたのは終盤、7回の裏だった。
7回の裏、攻撃側である青道は先頭バッターである8番沢村栄純に代わり、代打として一年の小湊春市を投入。7回に入ってから制球の定まらない明川のエース楊瞬臣からレフト方向へヒットを放つと、続く9番山城空もまた甘く真ん中に入ったボールを右中間に運び2ベース。ノーアウトでランナーを得点圏に貯めたところで、一番倉持がセーフティースクイズを決行。打球を処理したサードが一瞬どちらに投げるか判断に迷ったことで、ランナーはオールセーフ。
こうして青道に待望の一点が入り長かった均衡が破れると、後は一瞬だった。
その後も連打を重ねた青道は明川のエラーもあって、7回に一挙5点を獲得。
8回の表は沢村から後を任された川上憲史がキッチリと明川打線を抑え、その裏に更に二点を加えてゲームセット。
青道7‐明川0(8回コールド)
紆余曲折あったものの、終わってみれば青道のコールド勝ち。
けれど点差程に楽な試合展開でなかったことは、試合を観戦している誰もが理解していた。しかし何はともあれ、これで青道はベスト8一番乗り。
準々決勝進出を決めた。
sakiとダイヤのA、それにネギま。
色々と更新しないといけない作品が多くて困る……