―――随分と遠い場所に来てしまったわね。
目の前の建物を見上げ、藤原貴子は感嘆の息を漏らした。視界一杯に広がるのは緻密なレリーフの装飾に彩られた外壁。かつて授業でならった古代ローマの闘技場をモチーフにして作られたというそのスタジアムは評判以上に美しく、高層ビルの乱立するニューヨークの中心地で尚その存在感を露わにしていた。
……日本の球場も素晴らしいけどこれと比べては分が悪いわね。
通りで日本人が一度は行ってみたいアメリカの観光名所に選ばれるわけだと、苦笑と共に貴子は入口ゲートへと向かう。数えきれないほどの人が列をなして並ぶ他のゲートに反し、向かったAゲートにはほとんど人がいなかった。空いていることには喜びつつもどこか違和感を覚えたままスタッフにチケットを見せてゲートをくぐる。
道中の通路もゲートと同じく他と隔離されていたらしく、人気の少ない通路にヒールの音がコツコツとやけに大きく鳴り響く。およそ数十メートルほどの孤独な散歩を楽しんだ後、眩いばかりの照明と優しい秋の風が貴子を出迎えた。
「すごい」
それを見た瞬間、自然と貴子は声を零していた。通路はバックネットのすぐ後ろへと繋がっており、外に出れば特に意識せずともグラウンドが一望できるようになっていた。
綺麗に整えられた天然芝、巨大な液晶のついたバックボード、試合開始にはまだ十分な時間があるというのに埋め尽くされつつある外野席。それら全てに圧倒されながら貴子は自分の席を探したのだが、
……本当にここでいいのかしら?
何度もチケットに書かれた番号とシートのそれを見比べてみるがやはり間違いはない。
シートの数がさほど多くなかったためにすぐにそのシートは見つかった。場所は通ってきた通路出口の真上、恐らくはスタジアム内で最も良く試合が見えるであろうバックネット裏2階席のど真ん中。どう考えてもプラチナと呼ばれる超1等席に恐る恐る貴子は腰を下ろす。
……ここってどのぐらいするのかしら?
試合が見やすい席というのは相応にして値段も高いもの。特に人気球団の試合やポストシーズンの試合ともなればいいシートにはプレミアがついて数十万近くなることもザラにあるという。だとすれば人気球団の試合―――それも世界一を決めるワールドシリーズのプラチナ席ともなればその価値は一体いかほどのものか。
……考えないようにしましょう。
少なくとも自分が会社から貰っている給料では到底手が届かないことだけは確かだった。
周囲から突き刺さる好奇の視線に身を小さくしながら、貴子は肩にかけたバッグからチケットの半券を取り出す。
……いきなりこんなモノを送ってくるなんて。
かつての恋人から封筒が送られてきたのが今から2週間ほど前のこと。てっきり自分の存在はもう忘れられているのだと思っていただけに突然の便りに驚かなかったと言えば嘘になる。震える手で慎重に封筒を開けて見れば、そこには文はなく代わりにワールドシリーズのチケットとNY行の航空券が入っていた。いったい何のつもりかと本人に聞ければ一番良かったのだろうが、生憎と振った相手に自分から連絡できるほど貴子は強くなかった。
……何で来てしまったのかしら。
結局会社が忙しい中わざわざ有給を使ってまで異国の地を訪れた己を哂うしかない。
真に彼のことを考えるなら決して来るべきではなかった。来てくれという文はなかったのだしそのまま破り捨てるか、誰かに渡すべきだった。縁を断つつもりならば最後まで貫き通すべきだったというのに、今自分はこうして彼と同じ場所にいる。
……勝手な話よね。
酷く身勝手な理由で別れを告げておきながら尚も心の底では未だに何かを期待している。もしかしたらやり直せるのではないか、また彼の隣に立てるのではないか。そんな淡い幻想を抱いてしまう藤原貴子にはもう自嘲すら出来やしない。
暗い思考の海へと潜っていた彼女を引き上げたのは湧き上がる歓声だった。試合開始までにはまだ幾分か時間があるというのに一体何なのかと顔を上げ、それを見た。
「あっ」
オーロラビジョンにはホームチームのブルペンの様子が映し出されていた。
背後でコーチが見つめる中、両腕を振りかぶる彼。貴子が知っている頃よりもその身体は幾分か大きくなっていた。高校時代とほとんど変わらぬフォームからその右腕が振り下ろされるとメジャーに一大旋風を巻き起こしたジャイロボールが唸りを上げ、捕手であるクリスのミットを鳴らす。一球、また一球と投げ込む度に歓声は大きくなる。それは彼がどれだけチームに必要とされているのかを示しているように思えて、貴子は目を細めた。
……随分と遠い場所に行ってしまったわね。
誰もが認める日本球界の若きエースが一足先にメジャーへと移籍した高校時代からの先輩を追って球界屈指のスラッガーであるライバルと共に海を渡ったのが今年の春。
アメリカでは通用しないのではと一部の評論家たちの間で指摘されていたジャイロボールは並み居るメジャーの強打者達から三振の山を築くことでその有用性を証明し、かつての日本球界のエースは僅か半年でメジャーのトッププレイヤーの仲間入りを果たした。
……ふふ。彼が高校時代の後輩で、それもつい1年ほど前まで恋人だったなんて誰が信
じてくれるかしら。
藤原貴子が彼―――山城空と付き合い始めたのは彼女が未だ大学生の時、空がプロに入って一年目の夏のことだった。本当に些細な偶然から高校卒業以来およそ二年半ぶりに彼と再会し、その後何度か一緒に出掛けている内に自然と交際がスタート。
互いに初めての彼氏彼女ということもあって付き合ってすぐの内はそれなりにギクシャクしたものだが、二か月もすればそれも自然なものへと変わった。互いに忙しかったため(特に空は)に世間の一般的な恋人に比べて触れ合う時間は少なかったが、それでも順調と呼べる程度には上手くいっていた。忙しい合間を縫って一緒に食事をし、遊びに出かけ、手を繋ぎ、身体を重ねる。オフシーズンには二人で遠出をし、思い出を作ったりもした。
傍から見れば順風満帆。貴子もまたそう思っていたし、彼女の思い違いでなければ空もまたそう考えていた筈。
……あの時は本当に幸せだったわね。
不安など何もなかった。そうして付き合い出してから四年が過ぎようとした頃だった。周りの友達がポツポツと結婚し始めるにつれて彼女もまた将来について考え始めるようになったのは。最初はこのまま交際を続けていずれ自分もという程度だった。けれど親しい友人達から結婚について詳しい話を聞く度に少しずつ彼女の中で何かが変わっていった。
―――いいよねー貴子は。プロ野球選手と付き合えて。
―――ほんと玉の輿だよねー。
―――ウチ、結婚したけど旦那の給料が安くてこれからやっていけるか不安なんだよね。あーあ、のんびり専業主婦できるかと思ってたけど私も働かなきゃダメか。
―――その点貴子は勝ち組だよね。山城空って言えば球界の若きエースでしょ? 確かこの前年棒3億とかって聞いたよ。
―――それ本当? 顔良くてお金持ってて、しかも性格まで悪くないって最高じゃん!
―――私らとじゃ住む世界が違うよね。
―――普通一流の野球選手ってアナウンサーや女優とかと付き合うのに、よく捕まえられたね?
―――うんうん。貴子は綺麗だけど流石にそれだけじゃちょっとつり合いが取れていなかったり……なんちゃって!
きっと当人達にとっては恵まれた相手を持つ貴子をちょっとからかってやろうぐらいの軽い気持ちだったのだろう。でも何気ないその一言一言が彼女の心に波紋を投げかけた。
―――住む世界が違う。
―――つり合いが取れていない。
貴子は自分の容姿が優れていることを理解していた。高校、大学を合わせてそれなりの数の男性から声をかけられ、それなりの数の告白を受けるぐらいには綺麗だった。
でも、それだけだった。
彼女には誇るべき技能も、職も、地位にもいなかった。あくまでも少し綺麗なだけの一般人の一人でしかなかった。漠然と思い描いていた未来に黒い影が過り始める。
そんな心に影を落とす貴子とは対称的に、空はどこまでも成長を続けていた。
国際大会で結果を残し、五年目となるシーズンでは遂に投手四冠を達成。翌年にはメジャーの名門チームでプレイすることが決まり、その注目度は否が応にも高まっていた。
最早日本国内で山城空の名を知らない者など存在せず、テレビでは多くの女優やモデルが好みの男性に空の名を挙げていた。
心に広がる影はどんどん大きくなる。
そして付き合ってから五度目となるクリスマス・イブの夜。とあるホテルのレストランで貴子は考え抜いた末の結論を打ち明けた。
―――別れましょう、と。
それを聞いた時の呆気にとられた空の表情は今でもよく覚えている。当然の如く理由を求める彼氏に貴子は俯いてこう答えた。
―――つり合わないから。
あなたの隣に立つには格も、勇気も、地位も、自分には全てが足りないから。たった一言に凝縮された意。それを読み取ってくれたのか、空は「そっか」とだけ呟いた後は何も言わなかった。無言でレストランを去っていく元彼氏の後ろ姿に思わず手を伸ばしかけて、すぐに自分はその資格がないことに気付いて元彼女は静かに涙を零した。
それからは何てことのない平凡な毎日が始まった。朝起きたら会社に向かって、時間になったら家に帰る。自分以外の誰かに料理を作ってあげることも、散らかった掃除することも、腕を組んで一緒に出掛けることもない。一切の余分なことを挟まない色褪せた生活。
辛いと思ったのは初めの一カ月だけで、それを過ぎればもう何も感じなくなっていた。
ただ笑う回数は前よりも減った。
かつて毎日のように見ていた野球中継はメジャーから高校野球に至るまで一切目を通すことが無くなり、時間を持て余すことが多くなった。
そうして早いのか遅いのかすらもわからぬまま月日が流れ、今日の日を迎えた。
……きっと彼の試合を見るのはこれが最後になるんでしょうね。
でもそれでいいと思った。
弱い自分には不相応なほどに恵まれた最後だと貴子は思った。
◇
例年になく日本でも注目を集めたワールドシリーズ第一戦は日本人選手三名の活躍によりホームチームであるミラクルズの勝利に終わった。三番の広橋大地が初回からHRで魅せれば、五回には負けじと四番の滝川・クリス・優が満塁で走者一掃のタイムリーを放つ。
投げては先発の山城空が八回まで一塁さえ踏ませぬパーフェクトピッチングをこの大舞台で披露し、九回無失点の完封勝利。試合後には活躍した三人の日本人選手が全員ヒーローインタビューを受けるというちょっとした奇跡が起きた。無難にインタビューをこなすクリスと広橋の姿を遠目で見ながら、貴子はただただ感嘆の息を零した。
……三人とも凄いわね。
ワールドシリーズに日本人が三人も出場するだけでもビッグニュースだというのに、その全員が結果を残した。しかもその内の二人はかつての級友と後輩。やっぱり住む世界が違うわねと半ば諦めにも似た達観を抱きながらシートから腰を上げる。
……本当はもう少しここにいたかったけど。
もう間もなく空のインタビューが始まる。聞いてしまえばきっとまた未練が残ると階段を下りて通路へと向かったその時だった。
―――貴子先輩!
「えっ?」
それは日本語で、呼ばれたのは間違いなく自分の名前だった。思わず振り返った先。
そこにはインタビュアーからマイクを奪い、真っ直ぐにこちらを見つめるかつての恋人の姿があった。
『よかった。ちゃんと先輩が来てくれて』
「なん……で…」
『貴子先輩。あの、俺頑張りました。去年のクリスマス、先輩に釣り合わないって言われてから頑張りました』
「っつ!?」
グラウンドでは狼狽える女性のインタビュアーをクリスが、球団関係者を広橋が抑えていた。スタジアムの巨大なオーロラビジョンには息を吸い込む空の姿がデカデカと映し出されている。
『こっちに来てからクリス先輩と一緒に無我夢中で努力して、球速もコントロールも上げてタイトルも獲りました。チャンピオンリングはまだですけどこのワールドシリーズで絶対に手に入れます。そしたら―――』
一度そこで空は言葉を切って瞼を閉じた。
そして再度瞼を開き、もう一度貴子を見つめた。
『先輩と釣り合う男として認めてもらえますか? もう一度オレと付き合ってもらえますか?』
つい先程まであれだけ騒がしかったスタジアムが今や静まり返っていた。
六万人近い視線が己に向けられているのを貴子は感じていた。
感じながらもそんな些細なことはどうでもよかった。
……バカね。
つり合わないのは山城空ではなく藤原貴子の方だというのに。
……それを自分のことだって勘違いして。
どこか抜けているのは相変わらずだった。野球に関することならどんなに些細なことでも見逃さないのに、それ以外のことになると途端に察しが悪くなる。
でもまぁ仕方ないかと思ってしまうのは惚れた弱みだろうか。
そう言った欠点も全て含めて、藤原貴子は山城空のことを好きになったのだから。
……一人で勝手に悩んで、一人で勝手に拒絶して。ほんと私ってバカね。
ふぅと息を吐く。
空が、いやスタジアム中が彼女の答えを待っていた。
満面の笑みを持って貴子は叫んだ。
「えぇ! 待ってるわ! 大好きよ、空!」
歓声が、全てを覆い尽くした。
とりあえず書いてみた貴子さんネタ。うん、私の実力では所詮この程度ですね。もう少し甘いのとか書いてみたかったけど、ネタが思いつかなくて断念。
空君24歳、貴子さん26歳ぐらいを想定して書いています。